「あなたがたは祝福となる」
ゼカリヤ書8章9〜17節

◆信仰に真剣に生きることの励まし
信仰者として真剣に生きることは決して簡単ではありません。信じ委ねてささげる生き方が苦しく感じられたり、報われないと感じたりすることはいくらでも起こります。ゼカリヤの時代もそうでした。捕囚から帰還した民は神殿の再建に取り組み、信仰生活の立て直しを図っていました。しかし、「そんなこと無駄だ」という内外からの声や戦争のリスクの中で、そのモチベーションは下がっていた。そこで、神様は預言者ゼカリヤを遣わし、「勇気を出せ」(9、13節)と励ましつつ、備えられている祝福について語りました(特に12-13節)。

◆祝福となる@:大いに祝福される
 中でも注目したいのは、13節に「あなたがたは祝福となる」と、「祝福される」でも「祝福を受ける」とも違う珍しい表現があることです。この表現が強調する第一の意味は、「大いに祝福される」ということです。というのも、この表現で思い出されるのは、アブラハムに対して神様が語った「あなたは祝福となれ」(創世記12章13節)という言葉です。つまり、祝福の象徴となったアブラハムと同様の祝福が、信じてあゆむその先に、信仰者に約束されているのだということです。
 しかし、私たちはそんな祝福のリアリティをなかなか持てません。アブラハムのような信仰者ではなく、祝福とは程遠い罪や弱さの現実に目が止まるからです。当時の民も同じでした。彼らはさばきの結果荒れ果ててしまったエルサレムの現状をいつも目にしていました。しかし、13-15節で語られるのは、かつて「のろい」や「わざわい」をもたらしたのと同じ確かさをもって、神様が民を祝福しようと計画しておられる事実です。神様は、罪に対して厳密なお方であると同時に、救いと祝福に対しても厳密なお方です。私たちが罪と弱さに打ちひしがれても、それを覆う祝福が備えられていることを覚えたいと思います。

◆祝福となるA:私たちを通して世界が祝福される
 「あなたがたは祝福となる」のもうひとつの意味は、神様が私たちを通して、この世界を祝福する計画を立てておられるということです。神様がアブラハムを通して世界を祝福しようと計画したように、私たちもこの世界(遣わされている家庭、職場、地域、教会)の祝福の源となるのです。
 これに対しても、私たちはついつい「そんな大それたことはできない」と思ってしまいます。しかし「祝福となる」というのは言わば、その存在自体が祝福となるということです。何をするか以上に、何者としてそこにいるのかが重要です。私たちが赤ちゃんを見て、存在そのものを喜ぶように、神様の目には私たちは愛する子であり、何ができてもできなくても、神様を信じ礼拝する神の民の存在自体が祝福なのです。そして、そんな私たちを通して神様が、この世界を祝福しようとご計画しているのです。
 ですから、私たちは勇気を出して、信仰をもって1日1日をあゆみたいと思います。そして、神様の備えられる祝福に期待しつつ、祝福そのものとして、今日もこの場所から遣わされていきましょう。            (永井)