江川太郎左衛門(5)

表紙江川目次(1) (2) (3) (4) (5)

 

ロシアとの国交をはじめるきっかけをつくったのは大黒屋光太夫です。その後、条約を結んだ人物は川路聖謨です。

地震でロシア使節の船が壊れたことで、日本の船大工たちは彼らのために船をつくりました。これが洋式造船の第一歩になりました。
川路聖謨  ロシアを翻弄させる  クリミア戦争の影響  下田にて

洋式船を造る  記念写真  それから  関連のHP  参考文献

 

 

川路左衛門尉聖謨

 川路聖謨(としあきら。1801−68)とは、見慣れない文字の名前だが本名である。ためしに漢和辞典を引いてみると、聖謨とは「天子のはかりごと」を意味している。

現在の大分県にあった日田代官につとめる内藤吉兵衛の子で、川路家の養子になった。日田は現代でこそ地方都市のひとつに過ぎないが、九州全域の各藩を見張るために代官が置かれた。幕府の九州管理局とでもいう組織だろう。

さて、経歴にもどる。文官ながら柳生新陰流の免許皆伝である。1808年、父が徒士組になったので、連れられて江戸にのぼる。13歳で元服して小普請組の一員になった。といっても、あぶれ者の集団なので仕事はない。

そこで16歳になったとき、聖謨は猛烈な就職運動を展開して、1818年、勘定出役に命じられた。見習い程度だけど、ともかく仕事にありついた。このあと十数年のこまかな異動はおもしろくないから省略する。

 天保6年(1835)、出石藩仙石家の内紛を調べるように命じられた際、能吏として頭角をあらわし、勘定吟味役に抜擢された。勘定奉行に次ぐ地位であり、出納の監督と裁判をする役目だ。

それから一揆が起こった佐渡島に行くよう命じられ、佐渡奉行になった。川路はトラブル処理にすぐれている人材とみられるようになった。ついで奈良奉行、大坂町奉行を歴任した。

しかし、幕閣は川路をさらに重要な職務につかせるために、短期間で呼びもどして、1852年、勘定奉行兼海防掛に抜擢した。海防はこの場合、江戸周辺の海岸を守ることを意味する。

さらにロシア外交の実質的な全権をあたえられて、海軍中将ワシリエピッチ・プチャーチン(1803−83)と交渉し、千島列島の択捉島(北緯50度)以南を日本領と主張した。これが現代にいたる領土交渉の基本政策になっている。

 

 

ロシアを翻弄させる

 嘉永6年(1853)、川路は日露和親条約で日本側代表にふさわしい地位をあたえられて、交渉相手のロシア代表プチャーチンが待っている長崎まで歩いていった。到着してすぐ条約の話し合いにはいる。

プチャーチンは、作家ゴンチャロフを秘書にして来日した。日本での第1回会談での席で、ゴンチャロフはこんな観察をした。

幕府の役人たちは、誰がよけい馬鹿な顔をなしうるか競争しているようだった。

建前上の全権、大目付の筒井政憲については、「この老人をみたら誰でも、自分の祖父さんに持ちたいと思うであろう」と、おだやかな話しぶりが気に入った。川路にはことのほか興味をもって、ゴンチャロフはこう書いた。

川路はじっと話に耳をかたむける。話のなかば頃までは、口をやや開いたまま瞳をこらし、注意を集中している。やがて話の要点が解ってくると、口は閉じられ、額のしわも消え、返答の用意ができた証拠に、顔が晴々してくる。

相手の質問のなかに言外の意味が含まれた場合は、川路の顔に軽い微笑がうかぶ。

川路は相手に一歩も譲らず、国境問題もふくめて日本の意見を堂々と主張した。しかし、嫌われるどころか、ロシア側は、川路の並はずれた知性とユーモアに目を見張り、格段の好意をもつようになった。たとえば、お互いに通商をはじめようと言われて、こう答えた。

嫁に出すのはいいけど、まだ少女みたいな嫁なので世慣れしていない。だからもう少し時間をくれ。

条約交渉の内容をみよう。友好条約だから、それぞれの国民が相手国で難儀した場合、お互いに保護し合おうではないかという文章がめだつ。江戸末期の日本にとって、これは目新しい考え方だったにちがいない。

というのも、鎖国していたかどうかに関わらず、日本には、個人としての外国人をどんなふうに見るのかという思想そのものが欠けていたように思うからだ。

 

 

クリミア戦争の影響

 一方プチャーチンからみると、長崎での交渉はさっぱり進展しないので、6回目の会談を最後に長崎を出航して艦隊を解散した。ところがロシア本国はトルコ領への南下政策でイギリス、フランスと対立してクリミア戦争を起こしていた。

