2011年3月22日  NO.424 「大惨事」      
 3月11日のあの大地震の日、私は山形から来ている母と町田市内の路上にワイフ
と3人で立っていた。突然、地面がぐらぐらと前後左右に揺れはじめ、激しく波を打っ
ている。私は思わず、しゃがみこんでしまった。空を見上げると電線がぐらぐら揺れて
いる。「いよいよ来るものがきたな。」何十年も東京には大地震が来ていない。これ

がそうだ、とそのとき思った。ひととおり収まったところで、すぐに車に乗って家に引き
返した。なにしろ我が家は急斜面の高いところに建っている。土台が崩れて家が傾い
ているかもしれない。家に戻ってから家の内外を良く調べて回った。幸いにも台所の
コップがひとつ壊れただけだった。

急いでテレビのスイッチを入れた。震源地は三陸海岸沖、マグニチュード9.0の日
本では過去最大の規模の大地震。予想をはるかに超えた10メートル以上の津波が
岩手、宮城、福島、茨木の海岸に押し寄せ、村や町の家屋を根こそぎ呑み込んで木
っ端みじんに家屋や船、自動車などをたたきつぶした。今日までに死者・行方不明者

は2万人を超えた。そして、更に福島にある原子力発電所が被害を受け、第1発電所
の1号機から6号機までのすべての原子炉が打撃を受け冷却装置が故障し、部分的
に放射能漏れを生じている。現在、東京電力、原子炉の関連企業、自衛隊、警視庁
消防庁の職員が決死の覚悟で修復にあたっている。30万人以上の人が一瞬にして

家を失い零度前後の広い避難所に肩を寄せ合って避難生活を送っている。やっと一
部の所で電気や水道が復旧し、ほとんど手に入らなかった食事が届けられるようにな
った。今日が11日目である。後手後手に回る管首相の対応、野次馬のように報道す
るマスコミなどいらいらすることはたくさんあるけれども、今はそんなことを気にしてはい

られない。太平洋戦争以来の日本が被った大災害である。たまたま、震源地が私が
住む関東地方の隣で起こった地震だ。東京で起こってもおかしくないものだった。他人
事とは思えない。多くの国民がそう思っていることだろう。被害のあった人たちはすべて
の財産を失い、家族をも失った人がたくさんいる。それでも、真っ暗な避難所で寒さに震

えながら手を握り合って頑張っている。生きる望みをしっかりと胸に抱いて歯を食いしば
っている。私にできることは微々たるものだ。厳しい生活意識を共有し、色々な形で援
助の手を差し伸べてあげたいと思っている。被害の大きさからすれば復興には長い時間
がかかることだろう。手を休めることなく継続して行動してゆきたいと思っている。

市井の人々が今こそお互いに協力してゆこうと立ち上がっているのに、政治家だけが子
供の喧嘩のように言い争っている。避難場所ではその子供たちが落ち込んでいる大人を
励ましているのだ。この戦後最大の国難の時に、みっともないなじり合いは止めて欲しい。
半年間は政党と言う名は外して、命がけで原発事故に取り組んでいる職員を見習い、日
     
本再建部隊としてひとつにまとまり、一丸となって、日本復興に真剣に取り組んでほしいも
のだ。そうすれば希望の光が差し込み、日本に暖かい春がやって来る。
選挙なんていつでもできる。他にやることはたくさんあるのだ。