言 語 語 彙 表 現

語 彙 の 定 義 集

錯 視・2003/09/04


「カニッツアの三角形」とよばれる錯視図形を見る時、私達は、三つのパックマン図形を明示的に見る事ができるのに対して、その間にみえる三角形の三つの辺は、あくまでも暗示的に感じるだけである。
明示的に見えているパックマン図形にたいして、明示的に確認している各図形の線分の<方向性>によって、暗示的に無意識的につながった線分を想定するのであり、三つの線分が構成するものを三角形と、白い三角形と判断するのです。このとき、明示的に知覚している図形を前提に、目を明けながら、線分による三角形図形を頭の中でこしらえているのです。<頭の中で>と言う時、明示的に確認している線分に対して、視線が追い掛けると各線分は一本の線として繋がるのであり、この視線が追い掛けると言う事を<頭の中で>とあらわしているのです。視線はパックマン図形をみているのであり、目の前にある様に見えていて、その見えているものの一部としてある線分を、視線の方向につなげると一本の線が判断され三角形として結論されるのです。つまり、私達の視知覚は、目の前にあるものをその通りに見ているが、同時に見えているものの中で、線分とか曲線とうに、視線による新たな線分をつけ足して、見えているもの以外の図形の存在を判断させるのです。見えている図形の一部の線分同志が作る角度が、三角形の三つの角度として判断され、パックマン図形の三つの図形の線分が作る三つの頂点が、三角形の三つの頂点として判断されるのです。
遠近法とは、現に見えているものの大きさに対して、自分から遠ざかっているものどうしに対して、現に見えているものの線分を、視線の動きによってつなぎあわせることで、遠くのものが小さく見えるのです。現に見えていて、見えているものの二つの線分がつくる角度の内側の角度が三角形の頂点となることで、三角形と言う図形として知覚されるのです。現に見えているのは、三つの頂点であり、その三つの頂点が相互に形成する位置関係から三角形の三つの頂点として判断されている。現に見えている対象と切り放されて夢想の世界に見えていると言うことではなく、現に見えている三つの頂点がつくる特定の位置関係を三角形を構成する三つの角度と角度をつなげる線分から、三角形が見えているのです。白紙の上に描かれた三角形の図形表示は、三つの頂点と黒い線分から出来ていて、表象として三つの角度と線分として成立している。三角形の図を見る経験があり、頭の中に三つの頂点と線分と言う表象が成立した後で初めて「カニッツアの図形」を見ていると、三角形が判断されるのです。つまり、見えている「カニッツアの図形」が、見えている通りにあるなら、同時に一部に見えるものから、三角形の表象が成立する。この三角形の表象は、目を瞑っていてもピンクの色の表象が浮かぶのとは違っている。現に見えている三つの頂点とその三つが作り出す特定の位置関係とにより、そこに三角形を表象するのであり、表象は目の前の図形に向かっているのです。私たちは、三角形と言う表象は視線が向かっている対象たる目の前の図形のところに存在すると、判断しているのです。目の前に図形を見ていると言う普通のことに対して、その図形の特定のあり方から、同時にそこにはない図形をそこに表象すると言う事なのです。それは目の前の壁を見ているとき、壁の表面の色々な模様に、そこにはない顔を表象するのと同じなのです。壁の模様の特定の形が知覚されると、同時に人間の顔の形を表象するということなのです。表象は、現に見えている三つのつくる位置関係において、その三つの所に見えていると言うことなのです。だから表象を頭の中にだけ成立しているモノの様にだけ考えていれば、つまり、自分には頭の中に浮かんでいるのが分かる様に表象が成立しているのではない。三角形と言う言葉を聞いて、すぐに頭の中に<あ、分かる>と言う時の三角形の表象が頭の中に浮かぶとき、それは頭の中ということになる。しかし、「カニッツアの三角形」と言う図形の場合、表象はその「カニッツアの図形」の所に見えていると言うことであり、視知覚による<白紙の上の図形の所に>見えていると言う判断か、同時に図形のと特定の位置関係によって成立している<三角形の表象>が頭の中に成立しているはずなのに、判断としては<対象の所に見える>と言う判断が成立しているのです。ないモノがその図形に見えていると言うと時、<ないモノ>とは、三角形全体であるが、しかし一部三頂点は見えているのであり、その三頂点が見えていることと、三頂点の現にある相互の位置関係とから、理論的には頭の中に三角形の表象が成立しているはずなのだが、しかしその表象と現にそこに見えている図形に対する知覚とが統一されると、私たちは図形に三角形があると判断するのです。目の前の図形に関係なく三角形をイメージするだけなら、表象は頭の中に意識されるのだが、現に見えている図形の特定の形を見ていることで成立する三角形の表象は、その三角形の図形知覚に統一されるのであり、だからこその図形以外に三角形を見ていると判断されるのです。
例えば、麻薬による中毒として腕の上を虫が這いずり廻っている幻覚を見たとすれば、それは現に腕がむずがゆい状態にたいして、そのむずがゆい状態を作り出す実体物の像を作り出す事にあるのです。普段であれば、むずがゆい状態に対して、確認出来ないが、綿ほこりがふれ他とか考えることで済ませていたのに、麻薬による思考の不良で、現にむずがゆい状態の知覚にさらに、虫が這いずり回つていると言う像を作り出しているのです。幻覚と実体験をつなぐのは、「現にむずがゆい」と言う状態とその原因という真っ当な判断が、原因として虫と言うあり得そうな原因を考え付いた上で、さらに表象として作り上げたと言う事なのです。虫が腕の上を這いずり回っていると言う、夢を見る時の像の様に他人には見えない表象が出来ているのです。現にむずがゆいと言う現実知覚の上で成立っている幻覚なのです。

ヘーゲル・2003/09/04


肯定判断(魂は可死的である)と否定判断(魂は、可死的でない)の対立は、「可死的」と言う性質を魂に帰属させるか否かの対立である。否定判断はこの性質「可死的」を魂から剥奪する。無限判断「魂は非可死的である」は全存在を可死的なものとそうでないものに分け、魂の帰属を後者の領域に制限するものとされる。主語の帰属領域を後者の領域に制限するだけで、それ以上の事をこの判断は主張しない。主語は規定される事のないままに「可死的なもの」の無限領域に置かれるにすぎない。
ヘーゲルは肯定判断と否定判断をただ単に形式的に並置するだけではない。肯定の内に否定を見、否定の内に肯定を見る。「このバラは赤い」と言う時、「このバラ」を実体として「赤い」をその属性として関係させ理解しているが、実体と属性はそもそも違う。そこには暗黙裡に否定的関係(関係の否定)が認められており、それを顕在化させれば否定判断「このバラは赤く無い」を主張せざるを得ない。「赤く無い」と言う事は、他のどの色であるかを改めて探究させる事に成る。否定判断は、どれかの色である事を肯定する判断を含んでおりその具体化を要求しているのです。肯定判断と否定判断の対立は、「このばら」が色を持つと言う共通の前提において成立つ対立に他ならない。
実体は諸性質を担う基体であっても、諸性質とは違う。実体がなんであるかを、諸性質が示すのであり、諸性質を抜きにすると、実体自体を問うことが出来ない。従って、主語そのものは無記的であり、「このバラ」は色を持たないと言わなければならない。
諸性質を担っていると考えられる実体なるものは、それ自体としては知覚されず、何ものとも言えないとみなされ、バークリーにおいて物体的実体の概念が廃棄され、ヒュームにおいて心的実体の想定も単なる知覚の束の観念に置き変えられた。カントは実体の概念を保存したが、それは現象界を構成する為のカテゴリーとしてにすぎなかった。担っている諸性質が知覚されるのであって、その基体は知覚されないのです。実体は、諸性質が束として知覚される事で、はじめて知覚されたと言う事に成る。

カテゴリー・2003/09/04


人にとって「存在する」と言う事は、彼が他の何かに依存する事なく、「実体」として生まれ、生き、死ぬと言う事である。これに対して「赤さ」は何らかの実体の表面にある「性質」として、ものである諸実体に言わば寄宿する形で、存在する。
(1)カテゴリーの理論が基にしている<主語と述語>と言う構造は、そのままで存在の構造を探る手がかりとなると言える。これを現代哲学で主張できるか。
アリストテレス:
実体カテゴリーとその他のカテゴリー(性質、量、関係、時、場所等の内属もしくは属性)を分け、また個体と普遍とをわける。
(a)個体は、類種の関係において世界の中の何ものか、正体が語られる。・・これは哺乳動物である。
(b)そのものの本性と同一性とはひとまず独立に、サンプル個体が、いかにあるか、どのような側面をもつかを語るような言明。・・・彼は、170cmである。主語で指示される対象(個体)は170cm自体でも黒さでも父性でもない。かつ、これら抜きでも個体は存在する。
「この・ある・文法知識」は如何なる事物を表現すると言えるだろうか。
唯名論の答え・・・プラトンの文法知識と言う様に文法知識の担い手に完全に寄生する形でソクラテス、プラトンが滅びれば各々の個体内属性も滅びる。
実在論の答え・・・特定の個人(の魂)に寄生するのでは無く、ある種の動詞の変化の知識のように固体化され、誰かの魂に宿っていればいい。個人が続くかぎり、文法知識は永続する。
アリストテレスは単に個体的実体と種・類の間に差別を授けたのでは無い。個体的実体が他の全てに対するように、種は個体以外の全てに対して基底的であると彼は言明している。
まず「この・或る・人」が、種のサンプル個体である事が注目に値する。かけがえのある個体はあくまでも個性抜きに、最低限の本質の表現として存在し続ける。この事は当の個体が哺乳動物と言う類に属する事とは区別されなければならない。

