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和歌 |
述懐 (2) |
与謝野晶子、心の遠景。 歌集には短歌が並んでいるだけなので、創作の動機は不明。でも、おそらく40代後半での作品なので、さまざまな人生経験を経たあとの感慨にちがいない。 人生はひたすらまじめにやっても疲れる。たまには息抜きも必要だ。でも作者は常にきまじめに暮らしたのだろうか。世の中には、なにごとであれ悶々として楽しまない人がたまにいる。 |
曽祢好忠、曽丹集430番。 ことわざ「類は友を呼ぶ」を踏まえている。宴会などで、作者はまわりの人たちに同調してわいわい騒ぐことができず、独り浮いてしまう性格だったようだ。ほかの連中は要領よく立ち回るけど、取り残されたおれはダメなんだよなあと密かに思い悩んでいたのだろう。 |
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曽祢好忠について |
| 生没年不詳で900年代の人。丹後掾を勤めた。「掾」は役職のひとつで、いまでいえば県庁の中堅幹部にあたる。そこで曽祢好忠は曽祢丹後さらに縮めて曽丹とよばれるようになった。私家集は「曽丹集」という。 |
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985年、円融院が、清原元輔や平兼盛といった歌人をひきつれて京都郊外に遊びに行った。歌会が始まるとき、粗末な服の老人が末座にいる。 招かれもしないのにやって来た曽祢好忠である。右大臣の指示で、進行係から追い出されて好忠は逃げた。 これで大笑いになったが、おとなしく去らずに、丘の上でふり返って大声でわめいた。
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歌会では、おつまみに栗が出た。それにしても、いくら和歌に自信があるとしても、平サラリーマンが天皇や大臣を相手に、よくまあ偉そうな演説をやれたものだ。この話は当時評判になったらしくて、大鏡や今昔物語にも載っている。 |
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大恥をかいて悩んだ曽祢好忠は翌日、次の和歌を提出した。 詞書は、 「円融院の御子(ね)の日に、召なくて参りて、さいなまれて又の日、奉りける」
曽祢好忠、曽丹集474番。 与謝の海の内浜、外浜はうらさびている。そんな天橋立を渡る。私はつらく物憂い気持ちで、世の中を渡っております。 「与謝の海」は、丹後の天橋立付近の海のこと。 |
下野、遠島御歌合45番。 編纂した後鳥羽上皇は、「昔は遠く」が心あわれだと評した。これは他ならぬ上皇自身の感慨でもあっただろう。 |
順徳天皇、百人一首100番、続後撰集1211番。 宮中の古い軒端に生えている忍ぶ草を見ていると、過ぎ去った御代がしのばれる。いくら懐かしんでもまだ昔が慕わしい。 建保4年(1216)の作品。天皇家の立場でみれば、鎌倉の武家政権が大きくなってきて面白くない時期といえる。余情があって、含みの多い和歌である。 建保4年から5年後、父の後鳥羽上皇は倒幕命令を出して承久の乱を起こしたが、あっさり敗れた。順徳も呼応したため佐渡に流された。 ももしき:宮中。 |
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順徳天皇について |
| 1197−1242。名は守成(もりなり)。父は後鳥羽天皇、母は藤原重子(修明門院。贈左大臣範李の娘)。正治4年立太弟。承元4年(1210年)、即位。 | |
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承久3年(1221年)、皇太子懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、父とともに倒幕を企図した。 承久の乱後佐渡に配流される。21年間の配所生活ののち、京都に帰ることなく佐渡で崩じた。 |
父と藤原定家から和歌の指導を受け、おさない時から優れた和歌を詠み、「続後撰集」などに多くの和歌が載せられた。家集「紫禁和歌抄(順徳院御集ともいう)」、「順徳院百首」がある。歌学書は「八雲御抄」。宮廷の故実作法書「禁秘抄」など。日記「順徳院御記」の大部分は散佚した。 |
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柿本人麻呂、万葉集3−266、清唱千首727番。 |
| 琵琶湖の夕波に浮かぶ千鳥が鳴くのをみていると、心もそぞろに近江朝廷の過ぎた時代がしのばれる。
人麻呂は、近江朝廷を倒した側の天武・持統天皇に仕えた。そこで、滅びたものをなぜ懐かしむのかと疑問をもつ人がいるらしい。 つまり、近江朝廷は敵だったといいたいのだろうが、詩人に必要なのは詩情であって、敵味方に分けることではない。 淡海(あふみ):琵琶湖のこと。汝:な、情:こころ、古:いにしへ。 |
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柿本人麻呂について |
| 飛鳥時代の宮廷歌人だったらしいということ以外は、まったく分かっていない。 江戸時代から契沖、賀茂真淵などによって研究されているにもかかわらず、生没年や朝廷での官位、家族構成なども不詳である。 しかし、奈良時代からすでに卓越した詩人として崇敬されつづけた。 |
