ロシア軍艦エカテリナ

表紙>大黒屋光太夫


嘉永6年(1853)、ペリーが浦賀港に来たときから明治維新までの15年間を幕末という。でも、これ以前の寛政4年(1792)、ラクスマンが根室に到着して国交を求めたときに、日本は明治時代へと歩き出したともいえる。

ラクスマンは気まぐれに根室を訪れたのではなくて、ロシアからの帰国を熱望していた大黒屋光太夫を伴っていた。

これは江戸後期の伊勢国出身の船頭、大黒屋光太夫の漂流記である。といっても光太夫自身が執筆したのではなくて、蘭学者桂川甫周が聞いてまとめた報告書『北槎聞略』である。これを岩波文庫版で意訳してみた。

 

北槎聞略の目次

1.漂流 2.浸水と渇き 3.幾八の死と退屈な日々
4.島影発見 5.島民との出会い 6.ロシア人
7.疑心暗鬼 8.浜辺で待つ 9.仲間たちの死
10.ロシア語を覚える 11.カムチャツカに行く 12.飢えをしのぐ
13.半島を越える 14.ヤクーツクまで 15.イルクーツクまで
16.ラクスマンと出会う 17.首都に向かう 18.キリルと新蔵
19.帝室庭園を訪れる 20.皇帝に拝謁する 21.皇帝の嘆息
22.親切な皇太子 23.帰国許可とメダル 24.日本への旅立ち
25.仲間との再会 26.庄蔵の号泣 27.恩人たちとの別れ
28.レナ川を下る 29.海までの山越え 30.父と子
31.根室に着く 32.最終回  

 

ご注意

岩波文庫版をできるだけ忠実に意訳したつもりだが、必要に応じて最小限の書き換えもしている。たとえば「12.飢えをしのぐ」の原文では「青腿牙疳の症」という病名だが壊血病に改めた。

あるいは「20.皇帝に拝謁する」では、長さをメートル換算で表記した。なお、ロシア人の人名表記と階級については、全般に正確性を欠いていることをお断りしておく。

 

資料編(1) 乗組員の名簿、レセップスによる光太夫の印象、ふたりの身なり、根室に戻った光太夫

松前に向かう光太夫、磯吉、江戸城での将軍上覧 、オランダ正月

資料編(2) 皇帝エカテリナ2世、ソフィアの歌、年表、関連のホームページ

 

作品解説

 大黒屋光太夫と乗組員16人は、千石船神昌丸に乗って、紀州徳川家の米などを江戸まで運んでいる途中、いまの静岡県沖で暴風雨に遭って漂流した。出発地となった伊勢の白子海岸は、自動車レースでおなじみの三重県鈴鹿市にある。

漂流生活をはじめて8ヶ月のちにようやくアリューシャン列島の小島に漂着して、それからさらに8年以上もの歳月をロシア帝国で暮らすことになる。日本に帰国できたのは3人だが、ひとりは根室で病死した。残り14人のうち2人は病気になり、故国の土を踏むことなくロシアに帰化した。ほかの12人はすべて病死である。

光太夫は単身ロシアの首都までゆき、女帝エカテリナ2世に謁見した。女帝は深く同情して帰国を許可して、十分すぎるほどの帰国費用を支給する。こうした長すぎる苦難ののち、光太夫はロシア人学者ラクスマンに伴われて北海道根室に着いた。

それから松前藩まで出向いてきた幕府目付に渡されて江戸に連れもどされた。幕府はロシアとの国交を禁止していたので、光太夫を直臣として待遇したものの、生涯にわたって自由が制限されたことになっている。

 ここで訳出を試みた『北槎聞略』は、蘭学者桂川甫周が将軍から指示されてまとめた報告書である。1794年に完成したが、機密文書として扱われたため、公開されることはなかった。印刷物として全文が公表されたのは1937年だった。

もっともこれは建て前にすぎない。近年になって『北槎聞略』の写本がロシアでも発見されたらしい。二番煎じの本も大量に出回った。当時の名古屋では光太夫にちなむ品々の展覧会がもよおされて、好奇心旺盛な群衆が押し寄せた。

余談だが、物産展や見本市が商業ベースで始まったのは平賀源内(1728−79)の時代である。大坂商人が物産展を開いたと聞きつけた源内は、日本全国から珍しいものを掻き集めて、江戸で大がかりな展覧会をやって対抗した。

さて、当HPでは『北槎聞略』のうち漂流記だけをとりあげるが、『北槎聞略』では1700年代のロシアの風俗、自然、社会制度、文物が挿し絵つきでこまかに紹介されており、1500語以上の露日辞典まで含まれている。

文庫本解説によると、『北槎聞略』は現代ロシアでも第一級の資料と評価されている。言いかえると、光太夫は身分こそ船頭だったが、不屈の意志、卓越した理解力と異文化への適応能力がある人物だったことがわかる。

 

光太夫の行動力

 光太夫はロシア皇帝に謁見するまでに、「私はこんなに苦労しました」といった苦心談を一度も口にしていない。そのため、『北槎聞略』をすなおに読んでいるかぎり、幸運に恵まれ続けたかのような印象をもってしまう。

いまの私があるのは、まわりの皆さんが汗を流して親切にして下さったおかげです。

とでも言いたいような雰囲気がただよっており、皇帝との謁見も楽々とかなえられたかのような文章になっている。でも漂流前の光太夫は貨物船の船長に過ぎなくて、広い世界では肩書きなどゼロの人間だった。

 ただの市民である私が、現代のロシアを放浪したとしよう。そのうち望郷の念がつのってきたとしても、いったい誰に「日本に帰りたい」と訴えればいいのか見当がつかない。私のために動いてくれる人が現れる保障もないから、絶望するだけだ。

ましてやモスクワのクレムリン宮殿に押しかけて、「大統領に会わせてくれ」と叫んだとしても、衛兵から銃口を向けられて「あっちに行け」と追い返される。だからこそ200年前の光太夫は夢を現実のものにするために、あらゆる努力を惜しまなかったと想像できる。

 

桂川甫周について

 1774年に公表された解剖書『解体新書』は誰でも知っている。のちに杉田玄白は、翻訳したころの回想記『蘭学事始』を書いたことも知られている。桂川甫周も翻訳に参加した。

桂川家は代々、将軍に仕える御殿医だった。ところで、長崎に住むオランダ人は毎年1回、将軍に拝謁するために江戸参府をしていた。

オランダ人の定宿になっている長崎屋には、このときとばかり、学者たちが大勢押しかけた。なかでも桂川甫周と中川淳庵はとくに熱心で、西洋の医学、物理学、経済学、植物学について毎日、朝から晩まで質問責めにした。

 そこでツュンベリーという男は甫周たちが印象に残って、旅行記に書いた。これを読んだロシア人キリル・ラクスマンはシベリアで光太夫に会ったとき、「桂川甫周と中川淳庵はどんな人か」と尋ねた。

光太夫がどう答えたか知らない。のちにキリルは息子アダム・ラクスマンに光太夫たちを日本まで送らせる。光太夫は、将軍が見ているその場で、

ロシア人は日本のことに興味を持っておりまして、桂川甫周様と中川淳庵様は向こうでも知られています。

と説明した。将軍上覧での中心人物こそ桂川甫周なので、一同はびっくりした。そこである人が言った。「桂川様なら、ここにおられる」


表紙大黒屋光太夫>資料編(1)(2)

索引  吉田松陰  シーボルト   雑記帳

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