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康平寺バナー 九州ウェブサイト大賞2009審査委員特別賞
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 康平寺(こうへいじ)
 霜野山延寿院康平寺は、熊本県山鹿(やまが)市鹿央(かおう)町霜野にある山岳密教寺院です
  平成24年4月からは、霜野区康平寺管理組合が、清掃・供花・ガイド・管理をしています。
  
(開館日 土、日曜日   開館時間 9:00~16:00)
  お問い合わせは、康平寺 TEL 0968-36-4030まで。
  康平寺の歴史は、わからない部分が、まだたくさんあります。
  今後、少しでも康平寺のことが明らかになっていけばと願っています。

  英語の康平寺説明のページを作りました。
   → an explanation about KOHEIJI temple


 2016年9月18日(日)と19日(月)に、康平寺の仏像調査が、熊本県や福岡県、佐賀県の美術舘や博物館の先生たちによって、35年ぶりに行われました。長い間に、何回も仏像の修理がなされていますし、これからも修理を施す必要があります。そうやって大事に保存したいものです。

 学問と 修行と 救済をめざした 康平寺

平安時代初期(真堂浦に建立)
 真堂廃寺(真言系の山岳密教寺院)
  9世紀のもので現存するもの

   
地蔵菩薩立像・布目瓦・越州窯磁器etc

平安時代前期(真堂浦)
 康平寺(天台系の山岳密教寺院)
  康平元年(1058)建立

   
本堂と東西南北に四つの法塔(ハットウ)
   九十九院
(学問・修行する僧の住まい)
   
千手観音と二十八部衆

鎌倉時代(真堂浦)
  院主禎久や、禎賀たちの努力で興隆

南北朝時代(真堂浦)
  中世城主内空閑氏の保護を得る

室町時代末期(真堂浦)
  天正15年 内空閑氏の滅亡により衰退

江戸時代(本堂口に移転)
  寛永年間 
   
真堂浦(しんどううら)から本堂口に
   康平寺を縮小移転、現在に至る
 
 トピックス    
2024年 1月25日  「肥後古記集攬」の中の、『霜野物語』を書き終わりました。
2023年 3月13日  「肥後古記集攬」の中の、『霜野物語』を書き進めました。
 2018年  1月24日  「肥後古記集攬」の中の、『霜野物語』の初めの部分を書きました。 
 2015年 1月18日  「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の五のうち、その十一「島原城乗 九郎太郎働之事」を書きました。これで、「内空閑傳記」はすべて書き終わりました。 
  4月21日  康平寺の管理を、平成24年4月1日から始めている「康平寺管理組合」のページを作りました。
   4月20日  康平寺についての「説明パンフレット」を英文にした、「英文の説明」のページを作りました。
2014年 3月3日  「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の五のうち、その一「上使下向之事」を書きました。 
2009年  6月7日  5月29日の熊本日々新聞で、鹿本郡植木町の「向原(むかえばる)遺跡」から9世紀後半ごろ(平安時代初期)と見られる「金銅製の錠前と鍵」が全国で初めてそろって出土したと報道された。金銅製のものは、国府クラスの遺構から出土しているとのこと。
 貞観元年(859)、合志(かわし)郡から「山本郡」が分立(ぶんりつ)していることが分かっているが、向原遺跡には、多くの柱跡があり、須恵器・土師器の他、中国からもたらされた磁器の破片も出土していることから、「山本郡」の重要施設があり、「錠前と鍵」はそこで用いられていたと考えられるという。
 実は、このころ「霜野の荘」はこの「山本郡」に属していて、康平寺の前身「真堂廃寺」のものと見られる「地蔵菩薩立像」や、布目瓦、中国伝来の磁器類は、平安時代初期のものと推定されている。なお、真堂廃寺の開基「暁圓上人」は、861年ころ、唐へ渡るため博多で造船中、あちこち修行して、この霜野へも来られ、真言宗の寺院を開かれたという言い伝えが、康平寺に残っている。

向原(むかえばる)遺跡

金銅製の錠前
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