第33回 おたのしみ会  
                                                
                                 第4回

                                       松旭斎天暁師に聞く          

               聞き手      
                  小宮 行雄                                   2009/8/22  熱海  中田屋にて


                                                  

   小宮  本日は、マジックの道具についてお話を伺いたいと思います。  
     昔は、物資が不足しており、マジックを演ずる時の道具がなかなか手に入らず、ご自分で工夫して、ご自分で作っていたということですが?  
   天曉  お世話になっております。マジックの道具ということですが、簡単に作った物は、みなさんよくご存知の「サムチップ」ですね。  
     どのように作るか。・・・・・・茶封筒を指に巻きつけ、糊付け、乾かし、の繰り返しをし、指の形に仕上げたもです。  
     あの道具を作りたいと思っても、品物がなく、なかなか難しい時代でした。  
     今では、どこのマジック・ショップでも売ってますから今の人達は幸せですね。  
   小宮  みなさんの中でもご自分で作る方もおいでかと思いますが、このお話は理解できると思っている方も多いと思います。  
     道具を作り始めた原因は?  
   天曉  私達の大先輩の「天洋」さんの発表大会が年2回・・・・・・春・秋に三越劇場で開催していた頃の話になりますが・・・・・・・・・・  
     「天洋」さんの道具が翌日になると使いずらくなってしまい、それを作り直したり、修理をよくさせられました。これが毎日のように続きました。  
     この経験が身に付きまして、「水芸の装置及び水芸の道具」の考案や小型から大ががりな物まで、数多くの「お花」が  
     出来上がったということです。「天洋」さんの道具の作品が完全な物であれば、今の、「天曉」はいなかったでしょうね。   
   小宮  大変なご苦労が今になって役に立っているということでございます。その外に何か?  
   天曉  いつか忘れましたが、名古屋で、「島田晴夫」さんが「胴切り」をやった時、どう間違えたか、全部、体に巻きついてしまいうまくいかなかった。  
     本人は何でもなかったんですが、予想もしなかったことになってしまい失敗したのか、成功したのか、成り行きで終わったこともありました。   
     道具自体がその当時は完成品だったのでしょうがそういうこともありました。  
   小宮  道具を作り始めて記憶に残っている事がありましたら?  
   天曉  昭和18年・19年頃かと思いますが、その当時は物がない時代でした。「天洋」さんから、こういうもの、ああいうもの作れとよく言われました。  
     物がない時代でしたから、その辺にある物を拾い集めた自転車のチェーンを抜き取り、芸者さんの袋帯になっている「帯止め」の中に  
      チェーンを入れて 今で言う「スネイク・ロープ」なる物が出来上がりました。  
   小宮  道具作りのご苦労話、道具作りの楽しさを伺いました。ありがとうございました。  

                                              第32回 おたのしみ会       
                                                                                 
                                  第3回

                                                                           松旭斎天暁師に聞く
                                               

                                                                       

          聞き手      
            小宮 行雄                                      2008/9/27  熱海  中田屋にて

   小宮  前回は、昔の手品師には「免許制度」があったということ。また、マジシャンのマナーについて事例を含めて体験したお話を伺いました。  
     今日も変わったエピソードをお伺いできればと思います。よろしくお願いします。  
   天曉  要 旨  
     明治30年代昭和初期に活躍した美人奇術師「松旭斎天勝」のデビュー前の写真の説明がありました。  
     12才で松旭斎天一に弟子入り、天一の死後、日本初の大奇術団を結成し一世を風靡した。  
     得意の水芸の他、考案した出し物は1000種類以上にも及んだ。舞台映えがして、歯切れがよく、間の取り方がいいので好評でした。  
  小宮   どうもありがとうございました。配布資料は大変貴重なものだそうです。大事に保管しておいてください。  
     今日は「偽者」についてお話をしていただけるということですが?  
   天曉  「天勝」には偽者が最高で46人いたそうです。現在では信じられませんが当時はあたりまえだったそうです。  
     本物天勝と偽者天勝の違いは出演する劇場が違っていました。本物天勝は当時の一流劇場であった新橋演舞場・帝国劇場のみの  
     出演でしたが偽者天勝はそれ以外の劇場で出番を許されていたそうです。  
   小宮  ありがとうございました。次回もよろしくお願いします。  
       
       
対談

                   松旭斎天暁師に聞く

                          
                          第2回                   聞き手   小宮行雄


                                                                
                                                                                              2007.8.26 仙台さくなみ温泉にて

                          

             天暁氏  &  小宮行雄(司会)                   マリ・ちゃこ  &   天暁氏          天暁氏  &  小宮行雄(司会)      