運 動・2003/09/03


飛んでる矢は、飛ばないか?
結論:弓から放たれた矢は、的に達しない。
何故なら、まず的と弓との間にある距離の半分を飛び、残りの半分を飛び、さらに残りの半分を飛び、その半分、さらにその半分と言う様に、飛び続ける事に成る。
もちろん、ゼノンは、矢が的に達し無い事や、いつま静止している事を証明しようとしているのでは無い。矢が実際に−−つまり、言葉による説明では無い、私達の身体活動においてという事−−動く事、的に達する事は誰でも、経験とし知っている。その経験として知っている事を言葉にして考える詰めると、だんだん分からなく成る。経験的知を、<矢は弓から放たれて、的にあたった>と言葉にする事ができるのです。しかしこの言葉は、経験としての<的にあたった>と言う事を述べているだけであり、<弓から放たれ、空間を飛び、的に当たる>と言う過程を言葉にする時、始めて問題が生ずるのです。つまり、弓から矢が放たれた後の空間を飛ぶ事を、言葉にするのです。<弓の位置>と<的の位置>との間を有限の距離Xすると、放たれた矢は、1/2Xノ所に到達し、さらに1/4Xの所に到達しと言う様になるのであり、それの半分が際限なく続くのです。際限なく続きくかぎり、矢は的に到達しない。これが言葉による説明です。この説明の結論は、矢は的に近付き続けるが、到達したと言えない事です。「実際には矢は的に当たる」のであるのに、その言葉の説明では<当たる>と言えないのは、速度Vの矢が弓の位置からとび、的の位置までのX距離までに行くのに、X=V*T と言う関係が成立つ事を前提に考えられていて、Xの半分は、時間も半分で済むと言う事であり、X/2、X/4、X/8、X/16、X/32となり、X=1とすれば、1/2+1/4+1/8+1/16+1/32+1/64+1/128+1/256+1/512・・・・・ その合計が1に近付くが、「1=・・」にはならないと言う事なのです。ただし数学としては「・・・・=1」と言う事にしてあるが。矢の飛ぶ運動を速さを速さと規定し、その速さが飛ぶ時間と距離との関係として成立していると言う事を、その思考の前提にして道筋として取り上げているのです。例えば、的の位置までをX距離として、矢をその距離の2倍の位置2Xに向けて放つと、その半分であるXに先ず到達するので、的をいる事ができると言う様に考えます。確かにこれでは、矢は的に先ず当たるのだが、矢の飛ぶ運動を矢の飛ぶ<速さ>を飛んだ時間と距離の関係として考えると言う事から生ずる<矛盾>が有る事を気付かせはしないのです。つまり、飛ぶやの運動を、言葉で表そうとする時、言葉では運動を矢の速さとして時間と距離の関数として表さざるを得ず、時間と距離から生ずる矛盾があると言う事なのです。
「アキレスの脚の運動は、幾つにも好きなだけ分割される。だが分割されるのは、彼が歩いた軌道であって、脚の運動そのものでは無い。ゼノンの論証は、歩くと言う運動とは無関係である。」アキレスの歩くと言う運動は、私達にとっては、アキレス本人が脚を動かして歩くと言う事なのだが、その歩きは、空間と時間の中で成立するのであり、かりに一ケ所に止まって脚だけを上げ下げしているだけなら、身体のエネルギー消費があるが、しかし歩くと言う運動にはなっていない。とすると、歩きが運動である為には、空間上のA地点からB地点にアキレスの体が、移動する事であり、運動自身は、速さとしてのVと時間Tと距離Xとの関係として表すと言う事なのです。ここで時間と距離との関係では無く、歩きそのもの運動を考えると言う事なら、脚の上げ下げといった身体運動と、脚の上げ下げにより、AからBへ移動する事の運動とを取り違えているのです。体を動かす事と、その動く事で空間上を移動すると言う事であり、後者であれば、物理学として、物体の動き出しに他者による押すと言う働きかけによりと言う事を棚上げにしておくのです。他者による押すと言う働きかけが、物体の運動にどんな影響が出るのかということであり、<速さ>の観点から言えば速さが徐々に変化して行くのであり、それを加速度運動と規定するのです。

類・種・2003/08/28


三匹のモノがいて、「それらが何か」と問われて、「犬だ」と答える場合、「犬」が種類となる。知覚の対象として存在が有り、それが三つと言う個数で分類される時、三つとも同一のレベルとしてであり、その同一性を種類と規定すれば、三つのひとつひとつが、同一性としての「犬」と言う言葉であらわされる種類としてあると言う事です。この同一性とは、ひとつひとつあるモノに対して−−このあるモノと言う言葉は、私達の知覚の対象になっていることを、抽象として示している。<モノがある>と言う事が、一番抽象であるのです。−−各々が、同一の属性をしていると言う事です。<ひとつ、ひとつ、ひとつ>と言う様にとらえられている<モノ>に対して、属性として捕らえられている<もの>が、種類と言うことです。主体としてのモノに対して、その属性と言う区別は、「犬」と言う種類が、属性であるなら、その属性を持つ主体は、何処に有るかと言う事です。「犬」と言う言葉が、属性をあらわすなら、その本体は何になるのかと言う事です。
ひとつ、ひとつとして知覚されているものを、属性としてとらえているのが、先ず<ある>と言う事であり、その<ある>と言う属性にたいして、さらに別の属性を得ると<犬>と言う事に成る。そこで、<犬がいる>と言う言葉は、犬と言う属性のモノが、その言葉を発する話者のいる場所との関係からえられるそのモノの属性として、<いる>と言う言葉が表現されるのです。さらに例えば、<縄文時代に犬はいました>と言う言葉は、犬の骨格が3000年前の縄文時代の生活の場所から発見されたと言う事であり、骨格になっているモノがもつ属性が、縄文時代の生活空間によって規定されていると言う事です。つまり、<犬>と言う言葉で指示されている<モノ>は、その特定の形があり、その形態から規定される属性を示すのであり、さらにそのものが、場所や時間による規定を受ける事で成立する属性が<有る>と言う事なのです。
犬と言う名前は、その形等に対してなされるのであり、その形態をしているものが多数有る為に、多数に対して共通性としての形態が捕らえられ、種類として規定されるのです。知覚の対象は、多数として有るモノであり、それらに共通するものとして形態が把握されるとは多数のモノがひとつの集合に入る事であり、その共通性が、あたかも同一の篭の中に入っているミカンの場合の篭の様に考えられたとすれば、多数のものとは別の所に共通性なるものがあると言う事に成る。数学の集合論の教科書に説明として図表されているものは、円形と中に入っている要素と言う事で示されているが、円形とは、要素に属性としてある共通性を実体として扱う所から生まれて来ている。共通性を理解させるのに、要素のあり方と同じレベルにしたために、円形と言う表示が出来たのです。つまり、その円形の中のモノが、要素とよばれ、その円形の外のものと区別されている事を表しているのです。属性は、そしてそれが種類と言われても、多数のものがあり、それらにある属性を同一なもの同志で集めた事で、多数有るモノは、グループ化されるのです。ただしこのグループ化は、輪ゴムで同一のモノ同志を束ねる様には、区別されるのでは無い。その輪ゴムにあたるものを、私達は言葉の名指しと言う働きとして使っているのです。
唯名論:三匹のものが、<犬>と呼ばれるから、<それらが、犬である>と言うのは真なのだと言うこと。それらに名前があるから、<それらは、犬である>と言う言葉が、真となる。 言葉が無ければ、成立しないと言う事です。しかし名前が無いと、グループ毎に分けて檻に入れる事が出来ないと言う事では無い。
実在論:それらが同じ名前で呼べるのは、それらを犬たらしめる性質、つまり「犬性」が共通に存在しているからだと言う考え方です。「犬性」を犬のDNAとしても話はおなじである。
唯名論によれば、<あるものが何であるか>は分類と名前の問題となる。<犬>や<猫>と言う分類は、多数有るものに、それぞれ他のものと区分される特徴が有るからであり、Aと言う特徴で<犬>と言われ、Bと言う特徴で<猫>と言われるのです。ここで、多数のものにある、特徴Aとそれを表した<犬>と言う言葉の関係は、多数有る個体に対しての知覚が成立して、さらに特徴Aを属性としてもつている事を把握する事で、<犬>と謂う言葉が表現されたのです。つまり、<犬>と謂う言葉は、対象の存在が知覚され、さらに存在の属性が特徴とし抽出されたものが、表現されて出来たのです。しかしその成立過程に対してさらに、抽出されてきた知覚されている存在に、その言葉を指示として使う事で、知覚されている存在自体が、<犬>と謂う表現を形成している<犬性>なるものの現実態としてある事を理解するのです。知覚による対象の存在に対して、さらにその属性が<犬性>として把握されるとしても、どの面が<犬性>であるのかを理解する事が出来ないのです。つまり、<本体とその属性>と謂う区別の理解は、目の前にいる一匹の<犬>に対して、目の前にのそれが丸ごと<犬>であって、けっして属性が<犬>で有ると謂う事では無いはずです。
私達の回りにいる多数の<あれも、これも、それも、皆>犬であって、多数があり、別の多数との区別と共通性と言う観点から考えると、<あれにも、これにも、それにも>ある共通性の側面と言う事が結論されてしまうのです。つまり、多数のものを<犬>と呼ぶ様になった後に、その犬と言う言葉に対して認識レベルの構造を明らかにした事で終わっているのです。多数のモノがあり、それらが皆<犬>と呼ばれるのであり、その呼ばれるのは、多数のどれにも、犬性が有るからだと言う答えを作ってしまうからです。多数のどれにも犬性があるから、<犬>と呼のだと言う事なのです。多数のどれにもある<犬性>の事を、属性と言い、たの多数には属性として<猫性>があると言うのです。そこでさらに、<犬性>の属性を持つものどもと<猫性>を持つものどもがいて、両者に属性としての<動物性>があるのなら、各猫性や犬性に対して、動物性はどんな位置になるのかと言う事です。属性としては犬性も猫性も馬性も動物性も物性も対等であり、それぞれは属性と言う集合のひとつの要素としてしか無いのです。車における部品と言う集合のひとつの要素としてあっても、各要素としての部品は相互に関係を持っているのであり、「A部品がB部品に働きかけC部品に伝達された働きは、D部品を動かす」と言う様に部品の相互関係が成立している。つまり、車の部品が部品集合のひとつである事と、それらが相互の関係として成立っている事とは、レベルが違うと言う事です。各々の働きは違っていても、車の部品と言う集合の要素としての 同等性を持つと言う事です。要素としての同等性とは、多数の部品があって、相互に働きかけが違っていても、それは相互の違いであって、それは同等性としてあるからこそ、相互の違いがあると言う事です。もし違っていなければ、100個の同じギアがあると言う事でしか無く、壊れれば、代替えが利く部品と言う事です。100個の同じギア部品と言う事と100個の各々の働きをする部品と言う区別です。
属性としての<動物性>と言う事では、<犬性>と相互関係にあるのだが、しかし<動物性>と<犬性>とは、種類が違うと言う事で、集合論で言えば、動物性の集合の中の部分集合として犬性や猫性があると言う事です。
普遍論争:類と種に関する捕らえ方
(1)存在するのは、個別のみであって、種は実体としては存在しない従って種には本質はない、また種の区分も人間の恣意によるとする考え。種には同一性がなくて、変化し続ける様々な種を区分けして、恣意的に名前をあたえるにすぎない。=唯名論
(2)種は実体として実在し、種の本質・定義も実在すると考える。種は同一性を持つもので、生物の分類はその種のの世界・自然界のコピー・模写でしかないことになる。=実在論

