2002.01.29

三浦さんは、言葉の意味や芸術の内容や形式について諸説を分類しています。

(認識と言語の理論 第二部 勁草書房)

(1):対象内容説
我々が認識の対象とする所の現実の世界に、すでに「出来上がった内容」があって、
それが、言葉の内容や、作品の内容と成ると言う事。
例えば、一枚の静物画として、机の上のリンゴを描いてあるとして、絵画の内容は、
私の前の机の上のリンゴであり、キャンパスの上の絵の具の軌跡を形式と言うのであ
ると。内容が、キャンバスとは、別の所にあり、形式はキャンバス自身の所にあると
いうことになる。

此の説に対する反論

描き終わったキャンバスを前にして、机の上のリンゴを食べてしまったら、内容がなく
なってしまっうと言う事なのであろうか。形式しか無いキャンバスの静物画のまえにし
て、私達は、内容があると理解しているが、それは、単なる私達の思い込みでしか無い
と言う事になるのか。
 リンゴの写生の様に対象が現実に存在するときは、対象内容説も、見た所もっともら
しく思われないでも無い。つまり、<内容>と言う言葉が、何であるのか解らないが、
現物としてのリンゴと描写されているリンゴとを見比べて、両者に何らかの関係が有る
と理解する事で、<内容>と言う言葉を考えるとすれば、そこに成立している関係の一
端である現物のリンゴが、内容だと言う事になるのだろう。
 しかし、映画のミッキーマウスや鉄腕アトムは、作者の頭の中の想像の産物が、描写
されているのであって、何らかの現実の世界の中に「出来上がった材料」として、過去
から未来に渡って存在している訳では無い。
所謂観念論は、机の上のリンゴが、頭の中にはいり、それが頭の外にでていって、キャ
ンバスの上に絵の具と混ざりあって、定着すると考える事になるので、対象が内容であ
るといっても、その内容が、その場を離れ、作者の頭に入り、さらに、その頭からスー
とでて、キャンバスの上で、絵の具と混ざりあい、いま私がみているその絵の様になる
ことで、キャンバスの上は形式だけであると言う事には成らないのです。
 さらに、机の上のリンゴの場合には、現実にそこに在ると言う事ができるが、例えば
天使の像を描いている場合、リンゴの様に天使もあると言う事にはならないので、対象
が無いと言う事になるのです。
そこで、天使像の場合、私達の頭の中の想像上のものが、キャンバスに絵の具の軌跡と
して成立すると考えて、次の様になる。
(2):認識内容説
 所謂、想像上のものが描かれている場合、あくまでも作者の頭の中の世界が描かれて
いるのであるから、その頭の世界のものが内容となり、その内容によって、キャンバス
の上の絵の具の塗布により、形式が作り出される。そして、この認識が内容であると言
う事は、「対象を把握する主観の強さ」であり、能力の感情、苦痛への同情、死への恐
怖もまた内容の一部なすのでありそれらによって、表現がもつ形式がより以上の内容を
もつのだと言えると。

此の説に対する批判

絵画・彫刻・小説などの様に。表現形式が物体に固定されていて、何百年もの間保存さ
れる場合、これらは、いづれも創造の時の内容をそのまま維持しているものとして扱っ
ている。これを認識内容説どう説明するのか。
認識は、絶えず変化するのに、ある時に書いた文章は、その時の認識を含んでいるのな
ら、今はその時の認識では無いのであるから、その文章は、単なるミミズののたうちま
わつたものに無つてしまう事になるのか。昔は、こんな恥ずかしい事をよく書いたもの
だと言う反省は、しかし、今も文章としては、恥ずかしい事が書かれているのである。
 作者がこの世を去れば、肉体と一緒に思想や感情も消滅してしまうが、そんな事に関
係なく、作品はその有らん限りいついつまてでも内容を持つものとされている。もし、
この批判に対する反批判が有るとしたら、次の様にならざるをえない。
 作者の思想や感情は、表現した時に作者の頭から抜け出し、空中を飛んで、あるいは
ペンの先を伝わって作品の上に舞い降りそこに腰を落ち着けるのだということになる。
作者の認識が変わろうと、作者がこの世を去ろうと、その頭から抜け出した思想や
感情は平然として作品のうえに腰をおろし続けるのであから、作品自体から、内容を読
む事が出来るので有る。
しかし、これは、使い古された観念論でしか無いので有る。

