8月も今日が最終日となった。とにかく今年の夏は暑かった。ここ数日は涼しかった
       が、昨日から残暑がぶり返し、またまたクーラーのお世話になっている。この高温と湿
       気にはまいったね。長い夏休み、子供のころは8月25日を過ぎると、もうすぐ楽しい夏
       休みが終わってしまうのか、と物悲しいヒグラシの声を聴きながら、さみしい気持ちに

       なる。このまま永遠に夏休みが続けば、どんなに楽しいだろう!
       子供の時の私は、お勉強は頭の中になかった。そんな気持ちは今でも続いているの
       かもしれない。毎年、一つ歳が増え自分の肉体は少しづつ変化しているのだが、私の
       精神は結婚した頃と全く変わっていない。別に無理をして意識的に若い気持ちを演じ

       てきたことは一度もない。生来、私が持っているもので、自然に湧き出ててしまうもの
       なのだろう。その私の精神的なものの原点は「感動」である。平凡な毎日の生活の中
       にも、小さな感動はたくさんある。身の回りの自然の中にも心をひきつけるものは、い
       たるともろにある。

       同じ会話をし、同じ風景を見ても、それに対する反応は人それぞれ様々だ。私が感動
       する内容は、ひょっとすると他の人が見ると、何のとりえもないつまらないものかもしれ
       ない。でも、それはどうでもいいことなのだ。感動は比較したり、調べたり教えてもらっ
       て湧いてくるものではない。自分が直接、感じるものなのだ。正しいとか、正しくないと

       かいうレベルではないのだ。
       最近、友人や知人の作品展や発表会に出かける機会が多くなった。所沢や銀座にも
       ワイフと電車を乗り継いで観に行ったり聴きに行ったりした。ピアノの演奏、油絵、声楽
       朗読、合唱など各サークルでずーっと続けている人たちの発表会だ。ステージで歌う友

       人の顔の表情は生き生きとしていて光り輝いている。普段、見る顔とは全く別人のよう
       だ。私はそのしぐさを見ていると、体の中にびりびりっと何かが伝わってくるのだ。歌い
       終わった後の姿が、また、実に良い。やり遂げたという達成感が滲み出ている。それに
       私はまたまた、感動してしまうのだ。その感動はリチャード・グレイダーマンや小椋佳の

       ライヴの感動に負けていない。いつも清々しい気分で発表会の会場を後にする。時間
       があるとカフェに寄ってビールやコーヒーを飲みながらワイフと感想を語り合う。
       山形で歌を歌っている友人がいる。彼女はご主人と会社を経営しながら、仕事以上に
       コーラスと歌に情熱を注ぎ込んでいる。時々、発表会のお知らせが山形から届くが、遠

       いいだけに中々じかに聴くことができない。発表会が終わってしばらくすると彼女から小
       包が贈 られてくる。手紙と一緒にDVDが入っている。山形交響楽団との共演だ。
       堂々とステージに立つ彼女の姿は仕事の時の顔とは全く違う。その美しい姿をいつも会
       場に居合わせるご主人が嬉しそうに見つめている・・・・・・・・

       彼女は最近、病に侵され、大学病院に緊急入院した。入院中の病室から電話がかかっ
       てきた。元気になってまた、歌を歌いたい、と彼女は話す。。幸いにして発見が早く、適
       切な治療を受けたので、順調に回復した。カムバックの原動力は”もう一度、ステージで
       皆と歌いたい”という気持ちに他ならない。 その気持ちが彼女の体を立て直してくれた
       のだ、と私は思う。彼女は望み通り、今また、仲間と楽しく歌を歌っている。

       最後に、ひとこと。先日、ワイフと突然、思い立って福島に行った。目的は福島県立美術
       館の展覧会。伊藤若冲の絵画を福島で直接、観てみたかったからだ。
       開館と同時に入場したので、じかにじっくり見ることができた。若冲の描く世界である「生
       命(いのち)」の輝きと喜び、に浸ってきました。     (9月23日までやっています)



            
 2013年08月31日  NO.458 「感動はすぐそばにある」