2002.01.29

4 月 23日

<1973年−−祭り>


  暖かかった日には
  薬師の森に祭りがあった
  裏山の陽あたりのよい中腹は
  石段の木々の間に
  人々の登るすがたが
  いや降りる姿がみえた。

<1979年−−祭り>


  朝から雨の日
  薬師の森の小さなお堂で祭りがあった
  紅白ののぼりが
  雨の中で、雫の方向にながれ
  緑の間に、桜の木々が
  華やかな塊を作っていて
  ひび割れている音楽が
  それらの間から流れ出
  雨もやの中で、もう一つのもやをつくっていた。
  木々の下を、行き交う人の姿が
  その音と供に重なり
  安物のスピーカーの音を作り出し
  人々の話声があるようだった。

<位置>


  写真のように、自分の眼を
  普段の位置からあげた時
  広告灯と電信柱のある街通りが
  重なり続けて、向こう側につらなる。

    くすんだビルの外壁は
  そのつらなりの中で
  一つ一つの位置を持ち
  人々が消え去った跡の空間のように
  眼にうつる
  −−−映像が消え、音が消え、魂が消え
     さらに、意気が消えた後の、静寂
     が位置にまちわり続けるているように

<非−無>


  ツブ、ツブした雑踏のどよめきの中に
  私がいた時
  かすかに残す。
  もし、それがたえず通り過ぎていく
  一つのの空体であったとしたなら
  どんな抵抗も現象させない
  非熱存在に近いものとなりうる。

  かっての悲しみのような
  方向のない所で
  行きあぐねていたものなら
  いまは確かに反射率の大きい光の
  下の一つの雫のように
  透明にかがやき
  光りの線にのって
  空間を
  駆け回る事ができている。

  陰線にも交わらないし
  陽線にも重ならないものだから
  あえていえば
  ビルとビルの交差する
  直線のように
  木々と大地が交わる
  曲線のように
  いたるところに
  広がり続けているものである
  と
  言える様に思えた。

<形象化>


  その音が、生れそして
  消えていった時
  深夜、窓外ほ通り過ぎていった
  トラックの
  類型化した音を聞いたのでは無く
  今と言う時間の、その今を
  見たのである。

  そこで生まれ、そこで消えていった事が
  とりもなおさず
  ここで聞き、ここで見る私を含めた
  全空間の形象を
  私の内に
  蘇らせた事になつたのである。

  空気の単なる振動であると記してしまえば
  確かに、充満した気体の波動が
  浮かび上がるのだろうが
  しかし、それでは
  今このように、現に記している
  私を含めた存在が
  つまり、空間が私の内で
  像をむすぶことは、けっしてない。

  音の創造に立ち会い
  消滅に立ち会う者が
  ここにいるのだと言う事が
  基軸になる時、はじめて
  空間は、私の内部で一つの形象を
  得るのです。

<4月23日>

 山脈から日がのぼり、さっきまで薄明の中にあった
 ビルの町並や人家の間をぬう、線路、高速道路、庭
 先に光があふれ、急にあわただしくなり、朝の空間
 が充満してくる。
 満ちたものが流れ出すと、駅裏や交差点が、液状の
 物体のように、すれちがざまに付着しはじめる。
 暖まりはじめたエンジンの音が、重なり合い、国道
 に沿って流れはじめる。
 若い女の化粧の匂いが、人々をかすめ、そこだけ動
 かない木々のみどりにうすめられる。
 新聞のひろげる音が立ち、靴音が湧き、長い長い
 プラットホームに、鮮やかな色彩がうかびあがる。