プチャーチンはフィリピンまで行ったものの、ヨーロッパまでの航路でイギリスかフランスの軍艦と出会えば戦わざるを得ない状況に追いこまれている。この危険を避けるために、ふたたび艦隊を集めて北上し、長崎に引き返した。

長崎奉行に書簡を渡し、樺太でまた川路と会談したいと申し出た。しかし、目的地に到着しても川路はいなかった。

そこでプチャーチンは函館で補給して大阪に向かい、そこから伊豆の下田に投錨した。安政2年(1855)10月のことだ。

プチャーチンは、クリミア戦争のためヨーロッパに引き返せないし、日本との交渉もうまくいかず、へとへとに疲れていた。

ロシア本国を出航してからすでに3年3ヶ月過ぎていた。その間にもアメリカのペリーは、力ずくの外交で日本を脅かしている。

プチャーチン

 

 

下田にて

 安政2年10月、ディアナ号のプチャーチン以下587人は下田港に停泊した。川路は6日後、下田に到着した。翌11月1日から船内で第2次交渉が始まった。

ちなみにディアナ号は2000トンの木造船で、船長60メートル、船幅14メートル、搭載砲52門で、当時としては最大級。ペリー艦隊のサスケハンナ号は2450トン、ミシシッピ号は1692トンだった。

すでに3月には、井戸対馬守とアメリカのアダムス中佐との間で、日米和親条約批准書の交換がおこなわれていた。だからロシアも幸先がよいと期待していた。

ところが11月4日、大地震が起こって大津波に見舞われた。安政の大地震である。被害は東北から九州の全域におよんだ。下田の町では85人が死んだ。約800戸のほとんどが壊れ、満足な家は20戸ほどにすぎなかった。

プチャーチンはすぐ船医に命じて、医療に向かわせた。町の人々は献身的な治療に感激して泣いた。一方、ディアナ号は破損がひどくて、修復不可能におちいった。そこで交渉の場は長楽寺(下の写真)に移された。

長楽寺


 幕府はロシア使節団のために修理用の物品と食料を援助した。内訳は銅大板1000枚、銅大釘1000本、タマゴ1000個、あひる100羽、そうめん5箱、いも10貫目、大根500本、人参500本、ねぎ2俵である。これに白米と小麦も次々に届けた。

 

 

洋式船を造る

 しかし、ディアナ号を下田で修理すると、クリミア戦争の敵国になっているイギリス船に発見されるおそれがある。そうなれば戦いになりかねない。そこで伊豆半島西岸の戸田湾に回航することにした。

修理の責任者は江川太郎左衛門が任命され、戸田漁民は10隻でディアナ号を曳航した。しかしディアナ号は途中で壊れて、乗員は付近の村に収容された。日本側の全面的な協力で、ロシア使節団は地震で1人死んだほかは全員無事だった。

 ただの漁村に過ぎなかった戸田村は585人のロシア人であふれた。乗組員の1人は地震で死亡、1人が下田に滞在。それに勘定奉行と配下、川路、江川、通詞の堀達之助と森山多吉郎など幕府の役人も続々と戸田村にやって来た。

村人は大変だ。なんの前ぶれもなく歴史の表舞台に巻きこまれて驚いた。これまで外国人など誰も見たことがないのだ。しかしプチャーチンの軍律はきびしくて、幕府の監視もゆきとどいていたので、村では乱暴狼藉のたぐいは起こらなかった。

 さて、ロシア側はたまたまスクーナ船の設計図をもっていたので、技師コロコリーツェフが日本の船大工40人と人夫110人を指導して図面を引き、松材をあつめて造船にとりかかった。

ところが日本にはロシア語のわかる者がいない。そこでオランダ語を話せるポシェット少佐が森山多吉郎に説明し、さらに森山が船大工に指示する形をとった。

そのため図面の完成までに55日かかった。日がたつにつれて船大工たちのロシア人への恐怖と偏見はなくなり、熱心に仕事をすすめた。こうして村にあつまった船大工たちは、日本で初めて洋式の造船技術を身につけた。

 

 

記念写真

 造船の手順が整ってから、川路とプチャーチンはふたたび条約交渉にはいった。プチャーチンは下田にかよって、12月21日、9ヶ条からなる日露和親条約を結んだ。これで下田、函館、長崎が開港され、国境問題はあらためて話し合うことになった。

川路聖謨

この写真は、交渉中にロシア人が撮った。自分の顔に猛烈な劣等感をもっていた川路は、

ロシアに持ち帰って笑い者にするんだろう。

と不快さを隠さない。でも交渉相手であるロシア人は川路が大好きなので、ぜひとも記念写真を撮りたいだけだった。

 3100両をかけて100日後に完成した船は100トンで、戸田号と名づけられた。でも、これではロシア兵全員を送り返すのは無理なので、幕府はアメリカの商船を借りて大半を帰国させた。感謝したロシアは、戸田号に大砲52門をつけて返還した。

