2003.09.22

盗 賊 の 方 便

<アリババと40人の盗賊>


アリハバと40人の盗賊と言うアラビアン・ナイトの物語の中で、主人公アリババが見つけた盗賊の宝を盗賊が取り返そうとしてアリババの家を探し出し、彼の家の扉に白墨の×点を付け、盗賊全員でアリババを捕まえようとするのです。この時、盗賊がアリババの家の扉に白墨の×点を付ける目的は、その白色の×点の付いている扉がある家が、ほかの者の家と違ってアリババの家である事を示す為なのです。白色×点印を付けないと沢山の同じ様な家ばかりで、アリババの家の確認が出来ないからです。盗賊にはこの町の沢山ある家に対して、宝の場所からこの町までアリババの後を付けて来たから、町の場所とアリババの家の場所が確認出来ているのです。盗賊はアリババの後をつけて、彼の家の位置を確認するが、ただ回りには同じ作りの家ばかりで、アリババの家と他者の家との区別が付けられないのです。区別が出来ない同じ作りの家でも、同じとしか認知出来ない家々に対して、さしあたりアリババが入っていったと言う目の前の事実認知により目の前の家が、アリババの家と言う認知が出来ているのである。盗賊の頭の中に出来ている<この家がアリババの家だ>と言う認知に対して、盗賊は<この家>と言う認知を何らかの形に表すのです。これは盗賊にとっては区別が付けられないと言う事だけであり、アリババや住んでいる人々には個々の区別が出来ているのです。そこで盗賊が認知して、彼の頭の中に記されたモノに対して、彼はそれを知覚しているが、しかし回りのモノにその知っている事を表さねばならないのです。その表し方が白墨による表示であり、その内容が<この家の入り口の扉の白い×点>なのです。
その表記が白い×点や白い○であっても、この家の扉に記されている事は、その隣の家の扉は単に扉であると言う事で、あえて白い×点が記されていないと言う事です。沢山の家があり、その扉に白の×点が記されている家があると言う事だけです。白い×点は家自体に始めから付属しているのでないから、戸扉に白い×点があるとは言えるが、隣の家の扉には白い×点が<無い>と言う為には、現に目の前の扉に白い×点がある事から、扉と白い×点との表示関係を前提にすれば、隣の家は扉はあるが、白い×点は無いと言う事なのです。これは現に目の前の家の扉の状態から得られた知識を前提にした、別の家の扉に対する<表示関係>と言う判断であり、その判断が<×点がない>と言う言葉として出てきたのです。
俯瞰の位置から見おろせば、沢山の家々に対して必ずどこかの家に住んでいるのであるが、ただ盗賊にはその確認が出来ないと言う事なのです。そこでアリババの後を付けた盗賊が、家に入って言ったアリババを確認したら、その家の扉に白墨の×点を付ける事で、その×点の付いた扉のある家がアリババの家である事を知るのです。沢山の家の中で、一軒の家に私達の目を注がせるものとして、白い×点の記された扉があるのです。この物語の中では、盗賊は、その白墨の×点が付いている扉の家を発見する事で、その家の中にアリババを発見すると言う事になるのです。
 盗賊が確認した、その家が<アリババが入って行った家であり、アリババはその中に居る>と言う事を他の同じ様な家と区別する為に、白い×点を扉に付ける事で表そうとするのです。白い×点は、<アリババが中に居る>と言う盗賊の知覚内容に対応しているのであり、「この家がそのアリババが中にいる家である」と言う、この家と言う個別性を、現に×点がついている家が表しているのです。アリババが住所不定であれば、この家と言う個別性を確認出来ないが、定住していれば、その家が住宅としての個別性であり、沢山の家の中で、この家と言う個別性を、その白い×点が表すのです。
100軒の家が有れば、それが個々の家であると言う事で、個別性としてあるが、この個別性は住居としてのまとまりとしての個別性なのです。それに対して、100軒の中で入り口の扉に白い×点のついた一軒の家と言う個別性は、100軒と言う個別を前提にはじまり、まず99軒と一軒との区別としてこの家を作り出すモノが、白い×点の表示と言う事です。そこで<この家>と言う個別性は、建物としての一軒一軒が始まりであっても、<白い×点>による区別は、アリババが住んでいると言う事による区別なのです。他の家ではなく白い×点のついた扉の家が分かれば、アリババも探したせると言う事なのです。
