歩 行 へ の 変 位
<1><2><3><註>
<変位1>
歩く事で、絶えず確かめられてしまうものが、少なくとも生じていると言う事は、
この歩行がKに向っているのだと言う方向性と、ずれはじめている事に現れている。
それは、何処にでも還元しえないものであるから、<歩く事>と記す事で位相を
組み立てようとするのだし、一歩一歩の動きを絶えず、私の中の反発として、形あ
るものにしてくれる。
ただ、何であるのかと言う、<問>以前の<問>も、その答えが明らかになる
前に、すでに、Kから駅までの距離とC庁舎の庭を通る道筋は、10分もあれば、
到達されてしまうのだけれど。
ここにしか無い事が明らかだからこそ、私は私の内に捕らわれているのだし、
性懲りもなく、答と言う答がありそうにも思えないのにかかわらず、一歩一歩の
歩行にまで、指向性を重ねあわせようとするのだろう。
一歩一歩は<人間的生命力の発現である>と言う言葉に示し得たからと言ったと
しても、確かに言葉の方向からするば、糸口は捜せたとしても−−そして、この
糸口は、糸巻きに巻取られて、所定の場所へ配置される事になるのだとは、解っ
ていても−−現に歩きつつある事から生じてきている、懐かしさや不安や振り向
きたいと言う気持ちは、その一歩一歩から、離れる事はあり得ないのだとおもわ
れてしまう。
<変位2>
私が街を歩いている時、そこで出会う人々の姿を見てしまっている事は、目の前
を歩いているものの形態を見ているだけではなく、自身さえもこの街の時空をの
中を歩きつつあるもを、視線に重ねていると思える。
例えばビルとビルの間から見える山脈は、ジーンズショップの前の歩道を駅に
向って歩いている時、眼の位置をへいせいより僅か上方、交差点野信号機より少
し上の方向に向けた私の眼に入って来たものなのであった。
その時、私は私が今この街を歩いている事が、山脈の方向から見れば、信号機が
変わるたびに互いに動き出す、車や人の流れてしか無い事を見てしまうのだけれど
つまり、この街が、今私の眼の前にあり、歩道と交差点とビルとビルの間をへ
抜ける市道が、全くいま見られている通りに有るのだと了解してしまうから、立
方体に切りとられた残跡の様に、一つのポッカリした無色の形象化してしまう事
になる。
ただ、その様な形象も、書かれた文字である限り、高々数枚の原稿用紙の上に
広がるにすぎず、あたかも、ジーンズシップから、わずか数歩だけ進む間に形成
され、そして、消滅していったものに相当するかの様で、あるにすぎぬのである。
円環は絶えず閉じているのであつて、このK市にデパートあちらこちらに立つ
につれて、外壁が変わっていく様に、流動性のある時だけが、私の、街を歩くと
リズムに同位する事になる。
もし、時別に取り上げるべきものがあるとするなら、先日友人達と話した様に
夕方のスクランブル交差点に立ち止まった時、右方向に見える、庁舎の脇の陸
橋までのなだらかな道のりだけが、意味有るものとして、あるいは現に生じて
いると言う事実に重なる感性として、人々に示し得るものなのでしょう。
つまり、私の思いは、君にもそこに立ち止まって、わずかでも視線をむけた
ならどうだろうかと言う事であり、私達はやはり、歩いているのです。
<変位3>
<歩く事>と記す事により、変わりうるものが有るとすれば、以前には確かに
感性として成立していたものを−−歩く事が続く限り決してなくなりはしない
し、今も絶えず生まれているのです−−一つの対象化を経る事により、疲れは
するが、私達自身がそれぞれ持ち続けていたのだと気付くのです。
つまり、確認しえたと言う事で、白紙の上に記された文字の方向に向うもの
を見るのだし、同時に以前と同じ足取りで、歩行が続けられていることなので
しよう。
いつもの様に駅の方向に−−近代化百年で、木堂の駅が、12階立ての
ステーションビルに変わっているのだと言う事が有るのだとしても−−向うも
のであり、眼はすれ違う人々の姿やショーウインドの光を見ているのだが。
<註>
<本当に、変わってしまっているのだろうか>と言う、その言葉の感性的側面
の思いに、深さが有るとすれば、それは絶えず確認せずにはおけない、意識の
ブレと言う事をしりつつも、そうしてしまう、あるいはそうしてしまっている
事が、自然だからだ。
とすると、ここでは、変わっているとか、変わっていないと言う事が重要な
のでは無く−−変わるのも自然だし、又変わらないのも自然なんだと言う事は
どんな思いの深さも通用しない側面が成立しているのに、ほかならない−−そ
れらのものに、かかわってしまつているという内心の比重こそが、何ごとにも
関わらず、始まりであるし、現代でもあるのだと思うのです。
<歩く事>など、本当はどうでもいいのだが−−用事が有るからKにまで出
かけて行くのだから−−あえて、このように記すことで、円環を閉じているも
のの上に予感を重ねるのです。
所で以上の事は、どう眺めてみても、苦渋ではないのか、あるいは、とても
じゃないが、私には苦しくてしようがないと思われてしまうのだろうか。
もしそうであるなら、それは書かれたもののうえで、書かれたものにだけ足
場をすえてしまっているからなのでしよう。
ほんとうは、歩いていると言う事で、暑さも寒さも衣服によってカバーされ
ているのであり、用事がすめば、家路につくことなのだでしょう。
****<街を機能の中に落とし込んではならぬ、
細部に存在しているものを
その場に固定してはならぬ。
それが、そこにあることが、全く自明である
かの様に思うのでは無くて、
歩行とともに絶えず動いているのだと言う事を
しることなのである。>(街学3)
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