風神・雷神はもともと千手観音の眷属で、他の二十八部衆とともに尊崇された。
仏教伝来以前より強力な自然神として畏敬され,特に稲作を中心とする農耕文化社会においては豊穣をつかさどるものと見なされた。ちなみに,朝廷が奉幣使(ほうへいし)を差遣した大和生駒(いこま)の竜田社(たつたしゃ)の風祭に代表される全国的規模の〈風神祭(かぜのかみまつり)〉は,風神の神意を鎮め,農作を風水害から守るための祭祀であった。一方,雷神はその水神・火神的神質から水利と日照,ひいては一切の民生を支配する強大な最高神格とされ,古来天神として畏敬信仰された。御霊(ごりょう)の猛威が雷的エネルギーで象徴されることの多いのもその一つの現れである。こうした在来信仰の土壌は,外来のインド的・中国的風雷信仰の受容と両者の習合をきわめて自然かつ容易なものにさせた。

これは宗達の最高傑作を光琳が模写したもの。風神と雷神が画面両隅から向かい合う緊張感ある構図と、広々とした金地の空間が宗達画の特徴なら、光琳は二神の位置を中央に寄せて構図の安定をはかり、むしろ二神の姿を鮮やかな原色で明確にとらえることに努め、造形感覚の違いを示す。

風巻神社
風神雷神
風神雷神収集
三十三間堂 風神雷神
三十三間堂 風神雷神
三十三間堂 風神雷神
100年間近い間、幻の存在であった。浅草寺の正面入口、最初の門は平公雅によって浅草寺の総門として942年(天慶5)に建てられた。数度の火災による焼失、再建がなされたが、1635年(寛永12)徳川家光によって建てられた門は右に「風神」左に「雷神」を安置してあるところから正しくは「風雷神門」、略して雷門と呼ばれた。1865年(慶応元)の火災に遭って以来、昭和35年再建されるまで、95年間のあいだ雷門は幻の存在だったことになります。
現在の雷門は鉄筋コンクリート製で、松下電器の松下幸之助氏の寄進で、昔の姿そのままに再建されています
kaminarimon
日光大猷院/二天門(雷門)は重文で、御水舎と相対した石の階段の上にあり 八脚楼門入母屋作り、正面軒唐破風下に「大猷院」の扁額がある。正面の持国天、広目天の裏に風神、雷神が安置されており、二天門のまわりには唐銅製の33余の燈籠がある。石の高い諸大名が奉納したもので、東照宮にも唐銅製の燈籠などがある。

長寛2年(1164)鳥辺山麗(現、阿弥陀ヶ峯)の後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進した。
約80年後に焼失したが、すぐに復興に着手し文永3年(1266)に再建された。その後、室町・桃山・江戸そして昭和と4度の大修理により700年間保存されている。長いお堂は和様の入母屋・本瓦葺きの「総檜造り」で約120メートル.正面の柱間が33あるところから「三十三間堂」と通称され、堂内には1001体もの観音像がまつられる。また見落としがちだが境内・南の通称「太閤塀」と呼ばれる築地塀と南大門は、ともに豊臣秀吉ゆかりの桃山期の気風にあふれた重文・建造物である。

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