白い×点の扉の家が、アリババの入っていった家である事の認知は、盗賊とこの物語を読んでいる読者とに成立している事であり、当然これを記している私にも有るのです。アリババの家の周りの人々には白い×点が扉に記して有る事が知覚されても、それが何を表しているのかは理解されないのです。白い×点に<表されているモノ>と言う思考が成立しないのです。昨日までは扉は扉のままであったが、朝起きて見ると×点ついた扉を見る事になるのです。夜の間に記された白い×点が何を表すのではなく、何のために記されたのかと言う問は盗賊に確認すれば良いが、誰が記しているのか確認が出来ない場合、決局何を表しているのかと言う問にならざるを得ないのです。
この物語にあっては、読者は盗賊と一緒に動いているので、盗賊の意図が分かるから、白い×点を扉に記す事の意図が理解出来ていて、戸扉の白い×点から読みとれるモノを得るのです。白い雨が降ったからその白い雨粒が、扉に×点に見える模様になったのであれば、それは意図でもなく、たんなる自然現象にすぎないのです。白い×点模様は、その裏に何か有るのではなく、この地帯全体の雨の中で、雨粒がその家の扉にぶっつかった跡だと言う事なのです。しかし自然ではなく、私達人間が書けば、そこには人間の意図があり、意図にかなったモノとしての白い×点表示になるのです。ではその意図とは、私達が考えている事であり、実現される事でそこに現れるモノとなるのです。意図と言う頭脳の中に成立しているモノで本人しか分からないモノを、物質の形態たる白い×点に関係づける事で、そこに成立する客観的関係を表現とするのです。白い×点は、虚空から生み出されたモノではなく、単なる白い染料による線の跡であるだけであり、その白い跡が、人間の意図や思考と関係するとき、白い跡は、×と言う形を作り、意図は特定の判断となるのです。今のは場合、盗賊が自分の目で確認した<アリババの住んでいる家>と言う認識を、白い×点に関係付け、さらに実際にアリババが入っていった家の扉に、その×点を白い染料で書く事で、盗賊の知覚した具体的内容が、目の前の家の扉の白い×点表示として表されたと言う事になるのです。
盗賊の目の前で起きている事は、アリババが自分の家に入っていったと言う事だけであるが、盗賊にとってはアリババと言う存在は、単にその町に住む一住民だと言う事ではなく、自分たちの宝を横取りした者であり、その横取りされた宝を取り戻すために首謀者のアリババを捕まえる必要があり、そのためにアリババの居場所を<今は知らないので、知らなければならない>と言う願望が形成されるのです。その様な意図にのっとって確認された事実認知は、少なくとも盗賊には現に目の前の事実認知として成立しているので、願望は成熟されているのだが、ただその場を離れてしまうと、アリババの家のあり場所を忘れてしまうおそれがあるので、その場を離れて後ほど来てもアリババの家だと言う事がすぐ分かるようにしなければならないのです。その様な思考過程があって、初めて白い塗料の×点が画かれたと言う事であり、描かれた結果としての白い×点に、今のような思考が成立している事を、白い×点が有る意図を表現していると規定するのです。自然現象としての雨粒の痕跡が白い×点のように見えると言う事と、手で描かれた白い×点とは、結果としては同じ現象であるが、ただその成立の過程が違うと言う事なのです。

 他人はその白い×点を見ただけでは、それが何を表す記号なのかは、予想出来ない。何故なら<アリババが居る>と言う事と白墨の×点にはつながりが無いからです。しかしアリババを付けてきた盗賊にとって自分が確認した事を、白墨の×点で対応させたのであり、その白墨をアリババが居る家の扉に記す事でこの家がアリババの居る家だと言うことを表しているのです。さて、<盗賊が確認している・アリババが居る−−白墨の×点>と言う対応関係の内、前者は盗賊の頭で行われたアリババの動きから得た対象認識であり、あくまでも頭の中の出来事としてあり、その認識に対して、白墨の×点を対応させているだけです。