(3):鑑賞者認識内容説
論文であれ、小説であれ、いうなれば、紙の上にペンで線を描いたりインクで記号を示
しただけのもので有る。ネオンサインも輝くガラス管以外のものでは無い。これらの特
定の形を表現と呼ぶなら、表現形式の存在していることは疑い無い。そして、確かに我
々は、そこに内容が存在しているように思っているが、実はそこに何かが有るのでは無
くて、我々が<そこに有るかの様に思っている>だけなのでないかと考え、「主体的な
作用を客体的に投影するにすぎない」という考え方。
  文章は、文字という形式だけがあり、その形式を鑑賞すると、鑑賞する者の
  頭の中に、成立するのが、その文章の形式に対する内容と言うことになる。

此れに対する批判

一つの作品があっても、鑑賞する者の数だけ、内容が有るということになる。
誤りの理解とか、誤解の理解と言った事が成立しなくなる。

対象内容説も作者認識内容説も鑑賞者認識内容説も、結局の所表現−−絵画とか詩とか
小説とか音楽とかいったもの、あるいは言語とか仕種まで含める−−は形式があるだけ
であって、そこに内容が伴っていないのだと主張するものである。内容から切り離され
た形式を主張するものである。ただし、内容はあるのだが、ただ形式とは別のところに
ありその離れた両者が関係を持っていると言う事になっているのです。
つまり、形式と内容は、必ず言葉としては、対であり、形式と内容は、同時にあるが
それが、<どこに、どの様に>あるかと言う問が成立する事で、初めて、色々な答えが
出てきたと言うことなのでしょう。そして、形式だけは、どの意見の場合でも、その成
立している場所が同じと判断されているのであり、表現としての作品に、物質−−絵の
具、鉛筆、墨、インク−−のあり方として成立しているのである。
此の関係(内容と形式)が、(1)であるならば、<現物のもの=内容>と<表現され
て物質の形態=形式>と言う事になるし、(2)なら<作者の認識=内容>と<表現さ
れた物質の形態=形式>ということになり(3)なら<表現された物質の形態=形式>
から読み取られて<鑑賞者の頭の中で成立している認識=内容>と言う事になります。

以上の(1)(2)(3)は、どれも作品と呼ばれるものが、インクの跡とか、絵の具
の跡と言ったものでなり立っていて、形式だけであると結論付けている。その形式に対
して、内容の所在を形式の有る所とは別の、対象とか、作者の認識とか鑑賞者の認識と
かに求めたので有る。
では、(1)(2)(3)の所に無いとすれば、表現の内容は、あと何処に在るのだろ
うか。それは、作品そのもの形式の所にに有る。
 するとここで、新たにもう一つの場所が想定された事になった。これは、四つ目の場
所と成る。ただこの四つ目は、形式と内容が一緒の所にあるのがちがうのですが。
ただ、この四つ目では、
 (1)目の前の現物と、形式と一緒にある内容とが、どのようなつながりあ
      るか、説明しなければならない。
 (2)作者認識の場合、その認識が、つまり作者の頭の中にしか無いものが
      形式と一緒にある内容に、どのようなして成るか説明しなければ
      ならない。認識がそのまま、自らの姿を変えて、形式に付着して
      内容になるのだと言う考え方は、その説明であって、ただ此の説
      明では、認識が実体のまま、自ら姿をかえて、形式の所に出てい
      ったと言う、所謂観念論ということになってしまうのだ。作者の
      生きた認識が、どのようにして外に出ていくのかであるし、作者
      の頭の中にある認識がそとにでていつたら、コップの中の水が外
      にあけられてしまうとコップが空っぽになるようではないはずである。
 (3)鑑賞者認識の場合、形式としての作品から、鑑賞者の頭の中に生ずる
      認識が、恣意的ではない、ある特定の、つまり、形式に規定された認
      識であるのは何故かを説明しなければいけないこと、その前に形式は
      どのようにして、鑑賞者の頭の中に、内容に該当する認識を作り出す
      かを説明しなければ成らない。ただすべての鑑賞者が、作品を読んだ
      からと言って、正当に評価できる訳ではない事を考えると、現象的に
      は、鑑賞者の頭の中に成立する認識が、鑑賞者の認識力にかかってい
      る事は確かなのでしょうが。これは又別の問題なのでしょうが。

