和歌

恋歌(2)

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片思い  今だけ  物思い  会いたい

 

 

片思い

つれもなき人もあはれといひてまし 恋するほどを知らせだにせば

赤染衛門、後拾遺集646番。

薄情な人だってきっと、「かわいそう」といってくれるでしょう。私がこんなにも恋しているのを知らせさえすれば。

赤染衛門について


960頃−1041頃。女流歌人で赤染時用のむすめ。『袋草紙』によると、実父は平兼盛。

時用が右衛門督になった ことから赤染衛門と呼ばれた。中古三十六歌仙のひとり。

父の関係で藤原道長の妻倫子に仕えた。道長のもう一人の妻、上東門院彰子にも仕えた。

おっとりして、豊かな感性をもつ人柄のよい良妻賢母型。紫式部や清少納言らと仲良くつきあった。

赤染衛門

画像は永真安信筆(1613〜85)「百人一首画帖 赤染衛門」

976年頃、大江匡衡と結婚して挙周、江侍従らを産む。夫は大学寮の文章博士で、漢詩文と歴史を講義した。

 藤原公任が中納言を辞職するために、表文(天皇にたてまつる文)を書くことにした。下書きを名だたる儒学者に依頼したが意に満たない。そこで公任は、匡衡に頼んだ。

しかし匡衡は、儒学者の案文がすでに没になっているのに、改めて頼まれたので弱った。夫から子細を聞いた赤染衛門は、しばらく考えてからいった。

公任さんは生来誇り高い人なのに、昇進ははかばかしくなかったですよね。だから表文には、太政大臣の嫡男なのに我が身は不幸だと、その不満足な心を書いてあげればいいんじゃない。

匡衡は妻のアドバイスに従って書いた。すると公任は、吾が意を得たりと大いに喜んだ。

 むすこの 挙周(たかちか)が和泉式部の妹と結婚してのち、赤染衛門は和泉式部との付き合いも深くなった。

後拾遺集
には32首が載っている。家集「赤染衛門集」があり、晩年まで歌壇を支えた。歴史大河小説「栄花物語」正編の作者とみられている。続編の作者は不明。

 

 

 

あやしくも 花のあたりに臥せるかな 折らばとがむる人やあるとて

道命法師、千載集1180番。

けしからぬことだけど、花に寄り添って伏してみたいものだ。そこにいて折れば、たとえとがめる人がいるとしても。

でもこれは俳諧歌つまり戯れ歌なので、本来の意味は別にある。

坊主の身なのに、女の子を好きになったんだ。添い寝したいけど、おれには僧侶の立場があるから女性に近寄ってはいけない。だけど、おれだって男なんだよ。それにしても困ったものだ。

 

君が家の花橘は成りにけり 花なる時に逢はましものを

遊行女婦(うかれめ)、万葉集8−1492番。

あなたの家の花橘はもう実になってしまったのですね。花のあいだにお会いしたかったのに。

遊行女婦の名前は不明だが、まだ若くて華やいでいるうちに結婚したいと密かに思っていた。願いは叶わず、待っているあいだに、意中の人は家庭をもってしまった。

 

 


人知れぬ思ひのみこそわびしけれ わが嘆きをば我のみぞ知る

紀貫之、古今集606番。

むくわれる可能性のない片恋をなげいている。


紀貫之(872?−945)について


きのつらゆき。父は紀望行、母は内教房の伎女か。平安前期の歌人にして、和歌では当代の第一人者と評された。三十六歌仙のひとり。御書所預、越前権少掾、美濃介、土佐守、木工権頭などを歴任した。
紀貫之 貫之は古今集を精選して仮名序を書いた。それから12年後に従五位下に昇進。

943年に従五位上に叙されたのが最高位となった。

画像は上畳本三十六歌仙、紀貫之、五島美術館蔵。

930年、土佐守になって赴任したが子を亡くした。帰京の際の『土佐日記』は哀愁日記になった。でも子供のひとり紀時文は後撰集の選者になった。

個人撰歌集『新撰和歌集』は醍醐天皇の命令で編纂されたが、天皇が死んだため勅撰集にはならなかった。家集に『貫之集』がある。

 

 