つまりその家に入った事を入った時点で確認している盗賊にとって、その家の確認は、アリババが居ると言う認識と重なって居るのです。透明なガラスの家であれば、いつでも中の人間がアリババである事を確認出来るから、アリババの顔を忘れない限り、仲間を呼びに言ってその場をはずれても良いのだか、しかし一旦中に入ってしまえば、その家にいると言う事は分かっていても、その場を離れてしまつて、再度戻ってきても、皆同じ様な家である為に、再度家を見付ける事が出来なくなるのです。そこで<アリババが居ると言う確認>を、<白墨の×点>に対応させる事で、あるいは<赤いペンキの×点>に対応させる事で−−この対応関係は、任意の対応であり、対応させる物に、限定は無いので、一つの約束にすぎないのです−−その対応関係を前提にして、現にアリババが居る家の扉にその対応関係の他端である、白墨の×点をつけると、その扉の家は、<アリババが居る>と言う事の現実形態となるのです。アリババに家の前に立っていてもらえば、仲間を連れて戻って来ても、すぐにアリババを見付ける事が出来る。しかしアリババに家の中に入られてしまうと、盗賊がいま見ている家がアリババの家であるとは分かっていても、この家と隣の家と近所の家とを区別するモノがないほど皆同じである為に、アリババの家を確認できなくなるのです。そこで、皆同じ家であるモノに対してアリババの家だけを区別するために<白墨の×点>を扉に記したのです。<白墨の×点>自体は記号であり、その形や色て他のモノと違うと言うことだけだが、ペンキの赤い○点と見た目が違うのだが、扉に記されている事で、この家にだけ扉に白墨の×点があると言う事で、家の区別を作り出すのです。皆同じ家の中にあって、扉に×点のある家と無い家で、グループ分けされるのです。そこでこのグループ分けの真意は、アリババがいる家とそうでない家という事なのだが、しかしそれは<白墨の×点>に、その真意の読みの元が有るからではなく、<白墨の×点>に<宝物を横取りした人物がいる>と言う認識を対応させるのです。これは任意の対応であり、対応させた者だけの約束でしかないのです。<白墨の×点>を書くときには、その書き上げる<白墨の×点>の現実化と同じく、目の前に白墨と言う物質によって白色の×点の形の線が書き上げられると言う現実化と同じく、その場所に<宝物を横取りした人物がいる>事が現実化するのです。後者はその×点の書かれている扉がある家の所に、昼なり、朝なりに行き、家の中にアリババが居る事を確認するのです。
もう一度考えてみる。自分達の宝を横取りしているアリババを見付けた盗賊が、宝を取り戻す為にアリババの後をつけて彼の拠点を知ろうとするのです。アリババが入っていった家を見付けるとその家の扉に白墨の×点を付けて、仲間を呼びに帰り、仲間とつれてきて、×点が付いている家に入りアリババを捕まえて宝を取り戻そうとするのです。近くの住人がその家にだけその白墨の×点がある事を見知っても、昨日までなかったのに、何故今日これが扉に付けられているのか分からないのです。盗賊の意図など分かりません。×点だから、なにかを表しているのだろうと言う予想はするかもしれません。盗賊にすれば、白墨の×点は、なにも特別な事ではなく、ただ<アリババが居る>事を示す為の記号であるのです。この一連の出来事に対して、その構造を説明するのです。
盗賊が家の扉に付けた<白墨の×点>は、盗賊がアリババの動きを確認した末に、アリババがこの中にいると言う事を表す為に付けられたのです。一軒の家の扉に付けられた<白墨の×点>は、盗賊のアリババに対する確認行為であり、その確認行為として成立しているのです。<アリババが居る−白墨の×点>と言う関係の内、盗賊が追跡によって得たアリババの行動に対する<アリババが居る>と言う認識に対応するモノは、後者の白墨の×点、赤のペンキでも、扉の前に小石を3個おくでも、扉にナイフで傷をつける、てもいいのであり、それを任意に<白墨の×点>に対応させると言うルールをつくったのです。つまり、白墨にも赤いペンキにもナイフの傷にも、対応する資格はあるが、それを今回は<白墨の×点>にしたと言う事なのです。犬であったら、その扉の前に<おしっこ>をひっかける事で、おしっこを対応づけるかもしれない。
