松尾芭蕉 俳句(1)

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俳句という言葉は、明治時代の正岡子規が連歌、俳諧の発句だけを独立させて「俳句」と改称した用語であって、松尾芭蕉の時代は五七五の短詩を「発句」と呼んでいた。

でも、こうした細かな点は専門家にお任せしよう。また芭蕉は軽み、不易流行、さび、しおりなどと難しい用語を使っているが、当HPの管理人はまるでわかっていない。わざわざお断りするまでもないけど、念のために。

 

俳諧七部集

俳諧七部集とは、芭蕉一門の撰集のうち、主なもの7部12冊をいう。すなわち、以下を集大成したものである。

1 冬の日 2 春の日 3 阿羅野  4 ひさご 5 猿蓑 6 炭俵 7 続猿蓑

 

冬の日 貞享1 1684 名古屋に滞在中、地元の荷兮(かけい)が編集。歌仙5巻から成る。蕉風が確立した句集。

画像は、荷兮編「冬の日」の巻頭。芭蕉七部集の第一。芭蕉の「狂句こがらしの身は竹斎に似たるかな 」が左ページに載っている。早稲田大学図書館蔵。

「冬の日」巻頭

春の日 貞享3 1686 「冬の日」の続編。荷兮が編集。門人の句が主であり、芭蕉の作品は古池なとわずか。
阿羅野 元禄2 1689 あらの。荷兮が編集。さびの境地。新時代の俳諧に迷っている人々を、荒野をゆくひとにたとえ、荷兮を道案内人としたもの。全3冊。

山口素堂「目には青葉山ほととぎす初がつを」も載っている。

ひさご 元禄3 1690 まだ23歳の珍硯(ちんせき)が編集。観念を排して具体的な描写につとめた。

ひさごという書名は、軽みを指向する気持ちを瓢箪に託したもの。

猿蓑 元禄4 1691 去来と凡兆が編集した。芭蕉は監修者の立場で指導した。純粋に一門だけの撰集。

猿蓑という書名は、おかしみとわびしみを交錯させたもの。不易流行、さび、しおりの理念が確立し、蕉風俳諧の完成した時期。

下の画像は、元禄4年の「猿蓑」版本で、巻1と巻5の巻頭。

「猿蓑」版本

炭俵 元禄7 1694 野坡、利牛、孤屋が編集。軽みが出ている。この年に芭蕉が没。
続猿蓑 元禄11 1698 芭蕉没後に服部沾圃らが編集。芭蕉の撰そのまま又は支考の偽撰かと詮索されている。

 

 芭蕉の没後、おもな弟子たちは一門の代表的な句集をそれぞれあげたが、意見の一致をみなかった。そのうち弟子たちも他界した。

1731年頃に、江戸俳壇の佐久間柳居(1686−1748)が選ぶとともに俳諧七部集と命名して刊行した。そして、これが全国に流布した。

それにしても、かの有名な「奥の細道」が選ばれていないのはなぜなんだろう。奥の細道は紀行文だから句集とはみなかったのか。

 

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