2011年09月21日 NO.431 「みんな静かに歌い始めた」
ステージにはエネルギッシュに歌い終え、総立ちの観衆の割れるような拍手を浴びた
年配の女性が仁王立ちで立っている。隣の席に座っていた歌手と同じぐらいの年齢の
女性がハンカチを目にそっと当て彼女をじいっと眺めている。その歌手は遠慮気味に
アンコールを願う会場の拍手に応えるためにゆっくり左の方から顔を出し、中央で立ち
止まるとゆっくりと歌を歌いだした。会場のお客さんも彼女が何の曲を歌うのかよく知っ
ていた。あうんの呼吸とでも言うのだろうか、歌手と聴衆は静かにゆっくりと歌い始め
た。「知床の岬に、ハマナスの咲くころ、想い出しておくれ、俺たちのことを・・」
一昨年の夏、私とワイフは岬を船で回った。曇りがちな空がその時だけはぱっと青空
が開け、遥か彼方に国後島が見えた。船内には森繁久彌の「知床旅情」の歌が流れ
帰りの航路ではこの女性歌手の声が船上に響き渡った。コンサートの聴衆は目を閉
じ、この歌を歌っている加藤登紀子と一緒に遥かかなたに見える知床岬を想い、そ
して自分の青春時代の思い出を重ね合わせて静かに口ずさんでいた……
コンサートが終わり、聴衆は物静かに会場を去ってゆく。そこには寂しさなどはなく、感
動を胸の中に大事に包み込んでゆっくり歩いていた。私はロビーで彼女のCDを買い
サインをもらうために長い列の最後尾に並んだ。やがて順番が私の所にやって来た。
私はサインを書き終わった彼女に「登紀子さん!いつまでも青春ですよ!」と言って彼
女の手をぎゅっと握りしめた。「私の可愛い女房です!」 と後ろにいたワイフの肩に手
を置いて叫んだ。彼女はびっくりしたように顔をあげ、そしてにこっと笑ってワイフの顔
を見た。本にサインを書きながらワイフに何か言っているようだった。
加藤登紀子の歩んできた人生はテレビや本で自分自身が語って来た通りだろう。全
学連の闘士と劇的に出会い、その男と獄中結婚をし、3人の娘を育て、結婚生活や歌
手人生は決して順風満帆ではなかった。けれども、逃げ出すことなく、ひたむきに前に
向かって進む。その姿勢はその時代に生まれた人なら直接、聞かなくても手に取るよ
うに分かる。私も彼女と同じ年に生まれた。高校時代、通学する方向は違っていたが
同じ路面電車に乗って学校に通っていた。駒場高校のセーラー服は憧れの的だった。
彼女のすぐ後輩に吉永小百合がいた。その彼女の素顔を大学の図書館で間近に見た
とき、胸の高まりを感じた。感じの良い娘さんだな、と思った。同年代にはシクラメンの
小椋佳がいる。…………
最近、立て続けに2人の友人が我が家を訪れた。一人は10年ぶりの再会である。最
初、彼の顔を見たとき、どこのお百姓さんかな?と戸惑い観察しながら会話を進めてい
た。すっかり日焼けしていて体つきも山形のサクランボ農家の義弟にそっくりだった。
会話を進めていくうちに学生時代と社会人の職場で一緒に活動していた友人であるこ
とに気がついた。彼は今、永年住み慣れた墨田区のマンションを引き払い、九十九里
の古屋を買って150坪の畑を耕している。奥さんと子供は夫々、自立し、彼は自由の身
になって快適な生活をエンジョイしている。彼とは若いころ北岳に登ったり、八ヶ岳の小
屋に入り浸って田舎生活を満喫した。彼は中古の小型耕運機を買い込み、本格的に
農作物を栽培している。大量に収穫した採りたての野菜を友人に送り、喜びの便りを読
むのを生き甲斐に第二の人生を愉しんでいる。
もう一人の彼も学生と社会人で一緒だった。学生時代、当時としては珍しく、やや右寄り
の思想は未だに衰えることがなく、熱っぽく政治を語っていた。日本の現状を憂いては
いたが、同年代の多くの人があきらめかけている将来への展望を、彼は若者に希望を
託し、自分も出来る限りの応援をしたいと学生のような気持ちで語っていた。同じ時代に
生きてきた者として勇気づけられた。ややもすると年金や相続、病院やお墓などの話に
傾きがちだけれど、同時代に青春を過ごした者は何かしらの共通項があるような気がす
る。 そう、相も変わらずオーソドックスに生きてる。どんな形であれ、一回限りの人生だ。
自分自身を偽らず、目いっぱい前に向かって一生懸命生きてゆく・・・・・
それが人生というものよ。いつもそこには青春が漂っている。