歴史用語(1)

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この用語集は日本史を網羅するつもりはなくて、当ホームページで出てくる用語を中心にしています。私的なメモ代わりなので、そのつもりで読んで下さい。

悪党  あざな  今川義元  乳母  右衛門・左衛門  馬印  恩賞  函谷関  香炉峰の雪

 

 

徳川斉昭 徳川斉昭(1800−1860)。水戸藩第9代藩主、諡は烈公。徳川慶喜の父。

一橋徳川家を訪問し、琵琶を演奏した際に描かれた烈公の肖像画。

渡辺咲之助画「烈公画像」。

 

 

 

悪党

戦国時代の足軽は、大名や知行地を持つ武士などに臣従していた。しかし、一部の者たちは傭兵に近い集団をつくるようになり、これが悪党と呼ばれた。

政権に手を貸す一方、謀反人の味方にもなった。旗色がよければ忠実だが、敗色が見えると逃げて身の安全り、あるいは寝返りをして恩賞を受けた。

 

戦が終われば解雇され、もとの山賊や野伏せりにもどった。

 

あざな

成人式がすんでから対外的に使う名前のこと。唐の詩人、白楽天の場合、あざなは楽天。本名は居易(きょい)。   これは「居(お)り易(やす)し」と読め、生活しやすいという意味になる。

 

 

今川義元

織田信長を引き立てるために生まれた戦国大名。

 

乳母

天皇家、公家、有力武家の子供を育てる人のこと。身分の高い家庭では、実の母はみんな生みっぱなしだった。そこで乳の出る女が代わりに育てた。

これにとどまらず、乳母には以下の意味があったと永井路子さん(歴史作家)は力説している。

乳母がひとりで有力者の若君を育てたのではなくて、夫や一族が総掛かりで献身的に奉仕した。

  若君の生活全体を取りしきる保育責任者だった。若君が大人になってしかるべき地位につくと、乳母一族は側近としてたいへんな栄達をとげる。

つまり乳母になるのは出世の早道だった。自分の一族が血統による権威をもたなくても、若君に備わった権威をバックにして、権力をふるえた。

 

右衛門・左衛門

江戸時代までは、男の名前で何とか右衛門や左衛門がやたらと多かった。でも、なぜ人気があったか考えても、よく分からない。

近衛府は、天皇が住んでいる内裏の門を守った。現代でいえば皇宮警察か。外側の諸門は兵衛府が担当し、さらに外の門を衛門府が担当した。それぞれの組織は左右にわかれており、合わせて六衛府といった。

衛門府は美福門や郁芳門などを守った。宮城内での陣は左衛門府が建春門にあり、右衛門府は宜秋門にあった。建礼門

衛門府の長官は左衛門督(かみ)と右衛門督。役目は、諸門の警護と出入りの管理、礼儀を正すこと、定時の巡検。従四位下相当。左のほうがちょっと偉かった。

これ以下、左右におなじ役職があって、次官は佐(すけ)、そのつぎは権佐(ごんのすけ)。つぎは大尉そして少尉。このあたりの官位は現代の軍隊を思わせる。

 

その下に志がいて、大志と少志がいた。その下は順に府生(ふしょう)、番長(ばんちょう)、府掌(ふしょう)、門部(かどべ)、物部(もののべ)、衛士(えじ)。

赤染衛門のお父さんは、右衛門督をつとめた。尉や志だったという本もあり、どれが正しいのか見当がつかない。

でもまあ、番長は不良学生のことではなかった。衛士は左右とも定員600人で、諸門を守り、夜は火をたいて警備した。

平安中期から衛門府は賭弓、競馬、相撲など宮廷の娯楽的な儀礼も担当するようになった。武官は首都の警察裁判を担当する検非違使庁の職員もかねた。

 

馬印

武将が今どこにいるかを知らせるための旗。

大将の場合、全軍の将兵に本陣の位置を示す意味がある。戦陣で劣勢になっても馬印が動かなければ、全軍の志気を高める効果がある。

 

上杉謙信の「毘」(毘沙門天の一文字)、豊臣秀吉の千成瓢箪などが馬印として知られている。

 

 

恩賞

主君が家臣に与える褒賞で、領地、金銭、武具など。家臣は領地の増加を最も期待した。

だから戦国大名は恩賞として土地を与えて忠誠心を確保するためにも、合戦に勝って領地拡大を図る必要があった。

 