記 号・2003/08/28


一般的へ考え方:外的対象や観念を代理する事によって、記号自身とは別のモノを指示するものと理解されている。例えば煙は、火を示す。煙は、自然的記号なのです。
ソシュールの考え方:
<シニフィアン(記号表現、能記、意味するものであり、話し言葉の場合、音素などの、音の構造的な現れの事です)とシニフィエ(記号内容、所記、意味されるもので、あらかじめ与えられた外的対象である指示対象や主体の思考ではなく、記号内で反復する事のできる理念的な意味)>と言う二つの「形相(実体でないもの)」の不可分の統一体であり、その不可分を、一枚の紙の裏表と言う比喩で説明しようとするのです。一枚の紙を0.5づつにわけてと言う訳にはいかないのです。
両者の統一は、各々のあり方に左右されない恣意性としてあり、この恣意性の原理と差異の原理によって、言語を独自のシステムと見なす事ができる。この言語システム(ラング)において、各辞項は、共存している他の辞項との純粋に相互的な関係によって価値を持つ。与えられたニ項があって、各項は他に関係する事によってのみ、意味的な同一性を持つのである。
それ自体は意味を持たないシニフィアンは、相互の差異化の働きによって、シニフィエ・意味を生み出す。
<す「もも、も、もも、も、もも」のうち>と言う文章が成立している事に対して、意味を持たない<も>が、分節化された<すもも><も><もも><も><もも><のうち>と言う意味を持った文章となる。しかし<も>の多用によって出来上がっているこの文章が、一定の意味をもっていると想われるのは、そこに差異が有るからでは無い。ただ9個の<も>があるだけであり、<もももももももも>と言う8個が連続して続いているだけなのです。8個には差異が有りません。この文章で差異があるとしたら<す、のうち>と言う事であり 残りの8個の<も>には、差異が無いのです。
しかしそれでも、分節化をしながら文章が語られるのは、何故かと言う事なのです。つまり<すもも(1)><も(2)><もも(3)><も(4)><もも(5)><のうち(6)>と言う分節化であり、<す><もももももももも><のうち>と言うような3分節化ではないのかと言う事なのです。(1)〜(6)の分節化を行なうのが、<も>ではなく、(1)(3、5)が、果物の種類を表し、(2、4)が、並列を表していると言う事なのです。二つの果物があり、一方が<すもも>、他方が<もも>と呼ばれているが、両方とも<もも>と言う種類だよと言っているのです。つまり、<すもも>と言う3文字が、ひとまとまりなのは、その三文字によって、特定の果物を指示しているのであり、さらに<もも>と言うに文字によって、べつの果物をあらわしているが、しかし別々のものである両方は、<もも>と言う言葉で表される種類なのだと言う事なのです。

指 示・2003/08/27


哲学としての指示は、言語表現が何かを指すと言う事、その事が、広い意味での指示です。日常的には、「こそあど」と言う指示詞が指示すると言う事で使われている。言語的コミュニケーションの基礎にあるのは、何かについて何かを言うと言う事である。指示が係わるのは、「何かについて」の部分である。それに対して、「何かを言う」ことは、文を通じてはじめて可能となる。指示の正しい位置とは、何かをある特定のものの名前として働くと言う事である。
指示の概念は、存在者の有る種類−−個体−−を介して、定義される。
指示はむしろ、存在者の種類を特徴付ける為に用いられる概念と見なされる。「個体とは指示表現によって指示される存在者である」と言った定式においては、指示の概念は、個体の概念に先立って与えられていると考えねばならない。と言う事は、指示表現一般の特徴づけは、それが何を指示するかと言う観点からではなく、それが文中もしくは会話のなかでどのように働くかと言う観点からなされねばならない。

物自体・2003/08/24


近代哲学の認識論に固有のアポリアを良く表現している。
物は我々に知覚されるとおりの姿で、我々の外部に存在している。例えば、赤い林檎は誰も見ていない時にも赤いと思っている。そりに対して赤い林檎が<赤く>見えるのは、見ている人間がいるからだと言う言い方は、現に赤く見えていると言う事とに対して、そこにある<赤>が、見ている私達の目から入り、<赤い>と知覚されているのだから、見ていない時でもそこの林檎の所に<赤>があるのだと言う事を見落としていると言う事なのです。問題は、林檎の所にある<モノ>が、私達の目から入り<赤い>と知覚されるのだと言う言い方に対して、林檎の所にある<モノ>が、そのまま<赤>と言う事では無く、客観的には光りと言う特定の波長の電磁があり、その電磁波が眼球から入って来て頭脳の細胞で処理されている事を、<赤い色の林檎が有る>と言う言葉で表したのです。つまり、<現に赤い林檎を見ている、現にそこに赤い林檎が有ると見ている>と言う事に対して、現に視知覚が成立していて、知覚の内容が<赤い林檎が有る>と言う事なのだと。その視知覚は、<眼球から入り頭脳の細胞で処理されている>と言うことであり、その視知覚を作り出すものが、目と頭を囲む外界に有ると言う事であり、その外界に有る<モノ>が、赤いと言う事なのです。しかし、それでは、<赤いもの>が、眼球から入り、頭脳の細胞で<赤い>と処理されていると言う事に成ります。<赤いもの>が<赤く>見えると言う事です。それに対して、知覚器官としての五感から入ってきてといっても、例えば光が入って来るのは眼球の網膜の所までであり、光によつて網膜の細胞が電気的化学的に変化して、それの伝達として脳細胞の活動が起こり、私達が知覚していると言う自覚に成るのです。つまり、外界から五感に入って来るモノと言っても、入り口までは入って来ても、人が家の中に入る様に、扉を開けてはいってくるのではないとすれば、外界からのモノは、頭脳の内部の処理を作るものであっても、けっして<モノ=内部の処理>では無いのです。<モノ−−知覚器官と脳細胞>の両者の間には、知覚とそれを引き起こすものと言う関係ができ、モノはその関係を作る実体としてあるだけであり、脳細胞には知覚の内容が形成されるのです。
私達は、自分達の目の前に有る<赤い林檎>について、美味しいとか、鮮やかだとか、丸いとか判断していて、そこに丸く鮮やかな赤色の林檎があると見ているのです。それは決して夢の中の出来事ではなく、ましては白昼夢でも無いのです。つまり、そこに赤い林檎が有るのを見ているのです。私達のこの知覚に対して、先ほどの知覚関係の論理を当て嵌れば、そこに有るモノについての、私達の知覚が成立し、その知覚内容を言葉や判断としているのであり、<確かにそこに有る>と言う言葉に出す思いも、その言葉も、現に今そのように知覚していると言う事なのです。目を瞑ってしまうのは、外界からのモノが眼球に入って来ないので、現に視知覚が成立していないと言う事であり、目を瞑っている間も、林檎からの光の反射は続いているのであり、その光の反射にある特定の波長の電磁波が、眼球から入って来る時、<赤く丸い林檎がある>と言う判断が成立するのです。だからその特定の波長の電磁波は、決して色なのでは無く、それが眼球を介して頭脳の細胞で処理される事を、<赤い>と言う知覚で有ると言う事なのです。特定の波長の電磁波を<赤い>と言わないのは、モノとそのモノについての認識とを区別する事であり、<赤いモノ>があり、それが知覚器官から入り頭脳で<赤いモノ>と処理されると言う事では、世界はすべて認識の世界の出来事になつてしまい、区別が成立していないと言う事です。
問題は、<赤いモノ>があり、それが知覚器官を通じて<赤いモノがある>と判断されれば知覚の内容は、すでに<赤いモノ>である事に間違い無いのだが、知覚として<今目の前に赤いモノが有る>判断されている場合、それが認識として成立しているなら、その認識を作り出すものが<存在>しているかどうかと言う問が成立する。頭の中だけ成立していて、それを形成させるものが有るかどうかと言う事なのです。五感器官を介して入ったものが頭脳で処理されている事を,<そこに赤い林檎がある>というなら、五感器官から入ってきていないのに、<あたかも、そこに赤い林檎がある>と判断されれば、私達はそれを幻覚と言っているのです。今特定の波長Aの電磁波が、目から入って来て網膜から脳細胞までで処理される時、私は、その波長の電磁波が反射して来る所に<赤い林檎がある>と判断しているのです。ここで、次の様な考え違いをする。頭脳のなかにスクリーンを置きそのスクリーンに赤い林檎が映っていて、ただ一人の観客である<私>が、そのスクリーンをみながら、そこに有ると判断しているなら、スクリーンの所に有ると言う事は言えても、<目の前に赤い林檎がある>と言う判断は、どのようにしてせて立するのかと言う事なのです。頭の中のスクリーンにあっても、それが<目の前に赤い林檎がある>と言う事に成る為には何が必要かと言う事なのです。<スクリーンと外部のもの>の関係であり、外部のモノがスクリーンに写し出されているとしても、私はスクリーンの像を見ているだけであり、スクリーンの上に像としてあるとは言えても、その像が、スクリーン外部から入って来たものによって形成していると依う為には、どんな構造が必要かと言う事です。それは、写真と言う構造からの借用と言う事です。レンズによって入って来た光が、レンズ奥にある印画紙の上に像を結ぶと印画紙の上に塗布した化学薬品が反応して、化学薬品による像が作り出される、それを私達は外部の物体の光学的像として、赤い林檎として理解するのです。つまり、印画紙の上の化学薬品のつくる像が、物体の光学的像であると理解出来れば、印画紙の上のそれを、はじめて外部の物体を原物とする光学的像として、関係付ける事ができるのです。その関係が理解出来れば、印画紙の上のそれを、<原物−像>と言う概念構造を前提に、像が、原物ニ対する像で有ると言う事に成るのです。つまり、原物があったとしても、その原物が自ら変身して印画紙の上で像となるのでは無く、原物に対する光による反射が成立する事で、光を媒介にした印画紙の上の化学薬品の痕跡が、一方は原物として、他方は像として関係を結ぶのです。
デカルトやロックがその骨格を与えた近代認識論は、素朴実在論と明確に矛盾するものであった。例えばロックによれば、外界に存在する「もの」は小さな粒子の集まりであり、この粒子自身には色はない。しかし我々が実際に知覚する「もの」、例えばバラの花は、美しい色をしている。バラの本体が色が無い粒子であるなら、その色は何処で生じたのだろう。明らかに我々の感覚器官を触発する光の作用が、我々の感覚器官の内部に生み出したものである。色がこの様に外界の「もの」それ自体に属さず、我々の感覚器官において生み出されことは、別の経験的証拠もそれを支持している。
バラそれ自体には色がないのに、われわれの見るバラに色が有る事を、デカルトは「質料的虚偽」と呼んだ。ロックは我々の知覚内容を二つに分け、固性、形、広がり、運動と静止、数などの「第一性質」と色、匂い、音の響きなどの「第二性質」とを区別した。「第一性質」はそれに対応するものが外界の「もの」に備わっているが、「第二性質」は我々の主観の内部にのみに存在するもので、外界にその様なモノは存在しない。とすれば、物は我々に知覚されている通りの姿で我々の外部に存在していると言う「素朴実在論」の想定は誤りであり我々の常識は訂正されなければならない。<丸い形をした赤い林檎>と言う事で、赤と丸いと言う事は、林檎の所で切り離せないものであり、二つの性質に区別される物では無いということになり、性質が「もの」それ自体に客観的に帰属すると言うロックの目論見は、破ていする事に成ったのであり、両性質は、すべて第ニ性質として、主観の中にしか無いものとされてしまったのです。
この考え方を解決したのがカントの物自体なのです。
第一性質であるとした「もの」の客観的なぞくせいも、ある意味においてやはり主観に属するものである事を認める。それらは時間と空間と言う「直観の形式」に従って我々に与えられる「現象」であると考えた。

