表紙短編目次

 

熱心な学生

 

 坂本紀雄が九段坂工科大学に通学していたのはもう二十年前である。学

生時代は英会話サークルに所属していたが、サラリーマン生活に慣れるに

したがって学友とは疎遠になった。でも卒業後しばらくしてから、仲良し

だった若村春菜と再会し、ほどなく結婚した。そして二人の子供ができた

から、まずは幸せな人生をすごしている。

 ふたりは時折、思い出話の一つとしてシステム工学の授業を語り合うの

だった。最初の授業の日にたまたまとなりの席に座ったのが縁で、その後

ずっと付き合ってきた。システム工学は必修科目なので、工学部の全員が

受講するはずだが、欠席する学生がいるから、二百五十人ほど収容できる

大教室でも空席が目立った。

 しかし大教室の最前列左端には、いつもとびぬけて背の高い学生がいて、

その男の指定席のようになっていた。水泳か柔道できたえたのか、上半身

はがっしりしている。年齢は十八、九歳だろうが、詰め襟の学生服を着て

いるので、明治か大正時代の学生を彷彿させる。そのためか現代の学生ら

しい気楽さは感じさせず、一人だけ浮いていた。ほかの学生はみんな敬遠

して、大男の隣やうしろの席に座る者はいなかった。

 紀雄と春菜は教室の真ん中のめだたない場所に座るのが好きで、わざわ

ざ男に近寄ったりしなかったが、それとなく気にしていた。二人の共通の

友人である唐木純夫によると、男には近寄りがたい雰囲気があるという。

卓越した優れた人物という意味ではなくて、人間らしさが希薄なのだとい

うことらしい。唐木は理科系のくせに音楽家きどりで、髪を伸ばし放題に

していた。

「でもさ、あの人を格好良いっていう女の子もいるんだよ」

 授業の最中に、春菜は男を指さしたりした。春菜は理科系に進学したの

に、建築士や技術士などの資格を積極的に取ってキャリアを積む気などな

い。

「ふうん、あんな男のどこがいいのかな。気味が悪いや」

 と紀雄はふてくされた。二人に限らず、友人たちはみんな「あの男」と

漠然とした言い方をした。

 

 それから半年たった。最前列の男は、どんな学生よりも熱心ではあって

も、相変わらず孤立したまま授業を熱心に受けていた。紀雄と春菜は履修

単位を取ればそれで満足だと考えていたので、大教室は社交の場でしかな

かった。

「ねえ、紀雄」春菜は長い髪を両手でもちあげてから、肘を突っついた。

「え、なに。今は授業中だよ」

「なによ、急にまじめくさって」とからかってから、春菜は例の男を話題

にした。

「名前は大崎っていうの」

 問われもしないのに、春菜は男の名前を言った。誰かから聞きだしたら

しい。春菜としては、大崎がどこに住んでいるか確かめたいから、授業終

了後、あとを付けようというのだ。

「えっ。女がストーカーをやるのか。春菜って、変な趣味があるね」

「それがね、友だちが何人か、大崎のあとを追ったんだって。ところがみ

んな途中で見失うのよ」

 春菜は授業中なのを忘れて、探偵ごっこの計画に熱中した。講義が終わ

ると、二人は英会話サークルには顔を出さず、大崎を追った。大学正門か

ら九段坂を上り、靖国神社へと向かった。高さ三十メートルほどの巨大な

大鳥居を抜けると銀杏並木になる。大村益次郎の銅像横をとおり、神門か

ら拝殿へと続く参道を歩いた。大崎は尾行されているとも知らず、ゆった

り堂々とした足取りでわき目もふらず進んでいく。

「あの大崎って男は、なぜ靖国神社なんかに来たのかな」

「うん、いいんじゃないの。たぶん、ここが好きなんだよ」

 春菜はこだわりがなくてあっさりしている。大崎は神門で右に曲がって、

戦史博物館「遊就館」の方に歩いていった。少し距離をおいて、二人も遊

就館に入った。ところが大崎はいない。友人たちと同じく、やはり紀雄と

春菜も見失った。館内を熱心にさがせば見つけられるだろうが、そこまで

やるつもりはない。

 