死ぬばかり物も思はじ情けなき 人には身をも換ふるものかは

源 師時、堀河院百首和歌1257番。

死ぬほどの物思いはするまい。あの人は薄情なんだから、ある人のために我が身を引き替えにする必要などありゃしない。

これは恋歌で、「恨み」という題を示されて詠んだもの。恋にかぎらず、他人は自分のための踏み台だと心得ている人に対して、せっせと尽くしてもばからしい。


源 師時について


1077−1136。村上源氏。左大臣俊房の子。母は参議源基平のむすめ。師頼の弟。堀河天皇の母賢子と国信のいとこ。

太皇大后宮権大夫、正三位権中納言にいたる。「堀河院艶書合」「雲居寺結縁経後宴歌合」などの作者。「兵衛佐師時歌合」「山家五番歌合」を主催した。 「和漢兼作集」に漢詩がある。日記は「長秋記」。金葉集初出。

 

 

今だけ

わすれじの 行く末まではかたければ 今日をかぎりの命ともがな

高階貴子(儀同三司の母)。新古今集1149番、百人一首54番、前十五番歌合12番。

詞書には「中関白通ひそめ侍りける頃」と書かれている。中関白は藤原道隆のこと。貴子は関白さまから言い寄られて、恋心に火がついた。

あなたは忘れないとおっしゃるけど、世の中はさまざまなことがあります。先々まで忘れられないようにと思い嘆くよりは、愛されている今日限りの命だったらどんなにいいでしょう。

こんな心配をしなくても、道隆から妻に迎えられた。ふたりには伊周、隆家、定子、原子が生まれた。定子は一条天皇の奥さんになり、伊周も内大臣になって栄華を謳歌する。

 でも亭主が飲み過ぎで若死にすると、運が尽きた。息子たちは自滅さながらに失脚し、栄光の座は道長おじさんに奪われた。

伊周は太宰府に左遷されたあと復帰して、儀同三司と自称した。これは准大臣の唐名で、「太政大臣、左大臣、右大臣の三公に儀を同じくする」という意味である。 

見むと言はば否といはめや梅の花 散り過ぐるまで君が来まさぬ

中臣清麻呂、万葉集20−4497番。

観梅の宴で、女になったつもりで、自分を「梅の花」になぞらえ戯れた。

会いたいとおっしゃるのなら、いやとは決して言わないのに、散ってしまうまであなたは来て下さらない。花のようにきれいなうちに、なぜ求婚してくれないの? 恋は賞味期限を守りましょうね。

「否(いな)」は、いいえ。

 

 

物思い

御垣守り衛士のたく火の夜は燃え 昼は消えつつ物をこそ思へ

大中臣能宣、詞花集224番、百人一首49番、百人秀歌48番、俊成三十六人歌合98番。

大中臣能宣

おおなかとみのよしのぶ。「たく火の」までは序詞。

夜は逢えると思って燃える。でも逢えずに、昼は消え入りそうな気分で物思いに沈んでいる。

画像は歌川国芳筆「百人一首之内 大中臣能宣朝臣」個人蔵。

大中臣能宣について


よしのぶ。921−991。神職の家柄で、のちに正四位下、伊勢祭主になる。父は神祇大副頼基。子は輔親。

三十六歌仙のひとり。梨壺の五人のひとりとして万葉集の読解と後撰集の編集に従事した。家集は「能宣集」。拾遺集初出。

 

 

涙さへいでにしかたをながめつつ 心にもあらぬ月を見しかな

和泉式部、詞花集248番。

 

世の中に恋てふ色はなけれども ふかく身にしむ物にぞ有りける

和泉式部、後拾遺集790番。

世の中に恋という色はないけど、深く身にしむものだねえ。わざわざ解釈する必要はないが、しみじみとした実感をもとにした和歌である。

 

あとたえて人もわけこぬ夏草の しげくもものを思ふころかな
相模、新勅撰集1058番。

訪れてくれる男も絶えて、わが庭には夏草が生い茂っている。いま私はしきりに物を思っている。

 

あひ見ての後の心にくらぶれば むかしは物を思はざりけり

藤原敦忠、拾遺集710番、百人一首43番、定家八代抄1072番、三十六人撰72番。

愛し合った翌朝の思慕の切なさに比べれば、それ以前は物思いというほどではない軽いものだった。


藤原敦忠について


延喜6年(906年)−天慶6年(943年)、38歳。本院中納言、枇杷中納言、権中納言敦忠ともいう。左大臣時平の息子。

延喜17年、昇殿。21年従五位下に叙せられ殿上で元服する。ついで左衛門佐、権中将、蔵人頭、参議、近江権守を歴任。天慶4年権中納言に至る。

三十六歌仙のひとり。歌集は「敦忠集」。音楽が得意で美男子だったという。「大和物語」「大鏡」「袋草紙」「今昔物語」の歌話、説話で採りあげられた。

 