盗賊が知ろうが知るまいが、<アリババが、この町に住んでいる限り、昨日も今日も明日もその家にいる>と言う事実と<白墨の×点>が対応しているのではない。宝物をくすねた人物としてのアリババに対して、捕られた宝物を取り返すためにその住居を確認し様と言う事であり、その確認した事は、彼の記憶として頭の中に入ったのであり、今確認している<他の家ではなく、この家に居る>と言う事に対して、<この>と言う指示対象を、それから目を離さなければ−−仲間を連れに行くのに、その場を離れなければならないのです−−持続するのだが一旦目をはなすと、どれなのか分からなく成るからこそ、目を離した後でもすぐに<この家>と分かる様にしなければ成らないのです。つまり、事実としては沢山ある家について、<家は、山田さんの家で、家はアリババがいる家で>と言う事であるが、その事実に対して、<この家>と言う、盗賊からする<この>と言う位置にある指示対象の家について、<アリババの家である>と言う認識が成立しているのです。
私のこのような回りくどい言い方は、アリババと盗賊のいる世界の出来事を、私が言葉として説明しようとする事からうまれている。アリババの住んでいる町を俯瞰する位置からは、どの家も皆同じ様な形、色、大きさであり、その中の一つの家にアリババはすんだいるのであり、盗賊はアリババの後をつけて、アリババの住む家を確認するのです。当然これは、私が二人の状態を俯瞰する所から見おろし、すーと視点を、盗賊の方に移動し、そこから見ながら言葉にして説明しているのです。これを俯瞰の位置からをアリババの前方に視点を移動すれば、そこから説明する者である私に見えているのは、<アリババの後ろを追いかけてくる盗賊がいる>と言う事です。つまり、<追いかける>と言う事実に対して、追いかけて<来る>のか、追いかけて<行く>のかの違いは、二人を見る私の位置を、盗賊の方に置くか、アリババの方に置くかと言うことです。今回はアリババが盗賊につけられている事に全く気づいていない事であるから、二人の動きの説明は、盗賊の方向からみるアリババと言う位置関係に成るのです。それをアリババの前方から、アリババをつけてくる盗賊を見ていれば、<アリババをつける盗賊とそれに気づいていないアリババ>と言う構図から私は、<アリババよ盗賊につけられているのを早く気づけ>とつぶやくのです。ただこのつぶやきは二人のいる世界を俯瞰する位置にいる作者や鑑賞者の行いでしかないのだが。
作者たる私は、アリババや盗賊の判断も、行動も、一切を言葉で説明しているのである。アリババの行動が、彼の判断によって支えられている事を説明する時、行動と判断は特有な構造としてあるのだが、言葉としては、行動の説明の説明があり、つぎに判断の説明と言う様になり、あたかも二つの連続的に行動の様になってしまうのです。つまり、歩く行動と考える事が、同じ事のように扱われてしまうのです。さらに言えば、歩くと言う行動と考えると言う行為にたいして、<二つは特有な構造としてある>と言う言い方は、前者二つの説明に対して、超越論的な説明と言う事になります。両二つに対して俯瞰する立場からなのだが、ただ存在として俯瞰で有れば、それは神と言うことであるが、論としての俯瞰と言うことなのです。
私がやっている事は、アリババと40人の盗賊の物語の中のある種の論理を問題にしているのであり、その物語では、アリババがくすねた盗賊の宝モノを、盗賊が取り返そうとして、後を付けていきアリババの家を発見したあと、その家に仲間を連れてくるが、盗賊がつけた印が、アリババに逆利用され、ついに盗賊の宝は、アリババのモノになってしまうと言う事なのです。物語の中で起きる出来事は、そのあり方によって進むのである。例えばアリババの家の扉につけられた白墨の×点は、まず、沢山ある家の中で、この家と言う個別性を表す。単に沢山あると言うだけでは、個数と言う事だけであり、一軒一軒がどのような家であるのかと言う個別性は問われないのです。
100人の入る劇場の中にある100個の椅子は、一席一席がどのようになっているのかと言う事は問われないのです。しかし、スクリーンに向かって並んだ100個の椅子は、一席一席が見やすい椅子とか、見あける椅子だとか、柱を背にする椅子だという、個別性を得ることになるのです。ただこの椅子の個別性は、椅子自体の問題ではなく、劇場の空間と言うスクリーンの位置からどの位置に有る椅子であるかと言う事によります。