 尾行は失敗したが、紀雄にとって片時の遊びにすぎないから悔いは残ら

ない。二人は遊就館の建物を出ると、本殿の裏にまわった。なぜか犬と馬

と鳩の慰霊像が立っている。これは戦死者を祭る靖国神社だけの特徴なの

だろうか。

「軍馬と軍犬って彫られているよ」

 紀雄がふり返りながらつぶやいたが、春菜は動物なんかには関心がなさ

そうで応じなかった。犬よりも、探偵ごっこをあきらめきれないのか、尾

行相手を熱心な目つきでさがしている。行く手には、たて横二十メートル

ほどの池が見えてきた。周囲には木々が茂って、人影もまばらになった。

 すると運良く、池のほとり、くぬぎの広葉樹の下に大崎に似た男がいる

ではないか。うしろには雑多な広葉樹が茂っていて、その先には本殿の建

物が見える。でも、本殿をかこむ樹林は、白いペンキがぬられた柵で囲わ

れているので中に入れない。

「やっぱりいたよ」春菜はそわそわしている。

「え、どこ」

 よそ見をしていた紀雄がふり向くと、大崎はしばらくの間、池を泳いで

いる緋鯉の群をぼんやり見つめていたが、やがて飽きたのか、柵に向かっ

た。それから両手で柵をさわっていた。

「みて」

「えっ、どうしたんだい」

 二人が凝視すると、大崎の体は半透明になった。太陽光線の具合で錯覚

を起こしているのだろうか。いや、そうとも言い切れない。大崎は吸い寄

せられるかのように柵をじわじわすり抜けていくではないか。軟体動物が

形を変えながら障害物を易々と抜けていく感じだ。

「やだー。なによ、あれ。気持ち悪い」

 春菜は紀雄のうしろに隠れた。

「いやいや、ぼくらの目の錯覚に決まっている。話はもっと単純で、柵の

どこかが扉になっていて開閉できるんじゃないかな」

 紀雄はつとめて冷静をよそおった。二人があっけにとられていると、大

崎はもう薄暗い木立の中に消えていた。紀雄は急いで柵に走り寄った。お

れはこれでも工学部の学生だ。世の中に実証できないものなんてあるもの

か。自然はすべて説明可能だと自分に言い聞かた。

「うーん、変だなあ、春菜。入口なんて、どこにもないよ」

 紀雄は柵を揺さぶりながら言った。柵の一本ずつの間隔は二十センチほ

どしかないので、子供だって抜けられない。左右を見まわしてもやはり入

口らしいものはない。

「それじゃあ、なぜあの男が消えちゃったのよ」

 春菜はパニック状態になって顔をこわばらせ、両手で口を押さえた。そ

れでも不安なので紀雄の腕をつかんだ。

 

 謎の男、大崎はそれからも授業に出ていたが、春休みが近づいた三月に

なると、ばったり姿をみせなくなった。親しい学生はいなかったので、大

崎の不在を気にする者はいなかった。

「おう、おふたりさん、元気そうだね。俺さあ、システム工学は再履修に

なったよ」

 新学期になったある日、紀雄と春菜は唐木純夫から声をかけられた。ふ

たりはシステム工学の試験は合格点だったが、唐木は演奏活動に熱をいれ

すぎたので成績が悪かったらしい。

「それはお気の毒さま」

「そりゃあ仕方ないけど、驚くなよ。あの大崎も再履修なんだぜ」

 唐木はからかっているのだろうか。

「嘘だろう。あの大男は、あんなに熱心に授業を受けていたじゃないか。

あれで不合格なんて考えられないよ。しかし、幽霊みたいなやつだからな

あ」

「幽霊だって。いったいなんのことだい」

 唐木は興味を持った。そこで紀雄と春菜は、唐木をさそって、ふたたび

大崎を尾行した。二度目だから慣れたものだ。大崎は前回と同じように、

靖国神社の本殿裏に着くと姿が見えなくなった。

「あの男は、いったい何者なんだ。気持ち悪いなあ」

 唐木はぞっとした表情を浮かべている。三人は話をする気力も薄れて引

き返すことにした。すぐに遊就館が見えてきた。

「気分直しに行ってみようか」

 唐木に促されて、遊就館に入った。入ってすぐのところにゼロ戦が陳列

されている。その奥にはさまざまな兵器もあり、明治維新前後から第二次

大戦までの写真と説明ボードがあった。展示場をひとまわりすると、最後

のコーナーに百人近くの兵隊の写真が陳列ケースに並んでいた。みんな戦

死した若者たちだ。紀雄や唐木と年齢は大差ない。

「この人は、十八歳で戦死だってさ」

「ねえ、これを見て」

 春菜が指さした写真には、見覚えのある顔が写っていた。

「陸軍工兵科少尉、大崎進吉」

 と紙に書かれているが、まぎれもなく大教室でシステム工学の授業を受

けていた大崎だ。

 

(終わり)


表紙短編目次

ページ先頭