黒髪のみだれも知らずうちふせば まづかきやりし人ぞ恋しき

和泉式部、後拾遺集755番。

黒髪が乱れるのも構わずにふせていると、なにはさておいても、この髪をやさしく掻きやってくれたあの人が恋しい。

「まず」は初めて愛してくれた男を指す。

 

忍ぶれど色に出にけり わが恋は ものや思ふと人の問ふまで

恋すてふ わが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか

平兼盛、拾遺集622番、百人一首40番。

壬生忠見、拾遺集621番、百人一首41番。

天徳4年(960年)、「天徳内裏歌合」の第20番目に提出された2首である。

この歌合は村上天皇が主宰し、内裏清涼殿で行われた。和歌史で最大規模の宮廷行事として知られ、後世の模範になった。

判定した左大臣実頼は、「両方とも優美なので優劣をつけがたいです」と天皇に申し上げたのに、それでもどちらかに決めよと催促された。

そこで困った実頼は、天皇の顔色をうかがい、兼盛の作品をしぶしぶ勝ちにした。負けた忠見は苦にして、ついに悶死したとか。

参考:「袋草紙」新日本古典文学大系201ページ。

 

 

会いたい

たらちねの母の養ふ蚕の繭隠り 隠れる妹を見るよしもがも

作者不詳、万葉集11−2595番。

母が飼っている蚕は、繭に隠っている。家にこもっているあの娘には、どうやったら逢えるんだろうか。

「母」は、おや。「養ふ」は、かふ。「蚕」は、こ。「繭隠り」は、まゆごもり。「隠れる」は、こもれる。

 

恋しさのうきにまぎるるものならば またふたたびと君を見ましや

大弐三位、後拾遺集792番。

恋しさが憂さつらさによって紛れるものならば、まだ再びあなたとお逢いするでしょうか。紛れないから逢いたいのです。

 

忘るるは憂き世の常と思ふにも 身をやる方のなきぞわびぬる

紫式部、紫式部集79番、千載集908番。

人のことはすぐ忘れるのが男女の仲の常だけど、この身のやり場のなさがつらい。

詞書きは、「久しくおとずれぬ人を、思い出でたるおり」となっている。訪れぬ人とは夫の宣孝を指す。

 

牛窓の波の潮騒島響み 寄さえし君に逢はずかもあらむ

作者不詳、万葉集11−2731番。

牛窓の波の潮騒が島に鳴り響くように、あなたとのうわさがやかましく押し寄せてくる。嬉しいなあ。あなたに逢いたい。

「牛窓」は、岡山県南部の地名。

 

わが命は惜しくもあらずさ丹つらふ 君によりてぞ長くほりせし

車持氏(=倉持)の娘、万葉集16−3813番。

女は、久しく通ってくれない夫を待ちわびて病臥し死にそうになった。ついに使いを出して夫を呼び寄せて、「わが命は」と歌った。でも歌を口ずさみおえると息絶えた。

「さにつらふ」は、「君」に係る枕詞。

 

 

濁り江のすまんことこそ難からめ いかでほのかに影を見せまし

伊勢、新古今和歌集1053番、伊勢集。

濁った入江が澄むのは難しいことでしょうね。あなたと私が一緒に住むのも難しいでしょうが、どうにかして私の姿をお見せしたいものです。

男から「せめてお姿なりとも見たい」と手紙が来たので。和歌としては優れているが、社交辞令に過ぎなかったかもしれない。この返事をもらった男はどうしたのだろうか。

 

人もなき国もあらぬか吾妹子と 携ひ行きて副ひてをらむ

大伴家持、万葉集4−728番。

ほかの人がいない国がないかなあ。そうすれば、あなたと手をとりあって行き、一緒に暮らしたいものだ。

長い間会っていなかった坂上大嬢と再会して贈った和歌である。

「携ひ」は、たづさひ。「副ひ」は、たぐひ。

 

あしひきの 山より出づる月待つと 人には言ひて妹待つわれを

作者不詳、万葉集12−3002番。

拾遺集782番では柿本人麻呂の作品としている。山から月が出てくるのを待つんだと言ったけど、ほんとうはデートの約束があるのです。

第五句「われを」の「を」は詠嘆をあらわす。

 

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