存在論・2003/08/23


アリストテレス「形而上学」<存在者を存在者として研究する学:第一哲学>
存在は<何ものか>の存在として語られる。その<何ものか>を存在者と言う。
<何ものか>は、様々に現れる。その現れ方により、存在が違い、さらに存在者も違って来ている。<何ものか>の現れ方とは、私達の知覚に現れると言う事です。
感覚的経験に現れる・・・・現実的存在者
論理的思考に現れる・・・・可能的存在者
理性に現れる・・・・・・・形相的存在者
これらは現れ方が違うだけであり、皆同等に存在者なのです。
存在の正体を求めて存在者の中を彷徨う。この問は二つの問へと収束していく。
(1):本当に存在する存在者は何か。・・・ギリシヤ時代以来、実体論として展開された
  個体(特定の人間、特定の馬等)を第一実体と言い、主語となって述語とはならないものを言う。個体の所属する種や類(人間や動物等)を第二実体と言い、主語としての第一実体をそのものたらしめている本質であり、述語である。しかし主語となる第一実体は、述語となる第二実体によって一定の規定を与えられる。主語の位置に入るものは、さしあたっては無規定であり、それが述語の位置に入るものによって、一定の規定を得るのです。
(2):そもそも何故存在者が存在するのか。・存在そのものを問う事である。ハイデッガー

観念論・2003/08/18


サングラスを掛けて見えている世界とはずした時に見えている世界は、全く違ったものとして見えているが、世界が光としてサングラスを通過する事で、光のある特定の一部だけが人間の目に入って来る為にそれだけの見え方をすると言う事なのです。この場合、見えている世界は、光りとして入って来る側面と言う事なのです。
「人間の色覚は皆違うから、同じ赤い色といっても、各々の人が見ている色は全く異なっているはずである。」と言う考え方は、まず<人間の色覚はみな違う>について、ここに10人の人がいれば、各々の人が自分の眼球で見るだけであり、そこには眼球と言う装置で見ると言う事であり、二人の人が、一つのテレビを見る様に眼球を共有しているのではない。つまり、10人の人がいると言う事と、それぞれ自分の眼球と言う装置を介してみているということから、10人の色覚が<違う>と言う事は生まれては来ないのです。私がモノを見ると言う事は、モノの世界にある光が、眼球から入る事で、光に伴う世界の出来事が、頭脳の中に入って来ると言う事なのです。眼球の構造としては皆同じであるのだから、光の入り方に違いはないと言う事です。しかし私が見ているA面にたいして彼が見ているのはB面である時、初めて違ったものを見ていると言う事に成るのです。ただ違った面を見ているが、AもBも同一のモノの別々の面であると言う違った面を介して同一のモノと言う判断が成立すると言う事なのです。我が家の犬も猫も眼球によつて世界を見ているが、同じ食べ物を見ていると言う事から、私と犬とか別々のモノを見ているとか、違ったものを見ていると言う事を、人間である私は考えないのです。眼球があって光が有れば、動物としての私も猫も犬も見ると言う事を実こうしているのでしょう。しかし私達人間は犬は別の世界を見ているとかは館゛得ないのは、<見る>と言う行為から、たの別の行為の関連が成立しているかどうかを確認出来ていないからです。つまり、動物である人間や犬や猫は、<見る>と言う視知覚認識が、この生きた身体活動に対して別の活動を導き出していると言う事が、確認されなければ、何もうまれないのです。赤信号を見て立ち止まるとか、暗くて見えないから電気を付けて部屋を明るくすると言う関連が成立する事で、人間にとって<見る>と言う事が、光によって世界を知覚する事であると同時に、世界に働きかけたり、かけ続けたりする事だと言う事になります。
<見る>と言うのは、私達の、眼球による認識活動であり、その認識活動は、眼球以外の身体の活動を媒介するものとしてあり、見ながら動き回るとかモノを手に掴むとき、そのモノまでの距離と手を動かす速さ等との関連が成立して来るのです。目を瞑って歩けば椅子に躓いたり、壁にぶつかったりするのであり、目が見えていると言う事は、歩く先にある椅子や壁等に対して、回避する行動をとるのです。つまり、視覚は、椅子や壁と言うものに対して自己からの距離や方向を知覚する事であり、視覚しながら移動する事でそれらのモノとの変化する距離を絶えず移動と言う活動に媒介するのです。視知覚はそれらのモノに対する一定の距離にあるモノと言う事であるが、そのモノにたいして知覚いる人が距離を変えて行くのは、あくまでも歩くと言う活動によるのであり、その歩く事のなかで視知覚は一々の距離に有るものを知覚するのです。視知覚の捕らえているものは、映画のフィルムの一こま一こまであるのです。モノと人間の間の距離の変化は、人間が歩きと言う移動する事で生まれて来る。視知覚はその距離の変化を一瞬一瞬として捕らえているのであり、この把握の中でさらに、一瞬一瞬の距離の綜合から移動で成立する変化する距離、つまり運動を考えるのが、ゼノンの逆狸と言われている思考に他ならないのです。
世界が我々の認識能力によって初めて知られると言う見解は、<世界の存在>についての知は、我々の認識能力なしには成立しないと言う事であり、世界について我々が知っていると思っているモノは、そのまま世界に有るのでなく、我々の知の中だけにしか無いと言う事なのです。問題は、<知の中に有るもの>と<知の外に有るもの>とう言い方が何を言おうとしているかと言う事です。知とは、頭脳の細胞が作り出す細胞同志のネットワークの組み合わせであり、そのネットワークが、五感と言う知覚器官からは言って来る光や音や物体分子によって作り出されるのです。その細胞のネットワークの形態が、知と言う言葉の対象なのです。だから、知の内部、外部と言うのは、脳細胞のネットワークがあくまでも脳内のできごとであるなら、脳に対して内部外部と言う事なのです。そして内部外部をつなぐのが、五感と言う感覚器官なのです。そこで細胞のネットワークの形態が、感覚器官から入って来たものによって成立しているか、細胞の自己運動で出来たのかにより区別され、ネットワークの形態の成立が感覚器官を介した場合を感覚器官とは別のモノが有るといい、その存在が感覚器官より入って細胞のネットワークの形態が成立する事を、<その存在がある>と言うのです。つまり、外部と言われるモノが、感覚器官と言う入り口から入り−−感覚器官の違いは外部から入るものの違いなのです。−−特定の脳細胞ネットワークを作ると言う過程からネットワークの形態を見た時、その形態を知というのです。知を脳細胞内部の出来事であると言う事で、外部と無関係にするのでは無く、あくまでも外部との関係として成立していると理解しなければならないのです。そこで成立している構造を客観的に、構造を見下ろす様に捕らえると、捕らえる者にも考えると言う事で成立しているのだが、或いは他人の頭の中などのどけないのに、他者が思考をしている時の頭の中の細胞の働きを、電流の活動としてみる事で、その電流の変化の際、被験者に赤のイメージを持ってもらう時の彼の脳波の変化と脳の局所を明らかにして、思考と脳細胞の活動の場所と電流の変化とを対応付けるのです。 彼が実施していると言う思考は、私達にとっては、顔の様に見えるものではなく、私が自分が思考する事で実施しているものと同じ構造で、彼等にも成立しているのだと言う事なのです。あくまでも<私>であって、<私達>という訳には行かないのです。私は自身が思考していると言う事であり、私が思考を存在として意識していると言う事なのです。その存在という意識は、現に思考していると言う事です。私が頭の中で赤を<イメージ>する時、頭の中に浮かんだモノ、映像は、私が眼球を介してみている林檎の赤や、信号の赤とつながりが有るのです。そして頭の中に浮かんだ映像、イメージに対して、言葉として<赤い>と表現するのです。そこで始めて<頭に中に赤いというイメージが成立している>という言葉が成立するのです。私達の目の前にある<林檎>と呼ばれているモノに対して、そこに見えているひとつの側面が、色という概念として捕らえられ、その概念の現実態として<赤>という言葉で表されている。林檎と呼ばれるモノの一側面が、色という言葉で表される概念として成立し、その概念が言葉として<赤>で表され、その言葉が目の前の林檎に対応付ける事で目の前の林檎自体が、<赤い色>と言う事なのです。これは、<林檎自体が赤い>と言う事であり、林檎と言う言葉として捕らえられているものそれに対して、側面が多様なのだからそのどの側面を指事しているかは、意識している人間にしか確認出来ず、どれが色と言う側面かを、どのように知らせるのかと言うことなのです。しかしこの考え方は、言葉による指示とか、信号の赤いランプ自体の停止の約束であると言った実践を介して、対象についての概念と、概念の表現としての言葉や行動が、概念の現実化をしていると言う過程を知らない所から生まれている。概念の表現過程により、対象から得られた概念は、はじめて概念の現実態としての対象に出会うのです。
ただし<概念の現実化>と言っても、概念自身が変化すると言う事では無い。概念が種類としての音声や文字と対応するとき、その対応関係に有る事を前提に、その関係の一端である文字や音声を、言葉と言うのです。九官鳥も音声を発するが、その対応関係が無い為に、単なる音声であり、けっして言葉とは言えないのです。そこで、その対応関係がある事が理解出来れば統べて終わりと言う事では無い。その対応関係にある言葉と規定される文字や音声を、概念の対象であるモノに、指示として成立させると、指示されたものは、概念の現実態となるのです。指示されているモノは、その姿そのままで、概念の現実態と言う事なのです。インクの跡や音声としての物理的なものが、モノと指示関係を形成する時−−そのモノに直接文字を書いたり、白紙に書いた文字をモノに貼ったりする事で成立していたり、指でそのモノに触ったり、指の指す方向で表したりする事で成立している−−モノはそのままで、指示されている言葉を介して概念の現実態となるのです。<モノが、私達の知覚の対象となり、種類と言う側面が概念として認識される>と言う認識構造のレベルでは、<モノとその種類と言う側面>と言う区別から、モノには多様な側面が有るとして、ひとつの側面を<色>として表す場合、モノのどれがその<ひとつ>であるのかと言う疑問が生ずるのです。立方体に対して、6面の各々が、違っていると視知覚されている時、<赤い色><黄色><青色><黒色><緑色><茶色>と言う言葉で表されている立方体は、その六色のモノと言う事に成るのです。<六面体の立方体に対して、各々の面を持ち、各々が色をなしている>と言う言い方は、その立方体を面として見ると、四辺形 で面が出来、六面あると言う事に成ります。つまり、バラバラな六面がくっ付いて立方体になったと言う事では無いのです。「六面の立方体=実体、各六面=属性」と言う区別は、論理概念のレベルでの区別で有り、だから<諸属性を集合すると、立方体がデキル>と言う言い方は、論理概念の区別を、存在概念の区別であるとしてしまった事なのです。
ヘーゲルの観念論
世界を絶対精神と言う理念の歴史的自己展開とみなし、認識だけでなく自然の物質や社会、宗教までも含んだ絶対的観念論を主張した。