天暁   天暁です。どうぞよろしくお願いいたします。
司会   小宮です。よろしくお願いします。暑い日が続きますね?
天暁   暑いですね。
司会   天暁師匠は、こういう暑い日でも、いつもお元気でなによりでございます。前回に引き続きまして、お話を伺うということで、どうぞよ
  ろしくお願いします。まず最初に、免許についてお伺いしたいと思います。
天暁   そうですね。当時の私たちは、今と違って免許がありました。現在の警視庁の中に特高課がありまして、特別高等警察官という方
  がその係りで、地方の警察署長さんより、えらかったそうです。
  ですから、免許がないと舞台に出ることができませんでした。免許のない人は「申請中」ということで舞台に出ていました。
  どこが違うかといいますと、免許のある人は1000円のところ、「申請中」の人は、200円・300円位しかもらえないそういう時代で
  した。
  私の場合は、前回に少しお話ししましたが、私も、免許がないとしょうがないということで、北海道の釧路で巡業中に、駒込の警察
  署まで、2日かけて申請に行きました。戦争が始まっている中で、芸人なんてとんでもないと断られましたが、慰問をしている話をし
  をしたら、そういうことだったらと、芸人とし免許をもらうことができまして今の私があるということです。
司会   昔は、免許があるなて、皆さんご存知だったでしょうか?。こういうお話は、書籍には載っていない貴重な体験談を伺わせていただ
  きました。免許のほかに興業税というものがあったそうですが?・・・・・・・・
天暁   当時の佐藤内閣の時ですが、毎月1回は必ず自民党本部へ訪問すことになっていました。この興業税が何のための税金かは議
  員さんでもあまり知っている方は少なかったようです。
  何故、興業税を取るかといいますと、昭和8年頃から満州事変、中国戦争、日増しに戦争が拡大してきました。出兵が増え、兵隊
  さんの食事代、給金を支払わなければなりません。そのお金が国にありませんでした。寄席・映画館・劇場と同じように税金を取
  ろうということで興業税なるものが生まれたわけです。
  ところが、時代が変わって、興業関係が下火になってお客さんも来なくなり、当然、私たちも暇になってしまいました。
  そこで、18年くらい前になるかと思いますが、国会へ訪問しこの状況をお話して、この興業税を廃止してもらいました。
  戦争が終わったので興業税を取る必要がなくなったからという理由で廃止、現状維持ができるようになりました。
司会   ありがとうございました。最後になりますが、マジシャンのマナーについてお聞きしたいと思いますが・・・・・
天暁   そうですね。皆さんがよく打ち合わせをする時、舞台に腰掛けて打ち合わせをしているところを見かけます。
  これは絶対にやめてほしいですね。我々は、舞台の花道でも腰掛けているところを見つかると、ひどく怒られたものです。
  舞台は「飯の種」だということです。この舞台があるから「飯」が食べられるんだ。と教えられました。皆さんも舞台は大切に使って
  ほしいですね。
  それから、舞台に出る時、よく他人の道具をさわりたがる人。これもやめてほしいですね。奇術は、糸1本取れても手品は出来ま
  せん。どんな仕掛けになっているかわかりません。お互いに気をつけて、手品をを楽しんでもらいたい。
  私の経験から話をさせていただきました。最後になりますが、私は、ドラムも叩けば、タップも踊ります。これが私の芸を支えてくれ
  ています。マジシャンに大切なことは、リズム感が大事だということです。
司会   興味あるお話をありがとうございました。

対談

           

         松旭斎天暁師に聞く

                第 1 回                  聞き手   吉田幸雄    

                                          

プロフィール   プロ団体、(社)日本奇術協会の理事長を長年務めた後、昭和42年度から54年度まで副会長に就任し、昭和55年度

                    には相談役となる。平成元年度から5年度まで再度副会長として活躍、平成6年度からは名誉顧問とし、大所高所から

                   (財)日本奇術協会へ助言を与えている。

           天暁氏の芸風は、日本が生んだ世界のコメディーマジシャンとして、お芝居はもちろん、タップも踊ればドラムも叩く。

                    マイムの奇術を演じる十八番「シガレットマジック」と「ロープマジック」は、高度なテクニックを不思議と笑いで観客にアピ

                   ール。マニアならずとも胸をときめく瞬間を存分に味あわせてくれる。

           門下生の天志、天水、天城等を、また、華麗な演技を見せる一人娘の小夜さん等をプロに育て上げ、今や奇術界の

                  大御所でありながら、そんな態度は美麗も見せぬ気さくな人である。 

           海外での主な出演は、昭和55年4月、スイスのルー・カジノ座。昭和57年5月、イタリアのボローニャ出演をはじめ

                  29ケ国を廻る。

                  昭和59年5月には、ラスベガスのランドマークホテルに出演。昭和63年3月からは、水芸指導に活躍する。

          佐久間良子主演「滝の白糸」・天童よしみ・西田敏行さん等、多数の芸能人の指導に携わる。

          受賞も多い。昭和51年3月には、芸団協から「芸能功労賞」。昭和63年5月には日本奇術連盟から「功労賞」

                  を受賞。さらに、平成9年9月、ご夫婦で叙勲「文化普及功労」を皇居にて受賞。

         現在は、(社)日本奇術協会名誉顧問・日本奇術連盟専務理事。大正12年2月10日生・福島県出身・

                  本名は磯川寅亥。 

                