沢山の家は、水の様な液体ではなく、個体としての家が<個数>としてあるのだが、それらが<個別性>として規定されるのは、<住居として使う>事で、石の塊や立木や等の個体と区別される視点を与えられるのです。この個別性は、他のモノの個体との識別であり、さらに同じ様な家が、さらに新たな個別性をえるのは、住居の目的により、違う使い方をすると言う事による個別性と言うことになります。
盗賊がつけた白墨の×点は、他の家には無くこの家にだけ有ると言う事で、その×点を介して家が<これ>と指示される対象と成っている。単に盗賊が各家の前に出て、指をさして<これ>と言う事であるなら、その場にいれば、違う家は<それ>だし、また別の家は<あれ>であると言う、指示詞<これ、あれ、それ、どれ>の説明でしかないのです。しかし盗賊の場合、<この>と指示される対象に対しては、この家が何であるのかと言う事が続くのです。盗賊が記した×点は、盗賊以外も見るのであるが、他の家にはついていないが、この家にだけついていると言う確認は出来るのです。その確認は、見た目の通りの確認であってその×点に見て、<何故記されているのか>と考える事はあっても−−何故なら先ほどまでは記されていなかったのが、いまは記されているからです−−その答えを何処に見付けるのかは分かりません。しかし盗賊にとってその×点を記すことは、その×点が、他の家では無く、この家と言う<家の特定>を作り出す事になるからです。隣近所の人々も、そこまでの類推はできるのです。白墨の×点が作り出す<特定の家>と言う特定性は何の特定性であるのかと言うことになります。それが<アリババの住んでいる>家と言う特定性である。しかしこれだけなら、近隣の人もアリババの住んでいる家である事は知られているのです。これは普通の事であり、特別な事ではありません。では盗賊にとって何が特定の家と言うことになるのか。それはその住んでいるアリババが、盗賊の宝を横取りした人物と言う認識であり、それは近隣の人々には知られていないが、盗賊には知られてている事なのです。宝物を横取りした人物であるアリババが、この家に住んでいると言う事なのです。<白墨の×点−−宝物を横取りした人物が住んでいる>と言う関係になり、<特定の家の扉に白墨の×点が記されている>と言う事とが、この家に宝物を横取りした人物たるアリババが住んでいる事を表しているのです。
これを論理的に言えば<白墨の×点−−宝物を横取りした人物が住んでいる>と言う関係の内<宝モノを横取りした人物が住んでいる>と認識は、白墨の×点のついているこの家と言う現実形態をとるのです。盗賊にだけ成立しているその対応関係によって、隣近所の人々も、白墨の×点をみたり、アリババを見ているものを、自らの認識の現実形態として理解しているのです。その頭の中での対応関係を作っていない人々にとっては、白墨の×点やアリババが住んでいると言う事は、バラバラの出来事でしかないが、その対応関係の知が出来てる盗賊にとっては、<宝物を横取りした人物(アリババ)が、この家(白墨の×点の印)にいる>と言う事になるのです。盗賊の頭の中に成立しているその対応関係からすると、白墨の×点がついている、アリババの住んでいる家は、<盗賊の宝物を横取りした人物の住んでいる家>の現実態と言うことなのです。<白墨の×点>を介して、頭の中と現実の世界が繋がると言うことです。この頭の中に出来るものが、対象の共通性と言う言葉で表す本体であり、当然その原型に成る物が、現実の世界で起きているのであり、両方を言葉で説明すれば、それは同じ言葉に成ってしまうのです。つまり、<原型−象>の様に、両方とも言葉として現れてしまうのです。その両方の言葉から、その構造を理解するのである。<現実の世界>もここでは言葉であり、その言葉が指示する対象が有り、それを言葉として表したのが、<現実の世界>と言う事なのです。<対象>もまた言葉であり、それは言葉として表すことで私達が頭の中で理解していると言うことなのです。