形相と質料・2003/08/11


古代ギリシヤにおいては、今日の諸学問の相当するものがすべて哲学として懐胎され展開された。イオニアの自然哲学者達は、事物が「何で出来ているか」を、主に観察を通して探究した。
個物は無秩序な混沌のうちに有るのでは無く、この人であれこの机であれ、何らかの類種概念の下に包摂されており、一定の間、秩序を持って個物としてないし種として持続している事に気付くのです。そこから存在者はみずからの背後に何ものかがあり、それにより支えられているのでは無いかと言う予感を持つ。
生きているものは、すでに去った無数のあらぬものと区別され、また今成りつつあるものとも、いまだ無いものモノとも区別される存在である。身の回りのすべての有るもどもは、様々なすがたをもって、付属品を身に着けて存在の最前線において現在を共有している。存在の「まさに存在自身」としての本質が有ると言う事に成る。
<イデア論>のもっとも無難な理解は、なんであれ基準となるもの例えば<美それ自体>を前提にしなければ、何かについて美しいと語る事や、他の美しいものとの比較はできないのでは無いかと言うものである。しかし何かについてそこに<それ自身>と<美そのもの>があつて、何かについて知覚する時、その何かから<それ自身>を取り除き、<美それ自身>をとりあげることで、そのものが、美しさを持つと呼んでいるのです。<美それ自身>と言う事で、ここのモノの美しさに程度が有ると言う事をどう説明するかと言う事に成る。
形と形態:ここに三角形状のクッキーが有るとする。鋭角の三角形状、鈍角の三角形状であるが、これらを私達は、三角形として知覚する。この時の<三角形として>と言う事をフォルム、形相と言うのです。これに対して、これらのクッキーの中の一つを取り出して、その形、色合い、焼き具合などに注目した時に認められるものを、形態、ゲシュタルトと言うのです。その三角形状が、個々のクッキーにおいては、少しづつ違っているのであり、その個々の三角形状を形態という。個々のものを、共通の三角形状と言う側面で見る時の、その共通性たる<三角形状>をフォルム、形と言い、共通性が個々のモノにおいてあるものをゲシュタルトという。個々ののモノがみな少しづつ違うと言う認識は、個々のモノに対する知覚に対して、さらに共通性と言う判断を加えた所に成立しているのです。この共通性は、個々のモノを、一定の集合として捕らえている事であり、だから個々のモノは、相変わらず個々のバラばらなモノとしてでは無くて、一つのまとまりとして捕らえる事なのです。そのまとまりの中では、個々のモノは、自己以外の他者とおき変わりができると言う事なのです。
個々のモノの個別性として、例えば映画館の100席の椅子は、みな形態は同一でありるがしかし<違う>点が有るとしたら、それは映画館と言う空間の中での配置が違うと言うとなのでする。その空間の位置の違いは、映画館の空間に任意の原点を置きそこからの距離の違いを椅子の違いとして表しているのです。つまり、100個の椅子は、その形や色や材質は皆同じと言う事なのだか、それが100個と言う固体としてあるのは、一個一個が任意の空間の中で位置を占めると言う事によって表されるからなのです。

本  質・2003/08/04


古代の哲学者は個別的な事物が「質料」と「形相」の二つの面を持っていると見なした。質料とは事物の素材や部品を言い、形相とは素材を使用して目的の事物を制作する方法を描いたいわば、設計図に相当する。個別的事物である車は、歯車やシャフトや車輪等の素材や部品である「質料」出来ているが、歯車と言う部品は飛行機にも使用されているのであるから歯車と言う質料だけでは、その歯車がどんな事物の使われるかは、その質料としての歯車がどんな形に作られたのかと言う、形相のよって規定されなければならないと言う事。飛行機の設計図と車の設計図とは、別々であり、別々の図によつて、歯車と言うものが作られたとして、A個物もB個物も種類と言う側面である歯車と言う事は同じでも、個々は、別々のモノに使われるのです。
素材や部品で特定の事物が作られる時、その事物の特定性を決める<事物がなんであるか>と言う形相を、事物の本質と言うのです。事物は様々な属性を持つが、もしその属性を失えば当の事物が本来のあり方、事物がなんであるか、を失ってしまうような重要な属性を、とくに「本質」と言うのです。
属性の変化とは、例えば、日焼けして肌の白さがなくなり、浅黒く成るということだが、肌の属性が、極端に変化する時、肌の本質がなくなる「実体的変化」を引き起こすのです。事物の属性の変化の中にあっても、変わらずに有るものを、事物の本質と言うのだか、属性の変化が極端に成ると、いままで変わらずにあったものが、別のモノになってしまう事を本質が変化したと言うのです。
本質の形而上学とは、事物の同一性の保存と変容とを巡る物語です。この形而上学の本質とは、「事物が被る変容の可能性を一定の範囲に押し込め制限することである。本質の追求とは、事物の変容における範囲をしることなのです。
記号の意味:伝統的な記号観<他の何かを代表する何か>と言う理解であり、言語とはモノに付与された名称の目録であると言う事です。この伝統的な考え方において、<モノ>はそのまま理解出来る。これやあれが<モノ>と言う事であるが、それに対して例えば<林檎>というインクの後は、いま私が目の前にしている<モノ>の「名前」であると言う事なのです。そこで始めて、<林檎>が見た通りの形をしたインクの跡である事で、視覚として捕らえられ、点字は指の触知覚によってとらえられるのです。そしてこの諸感覚によって知覚されているものが、<名前>と言われる事は、<現に有るものと「林檎」と言う文字>とが形成している関係に対して、その関係からみた文字の事を「名前」と言うのです。両者が指示の関係にあり、その関係が、モノと文字とに実体化したことにより、<指示するもの指示されるもの>と言う事に成っているのです。関係は、二つのモノの間に有ると言う事なのだがしかし、その間とは、二つのモノに対して第三者と言う事では無いのです。関係はその関係を形成している二つのモノに、実体として存在すると言う事なのです。<林檎>と言うインクの跡は、わたしの目の前の<モノ>を指示する、名指すと言う事で、<名前>と言う事なのだが、ここから真の問が生まれるのです。<名指す>とは、どんな概念の表現であるのかと言う事なのです。目の前の<モノ>が、<林檎>と名指される時、その目の前のモノは、別の時の目の前のモノも<林檎>と名指されているのであり、多数の個別のどれも皆<林檎>と名指されているのです。その名指しは、目の前のモノに共通するものを、各々のモノに見つけていると言う事であり、その見つけているものを、<林檎>と言うインクの跡にして目の前のモノに対応させるのです。つまり、私達が目の前にしている<モノ>の共通性が知覚され、その知覚を<林檎>と言うインクの跡に対応付けと、そのインクの跡は、共通性についての知覚内容が表現されていると言う事に成り、その表現物である<林檎>と言うインクの跡を、目の前の<モノ>に対応付けると、目の前の<モノ>は、その共通性と言う側面ではなく、<モノ>自体が、共通性の現実体となるのです。つまり、知覚レベルでは目の前のものは、そのものと、同時に他のモノとの共通性と言う部分を捕らえているのであるが、それが表現と言う形態を取る事で、そのもの=共通性 と言うことになり、目の前のモノの何処が<林檎>であるのかと言う事にはならないのです。目の前のモノそのものが、正にその通りなのだと言う事なのです。
認識のレベルでは、個別的な事物に対して、その中に他者との共通性の存在を捕らえる時、個別としての事物だけにあるものは、どうでもいいものとして扱われてしまうのです。しかし言語表現においては、個別の事物における共通性が、言葉として表され、その言葉が個別の事物を名指す事で、名指されている個別の事物は、その固有のモノそのままで、言葉の表す共通性についての認識の現実態となるのです。事物は、認識の対象としては固有と共通性の区別としてあり、表現が係わって行くとき、共通性が固有と言う姿をして表れていると言う事なのです。そしてこの考え方は、認識のレベルでの<モノそのもの>と<その属性>と言う区別に対して、その区別のまま、属性をどれだけ集めると<モノそのもの>になるのかと言う思考が生まれるのは、その区別の各々を存在としてしてしまうからです。つまり、歯車や車輪をどれくらい集めると一台の車に成るのかと言う事と同じになってしまうのです。車そのものが、鉄製品やゴム製品、アルミ製品の部品から出来ていて、その部品相互の組み合わせで一台の車が出来上がるとき、部品相互の関係は、車輪を回転させる事で移動する車の概念から生まれて来るのであり、もし空中を飛ぶ事で移動するなら、その概念にのっとって部品の相互性が決まると言う事なのです。つまり、部品と言う考え方は、部品相互の関連が、一つの全体から規定されて来るのであり、その全体の規定を概念と言うのです。地上を移動する物体にのって人間が移動すると言う概念は、移動する物体の車輪の丸いと言う形態による回転とその回転を作り出すと言う方法が、具体化されるのである。馬や牛にのって移動する方法から、車付きの台車を馬が引く事で、台車の移動を実現すると言う、車輪の回転を作り出す方法としての馬や牛の働きまでを過程として考慮する事で、車の概念が成立して来るのです。
事物の<本質>とは、その事物の諸属性の集合離散を一定範囲に制限する事です。
記号学:
旧来の記号観−−「他の何かを代表する何か」であり、記号学の一つである言語学では、言葉とはモノに付与される<名称>の目録である。
ソシュールの記号観:記号表現(聴覚映像−−物理音を一定の形相で限定する事で成立つ)と記号内容(概念のこと−−渾沌とした観念的素材を形相で限定する事で成立つ)とが表裏一体となす構造である。言語記号は、記号体系(ラング)の中で一定の価値を付与されつつ概念を担う。これが言語記号の「意味」である。
私達は、ソシュールの到達点から逆に世界に引き返してみる。ここに椅子があるとする。それは多くの素材から出来ているが、それらは全て椅子の部品として加工されているが、それらは形相により限定されて<椅子>と言う記号の為の表現を提供しているのです。
私の目の前の<椅子>と言う言葉で名指されている<モノ>は、記号が「意味するもの」であるかぎり、すでに記号なのです。その<モノ>は、何かを意味しているのです。しかし、庭の真ん中に50四方の石がおいてあり、私は部屋から庭に出た時、椅子代わりに腰掛ければ、その石は<椅子>として働いている。<椅子>と呼ばれるモノは、その形が、私達が腰をかけるのに良いものである事で、決まるのであり、だから50cm四方の大きさの石の場合でも、その大きさが腰をかけるのに良いなら、何時でも椅子として使うと言う事なのです。<腰をかける>モノであると言う事が本質であり、概念です。その本質が多様な形態として表れているのであり、特定の大きさの石が椅子と言われるのは、石の特定性によって、本質が示されているからです。ただ石はその重さで、片付けなどが容易では無く、庭に置きっぱなしにしておく以外なくて、部屋の食堂の椅子としてもつて来る訳には行かないのです。本質は、私達が腰をかけると言う所にあっても、その椅子を生活の中の他で使用したり、方付けたり等の事からも規定されて、作製されると言う事なのです。山の伐採した木々の株根っこがその形から椅子として使われると言う時も、<椅子として>と言うことで、腰をかけると言う概念が規定されているのです。仮に<椅子として>と言う事で、椅子が食堂にあるモノをさすとしたら、その食堂にある椅子と呼ばれる<モノ>があらわす概念をここでは言っているのです。食堂にあるそのモノが椅子と呼ばれる時、<椅子>と言う言葉に表されている概念は、そのものが持つ他者との関係が、私達の頭の中の認識として成立しているものを言っているのです。そのものと他者との関係とは、そのものが、私達人間と、その形で私達の腰掛けると言う活動の媒介となるのです。そのものは、多様な材質として成立し、その材質は私達の腰掛けると言う活動がなされる場所、休憩の時、勉学の時等、その目的によって、さらに子供であるか成人であるか老人であるか、によつても決められて来るのです。しかしその多様性は、本質としては<人間が腰掛けるもの>と言うレベルとして成立しているのです。この本質のレベルに対して、食堂にある椅子と名指されているモノは、<モノ(実物)−−椅子(言葉)>と言う名指しと言う関係としてある。<モノ>は、その形や材質でモノ以外の他者である人間の、腰掛けると言う活動に係わるのです。多様なモノと色々な人間とがあっても、形相としてのモノである特定の形によって、人間の腰掛けると言う活動との関係が形成されるのです。そしてこの関係が人間の頭脳へ反映される事を<概念>の成立と言うのです。五感によってモノの多様な面が、木として金属として知覚されたり、その形が知覚されていて、さらにそのモノにたいして身体の活動として腰掛けると言う活動がなされることで、椅子に腰掛けると言う事が成立するのです。
<この実物の椅子がすでに「記号」と言う、意味するものなのだ。>と言う言い方は、この実物が、人間が腰掛ける為の媒介、道具となっていると言うことである。かりに50cm四方の石があってそれにも腰掛ける事が出来て、椅子として使う事であっても、<椅子>と言わないのは、その形と大きさだけが、腰掛ける道具として成立しているだけであり、それがたまたま自然の中にあったと言う事だけです。<椅子>と言う言葉で名指されるのは、腰掛けるものが、その形や大きさで決まっていても、さらにその形や大きさのモノを人間が自ら作り出して行くと言う事の上で、言えるのです。アメリカコミックの原始家族の中では、原始のとおり道具はすべて石で出来ていて、椅子も石と言う材質で出来ているのであるが、しかしその石の椅子は、たまたまその形や大きさのモノがあったからと言う事では無く、あくまでも現代の椅子の形をしたものなのです。だからそれが石で出来ていても、椅子に変わりは無いのです。それに対して、河原に出て歩き疲れて回りの石をみつけてそれに腰掛けたとしても、それは私達が腰掛けえる適当な形と大きさであると言う事であるが、しかし椅子としての働きをしているのです。つまり椅子の本質は備えているのです。それは<腰をかけるもの>と言う事が本質であり、その本質がどんな形態として表現されるかは、どんな状態で腰掛けるか等によって材質や形が決まるのであり、それを工業デザインとして実践しているのです。
人間が経験しうるすべての事物や事象は、意味する限りにおいて記号にほかならない。