吉田 今年度の役員会で、天暁さんとの対談が決まりました。そこで、今回の熱海大会からということで、お願いをしたところです。
天暁さんは、ご存知かと思いますが、水芸の装置、道具を考案した方で、コメディーマジシャンとして知られております。。
さっそく、本題に入らせていただきますが、最近の活動をお聞かせください。
天暁 昨年になりますが、大阪の歌舞伎座で歌手の天童よしみさんに水芸を指導しました。今年の2月には新宿のコマ劇場で
約1ケ月間、また5月には、名古屋の御園座の特別ショーで指導しました。
吉田 水芸の指導を主にご活躍されているようでございます。ありがとうございました。ところで、天暁さんは大正12年のお生まれと 
伺ってっておりますが、そのパワーは、どこにあるのでしょうか。
天暁 マジックは「力」だと思っています。
おかげさまで、今年で83歳になりました。今、現在、足腰に異常もなく元気に活動できるなは、マジックのおかげだと思って 
います。マジックは頭も使うし、指も使う。これが、私には、一番の体力つくりだと確信しています。皆さんも頑張ってください。
吉田 マジックを趣味にしている方は長生きをするそうです。そのおつもりで精進してください。(笑) 
天暁さんは、現在のお立場になられるには、ご苦労も多かったと思いますが、マジックに入る「きっかけ」は何でしょうか。
天暁 私は、福島県の猪苗代で、大正12年に生まれました。昭和の初期に東北地方は旱魃の被害で、非常に苦しい生活が続き
ました。今では考えられないような苦しい生活を体験してきました。
たまたま、静岡県の浜松でバイト生活をしてた昭和16年に、タレントの集まる劇場ができました。この劇場で「国際魔術団」の
公演を見て、舞台に興味を持ちました。そして、団長の松旭斎天翠師に手紙を出して弟子入りしました。
吉田 その当時のマジック界の状況はどうだったでしょうか。
天暁 その当時は、免許証がないと舞台に出られませんでした。物不足の戦時中に免許証なんてとんでもないとことわられました。
慰問をしたいからという思いが承諾され、三ヶ月たってなんとか免許証を受けることができました。
吉田 芸名はどのようにして決めたのでしょうか。
天暁 手品師になるためには、日本奇術協会に加入しなければなりませんでした。芸名がなかったので本名の「磯川寅亥」で申請し
したら松旭斎を名乗らなければ手品師の資格はないといわれ、急遽、思い付いた芸名が「松旭斎天誠」でした。
吉田 「松旭斎天暁」はいつから使うようになったのですか。
天暁 終戦になりまして、米軍の慰問に行くのがほとんどでした。従って、芸名はローマ字で書きました。ローマ字では、「TENSEI」
実は、慰問の時、「TENSEI」が二人になってしまいました。「天誠」と「天晴」の二人です。「天晴」は我々の大先輩で、これは
大変なことになってしまったと、苦し紛れに「松旭斎天暁」と芸名を変えました。
その後、浅草の松竹演芸場に出演している時に、観客から、札幌に「有崎天暁」がいるということを教えてくれました。
あわてて、ご本人と面会して、「天暁」でも「松旭斎」の「天暁」はいまだいないからということで許しを得て、今現在の「松旭斎
天暁」の芸名があります。
吉田 ありがとうございました。芸界の厳しさの一端を伺い知ることができ、大変参考になりました。
手品の世界へ入ってからは、色々とご苦労もあったと思いますが。
天暁 当然すぐには、舞台に出してもらえませんでした。宣伝のため、町周りをするんですが、靴は履くこともできず、下駄履きで大
きな旗を持って歩きました。
舞台では、幕引き、道具の準備、後片付け、荷造り等の毎日でした。
16歳で手品の世界に入ったわけですが、入ってからの3年間は、一度も畳の上では寝かしてもらえませんでした。
芸の出来ない人は楽屋(畳)で寝ることができず、道具と一緒に寝ていました。
吉田 チャップリンスタイルの芸が人気だったようですね。
天暁 物不足の戦後でしたから、仕掛け、小道具は全部手作りです。知恵を絞るのに苦労しましたが、おかげさまでその当時は、
月に200本の公演依頼があったこともありました。
色々と稽古をしましたが、「ロープ」と「シガレット」のマジックを主にやっていました。
当時、「ロープ」は一箇所切りしかなかったけれど、何箇所も切る技法、メガネ切り、カードのカスケード、ライターマッチ等。
慰問の時に、教えてもらったり、いただいたものが、私の芸になっています。
吉田 「松旭斎」はどうゆう源になっているのでしょうか。
天暁 松旭斎の元祖は「松旭斎天一」です。本名は「服部松旭といいまして、お寺のお坊さんでした。
ところが、あまり素行が善くないので、破門されますが、外国から来たマジシャンに見習ったのが、日本の手品の始まり
だそうです。
吉田 本日はありがとうございました。今日は、第1回ということですが、2回、3回と続けてまいりたいと思います。
どうぞ、よろしく、お願いいたします。
                                  2006.8.26/27      第30回 熱海奇術特別講習会