白墨の×点が記号と呼ばれるとき、それは白墨の○点と違うと言う差異だけが正体であるが、今の場合にその<白墨の×点>に、対応関係として<宝物を横取りした人物>と言う認識が成立しているのであり、この関係にあっては、<白墨の×点>をどんなに眺め回しても、関係が透けて見えて来る訳ではない。そこで<白墨の×点>が、この家の扉に記されている事に対して、その家やあの家ではなくこの家と言う疑問、この家の窓や屋根や壁ではなく扉と言う疑問、などが成立するのです。それに対して、扉に<この家に宝を横取りしたアリババが住んでいる>という張り紙がして有れば住人はそれを読んで<この家にアリババが住んでいる>と言う言葉は、具体的な事実を指示していると理解出来るが、<宝を横取りした>と言う言葉が、具体的に何を指しているのかを理解しない限り、<ダイヤや王冠、金貨銀貨などをとった>と言う事例を頭の中に浮かべるだけで終わりになってしまうのです。言葉はそれを読むことで理解していくのであるが、<白墨の×点>の場合は、その印を見聞すことで、対応関係にある<特定の認識>を、自分の中に作り出すことなのです。しかしこの作りだしは、角を見て牛と判断する、煙をみて火事である事を判断する、のとは違うのです。一時的では有るが一つの約束ごとなのです。盗賊は自分の仲間にはその約束事を教えるのであり、だから盗賊A以外でも、約束事にしたがってその白墨の×点を見付けることで、アリババを捕まえる事が出来るのです。
<白墨の×点>と言う説明に対して、実際に存在するのは、扉の<×>と言う事であり、さらに視覚的にはそれが白い色であると言う事です。ここでは<×>と言う表記は、その形から来る同一性によるのだが、この文章では白色を表記出来ないから、黒い色の<×>を書く以外無いのです。つまり、「<白墨>の<×>点」の「白墨」と言う言葉は、現に目の前にある<×>と言う表示記号の色とその色を作り出す材質を述べていて、<×>は書かれている記号の形を表し、さらに<点>と言う事で、記号性を示している。実際に扉に向かって白墨を手に持ち<×>と表記すれば、扉にには<×>と言う白色の記号が残される事になる。その<×>と云う表記に対して、それが書かれた理由が明らかにされる。象が鼻に白墨を持ち<×>と書いたのとは訳が違うのであり、人間が書けば彼に目的意識が成立しているのです。今回の場合、盗賊の目的意識は、この村の沢山ある家のうち、いま自分の目の前にあるこの家にアリババがいる事を確認しているのであり、そこでこの家である事を、他の家と区別する為に、何故なら、この家は他の家と同じ形や大きさや色をしている為に、一旦目を離せば、区別が出来ないからですが、この家の<この>と云う対象指示を、扉に<白い×点>を書く事で、現そうとしているのです。この家自体で対象指示が、この家もその家も皆同じ様で有るために、<この家>を取り上げるモノが無いからです。もともと盗賊が、アリババを追いかけてきて、アリババが入って行った家を目の前に確認しているのであり、だから<この家>と言う対象指示が成立するのです。それを別の視点から−−この視点は盗賊の頭の中の働きかけとして成立するが、<ルービンの壷>の様に「地と図」という様に、視点の移動でどちらが見えるかが決まるのは、それを見る人間の働きかけによるのと同じであるが−−家の形や色や大きさで判断しようとすると、その属性からでは区別が出来ないのです。だから今<この>と見えている家については、その家にある属性としての色や形や大きさをと取り上げて−−色や形は家の所にある沢山のモノの一つとしてあるが、その沢山のモノから一つとか二つとかを取り上げるのは、私達の思考の働きとしてあるのです。つまり、私達の思考による働きかけは、頭脳の中の出来事であるが、しかし現実の物事に無関係な空虚な空回りではなく、あくまでも世界の出来事の構造を思考の内容としている事なのです−−比較のする視点では<この>と言う対象性は成立しないのです。しかしアリババを追いかけてきて把握した<この家=アリババが居る家>と言う対象性に、形を与えるモノとして考えられたのが、この家の扉につけた<白い×点>と言う事になる。