属  性・2003/08/04


インド哲学
赤い林檎を考える時、赤色と言う属性が林檎と言う実体に存すると考える。林檎には赤色の他に香り、味、重さなどの属性がある。それらの属性を「法・ダルマ」と呼び、その属性の基体としての実体を有法・ダルミンとよぶ。

実  体・2003/08/01


いかにも哲学の言葉らしい、厳めしい響きを持つ言葉。
この語は、日常我々が「もの」とか「対象」とかよんでいる事柄の事をさしている。
(1):それ自体独立で、他のものに依存しない。自存性
  アリストテレスの実体と言う考え方を徹底した所から生まれて来た。
     <心>と<もの>をそれぞれ実体とするデカルト
     神のみが実体とするスピノザ
     あらゆる述語を内包した究極の主語としての<モナド>を措定したライプニッツ
      (2):実体となるための実現にあたって、主語の位置を占め、それ自身は他の主語の述語     とならない。
(3):変化を通して持続する
(4):活動の原理をそれ自身の内に持つ。
(4)は、実体と規定されるモノAのあり方が、他者を必要しない変わりに、A自身の中に変化の原理を持つと言う事である。
ものと多様な性質の間の問題です。
プラトンにあっては、見たり聞いたり触ったりできる感覚的対象は、時と共に変化し、また人によってその判断が異なってもいる以上、それらは「本当の意味」で、<ある>のではなく、<本当の意味である>のは、「イデア」と呼ばれるものなのです。
花:時が立つと枯れ始め、その美しさも無くなって行く。
「美しいのそれ自体」−−イデアとして存在し、「諸々の美しの」−−現に五感で知覚されるものとして存在するのであり、その二つのモノの関係が問われるのです。
この二つの関係についての解答の説明として、「モデルとコピー」と言う、日常の論理−−絵画や写真や彫刻、光による影等−−が使われたのです。通常我々が感覚的個物と呼んでいるものは、実際は、現に五感による知覚が行なわれているその時に同時にということなのだか、様々なイデアの写しであり、<このイデアの写し>とは、スクリーンに投影され光の像としてイメージされれば、納得と言うレベルでの了解できます。しかしこの映画のスクリーンは、比喩としてだけであり、現に<知覚されているもの>は、その現にと言う事で対象が確認されているが、その対象にたいして<イデア>と言うモノが、何処にあるのか、その対象を確認しなければならない。しかしこの言い方は、「五感の知覚による対象の存在」と言うレベルをそのまま<イデアの存在>に当てはめようとしているのです。つまり、五感と言う私達の認識能力は、現に知覚去れているものを対象としているが、イデアは、どんな認識能力によって存在がとらえられるのんかということです。五感にたいしては、思考と言う能力と言う事に成りそうです。五感が諸々の変化を見ているのに対して、思考はその変化の間も変わらずにあるものを実体として捕らえる事なのです。つまり、<イデア>と言う存在がすでに<捕らえられて>いて、五感による知覚による対象と区別されている事を前提に、ただ<イデアの存在−捕らえる>と言うことを明らかにする事なのでしょう。
プラトンは、五感が知覚する対象の存在とは、諸々の諸性質を存在として知覚しているだけであり−−<性質が「ある」>と言うのは、五感による知覚の対象となる事である−−その諸々の性質の統一したものがあると言う方向に進むのです。その統一したものをイデアとして、イデアの存在と感覚が知覚したものとの関係を示したのです。この統一している事五感による知覚の対象にはならないである。諸々の性質は、知覚の対象になつているが、その統一されている事は、知覚の対象にはなっていないのです。五感による知覚の対象として諸性質の存在が得られるが、その存在同志が統一されていると言う事は、別の認知力ということなのです。
アリストテレス
   第一実体「このモノやこのある人と言った具体的な個物を示している。」
   第二実体「種としいてのひとや馬、類としての馬」を言う。
基体のうちにあるとともに、主語が述語づけられるものが、実体以外の「質」や「量」や「関係」と言った、様々なカテゴリー(本来は、述語をいみしている)に属する付帯的属性である。
アナクサゴラス:諸性質を実体化して、感覚的事物をそれらの要素の合成体とした。
プラトン:事物を非実体化して、諸性質の束とした。

構  造


言語記号の網の目は、構造を成している。語の意味はそれが構造の中で占める位置であるとされている。語の意味はそれが他の語でないと言うこと、すなわち、差異として定義される。構造全体は差異の体系である。これをソシュールは、ラングと呼んだのである。実際の発話であるパロールと区別する。ラングは抽象的な社会的共有物であり、言語学の研究対象である。パロールは現実的で個人的な行為である。 音声表象/概念の統一体と言う前提語は他の語との連合であり、其の連合体を構造とするのであり、構造の中での位置を、その語の意味とする。
箇々の語は、何ものでもないが、構造体の中の位置が決まると同時に、箇々の語は何ものかになると言う事。
 つまり、一つは、箇々の語にそれぞれ意味があり、其の箇々の意味の連合で
         言語と言う構造体ができると言う考え方。
     二つは、言語と言う構造体があり、其の構造体の中の位置が、語の
         意味をキメるのだと言う考え方、そして位置が決まらなけ
         れば箇々の語の意味もきまらないのであり、箇々の語は単
         に、それぞれが違うと言う差異だけなのだと言う事になる。
言語は差異の体系であると言う時,一個一個の語には、自分は他とは、違うのだと言う事しかなくて、自分は何かであると言う事はないのです。しかし箇々の語には何もないと言う事では、リンゴと言う語に、あるものを無視している様におもえる。
つまり、言語はその全体の構造体で意味を持つのだが、同時に箇々の語も意味を分け合っていて、その分け合っているものを合わせて、構造の意味になるのではないかと、考えてしまうのです。諸部分の集まりが即全体であるか、諸部分が集まる時、集まった事でプラスアルファを含む全体が成立するのだと言う事か、になります。

ここでは、言語にある構造とは何かと言うことが問われなければなりません。
車の構造を考える事とします。車と言う構造体があり、其の構造で路上を走るのですが其の構造体を形成する箇々の部品は、構造体のそれぞれに位置があり、其の位置により自らの働きをするのであり、さらに、それが他者とと連合した働きをするのは、他者と違う自分であり自分独自であるからだ。しかしその独自性は、構造体から規定されたも
のであり、一個一個はそれぞれ独自であっても、制限された独自性があるのです。つまり、それらの部品は車と言う構造体の各部品であり、けっして飛行機の部品が入っている訳ではないのです。他者 と違っている事には変わりがないが、同時に違いが独自性ということなのです。箇々のものがそれぞれ独自である事で、さらに相互に連合すると事で、構造体を形成する。そして、箇々の物を見ても、それだけでは、構造体がどんなものなのかは、解らないが、その構造体が路上を走ると言う視点から見る時初めて、走る為の構造が知られ、走る為にどんなものが必要になるかと言うことで、部品の独自性が予想されるのであり其の予想を前提に、具体的な構造体が作られるのである。構造体と部品とは、相互に規定するのだが、其の構造体が何であるのかを見ないかぎり、其の相互性を捕らえキレないのです。その車と言う構造体が「何であるか」と言う問は、車の構造体の内部の部品以前に地上を走ると言う面が確認された上で始めて、現れるのであり、地上から離れて走ればそれは車と違う飛行機ということになり、構造も違って来るのです。つまり、その構造を決めるのは、それが「どんな働きをするのか」と言う事であり、その働きを前提にすれば、流線形になつたり、箱型になつたりという変化があつても、そしてその変化にあわせて部品が替わっても、地上を走る事である限り、そして離陸しない限り地上を走ると言う構造は、代わらないと言うのである。

<概念の二重化>

(2002.02.15記)
「…三浦にとって、現実の具体的な言語とは、このように表現主体が<対象>から認識した超感性的な<概念>が、言語規範によって規定された<概念/聴覚映像>(つまり、ソシュールのいうシーニュ)との照応をへて、感性的であると同時に超感性的でもある物<質的な形式として、<表現>にまで高められたもののことをいうのである。表現主体の認識した<概念>は、すべて実践的に抽象的であり、その点においてつねに感性的な表象とともにある<概念/聴覚映像>とは区別されるべき存在なのである。 (川島正平著
『言語過程説の研究』p.82〜86)」

<対象>から認識した超感性的な<概念(A1)>
    (表現主体の認識した<概念(A1)>、すべて、実践的に抽象的な
     概念(A1))

