「主の祈り(7)ー第六の祈り」
マタイの福音書6章9〜13節

◆私たちクリスチャンの人生は、イエス様を信じますと、サタンの攻撃の矢面に立たせられます。イエス様に従った弟子たちが、大嵐の湖で、「主よ、助けてください。」と叫んだように、私たちも、救いを求めて、祈らざるを得ません。第六の祈りが、そんな助けを呼ぶ祈りであることを感謝します。

◆「試み」か「誘惑」か
聖書を調べますと、同じギリシャ語が、文脈によって「試み」と訳されたり、「誘惑」と訳されたりします。「だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。(ヤコブ(1:13)」と記されています。神様は、私たちの信仰を試みることはあっても、誘惑されることはありません。「悪しき者」が、私たちを誘惑し、神を疑わせ、私たちを神から引き離そうとするのです。

◆悪しき者の策略
@エデンの園で。完全な世界に、神の形として作られた人間が置かれました。ところが、そこに、蛇が侵入し、「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。(3:1)」とエバに囁きました。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。(1ペテロ5:8)」と記されています。悪魔は、神の善意を疑わせ、さながら神が禁欲と束縛の神であるかのように囁きます。
Aカルメル山で。エリヤは、バアルの預言者とアシェラの預言者と対決し、大勝利を収めました。ところが、その直後、エリヤは、荒野に逃げ、神様に、「主よ。もう十分です。私の命をとってください。」と言いました。大勝利を収めたエリヤに、悪魔は、孤独感と神様は何もしてくださらないという絶望を吹き込みました。いつの間にか、自分が神の座につき、偉そうに、神様を裁くのです。

◆誘惑への対処法
「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ることは、
@弱さの告白です。率直に私たちの無力を告白しましょう。
A信仰の告白です。私が、誘惑に勝ち、試みを克服することができるとしたら、天地創造の神による以外にはないと信仰を告白しましょう。
B御言葉と祈りによって。イエス様が悪魔の誘惑を、みことばと祈りによって退けられたように、私たちも、御言葉によって、不信仰を正当化する悪魔の囁きを退けましょう。また、ガリラヤ湖に沈みかけたペテロが叫ぶと、すぐに手を伸ばしてくださったイエス様に、祈りましょう。
C誘惑から逃げることも大切。ヨセフが、女主人の手にその上着を残して家の外に逃げたように、誘惑から逃げる知恵も大切です。