アリババがいる家は、しかし家の中に入ってしまえば、外からは見えないし、また外出して不在で有ればアリババを確認出来ない。アリババがこの家で生活をしていることが分かれば、少なくとも家の確認は、アリババが何処に居るかの特定を容易に出来るのです。<アリババが居る>事の確認をする盗賊の意志は、目の前の白い×点の家の確認から実現出来ると言うことです。盗賊がその場を離れて仲間を連れにもどり、またその家の所まで来る時、現に目の前に付いている<白い×点>の知覚は、その家にアリババが居る事の判断であり、その判断を介して実際に扉を開け家の中に入り、アリババを見つけるのです。盗賊が扉に付けた<白い×点>は、盗賊が確認した<アリババがこの家の中にいる>と言う事を表している。この目で知覚出来るのは、扉に記してある<白い×点>であるが、この時その<白い×点>は、言葉にすると<アリババがこの家の中にいる>と言う言葉であらわす盗賊が捉えた認識を表しているのです。

盗賊の一連の行為に対して、私達が言葉として説明すると−−以下がその言葉での説明であるが−−<白い×点>は、盗賊の捉えた頭の中に成立している認識、<アリババがこの家の中にいる>を表したものであると言う事です。この時その<白い×点>は、染料による白、その線形が×と言う事であるが、しかしそれは実際に何かの材料、例えば紙のうえであったり、壁であったり、地面の上であったりと言う様に描かれる事で現れるのです。とするとアリババのばあい、この一軒の家の扉とその上に描かれた<白い×点>と言う事が、盗賊の言いたい事なのです。
再度ここでこの説明に対して、一つの反省をしなければ成らない。それは<白い×点>が、認識を表すと言う時、認識は私達の頭の中に成立しているモノであり、その頭の中のものを表すと言う構造がどうなっているのかと言う事です。人々が目で知覚出来るのは、<白い×点>であり、頭の中の目で見たり出来ない認識を、どのようにしたら<見たり聞いたり>出来る様にするかと言う事なのです。それは、簡単に言えば<アリババがこの家の中にいる=認識>を、頭の外に出せば、人々の視知覚に受け入れられると言うことです。それは頭の中のモノが、耳や目を通じて外に流れ出て、音(話言葉)やインクの跡(書き言葉)となる事だと言うイメージで語ります。しかしこのイメージは、頭の中の認識が、そのまま頭の外に出てくると考える事で、頭の中の認識を<実体>として扱い、実体のまま外に出てくるというイメージなのです。しかし実体として出てくるなら、出ていったあった跡は頭の中が空になってしまうのです。頭の中にある認識が、実体として外に出てこないなら、最初にもどってどのようにすれば、外に現れ出るかと言う事になります。ただし実体としては流出しない事は確かです。
頭の中に出来ている<認識=アリババがこの家の中にいる>に対して、やはり頭の中の<白い×点>と言う表象を対応づけるのです。どうして<白い×点>が表象と言うのでしようか。現に今扉に記されている<白い×点>は、白墨の材質による描かれた線の跡としての×点であり長さが30センチ幅が5センチの線となっている。現実の線と言う事になる。しかしこの線は白墨材質により描かれたのであり、それが描かれるのは頭の中に×点の表象があり、その頭の表象を媒介にして現実に手に持った白墨を使い<×>の線を描くのです。つまり、私達が表記しようとする例えば<×>と言う表記物は、子供の頃から表記を真似しながら書き続ける事で表象として成立し、今度はその表象を頭の中に浮かべながら鉛筆、マジック、筆等で表示するのです。その表象に対して認識を対応づける事で、現実の扉に<白墨の×点>を描けば、それは表象に対応づけられた認識が、現実化したと言う事になるのです。盗賊がやった事は、アリババを追いかけて来て彼の家の所在を確認した後、同じ様な家の中にあっても、いつでもその家がアリババの家である事を確認できると言う盗賊の意志の実現の為に盗賊が<白い×点−アリババが居る>と言う規則を作り出したのです。そしてその規則を実現させるのです。つまり、盗賊が実行したのは、規則の作成と規則の実現と言う事なのです。ただこの規則は本人しか分からない事であり、現実に扉に記した後、再度現場に来た時に白い×点を確認して、アリババが在籍しているか確認するのです。
