吉田松陰(7)

 

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宝島  日本からの訪問者  玉砕  アメリカへ


このページは『烈々たる日本人』(よしだみどり、祥伝社ノン・ブック)および『若い人々のために』(スティーブンソン、守屋陽一訳、旺文社文庫)を参照した。

 

宝島

 冒険小説『宝島』は子どもの頃に読んだか、あるいは誰かから聞いたことがあると思う。作者はスチーブンソン(1850-94)でスコットランド人だ。

一応つづりを書いておくと、Robert Louis Balfour Stevenson。この長ったらしい名前のスチーブンソンが作家生活を始めてまもないとき、恩師ジェンキン教授のもとに、日本から男がやってきた。明治維新から10年過ぎた1878年夏のことだ。

 

日本からの訪問者

 男は、長州(山口県)生まれの正木退蔵といって、灯台を建設するために力を貸してくれる技術者を招聘する義務を負っていた。というのも、スチーブンソンの祖父と父は灯台設計で認められていたからである。

ある夜、正木は、13歳で吉田松陰に弟子入りした少年時代を語った。正木がみた松陰は、天然痘のあとが残る醜い顔をしていた。つつましい生活をしているけれども、顔を洗ったあとは薄汚れた袖で拭く男だった。髪は櫛を入れないから乱れ放題である。

どうしようもなく不潔な先生なのに、正木少年は純粋で高潔な人柄を敬慕する。外国を知るために、ロシア艦隊が長崎に着たと聞きつければ出かけて失敗し、ペリー艦隊に乗りこんでまたもや失敗しても落胆しなかった松陰を思い出す。

そして最後は幕府に捕らえられて刑死した男の祖国愛、勇気と波乱に満ちた冒険談が繰りひろげられる。地球の裏側で実際にあった話を、28歳のスチーブンソンは驚いて聞き入った。

 

ファニー・オズボーン  その2年前、夫と息子のいるファニー・オズボーン(写真)というアメリカ人女性と知り合っている。

彼女の夫はひどい浮気性だったので、スチーブンソンは同情し、ついに深く愛して同棲した。

 

玉砕

 太平洋戦争で、玉砕という言葉は、人間性をうばう非道な用語になった。作戦もなく敵に向かって突進し、若い兵が機関銃に撃たれて、無駄に死ぬことが玉砕だ。迎えたアメリカ兵は日本人の命の軽さを信じられなくて唖然とした。

大丈夫寧ろ玉となりて砕くべし 瓦となりて全うすること能わず

これが漢詩にもとづく語源だ。刑死する数日前に松陰が書いた獄中メモ『留魂録』から引用しよう。

私がはじめて長谷川翁と出会ったときのことだが、そのとき、獄の役人がわれわれの左右に立ち並んでおり、きまりでは、囚人同士の会話は許されていないので、ひとことも話すことができなかった。

しかしそのとき、翁は、独語するように、「むしろ、玉となって砕けようとも、瓦となって命を長らえることのないように」と私に告げたのである。私は、翁の心にいたく感激した。

正木がスコットランドで、松陰を語るときに使った玉砕は、病弱だったスチーブンソンに勇気を与え魅了させた。玉砕は生涯をつらぬくモットーになったのだろうと、その友人ジェームズ・ユーイングはのちに回想した。

 余談だが、ユーイングは正木から請われて来日し、東京帝国大学で機械や電磁気などの教授になった。また、日本地震学会を創設した。正木は東京職工学校(いまの東京工業大学)の初代校長、ハワイ総領事をつとめて、明治29年、51歳で亡くなった。

 

アメリカへ

 スチーブンソンは正木退蔵と会った翌年、すなわち1879年、アメリカ西海岸の夫のもとに帰国していたファニーから、精神的不調を訴える手紙がとどいた。そこで周囲の反対を押しきってすぐに荷物をまとめ、大西洋を渡って、さらにアメリカ大陸を横断する。

ところが、ようやく会えたファニーは、彼が本当にやって来たことに困惑して、夫との離婚をためらい、スチーブンソンを冷たくあしらった。

 

逆境


スチーブンソンは落胆した。わずかな旅費も底をつき、行き場をうしない、泊まるところもないまま野宿をかさねる。希望から見捨てられて、ついに結核にかかった。

自分の墓碑銘までつくるほど衰弱し、ほとんど死にかけたときに猟師から助けられた。こうして最悪の境遇に陥ったスチーブンソンを支えたのは、会ったこともない吉田松陰の生き方である。

生まれた国のために、彼の人生と体力と時間のすべてを捧げて、ついには命をも投げ打ってまで得ようとしたものは、今日の日本が広く享受し、大いに恩恵に浴しているものであることを、忘れてはならない(よしだみどり訳)。

この松陰伝をむすぶ賛辞は、逆境にあえいだスチーブンソン自身への励ましにもなっている。ファニーは自分のために命さえなくそうとしたスチーブンソンに動かされ、夫との離婚を決意する。

 

それからの生涯

 それから2年後の1881年9月、しあわせな家庭を築いていたスチーブンソンは、義理の息子ロイドのために空想で島の地図を描いてあげる。これに「宝島」と名づけて、海賊と宝の物語を書きはじめた。

これがきっかけとなって、父トマスもまじえて楽しみながら15章まで書き、さらにスイスで転地療養しながら完成させた。

この物語こそ『宝島』である。右は1883年の初版本に載った挿し絵。(新潮文庫所収)

宝島の挿し絵

 
サモア人酋長と  スチーブンソンはこうして世界史上の人物になった。翌年は、のちに二重人格の代名詞にもなった『ジギル博士とハイド氏』を出版する。

それから米国に渡ると、編集者たちが莫大な原稿料を申し出たので、有名人になっているのに気づいた。

 その後、ファニーがヨット(キャスコウ号)を手に入れたので、サンフランシスコを出航し、ハワイを経て南太平洋のサモア諸島に渡った。(写真左はサモア人酋長マターファ)

ところがサモア人を思って植民政策を批判したことで祖国から嫌われて、「ドン・キホーテだ」と馬鹿にされた。

それから1894年12月3日、夕食の準備をしているファニー病気を上機嫌で手伝っていたが、不意に昏睡し、夜8時になって43年の生涯を閉じた。

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