本文は長岡市立科学博物館ホームページの長岡藩主牧野家資料館・
「ようこそ殿様の部屋へ」から許可をもらい掲載しています。


■殿様日記 vol.5 第 62回神宮式年遷宮での御奉仕
   平成26年睦月
 平成25年10月、伊勢神宮では20年に一度の「遷御の儀(せんぎょのぎ) 」すなわち「大神様(おおかみさま) の宮遷り(みやうつり)」が古式ゆかしく執り行われた。
神宮司廰(しちょう) のしおりには、式年遷宮は我が国におけるもっとも重要なおまつりとして、かつては「公(おおやけ) の儀式」として、国を挙げて行われてきたと記されている。
 私は現在、一般社団法人霞会館(かすみかいかん) の伝統文化事業の一つである衣紋道(えもんどう) 研究会の会長をしており、我々衣紋道研究会の会員が、この「遷御の儀」を斎行(さいこう) する(とりおこなう)神職様(しんしょくさま) たちの装束(しょうぞく) の着装(ちゃくそう) をさせて頂いたのである。
 今回の神職様の装束は普段使用されている装束とは異なり、「遷御の儀」のみに使用されるものである。当会員の中には20年前に御奉仕した者も数名いるが、おおかたが今回初めての経験であり、1年半ぐらい前から練習を重ね特訓をして当日に臨んだ。
 皇大神宮(こうたいじんぐう) (内宮(ないくう) )の御遷宮(ごせんぐう) は10月2日、豊受大神宮(とようけだいじんぐう) (外宮(げくう) )の御遷宮は10月5日であった。私が御奉仕した期間は9月30日(月)〜10月6日(日)であり、今回は東京、京都の会員延べ30名が、それぞれ期間中の都合のつく日に神宮に伺い御奉仕させていただいた。

