<1973年--祭り>
暖かかった日には
薬師の森に祭りがあった
裏山の陽あたりのよい中腹は
石段の木々の間に
人々の登るすがたが
いや降りる姿がみえた。
<1979年--祭り>
朝から雨の日
薬師の森の小さなお堂で祭りがあった
紅白ののぼりが
雨の中で、雫の方向にながれ
緑の間に、桜の木々が
華やかな塊を作っていて
ひび割れている音楽が
それらの間から流れ出
雨もやの中で、もう一つのもやをつくっていた。
木々の下を、行き交う人の姿が
その音と供に重なり
安物のスピーカーの音を作り出し
人々の話声があるようだった。
<位置>
写真のように、自分の眼を
普段の位置からあげた時
広告灯と電信柱のある街通りが
重なり続けて、向こう側につらなる。
くすんだビルの外壁は
そのつらなりの中で
一つ一つの位置を持ち
人々が消え去った跡の空間のように
眼にうつる
---映像が消え、音が消え、魂が消え
さらに、意気が消えた後の、静寂
が位置にまちわり続けるているように
<非-無>
ツブ、ツブした雑踏のどよめきの中に
私がいた時
かすかに残す。
もし、それがたえず通り過ぎていく
一つのの空体であったとしたなら
どんな抵抗も現象させない
非熱存在に近いものとなりうる。
かっての悲しみのような
方向のない所で
行きあぐねていたものなら
いまは確かに反射率の大きい光の
下の一つの雫のように
透明にかがやき
光りの線にのって
空間を
駆け回る事ができている。
陰線にも交わらないし
陽線にも重ならないものだから
あえていえば
ビルとビルの交差する
直線のように
木々と大地が交わる
曲線のように
いたるところに
広がり続けているものである
と
言える様に思えた。
<形象化>
その音が、生れそして
消えていった時
深夜、窓外ほ通り過ぎていった
トラックの
類型化した音を聞いたのでは無く
今と言う時間の、その今を
見たのである。
そこで生まれ、そこで消えていった事が
とりもなおさず
ここで聞き、ここで見る私を含めた
全空間の形象を
私の内に
蘇らせた事になつたのである。
空気の単なる振動であると記してしまえば
確かに、充満した気体の波動が
浮かび上がるのだろうが
しかし、それでは
今このように、現に記している
私を含めた存在が
つまり、空間が私の内で
像をむすぶことは、けっしてない。
音の創造に立ち会い
消滅に立ち会う者が
ここにいるのだと言う事が
基軸になる時、はじめて
空間は、私の内部で一つの形象を
得るのです。
<4月23日>
山脈から日がのぼり、さっきまで薄明の中にあった
ビルの町並や人家の間をぬう、線路、高速道路、庭
先に光があふれ、急にあわただしくなり、朝の空間
が充満してくる。
満ちたものが流れ出すと、駅裏や交差点が、液状の
物体のように、すれちがざまに付着しはじめる。
暖まりはじめたエンジンの音が、重なり合い、国道
に沿って流れはじめる。
若い女の化粧の匂いが、人々をかすめ、そこだけ動
かない木々のみどりにうすめられる。
新聞のひろげる音が立ち、靴音が湧き、長い長い
プラットホームに、鮮やかな色彩がうかびあがる。
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