豊臣秀吉が発行した天正大判などは、おもに恩賞として使用された。

 

 

函谷関

 

夜をこめて 鶏の空音にはかるとも よに逢坂の関は許さじ

枕草子131段、後拾遺和歌集939番、百人一首62番、清少納言。夜が明けないうちに、鶏の鳴き声をまねしてだまそうとしてもダメですよ。あなたと私のあいだの逢坂の関は、決して通してあげませんからね。

これじゃあ何のことやら。ある日、清少納言のもとに藤原行成がやって来て、午前2時頃まで話しこんだ。でも翌日の都合もあるからと帰った。翌朝、行成から手紙が届けられた。

夜通しでお話ししたかったのに、鶏の声に追い立てられて帰りました。

と書かれている。また会いたいと言っているわけだ。ここで鶏の声とは、『史記』の「孟嘗君列伝」をふまえている。孟嘗君は戦国時代の斉の王族。

食客3000人と豪語するほど人を集めるのが好きだった。ある時、孟嘗君は使者となって秦に出向いたが、交渉は成立せず捕らえられた。

なんとか脱出したものの、国境の函谷関に着いたときに困った。函谷関は、朝一番の鶏の声が聞こえないと開かない関所なのである。かといって、まごまごしていると秦王の追っ手がやって来る。そうなると命があぶない。ところが、同行していた食客のひとりが、

私にお任せあれ。

と申し出た。その食客はなんの芸もないが、鶏の鳴き声のまねだけはうまかった。そこで孟嘗君がまねをさせると関所は開かれた。こうして一行は無事に脱出した。

  清少納言は中国の函谷関ではなくて、京都郊外にある逢坂の関に置き換えて、「夜をこめて鶏の空音にはかるともよに逢坂の関は許さじ」と詠み、これを行成への返信に代えた。

函谷関は鶏の鳴きまねで開いたけど、私には通じないのよ。

そういえば、ユダの裏切りで捕らえられる前に、イエスさんはこう予言した。

ペテロよ。君は夜明けに鶏が三度鳴くまで、私を知らないと言うだろう。

ペテロは「決してそんなことなどしません」と反論した。しかし、夜が明けるころ人から問われて、イエスなど知らないと二度否認した。そして三度目に否認した直後、鶏がまた鳴いた。そのときペテロは、自分の弱さに気づいて泣いた。

 

 

 

 

香炉峰の雪

 

香炉峰下、新たに山居を卜し、草堂初めて成り、たまたま東壁に題す

白居易

日高睡足猶慵起

小閣重衾不怕寒

遺愛寺鐘欹枕聴

香炉峰雪撥簾看

匡廬便是逃名地

司馬仍為送老官

心泰身寧是帰処

故郷何独在長安
日高くねむり足れども、なお起くるにものうし。

小閣にしとねを重ねて、寒さをおそれず。

遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、

香炉峰の雪はすだれをかかげて看る。

匡廬はすなわちこれ名を逃るるの地、

司馬はなお老を送るの官たり。

心やすく身やすきは、これ帰するところ、

故郷は何ぞ独り長安にのみあらんや。

 

句読点は適当に付けた。逃名とは、名誉を逃れること。

白居易は44歳で左遷されて江州司馬になった。「司馬」は州の長官である刺史(しし)を補佐する役職。これは形だけのもので、何もすることがない閑職だった。だから白楽天は817年、香炉峰のふもとに草堂を立てた。まもなく中央に復帰する。

最後の「故郷」は、なにも長安(唐の首都)だけが故郷じゃないという意味。

 

香炉峰の雪

 

一条天皇の中宮、藤原定子が「少納言よ、香炉峰の雪はどんなかしら」とおっしゃるので雨戸を開けて、すだれを高くあげたところ、中宮はにっこり笑った。「枕草子」284段より。

「遺愛寺の鐘はどう聞くか」と問われたならば、清少納言は枕を持ってきて、ごろんと横になっただろう。

江西省九江市の南に廬山(匡山ともいう)がある。主峰は漢陽峰1473メートル。このほか五老峰、香炉峰、蓮華峰などがそそり立つ。白居易は香炉峰のふもとに草庵をつくって、山中での静かな生活を楽しんだ。

画像は上村松園「清少納言」北野美術館蔵。

 

 
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