 

 

それから

 聖謨は一橋派つまり慶喜を支持していたので、大老になった井伊直弼にうとまれる。安政5年、西丸留守居に左遷された。翌年免職と隠居を命じられた。

井伊が暗殺されて3年すぎた文久3年(1863)3月、外国奉行に任命されたが、10月になって病気と高齢を理由に辞職した。

 江戸城の無血開城が決まって、幕府は崩壊する。このあとすぐ明治維新になる。しかし川路聖謨は、開城を前にピストルで自害した。

天津神に背くもよかり 蕨つみ飢えにし人の昔思へば

これが辞世だ。さて、古代中国は殷が統治していた。紂王は悪い人間とされていたので、周の武王をかつぐ反政府勢力は、紂王に戦いを挑んで、殷をほろぼした。

ところが殷の伯夷と叔斉は、時代が変わっても殷に忠義立てして、周の粟(ぞく)を食わないと誓った。粟は穀物のこと。それから二人は山に逃れてワラビを食べたが、ついに餓死した。ワラビといっても葉っぱではなくて、根っこの澱粉だろう。

川路は明治という新時代をこころよく思わなかった。九州で下積みをしていた父のもとで育ち、元服してからも、ぱっとしない仕事で人生をスタートした。しかし聖謨は引き立てられ、歴史の節目で活躍した。

自分に誇りをもたせてくれた幕府に殉じたのである。墓は上野公園の不忍池に近い大正寺(台東区池之端2−1−21)にある。

 

 

関連のホームページ

臼井国際産業 反射炉について、反射炉とお台場の関係で細かく説明している。
田原市博物館 渡辺崋山の出身地。企画展を行っている。
高野長英記念館 長英の人生だけでなく、全国のゆかりの地も紹介している。
江川邸 重要文化財。

 

 

参考文献

福沢諭吉『福翁自伝』岩波文庫 江川太郎左衛門についての評価
佐藤昌介校注『華山・長英論集』岩波文庫 渡辺崋山と高野長英が書いた文章、尚歯会のこと
仲田政之『江川担庵』吉川弘文館人物叢書 江川の伝記、江川が描いた絵、モリソン号の絵
平井聖『大名と旗本の暮らし』学研図説江戸シリーズ 儒学者林家の様子
笠原一男ほか『史料日本史下巻』山川出版社 外国船打払の撤回について
司馬遼太郎『街道をゆく・本郷界隈』朝日文庫 高島秋帆のこと
シュリーマン著、石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫 ハインリッヒ・シュリーマンが見た幕末の江戸湾


『明治の東京』人文社古地図ライブラリー 品川砲台の地図
『大系日本の歴史11』 佐賀の反射炉
『幕末人物事件散歩』人文社 高野長英の末路
渡辺富美雄『日本人物話題事典』ぎょうせい 高野長英の末路
佐藤友之『江戸町奉行』三一書房 江戸町奉行について
三田村鳶魚『捕物の話』中公文庫 鳥居耀蔵の江戸町奉行就任について
松本三之介編『日本の名著吉田松陰』の補注366 矢部定謙のこと
宮部みゆき『平成お徒歩日記』新潮文庫 矢部定謙のこと
石井研堂『明治事物起源1』ちくま学芸文庫 尚歯会のこと
『松本清張の日本史探訪』角川文庫 水野忠邦について

永井路子『わが千年の男たち』文春文庫 遠山金四郎のこと
NHK歴史誕生取材班『歴史誕生9』角川書店 朱引地の地図
石川英輔『大江戸生活事情』講談社文庫 江戸北町奉行所の地図
勝海舟『氷川清話』角川文庫 辞書の翻訳、高島秋帆
原田博二『図説長崎歴史散歩』河出書房新社 江戸時代の長崎の紹介
川田貞夫『川路聖謨』吉川弘文館人物叢書 川路聖謨について
山口旦訓「プチャーチンの贈りもの」中公文庫 『幕末維新異聞』所収
人文社古地図ライブラリー「幕末人物事件散歩」 川路聖謨について
大正寺門前の説明文 川路聖謨について
ゴンチャロフ著、井上満訳『日本渡航記(フレガート「パルラダ」号より)』岩波文庫 ゴンチャロフによる川路聖謨たちの観察メモ

 

表紙江川目次(1) (2) (3) (4) (5)

ページ先頭

 

 

http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/egawa/egawa50.htm