正岡子規

真砂町

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真砂町の跡地  炭団坂  むかしの常磐会  かわうその巣  勉強は嫌い

 

 

真砂町の跡地

真砂町は聞き慣れない地名だが、現在の住居表示では文京区本郷になる。学生時代の子規が一時期住んでいた。

常磐会は、江戸時代の松山藩主だった久松家が郷里の学生のためにおこなった育英事業で、子規は給費生だった。寄宿舎もその一つで、明治20年12月に建てられた。ここは現在、日立の研修所ビルになっている。

21年9月、第一高等中学校本科に進学した子規は寄宿舎に転居し、学校では夏目漱石とおなじクラスになった。20歳になってまだ中学生は変だが、のちの第一高等学校のことだ。当時の学制はどうもわかりにくいので閉口する。

入口に大きく「常盤会寄宿舎」と書いた札がかかっていた。それは子規の書であった。常磐の磐が「盤」と書いてあったので、ちょっと問題になっていた。(河東碧梧桐『子規を語る』より)

子規は24年12月まで3年間寄宿生活をして、それから駒込追分で一人暮らしをはじめる。

 

 

炭団坂

 写真で、黒っぽい石積みの上が常磐会寄宿舎跡である。そこから北のほうを撮影した。

急勾配になっている階段は、炭団(たどん)坂といい、標高差は12メートルほどだろう。きれいに舗装されたのは、おそらくこの数十年以内かと思う。

それ以前、たぶん昭和30年代までは、すべり落ちないように数十本の丸太を横にならべていただろう。

炭団坂

もっと昔は、雨が降るときにうっかり足をすべらせると転倒し、何メートルも下までずり落ちたに違いない。雨の日などは体中真っ黒に汚れたので「たどん坂」なのだそうだ。

どうでもいいようなことだが、石垣のむこう側には直径3センチほどの竹が生えていた。階段をくだりきって左折し、画面左上にみえる銀杏の木(緑色)あたりにゆくと、樋口一葉ゆかりの井戸がある。


ガラス戸の 外面に夜の森見えて 清けき月に鳴くほととぎす

この短歌が寄宿舎跡を記念するレリーフに刻まれていた。そこで、この辺りは今でこそ建物が密集しているけど、当時はまだ森があったのかと想像して、なんとなく納得したが、そうではない。

というのも、「ガラス戸の……」は明治33年の作品であり、前年12月に、根岸の自室がガラス窓になったばかりだった。子規は、ガラス戸越しに上野公園の樹林がみえて嬉しかったのである。炭団坂とは関係ない。

 

むかしの常磐会

常磐会寄宿舎の屋根

写真はかつての常磐会寄宿舎(撮影年は不明)で、新潮日本文学アルバムからコピーした。家の下には石垣が見えるので、炭団坂の方から撮影されたことは間違いない。屋根の上の黒い影は10人くらいの学生である。

こんなに大勢で屋根に登れば、雨漏りの原因になるかなとつまらない心配をする。でも逆に、内藤鳴雪が舎監をつとめていた寄宿舎はおおらかに運営されていたと想像できる。

 

かわうその巣

 河東碧梧桐も明治24年に寄宿舎に入った。はるか後の昭和8年になって、碧梧桐は子規のいもうと律と懐旧談をして雑誌「同人」に載せた。

対談によると、子規は2階の奥にある一番広い部屋にいた。となりには鳴雪が住んでおり、時々鳴雪の甲高い声が聞こえた。壁は薄かったらしい。子規は部屋のそこらじゅうに和書と洋書をとり散らかして、碧梧桐を驚かせた。

獺祭書屋主人

これは、子規が俳論や俳話を書いたときのペンネームである。獺は水辺に住むカワウソのこと。語源は『礼記』のうち「王制・月令」に「獺祭魚」とあるようだ。カワウソが、捕った魚を並べておくこと。これから転じて、詩文をつくるのに多くの書物を机のあたりに並べておくのにたとえる。

 

 

勉強は嫌い

常磐会寄宿舎で、子規は一所懸命に学校の課題をこなしていた。なんていうことはない。漱石はのちに雑誌「ホトトギス」で次のように回顧した。

正岡という男は一向学校へ出なかった男だ。それからノートを借りて写すような手数をする男でもなかった。そこで試験前になると僕に来てくれという。

僕が行ってノートを大略話してやる。あいつのことだからええ加減に聞いて、ろくに分かっていないくせに、よしよし分かったなどと言って生呑込みにしてしまう。

耳学問を適当にすませると、たまには近所の西洋料理店に漱石を連れて行き、大いにご馳走したりした。明治41年の談話『正岡子規』より。

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