言語規範=概念(A2)/聴覚映像
   (感性的な表象と同時に種類と言う側面での超感性的)この聴覚映像
    は男の声でも女の小声でも、大人の声でも、子供の声でも、皆音声
    の質がちがっていても、例えば<ふじさん>と発声した時、その音
    声は、音声のおける種類とい側面が、同じであると言う意味で、直
    接的な感性−−−それぞれの音質−−−を超えて、超感性的と理解
    します。そして、これを感性的な音声の、種類と言う側面に対応し
    ている事で、超感性的と理解します。つまり、神秘的な、何処にあ
    るか解らないが、 この世とは違ったあの世に有る様な物としての
    <超>感性的ではなくて、感性的なものそのものが、同時に超感性
    的と言う意味なのです。あくまでも音声であって、神からのテレパ
    シーが姿を変えて音声になつているから、超感性的ではないのです。
    耳が知覚するのは音声そのものであり、音声そのものを認識するの
    で、感性的認識と言い、そりに対して、音声のある特定の面−−こ
    の面は、数学のフーリエ級数で記述できるのです。
    そしてこの記述ができる事が、私達が今使っているこのコンピータ
    ーが発声する音声の合成の根拠なのです。

そして、此のA1、A2二つの概念が、言語表現において、統一されている事を<概念の二重化>と規定しているのでしょう。この二重化されたと言う事は、もともと一つの概念が、言語表現の構造から、言語の本質の面からA1A2の二つにわけられるが、しかし言語表現としては、一つになつていると言う理解をすると、その<もともとの一つの概念>とは、一体何であるかと言う問が頭の中に浮かんだとしたら、概念を実体として把握し始めているのであり、その実体としての二つの概念がどのように構造でかは解らないが、

さて、概念について、別の観点から考えてみます。
 対象----認識----表現           ----(1)
 対象----概念と言う認識----言語表現    ----(2)
と言う過程的構造を前提にすると、言語表現は、認識としての概念を、認識の外部に物質としての文字や音声や身振りとして表現することであると言う事に成ります。そこで、この言語表現の本質論を踏まえて、次の事を考えます。
時枝文法によって、示された日本語の特徴である<詞と辞>についての説明は以下の様に成ります。
 詞(客体的表現)----話し手が、対象を概念として認識し表現したもの---(3)
 辞(主体的表現)----話し手の持っている感情とか意志等を、概念として認識せずに直接表現したもの---(4)
さて、(2)が言語表現の本質論であると言う時、それは、表現のなかに貫徹していると考えることであり、すると認識は概念として成立しているのであるから、(3)は、本質にかなうとしても、(4)の言い方では、概念として形成されてない認識が、言語として表現されていることになる。そして此の概念化されない認識とは、ここでは、感情とか意志と言った言葉で表されているものらしいので有り、言語として表現されると言う事に成ります。
(3)の場合、例えば、<mountain(山)>と言う言葉は、私の目の前の<それ>を知覚することにより、知覚の内容が概念として形成され<mountain(山)>という言葉に表現されるので、概念ということは、はっきりしないが、それらしいものが有るらしいことは、解るというのでしょう。
そして、此の概念は、(3)の場合、概念化され、(4)の場合、概念化されないと言う否定の言葉に成るのだし、(4)を感性的認識とすると、(3)は、超感性的と言う否定的言葉に成るのです。つまり、お互いに、他者の否定としてしか規定されていません。
(2)を前提にすると、詞と辞との規定は、言語の経験から生まれた、それらしい結論になっているのであるが、しかし、これはあくまでも、言語の本質を踏まえた結論ではないのであり、(3)の様に<対象と概念>という規定の視点から、辞を見た時そこには、何も無いが、しかし、言語であるから、私達の考えや、思考にみあったものとして感情とか意志が、<そのまま>とか<直接>と言う事で、結論されたと言う事では無いでしょうか。
詞も辞も、認識を表現しているが、詞は概念と言う認識を、辞は概念化されない認識−感情とか意志といった事らしい−を表すと言う事で理解しますが、しかし、此の理解は       <認識>と、<概念><感情><意志>等とを、
ゴチャマゼにした理解にほかならず、認識とは、あくまでも(1)の表現の本質論のレベルで使われる言葉であって、あえて言えば、その認識という言葉は、認識が示す概念とか感情とか意志等の言葉が示す対象を問題にするときの媒介となるものであって、決して認識自身が、何かに成るといったものでは無いのでしょう。
認識と言う言葉と、概念、感情、意志と言う言葉が表す過程的構造−この言い方は、(2)を前提になされているのであって、従来なら対象が、色々求められるのでしょうが、過程的構造から見れば、同一の対象にたいして、多様な種類と言う側面が認識されるので、表現が違っていると言う事なのでしょう。
これは、概念の<内包と外廷>と言う規定が種類の関係を表しているのと繋がります。そこで、(4)に対して、(3)の様に対象が概念化されていないと言う事は、現象論というレベルでは、確かにそうなのだが、飽くまでも、(2)を踏まえれば、辞に概念がないのでは無くて、(3)の概念化されたもの同志の関係−概念同志の関係とは、ヘーゲルの言う様に、判断ということで、判断論で明確になるのでしょう−−が、辞として表現されるのであり、そして関係である為に、概念の様に見えないために、あとあるものとして、感情とか意志が措定されいるのであり、<そのまま><直接に>と言う事で、対象化されていないと結論しているのでしょう。更に言えば、<そのままの>ものが、概念化されると、<さみしさ><かなしみ>と言った詞となると言われるのです。
つまり、辞は、感情とか意志が、そのまま、とか直接にと言った事で、認識−−表現と言う構造を成立させていると言う考え方は、(1)という本質論のレベルと現象論のレベルを、同一視したものであり、本質論は思考の段階では、あくまでも、媒介ということであり、(1)の本質論での<認識>が(2)での<概念>に変化するのでは無く、<対象--認識--表現>という構造論を前提に、言語表現を分析すると、概念という特定の認識で有る、概念が、規定されるので有る。
 Aさんが兄で、Bさんが弟であると言う、AとBの間に兄弟と言う関係が成立しているとき<関係が間にある>といっても空間的な間と言うことでは無いが、AとBが、その親Cを介する者同志であると言う事を、間に関係があるということなのである。
<概念>を対象の種類と言う側面の認識であると言う時、種類と言う側面にも色々にレベルがあって、箇々の種類と言う側面の認識が、つまり概念が、相互に関係を形成する時、同時にその関係自体を、私達の判断と言う働きとして、辞として言語表現するのでしょう。
色々なものが種類という側面で認識されてくると、それらは頭脳の中で概念となり、概念相互の関係が、判断と言う思考として成立し、概念は詞として表現され、関係は、つまり判断は、辞として表現されるので有る。ただ、此の言い方は、発生史的なものの様に見えるが、あくまでも、構造を言葉として表す為に<対象があってそれを認識し、更に概念化し、言葉に表現する>と言う言い方に、成るのでしょう。

ここで少し、視点をかえてみます。
英語の格と言う概念が有ります。
  例えば   <I 、 my 、 me 、mine> ----(5)
  という規定を、日本語に翻訳すると、
<I= 私は、私が><my=私の><me=私に>
        <mine=私のもの>
というようになり、<私>と<は、が、の、に、のもの>が、二つ組み合わさって英語の一文字に、相当するようなのは、つまり、詞と辞の組み合わせよって成立しているものが、英語では、一つのもので表されているのであり、だから、
       <I Have a book。>における、<I>は、私や僕ではなくあくまでも、詞と辞の統一であり、<私が、か、私は>と成るので有る。
更に言えば、日本語では、変化せずにある <私>が、格助詞によつて、変化すると言う考えが成り立つ時、では(5)において、四っの変化にたいして、変化せずにあるものとは、何であるかと考える事が出切るのでは無いでしょうか。what(何が)<I>になり、<my>になり、<me>になり、<mine>になるのか?と言う考え方は変化や区別は、同一なものとの、一体としてあり、同一なものが有るからこそ、区別が成立すると言う考え方に成るのです。
日本語の場合、<私>と言う言葉が、そのまま変化しないものとしてあるが、英語の場合には、変化したものとしての<I、my、me、mine>が言葉として有るだけで変化しないものを想定する事は、可能かどうかと言う思いは、結局、<変化と同一の統一>と言う考え方を、知識として、私が持っているからでしょう。

表現の過程的構造


表現における過程的構造について考えてみます。
     <対象(A0)----認識(B0)----表現(C0)>------(1)
(1)は、図表表現(C1)に当たります。(1)の表現の意図は、つぎの様に成ります。<−−>の破線は過程的と言う表現であり、その過程の、最初−中間−最後を、対象(A0)、認識(B0)、表現(C0)と言う言葉が、占める事に成ります。

では、その破線が表現する、過程的とは、どう言う事なのでしょうか。それは、対象と認識の関係、及び認識と表現の関係が、過程的構造として有ると言う事であり、私達は(1)の図表を見た時、自己の経験に照らして、何となく、図表が言おうとしているもの理解するのです。表現は、認識が表現されており、さらにその認識は、対象についての認識として成立していると言うように。三つの語彙と破線とのつながりが、現に今記したような位置での順序になっていることで、その順序に過程的ということを、見るのでしょう。
(1)について、それが、図表と言う表現であると言う事は、(1)の中のC0と言う言葉で言おうとしている事の、具体的な例と、理解できるのでしょう。ただし、此の具体性は、表現一般と言う事に対して、ある特定の表現であると言う事で、ここでは図表と言う事に成ります。と言う事は、(1)に対して、私達が、それを目にして理解しょうと言う事は、(1)と言う具体的な表現(C1)を介して、認識(B1)と対象(A1)を、把握する事なのでしょう。
また、(1)は、現実の図表と言う表現であり、ある認識(B1)が、表現されていると言う事に成るのですし、そのB1を一つの言葉にした時、過定論と言う事であり、他の図表と言う表現にしたものが、(1)と言う事に成ります。
だから、<(1)が、過程的構造を図表したものである。>と言う言い方は、同じ対象(A1)を、一方は、認識(B2)を、他方は認識(B3)を表現したものと言う事に成ります。私達は、(1)を、過程的構造の表現形態として理解する事で、(1)と過程的構造と言う言葉の、両形態へ表現されるB1(認識)が、確認されるのである。
そこで、図表として表現された過定論たる(1)を踏まえて、図表として表現されている事を、経験として理解していくことになります。
<表現(C0)>:この表現と言う言葉は、さしあたって、絵画(2)とか、言葉(3)とか、彫刻(4)とかを言い、さらに、私達の、手をあげる(5)とか、歩く(6)とかの人間的活動(7)を、対象としていると理解します。
つまり(1)の様な過程的構造論を表した図式においてC0と言う言葉が、対象(A0)とするのは(2)(3)(4)(5)(6)(7)等の事を言っていると理解します。(2)(3)(4)(5)(6)(7)が対象となり、表現(C0)と言う言葉として表される時、それらが、表現と言われるのは、経験的には、私達の活動の中で、意図とか思いとかがあつてその思い等との関係から、いわゆる物質としての身体活動つまり、描くと言う運動によって成立した一枚の絵を、表現と規定するからでしよう。その意図とか、思いとかを、ここでは、認識(BO)と言う言葉で表しているのでしょう。意図とか思いを含んだ頭脳の働きは、頭の中から、外へ直接出ていくのでは無く、頭脳の中の成立を媒介して描くと言う活動ををする事で、一枚の絵が、出来上がるのであり、その出来上がったものを、表現と言うのでしょう。

