「主の祈り(5)第四の祈り」
マタイの福音書6章9〜13節

◆主の祈りは、前半が神に関する祈り三つ、後半が私たちの必要を祈る祈り三つで構成されています。「日ごとの糧を」と肉体的必要を求め、「お赦しください」と精神的必要を求め、「悪からお救いください」と霊的な必要のために祈れとイエス様は教えられました。私たちも大胆に、あらゆる必要を祈りたいと思います。

◆「日ごとの」
東日本大震災が起きました時、「日ごとの糧を」「日用の糧を」と主の祈りを祈ってはいましたが、こんなに切実な祈りなのだということを実感したことは忘れられません。「日ごとの」という言葉は、聖書のこの個所にしか登場しない言葉であるため、その意味を決定するのに、非常に苦労をして来た言葉です。発見されたエジプトのパピルスの断片の中に、当時の家計簿が見つかり、「毎日の配給」を指して使われていたことが分かりました。そこで、「日ごとの」という言葉には、三つほどの意味があると推測されています。
@「その日のための」。イスラエルの民が、荒野を行軍しました時、神様は、毎日マナを降らせて人々を養いました。そのマナを連想させる言葉です。
A「生きるために必要な」。この意味では、有名な箴言のアグルの祈りが連想されます。「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。(30:8)」
B「来るべき日のために」「明日の」。最近では、この第三の意味が最も有力だと言いますが、この意味であるとすると、単に、私たちのその日その日に必要な食糧というだけではなく、イエス様が、ヨハネの福音書において、「なくなってしまう食べ物のためではなく、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。(ヨハネ6:27)」と言われたように、終末論的な意味で神の国の祝宴にあずかることができるように、との祈りをも含んでいることになります。

◆「糧」
糧とは、パンのことです。イエス様は、荒野の誘惑の中で、もし、あなたが神の子なら、石をパンに変えてご覧なさいとサタンに誘惑され、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる。」と、誘惑を退けられました。うっかりしますと、その言葉から、パンの問題は、求める価値のない、卑しい事柄であると誤解しがちです。しかし、聖書は、日ごとのパンを求めるようにと勧めていることを心に留めましょう。イエス様の御生涯も、おなかをすかせている人々の必要を満たし、病気の人々には、癒しの手を伸べ、孤独に心病む人の傍らにお座りくださったのです。

◆「今日も」
「日ごとの」と祈り、さらに「今日も」と祈ることの意味は何でしょうか。
@日ごとに新たな重荷が生じるから。「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。(6:34)」と記されています。私たちは、寝だめ、食べだめはできません。毎日、寝ること、食べる事など、その日、その日    の必要が生じます。そこで、「今日も」と祈るのです。
A毎日、神に信頼し続ける生き方が求められています。
B信仰の実践は、今日も。私たちは、祈って立ち上がり、今日も、信仰の実践の場に向かいます。ですから、「今日も」と祈るのです。