 大宮司(だいぐうじ) 、小宮司(しょうぐうじ) 、禰宜(ねぎ) 、禰宜代(ねぎだい) の神職様たち、合計13名がお召しになる装束は縫腋袍束帯(ほうえきのほうそくたい) 、明衣(みょうえ) と呼ばれる装束で、私たちは皇大神宮と豊受大神宮のそれぞれ、川原大祓(かわらおおはらい) の儀、遷御の儀、奉幣(ほうへい) の儀に臨まれるたびごとに、神職の方々の着装に御奉仕した。
■外宮で御奉仕した衣紋道研究会の会員
■神宮司廳からの辞令
■御奉仕姿の筆者(白小袖に白袴)
 神職様が儀式に臨むために詰めていらっしゃる斎館(さいかん) と呼ばれる建物の中で、私たちは着装させて頂くのであるが、装束をお付けする者を衣紋方(えもんかた) と言い、前と後ろと2人が1組になって、お一人の神職様を30分以内で着装する。私たちの仕事は人目に触れることなく、神職様が儀式を無事にお済ませになることを祈り、儀式中に着装の乱れが無いように願い、慎重に手際よく着装しなければならないのである。
 私たち衣紋道研究会の奉仕会員は、10月2日の皇大神宮の御遷宮を奉拝(ほうはい) することが許された。この日は午後1時から神宮への一般参拝は出来なくなり、午後5時には一般の参拝者は神宮内に一人もいなかった。
 大宮司様の装束着装は午後5時45分には終了していた。すでにあたりは暗くなっている。午後6時に神職様は内宮斎館を出発された。
■宇治橋を渡り御奉仕に出仕する
衣紋道研究会の会員
参進の列は先頭が勅使(ちょくし) の御列、次に神宮祭主、大宮司、小宮司、以下百数十人に及ぶ神職様の列が続く。
 私たちは始まっている御神事に、そして特別奉拝者の方々にも邪魔にならないように、懐中電灯を持った係員の案内で、御列とは異なる細い通路を移動して指定された場所に着席した。
まもなく神職の方々が参道の小石を踏む音が左からステレオのように聞こえ、右側の正殿(せいでん) の方向ヘと沓音(くつおと) が進んでいく。ところどころに灯されている松明(たいまつ)に神職様のお姿が浮かびあがる。そのうちに砂利を踏む音が聞こえなくなり、私は神職の方々が所定の位置に御着きになったと思った。
 手元の時計で午後6時53分、突然「全員起立、礼」のアナウンスがあり3分間続いた。その後、ほのかなあかりは灯されたままで、いくつかの儀式が執り行われているはずであるが、私の席からはその気配も感じ取ることはできない。
 午後 7時 40分、参道に設置された大型提灯の火が一つずつ消されていく。「鶏鳴(けいめい)まであと 15分です」とのアナウンスがあった。
■玄関に並ぶ神職様の沓
■参道に設置された大型提灯
 午後8時前に「これから遷御の儀を執り行います」と放送され、これと同時にすべての燈(ひ) が消されることが告げられた。黒い礼服の特別奉拝者約3600人は物音ひとつ立てず、気持ちを引き締めて渡御(とぎょ) の御列をお待ちする。すべての明かりが消された神苑(しんえん) は清浄な空気に包まれ静寂が訪れた。神宮は多くの樹木が生い茂り、特に内宮の正殿あたりは空まで届くような大木に囲まれているために闇夜である。
 かすかに正殿の方向から「カケコー、カケコー、カケコー」と、鶏鳴三声が聞こえた。これは神宮だけに伝わる行事で、天岩戸(あまのいわと) 開きの折り、鶏鳴が三声唱えられた故事にならっている。鶏鳴の前に檜扇(ひおうぎ) を二 、三橋(ふた、みほね) 開いて袖を「ぽんぽんぽん」とたたく動作が為されているはずであるが、さすがにその音は耳に入ってこなかった。
 正(しょう) 8時、闇の中。鶏鳴の合図で厳(おごそ) かに御神体は正殿をお出ましになる。真っ白な布の絹垣(きんがい) の内におわします御神体は、小石の上に藁(わら) で作った敷物、その上に白布を敷いた道筋を、神職の方々に担がれて新殿へとお進みになる。淨闇(じょうあん) の中から楽師(がくし) による導楽(どうがく) の調べが聞こえてくる。御神体を囲っている真っ白な絹垣が、ところどころに焚(た) かれている篝火(かがりび) によってほんのりと茜色に染まる。風に乗って薪の燃える香りが漂う。いく度か木々がざわめき、梢(こずえ) の葉擦れの音がかすかに聞こえる。近くで鹿が「キューン、キューン」と啼(な) き、それに合わせたようにムササビが「グワー、グワー」と啼く。
 私はただ無心になり、闇の中を御神体が旧宮から新宮にお移りになるこの瞬間に、神様と共に同じ空間に居られることの感動と言うよりも、もっと崇高なありがたい気持ちに浸っていた。
 午後 8時 38分、空を見上げると木々の合間から清らかな星が見えた。照明が灯されると同時に私たちは元の道をたどって斎館に戻り、神職様のお帰りをお待ちした。御召替えのお手伝いをし、当日のすべての御奉仕を終えて宿舎の神宮会館に戻ったのは、午後 10時 50分であった。
 10月5日には外宮において2日の内宮と同様の装束着装の御奉仕をさせて頂いた。午後 6時ごろ外宮の斎館前庭からすべての神職様がお出ましになった後、お玄関脇の提灯の灯りだけになっていた時、何か黒いものがひょっこりと前の茂みから顔を出した。よく見る と丸い顔をした動物でアナグマのように見えた。この日だけはアナグマも思いなしか神妙な顔つきであったように思った。
■ひょっこりと現れたアナグマ

【あとがき】 衣紋(えもん) とは・・・
 平安時代、公家の日常の参内には、束帯(そくたい) と呼ばれた装束を着用しました。
 束帯は、11世紀ころになると身幅の大きくゆったりとしたものとなり、丈も長くなって、実用よりも色彩や豪華さを楽しむ美意識が生まれました。
 12世紀になると、従来の円満華麗で曲線的な美から、力強い直線的な美が好まれるようになりました。そのため、柔装束(なえしょうぞく) と呼ばれる従来の柔らかな地質の装束に代わって、地質を厚くし、糊で強く張って着装する強装束(こわしょうぞく) が現れました。強装束へと変化したことによって着装が簡単にはできなくなり、美しく着装するための専門家が必要になりました。この着装の技術を衣紋と呼んでおります。
男子装束「束帯」 女子装束「十二一重」 着装の様子
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