本文は長岡市立科学博物館ホームページの長岡藩主牧野家資料館・
「ようこそ殿様の部屋へ」から許可をもらい掲載しています。


■殿様日記 vol.4 高野山越後長岡藩牧野家供養塔調査
   平成25年長月

 この夏8月21日(水)から23日(金)まで、家族3人と私の知人を誘って、和歌山県高野町高野山(こうやさん)にある越後長岡藩牧野家供養塔(くようとう)の確認調査を兼ねてお参りに出かけた。
 新横浜駅から東海道新幹線に乗り新大阪駅で下車、地下鉄で難波に行き南海電車に乗り橋本で乗り換える頃には少しずつ山間の風景となる。
終点の極楽橋駅で下車、ケーブルカーに乗り換えると一気に高度が上がり5分で高野駅に到着。そこからバスに乗り換えいよいよ高野山の街中へ入り千住院橋バス停で下車。本日の宿坊である 高室院(たかむろいん)で荷物を降ろした。
 事前に牧野家のお寺である平等院(びょうどういん)の住所を調べて行ったので、高室院の執事さん
↑奥の院参道から人物(筆者と家族)の
後方に牧野家の五輪塔を臨む
が親切にその住所まで車で送ってくれたのだが、何たることかその住所に平等院はなかったのである。お寺の構えは無く民家があったので聞いてみると、平等院は火災に遭い現存していないこと、現在は明王院(みょうおういん)が管理していることなどが判明した。
そこで明王院に伺ってみると、ご住職はお留守であったが留守番の方から「昔あった平等院の裏山に通じる道があり、そこを登ったところに何基か昔のお墓がある。」と教えて頂いた。
再度平等院跡に戻って裏山の細い道を登っていくと、少し開けた場所にいくつかの墓石があり、五輪塔(ごりんとう)は大小5基あった。そのうち2基の家紋は確かに三つ柏だと思われたが、いかんせん墓石が苔むしており字の判別ができなかったのである。
 我が家に残る古文書「御法號竝寺院調(ごほうごうならびにじいんしらべ)、牧野家」の中の「高野山奥院墓所(こうやさんおくのいんぼしょ)建設図及び平等院境内浦山上(びょうどういんけいだいうらやまうえ)の建設図」を高野山へ行く前に自宅で下調べし、そのコピーも持参したのであるが、それに書かれている墓石が果たしてこれと同じなのかどうか、はっきり答えを出すことはできなかった。
 2日目はいよいよ奥の院である。奥の院参道入り口一の橋から御廟まで約2キロメートルの参道を、牧野家の供養塔はどこにあるのかと左右を見ながら歩き出した。高野山は標高約900メートルあり、街中よりは涼しいところであるが何しろ今夏の猛暑、ゆっくり歩いていても汗がジワリと出てくる。参道沿いには20万墓を超える墓碑が並び、老杉が太くすくすくと育っている。
 地元の観光協会が参道にある供養塔の位置と大名家の名前が書きこんである地図を発行しており、1日目にそれを求めて探してみたが、越後長岡藩の供養塔は無かった。しかし、稲川明雄氏から「確かに奥の院に牧野家の墓石があった」 と伺っていたので、他のお大名の供養塔を
眺めつつ探していると、最初に目に飛び込んだのが大橋佐平(おおはしさへい)の墓碑
であった。博文館(はくぶんかん)を創設した長岡の人きざである。これは良い兆(きざ)し!と思い、歩を進めると「新潟越後鍵冨三作(かぎとみさんさく)」の墓石を見つけた。とても大きく参道沿いの目立つ場所である。
これは!と思い、その山側を見てみると古い五輪塔。石にははっきりと寶性院殿(ほうしょういんでん)の文字がうかび、まさしく初代忠成(ただなり)公の墓石であった。この墓域には管理寺院を示す明王院(みょうおういん)の支柱が建っていた。これは!と思い、その山側を見てみると古い五輪塔。石にははっきりと寶性院殿(ほうしょういんでん)の文字がうかび、まさしく初代忠成(ただなり)公の墓石であった。この墓域には管理寺院を示す明王院(みょうおういん)の支柱が
建っていた。
↑【中央】初代忠成公の五輪塔
【左】能勢信重墓 【右】渡辺正信墓
 我が家の古文書に記されている通り、初代様の左右には殉死した能勢兵右衛門信重(ひょうえもんのぶしげ)、渡辺七郎右衛門正信(しちろうえもんまさのぶ)の 少し小さめの五輪塔(約 2.2m)が建っており、古文書の写真とも合致した。
この3基のすぐ後ろ側には初代様と同じ大きさの五輪塔があり、超雄院殿(ちょうゆういんでん)の文字から二代忠成(ただなり)公墓と判明した。また、その側には崩れた小型の五輪塔があり、これは第四代忠壽(ただなが)公の物と判読できた。
            ↑【牧野家墓五基】
右から...初代忠成公墓(大)、能勢墓(小)、
渡辺墓(小)、 四代忠壽公墓(3人の足元)、
二代忠成公墓(大)
その他に、二代忠成公墓の前面には左右に2基の石灯籠があり、どちらも上部の石は傍に落ちてしまっている。
 この墓域は 7.2メートル× 8.1メートルあり、大小5基の五輪塔を確認する事が出来た。計算すると初代様の建立から358年経過しているが、途中修復されながら今日に至っていると思う。今回の調査で墓石の倒壊やかたむきが判明したので、今後、極力もとの形に修復していくことが私の使命であろうと考えた。今まで文献で見ていただけであるが、ご先祖様のお導きもあり、高野山まで出かけて墓石にめぐり合う事が出来、本当に良かったと思っている。今回は前述の「高野山奥院墓所・・・」に記載されている墓石のすべてを確認する事が出来なかったので、今後も調査が必要だと感じた。
 3日目朝、明王院のご住職にお目にかかる事が出来た。ご住職は総本山金剛峯寺(こんごうぶじ)教学部教学課にもお勤めされている高岡髏^様である。今回の目的をお話ししたところ、ご住職も牧野家の末裔(まつえい)と会いたいと思っていたこと、愚息忠慈が昨年10月、本年1月にテレビ出演した番組をご覧になり、越後長岡藩主の子孫がいることが分かり、何か連絡を取りたいと考えていたこと、などをお話し下さり「今日お会いできたのは仏様のお導きです」とおっしゃって頂いた。
 この高野山は平成16年に世界遺産に登録された地域であり、「牧野家の供養塔が一部崩れており標識も無いのは心苦しい」と申し上げたところ、供養塔の修復などをするときは個人で勝手にすることはできず、すべて和歌山県教育委員会の許可が必要になるとのご返事であったが、「今後は明王院が窓口となり、県への申請、石屋さんへの手配などをさせていただきます」との御住職の有難いお言葉を頂いた。
 明王院は金剛峯寺のすぐそばの鬼門(きもん)の位置にあり、弘法大師が最初にお造りになった中院御坊(ちゅういんごぼう)はこの辺りの谷が中心であった事、別格本山越後坊(えちごぼう)と称し、古くは弘法大師の隠居寺であった大変格の高いお寺である事。また、越後坊であるが故(ゆえ)、越後の人々が宿坊として利用されることが多いとの事であった。
 今回は初めての高野山行きであり、有難いめぐり合いが多々あったが、今後も何度か足を運び調査、修復を進めなければならないと感じている。 
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