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| 哲学者梅原猛が昭和48年、「水底の歌」で流人刑死説を発表して注目されたこともある。 画像は柿本人麻呂像、伝藤原信実筆、京都国立博物館蔵。 |
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作者不詳、万葉集7−1295番。 春日山から三日月が出た。月影は風流な人たちの酒坏に映っている。 月の船すなわち上弦の月を詠んだもの。旋頭歌なので、詩は終わりまでゆくとまた始めにもどり、ぐるぐるまわる。 遊士:みやびを。酒坏:さかづき。
土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲(著作権は消滅) この曲で「かげさして」は、万葉の歌とおなじく、夜空に輝いている月光が射していることをいう。 |
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清原元輔、後拾遺集852番。
月は昔と変わらず空に輝いているが、月も昔を恋しく思っているだろうか。 元輔集21番の詞書によると、天徳4年6月14日の作品。 |
源経信、金葉集516番(三奏本では503番)。 安楽寺で昔わたしが見た梅の花は、わたしが老いると共に老木になってしまった。 経信は14歳のとき、太宰権帥になった父道方につれられて筑紫に下向し、安楽寺の梅の花を見た。それから60年以上たって、経信自身が太宰権帥になり、寺の梅の花をふたたび見た。 |
源宗于、続千載集1543番、宗于集27番。 年月は昔のようになっていかないけど、過ぎた日々が恋しいことに変わりはない。 |
後水尾天皇、後水尾院御集拾遺。 荒れ地に葦などの雑草が生えている。いっそのこと、思いのままに繁るだけ繁れ。正しい道があるとは私には思えないから。 「葦原」は、海辺の寒村から急激に発展している江戸を指す。 |
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後水尾天皇(1596−1680)について |
| 江戸時代初期の宮廷歌壇を指導した天皇である。だが「葦原」は天皇に似合わない和歌である。 | |
| というのも、徳川家の天下が固まったとき、秀忠はむすめ和子を力ずくで入内させた。 天皇にはすでに妻も子もいたが、幕府の圧力には逆らえず妻を離縁し、子は出家させた。 沢庵の紫衣事件では、天皇の勅許が幕府によって無効とされた。屈辱だらけの日々をすごした天皇は、やけくそで「葦原や……」と詠んだ。 世のなかに嫌気がさしたので、和子が産んだ興子内親王に譲位した。これが明正天皇で、即位したときは7歳だった。 画像は「後水尾天皇」清和院蔵。 |
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菅原為基、新葉集1296番。 |
源通親(土御門内大臣)、新勅撰集1033番。 皇居に変わらず咲く梅の花を見て、前よりもいっそう昔の春が恋しい。 この和歌には、「寿永のころをい、梅花をよみ侍りける」という詞書きがある。寿永は安徳天皇の治世である。というよりも、平家が安徳天皇を奉じて西国に都落ちした時期である。 |
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源通親について |
| 通親(みちちか)はつねに主流派にいた人物である。平清盛の全盛期は平家にべったりくっつき、平家西走後は後白河上皇の側近になった。上皇の死後はライバルの九条兼実を蹴落として、土御門天皇の外戚になり、朝政を掌握した。 |
道のべの朽ち木の柳春くれば あはれ昔としのばれぞする 菅原道真、新古今集1449番、定家八代抄1579番。 道のほとりの朽ちた柳の木は、春になると、昔は若葉がさぞかし美しく生い茂ったことだろう。 早春の古い柳の木を見ての感慨である。かつて右大臣として権勢をほこったのに、太宰府に左遷された自分の境涯を、柳の古木に見立てている。 |
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菅原道真について |
| 菅原道真は学問の神さまとして知られている。菅原家は学問の名家で知られてきた。道真は35歳で学者の最高位、文章博士になった。宇多天皇の信任が厚く、道真のむすめ衍子(ひろこ)は宇多天皇の後宮に召された。 | |
| 宇多天皇は譲位に際し、27歳の藤原時平とともに醍醐天皇の補佐役に選んだ。 道真は54歳だった。そして時平が左大臣、道真が右大臣になる。 昌泰4年(901年)1月25日、天皇の廃位を図ったという宣命によって、道真は太宰権帥に左遷された。 17歳の醍醐天皇が、時平らの讒言に心を動かされた結果である。 |
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| おどろいた宇多院は醍醐天皇に翻意をもとめようとしたが、宮中清涼殿に入ることが許されず、夜になって引き上げた。
道真一家は離散させられ、太宰府には幼子ふたりだけを連れて行った。その2年後の延喜3年(903年)2月25日、道真は都を恋い、身の不運をなげいて死去した。享年59。 画像は狩野探幽筆「百人一首画帖 菅原道真」。 | |
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