ここで少し見おろしてみる。扉に描かれたモノが白い×点であるのに対して、言葉で<アリババの家>と書けば、言葉として他者に伝達されるのであり、その国の言葉を知っている者なら、特に問題が起こるわけではないのです。つまり、白い×点が表示される事で表すモノと<アリババの家>と言う言葉が表すモノの違いなのです。<白い×点>はその色と線の形で人々の視線を向けさせる、つまり注意を引くと言う事ですが、白い×点がその家Aの扉に表示されている事で、その家Aを他の家B、C、Dと区別して取り上げる事なのです。ただしこの白い×点の表示は、この家がアリババの家であると言う事を表し切れてはいないのです。それが言葉との違いです。今の場合には盗賊とその仲間内にだけ分かれば良い規則であり盗賊は仲間に<白い×点の家がアリババの家だ>と言葉で言えば良いのです。

さて盗賊が実行した規則の実現に対して、アリババがやった事は、自分の家の扉に描いて有る<白い×>を他の家の扉にも描きまくったのです。<白い×−−アリババの家>と言う規則を無効にしてしまった為に、<規則の実現であるもの>が、単に扉のある家には皆×印が付いていると言う事になってしまったのです。規則の形成の観点から言えば、どの家もアリババの家と言う事になり、×印のない以前の状態と同じになり、振り出しにもどったと言うことなのです。
ここで大事なのは、規則の形成と規則の実現と云う区別です。規則の形成は頭の中でのみ成立し、その成立している規則に則り実現させれば、はじめて扉に<白色の×点>が描かれたと言う事になるのです。頭の中と実現とを繋ぐのは、<白い×点>と言う事なのです。盗賊Aが作り出した規則に対して、盗賊仲間のB、C、Dは、作成された規則についての、盗賊Aによる言葉による説明を理解し、現場に赴き、規則の実現を体験するのです。しかしアリババの反抗によって作り出された、沢山の家の扉に<白い×点>があると言う体験から、Aに説明された規則の内容が、無効にされたことを悟るのです。
規則の作成によって成立した<白い×点−−−アリババが居る事>と言う関係に対して、白墨を手に持ち扉に×印を描けば、表象としての<白い×印>が、実現したと言う事なのだが−−表象が頭の中から飛び出して来るわけではなく、私達が頭の中に出来ている表象を原図にして、実際に手で白墨を持ち<×>と描くのです−−しかし同時にその関係を形成しているもう一方である<アリババがいる>と言う認識−−アリババの存在について知覚しているだけであり、彼が何処にと言う具体性が言われてはいない−−も、その印の描かれている扉のあるこの家に居ると言う形態で実現されたと言う事です。規則の形成を、<白い×点−−アリババが居る事>の様に言葉にしても、それはそれを説明しようとする私達が、さしあたって言葉にしているだけで、あるいは盗賊Aが仲間のBCD等に規則の内容を理解させようとして言葉にしているだけです。それは規則を作った人間に分かっていることを他者に理解させる為に言葉にしているのです。盗賊Aがつくった<白い×点−−アリババが居る事>と言う規則を、一度実現させた後、自信考え直して扉の白い×点を消してしまうと、規則の実現が継続しないと言う事であり、仲間をつれて来ることが出来なくなるだけです。
アリババの後を追いかけてきた盗賊Aにとって、そのアリババがいま目の前の家にはいったのを確認しているのであり、アリババとその家の存在が確認されているのです。その認識(この家にアリババがいる)を前提にした時、<アリババの居ること−−白い×点>と言う関係は、現実的な対象判断(この家とアリババの存在)を分析して、この家と言う側面は無視し、アリババの存在だけを取り出しそれを<白い×点>に関係づける事で生まれてきたのです。それを規則とします。その関係の上で白い×点をその家の扉に描けば、先ほどのアリババを追いかけて作り出した現実認識を、別の形態で表したと言う事になる。現実的には目の前のこの家にいると言う認識を、白い×点とその記号が描かれている扉がある家に居ると言う形態に作り変えたのです。現実には<目の前のこの家にいる>と言う事だが、さらに<この家>という対象指示性に<白い×点が付いている>と言う指示性が加わるのです。前者の指示性では、見た通りでは、形も大きさも色も区別が付きにくいので、目を離して、再度目を向けては消えてしまう指示性であるが、後者では<白い×点>が消えない限り継続する指示性となるのです。