そこで表現の一つである絵画(2)を、鑑賞しながら、考えてみます。
私に(1)の様な知識が無ければ、単に一枚の絵画を見る事であるが、(1)の知識を持って観る場合、絵画を観る事で知覚されている内容が、(1)で言う対象(AO)と言う言葉が、<これら>をさし、認識(B0)と言う言葉が、<それら>をさし、さらに、表現(C0)と言う言葉は、私の目の前の一枚の絵画をさしている事に成ると言う様に、区分けが出きるのでしょう。ただし、鑑賞としての視知覚が、どこかに言ってしまったと言う事で無く、あくまでも、その視知覚から得ている内容に、何かを付け加えていると言う事なのでしょう。

現実の一枚の絵画に対し、
  (1)の図式の内、
     A0と言う言葉の対象は、一枚の絵の<これら>と関係し
     B0と言う言葉の対象は、一枚の絵の<それら>に関係し
     C0と言う言葉の対象は、目の前の一枚の絵に当たる
事で、一枚の絵の上を、指し示すことができるのである。
と言う事は、一枚の絵に対し、それが(1)の様に過程的構造としてあると言う時、その構造が、一枚の絵を介して、認識−−対象と関係するそのあり方が、表現と言う事に成るのでしょう。
つまり、(1)の過程的構造は、過程的と考える時、少なくとも、対象も認識も、表現たる一枚の絵とは、別々に有りそうだとかんがえているのに、つまり、対象は、私達を含むこの周りの物であるし、認識は、私達の頭脳の中で成立しているのではないかと考えられるのに、一枚の絵の中に全てあると言う事に成つてしまうのを、どのように理解すればいいのかと言う事に成ります。
   一枚の静物画--------(8) をかんがえてみます。
  <机の上の皿に三個の赤いリンゴがある図柄です。>
(8)の静物画は、表現であるということ、絵画表現(8)である事を言っています。
この静物画において、
    <机の上の皿の三個の赤いリンゴ>が、対象(A0)となり、
    <対象に対する作者から一定方向からの知覚>が、認識(B0)に成り、
    <目の前の一枚の絵>が、表現(C0)と成ると理解します。
まず、絵画に関係なく、現に私の目の前の机の上の皿に三個の赤いリンゴがあるのを見ています。それを対象(A2)とすると、そのA2と、(2)の静物画の画像とは、A2を観察しながら、描いたものが、(2)であり、A2は、画像として成立していると言う事に成ります。----普通,これを,モデルがあるというのであり,絵画的には,モデルのの描写により,対象の輪郭を表現するデッサン力を養う事に成るのである----さらに、観察を認識(B2)とすると、そのB2は、(2)の中で、一定の方向から見えるリンゴが描かれていると言う事で、表現されているのです。
とすると、対象とは、表現されている一枚の絵の上との色や形での関係を持った事物であり、認識とは、表現されている像のあり方だということになのます。つまり、事物に対する多様な見方のうち、いまの時点の形や色や見える方向が描かれる時の、その一定方向から見られた事物が、表現されたと言う事に成ります。

此の時、対象に対して、<一定方向から見る>と言う認識−−私は、此の椅子の所からリンゴをみているのである−−は、絵を描かなくても、成立しているが、だからといって、私が椅子にすわり机の上のリンゴをある一定の方向から見ていると言う事が、<認識>として、実体として独立して成立している訳では無く、認識が実体として単独に動き回っている訳で無く、単に眺めていると言う事であったり、そのリンゴに手をのばし手にとり、そして、かじって食べるということであって、認識を伴った身体活動として存在してあるのでしよう。
つまり,方向としては,四方八方から眺めている中で、ある特定からの眺めを、一枚の絵の表現する時、表現されている像と関係が有る特定からの眺めの事物が、対象と言われるのである。一定方向から見られた諸物が描かれた時、その描かれた像から、認識を振り返ると初めて、流動的な思いとか意志と言った認識が、実体という、固定された規定を受けるのであり、さらに、認識−表現と言う関係が過程として規定されるのであり絵画と言う表現は、私達の表現形態、つまり、意志や意図を実現する物質形態の、特徴的な形態として私達に有るのでしょう。

ここで、問題になるのは、私達が、(2)と言う、表現としての絵画を目の前にして鑑賞しているとき、そこに描かれた画像を、上の様に、対象と認識と言う様にわけて考えようとするのは、その画像が、それ自体としてある諸物を、私達が一定の方向から見ている面を描いたものであると理解する事で<画像>を、目で見ている諸物と、関係付けようとする事なのであり、その関係−−色や形や材質等を比較する事−−を前提に、対象になる諸物と例えば、見上げるとか、俯瞰するとか言った視知覚すの位置を、認識として規定する事で、物質形態として表現するのである。つまり一枚の絵を前にして、それが表現であると規定される事は、多様な事物と多様な認識とに対して、ある特定の事物が、特定の認識として表現と言う形態に関わると言う事である。
さらに、絵画として、教会の窓に佇む天使像は、作者の見上げると言う位置と、空想の存在である天使が、頭の中の想像として形成されその想像された像に対する認識が、一枚の絵画として、表現されて居るのを考えてみます。
天使像の場合、鑑賞すると言う絵画表現の所から見ると、<見上げるような位置の><教会の窓に佇む天使>が、絵画に描かれており、それを過程的構造で把握すると対象とは、<教会の窓に佇む天使>であり、<その対象が見上げるような位置>として認識され、そして絵画として表現されたのだと。
そこで、静物画の場合、対象は、<私の目の前のそこに有るもの>と言う事に成り
     描かれた絵画上の像 と 私の目の前のそこに有るもの
を比較して、色合いとか形とかを比べるのである。
それに対して、天使像の場合、リンゴの様に存在しているので無いのだから、そこに対象あると考えると言う事は、リンゴの絵とは違った考え方をしなければ成らないのでしょう。では、天使像が描かれていると言う時、絵画表現の本質から見られた対象とは何かと言えば<光りと色と形>の認識を、つまり感性的認識を、表現として、絵の具等の物質にて、描く事なのであり、その<光りと色と形>が、対象に成ると言う事であり、物の輪郭が作者の視点の位置により決まる事で像の構図が決まってくるのである。
とすると、対象としての<リンゴ>や<天使>と言う事は、<天使>がリンゴの様に存在するので無いのだから、同じ対象と言う訳にはいかないのであり、事物は、<光りと色と形>として認識され、<光と色と形>の組み合わせにより、リンゴであったり、天使であったりする事であり、更に言えば、何故リンゴで、何故天使かと言う事は、絵画と言う表現形態以前の、生活とか思想といった事に関わるのであり、さらに現代美術の色の直線だけの絵画が、絵画表現であると言うのは、正に絵画表現の本質を示しているのである。

概     念

2002.03.20記
概念;人間の思考活動の基本的な形態であり、事物についての概念を形成し、これを使用する事で事物の本質的な特長を捕らえる事ができる。
人間は、事物につてい、思考によって把握する。
まず事物についての概念をを作り出し、その概念を思考によって使用する事で、眼の前の事物の、本質的特長を、思考として把握する。単に眼の前の事物であるなら思考が把握するものは、非本質的なものになっているのです。思考のとき概念が関わるかどうかが、本質的特長を捕らえたかどうかの違いなのです。
概念は、言語と共にうまれ、言語によって表現される。しかし、概念が言語として表現される事に対して、言語以外の表現があるのだし、何故言語が目立つのかと言えば、それは、<概念>と言う語彙に端的に現れている様に、箇々の語彙が、<ガイネン>の表現であるなら、<概念>と言う名詞は、それが示されているのです。
言語によって表現された概念のことを「名辞」(名詞または単語)と言う。主語とか述語として命題(言語表現)の構成要素となるものです。<箇々の語彙の一つ一つが、概念を表現していると言う考え方>ここから、語彙の組み合わせとして文章ができるのであり、概念の関連が成立すると言う事になる。
ある全体として概念があり、箇々の語彙として分化し、それらを<て、に、を、は>で纏めあげることで、<ガイネン>が表現されたのです。この時の箇々の語彙として分化し、統合する過程が、概念の表現と言う事になる。
  「人間は動物である」と言う判断:人間、動物と言う名辞に表現されている<ガイネン>しかし、<は、で、ある>も<ガイネン>を表現しているのであることを、概念の定義から明らかにして行くのである。

事物についての概念をつくるとは、事物に名前を与える事である。命名の対象は、固体としての箇々の事物もあれば、固体の集合、集合の集合というものまで、対象が広がっている。
一般的概念:類似した多くの事物を比較して、それらに共通な特長を抽象し、総括する       事によってけいせいされる。
哲学史:
    概念と実在の関係、あるいは概念の起原とその認識における役割についての様     々な問題が提出されて来た。
 中世:概念の実在性の問題としての、実念論と唯名論−−普遍論争
 近世:概念の起原を、感性的知覚にのみ求める経験論と純粋に悟性または理性の働き     によって産出される合理論
カント:純粋悟性概念(範疇)(カテゴリー)は先天的に備わっている思考の形式であ     り、感覚によって得られた多様な表象と結合し、それを構成する事によって認     識がせいりつする。
    カントの弧の言い方は、<概念が人間の思考活動の基本的な形態であり、事物     についての概念を形成し、これを使用する事で事物の本質的な特長を捕らえる     事ができる。>と言う概念の規定に対して、どの様にして生まれてくるかと言     問いが、成立してこない事である。後の問題は、その持って生まれている概念     範疇が、どのように発現するかと言うことになる。発現の構造が解明されると     いうことになる。
ふつう形式論理学で言う概念は、具体的な物からの抽象によって形成されるものであり抽象化によって一般的となるものである。ヘーゲルは、抽象的な概念は具体化される事によって真に一般的になると考えた。
具体的な事物の持つ多様な性質の中から、それらに共通なしかし本質的な性質を取り出す事は−−概念の内包と外延を決める事−−事物の性質や他の事物との関連についてのの多くの経験や思考を積み重ね事によって除除に行われるものなのです。
具体的な物があり、それを私達の抽象能力によって分解し、諸具体物の、一つの共通なものを中心に、幾つかのものが集合される事で、具体的な物は、一般的と言う側面として把握される。私達の抽象能力とは、感性的知覚が捕らえている具体的なもの、多様な性質にたいして−−この多様性は、この段階では、認識的には混沌であるが、日常的実践としては、法則性の適用がなされる事で、統一観が成立しているものとしてある−−<共通性>という範疇で分化したり、箇々のの違っている側面と共通のものとがどのように統一されるか、分化以前は、渾沌的統一であり、それを分化する事で、違っているものと、共通なものとに区別されたものが、再度統一的に把握されるのであり、この統一的に把握されるのは、最初の混沌的統一の構造を、認識領域で知覚したということになります。統一が<知られていない>と言う意味で、渾沌であるが、思考力の力で法則としてして認識するのです。事物は、法則として