本文は長岡市立科学博物館ホームページの長岡藩主牧野家資料館・
「ようこそ殿様の部屋へ」から許可をもらい掲載しています。


■殿様日記 vol.1 越後長岡米百俵まつり時代行列
   平成24年霜月
 私が初めて米百俵まつりに参加したのは今から16年前、平成8年8月2日であった。当時は現在のように時代行列ではなく、武者行列と呼ばれていた。武者装束を着けた老若男女の方々と一緒に幸町の長岡市役所前に整列し記念撮影をした写真は、今でも自宅の居間に飾ってあるので思い出すことはすぐにできる。私が初めて馬に騎乗体験したのはこの時である。この日は朝から快晴で、真夏の炎天下、市役所から大手通りにあるメイン会場まで行進した。
途中明治公園で休憩し、馬も参加者も水分を補給したり、あめを頂いたりして一息ついた。「暑い中をご苦労様です。さぞ暑かったでしょう。」とねぎらいの言葉をかけて頂いたが、馬上は意外に風が通り、私は思ったより暑くなかった。けれども、熱された舗装道路上を歩く武者姿の方々は、わらじを通して足の裏から暑さを感じたり、道路の照り返しを受けたり、相当厳しかったのではないかと思った。
 ある年の行列では騎馬ではなく、牧野忠成公役で輿に乗って参加した年もあった。この時は髷のかつらをかぶり顔に化粧をして頂いた。確か市政だより「長岡」の表紙になった時だったと思う。どうらんをしっかり顔に塗られたので、後から拭い取るのが大変であったことを覚えている。
 時代行列と同時に米百俵まつりのメインともいうべき米百俵リレーの行事もある。これは、戊辰戦争後の明治2年5月、長岡藩の支藩であった三根山藩から米百俵が送られた史実に基づき、巻地域から長岡までの42.8kmをおよそ100人で走り継ぐものである。走者は「平成の米百俵の親書」をたすき掛けにし、バトンのかわりに小さな米俵を抱え、長岡のメインステージまで運ぶのである。この出発地点が巻町の三根山藩城跡公園前で、出発式の後リレーのスタートの時にピストルを撃って合図をするスターターの役をしたこともあった。
 本年の米百俵まつり時代行列では、私事ではあるが二つのうれしいことがあった。その一つは愚息忠慈が参加させて頂いたことである。昨年から「馬の口取り役で良いから参加させてください」と事務局にお願いしていたところ、12代藩主牧野忠訓役で出演させて頂くことになり、親とし
ては大変光栄なことであり、ありがたくお受けした。
↑初めて参加した平成 8年武者行列の記念写真
↑市制だより表紙に載った筆者
私は忠訓の父忠恭公役で出演し、計らずも父子で騎乗できた。愚息もお祭りに積極的に参加することによって郷里長岡とのおつきあいを深め、これを機会にますます本人の自覚が深まることを切望している。
 二つ目は旧越後長岡藩士族会柏友会の会員有志に武者姿で参加して頂いたことである。米百俵を送った三根山藩隊は現当主第15代牧野忠由様を始め、年々男女の参加者が多くなり、米百俵を受け取る長岡藩隊はいつも私一人だったので少し淋しく思っていた。
柏友会員に「いっしょに参加しましょう」と熱心にお誘いしていたところ、その甲斐あって今回は東京からの参加者を含め男女18名に出演していただき、大変感謝していると同時に今後も続けていって欲しいと思っている。
 本年の米百俵時代行列は開催日が10月になってから11回目を迎え、参加者は総勢540名の大部隊となった。年々参加者が増えて盛大となるのは、市民の皆様のご協力と御理解があってこそだとうれしく思っている。米百俵まつり実行委員会の奮迅のご努力に敬意を表し、毎年素晴らしいお祭りになることを希望している。
 米百俵まつりの約3週間前の9月16日には、栃尾地区で開催された「第45回謙信公祭」に初めて参加した。今年は米沢藩上杉家第17代当主上杉邦憲様をお迎えしての開催であった。
上杉様は謙信公役、私は長尾景虎役を仰せつかり、それぞれ騎乗して栃尾文化センター前に越後上杉軍勢の全軍団と共に勢ぞろいした後、街中をとおって秋葉公園まで行進した。
上杉様は初めて祖先の地に足を踏み入れたということを大変お喜びであり、また栃尾の方々にも喜んでいただき、上杉様を一目見ようと沿道に多くの観客が詰めかけたので、私も上杉様を御案内した甲斐があったとうれしく思った。
 来年は栃尾の方々も米百俵祭りに参加して頂けるという声も聞こえてきているので、是非実現して頂きたいと思っている。
↑第 11回米百俵まつり記念撮影本陣隊
↑11代藩主忠恭公役の筆者
↑12代藩主忠訓公役の忠慈
↑謙信公祭りでの上杉様(右)と筆者(左)
もどる