蛇足として、形式と内容が一緒の所にあると言う時、言葉の通りに場所を考えると、二
つの言葉に対応して、ふたつのものがあり、それが、一緒の所にあると言うイメージで
は、言葉の語彙の数に対応して、別々のものが一緒になるのであるから、二枚の紙を重
ねると言った次元になつているのです。
言葉のイメージから言えば、形式と言う言葉と内容と言う言葉のふたつが有り、その両
者が何処かで一緒になると言う事になるのは、物事を実体として把握する立場には、す
んなり入りやすいと言う事になるのでしょう。
 しかし、論理的に追求していくと、ひとつのものの側面が、形式であり内容で有る事
が示され、内容と形式という二つのものと言う区分けが、統一と言う観点からひとつに
なることで、さらにひとつのものが、どんな側面の時に形式といわれ、どんな側面の時
に内容と言われるかが、明らかにされるのでしょう。
 つまり、二つのもののイメージで有る事から、ひとつのものの二つの側面となる事で
<二つのもの−−>ひとつのもの>と言う統一として、結論づけるのである。
内容が対象あるいは、作者の認識あるいは、鑑賞者認識で有ると言う時、表現であるも
のと、つまり形式が有るとされているものが<対象><作者の認識><鑑賞者の認識>
に関わっているということを、論理で語ろうととしたとき、(1)(2)(3)と言う
規定が成立しているのであり、それがどこかおかしいとしたら、つまり、経験している
<対象、認識>に対して、そしてこれらは表現を考える時、たえず顔を出していて、経
験しているので、どのような事なのかは解らないが、関係あるはずだと言う事で、それ
らを論理の対象に入れた時、どこかで、足を踏み外していると言う事なのでしょう。
 経験しているものとは、日常繰り替えして、再生されているものだし、だからこそ経
験で生じているものは、説明とか、論理といった時にも顏を出す筈だし、それを扱う時
の<扱い方>を考えて行かなければならないのでしょう。
 対象も、認識も、間違っている訳では無くて、それの扱い方、つまり、論理としての
規定がおかしいのでしょう。
 さしあたって、その踏み外しを論理の言葉で言えば<実体的>と言う事であり、一切
を実体として規定してしまうと言う事になのでしょう。
その踏み外しとして、所謂観念論が、作者の認識が、そのまま頭から、姿を変え飛び出
して、形式に付着して内容に成ると考えるのは、正に、認識そのものという実体規定が
なされているのであり、実体が、頭から出て、形式と一緒になる内容になったのだと言
う事になります。
<実体そのものを内容だと捕らえている点では、論理的に共通している。>

そこで、此の実体的思考に対して、三浦さんは、マルクスの「資本論」の論理で有る
労働価値説から、論理構造をとりだして説明しているのです。
 貨幣が商品を交換するための「道具」であると同じ様に、言葉も思想を交換する道
具で有ると考えるのは、専門家でなくとも、気付くもので有るが、しかし、その貨幣
が商品との交換関係に入る事に対して、時枝誠記さんは、<経済的交換価値において
は、客観的な貨幣或いは物質それ自体が価値を持っていると認めるべきではなくて、
必ずこれらの価値を決定すべき経済的主体を考へずしては説明することが出来ないも ので有る>と言い、あえて言えば、鑑賞者認識が、形式たる表現に対して、認識と言 う内容を作り出すと言う事と、同じ論理を使用したのである。
 労働生産物には、価値が内在するのであって、労働が価値を作り出したのだと見る 学説を労働価値説と呼んでいるが、此の説をとったリカードは乗り越え出来ない壁に ふつかって、その学派は崩壊してしまった。
 リカードは、<労働それ自体が、価値で有る>と考えたのであるが、そうすると等 価交換の原則を賃金の場合にもつらぬいて、貨幣と労働とを同じ価値で交換する場合、 原則的に剰余価値とか搾取とか言う事は、成立しなくなる。

マルクスは、リカードの乗り越えられなかった壁を、一撃の下に打破った。
労働それ自体は価値ではない、労働には価値はない。<価値を持つのは労働力で有る>
というのである。賃金と等価交換されるのは、労働力であり、労働はこの労働力を使用
することであるから、労働力と関係はあるが区別しなければならない。労働力を賃金で
買う事は同じでも、それをどれだけ労働させるかで、生産される商品の価値は異なって
来る。労働力以上の価値を生産することもできる。
それゆえ、等価交換しながら剰余価値が生れ、搾取が可能なのは、労働力と労働との矛
盾、その相対的な独立に基礎付けられている。
 労働と労働力との区別、例えば、道具を使う事で、能力が向上し、労働生産物の量と
質が増大する時、現に道具を使用した労働が実現する事を、労働力と言うのであり、労
働とは、人間が生命を維持していく為の、自然物質に働きかけることであり、これは、
まさに自然形態と言う事なのでしょう。自然に働きかけをそれを手に入れ、身体化する
事で、成立していくのであり、その働きかけを労働とするなら、具体的なな自然に対す
る働きかけとその成果を労働力と規定するのである。
 <労働それ自体は価値ではなく、価値を形成する実体として、価値の創造に関係する
のだ>と、マルクスは説明するのです。
労働は、実体概念で、価値は関係概念でとらえられているのである。
価値とは、労働生産物と労働力によって生産物に投下された労働との両者の関係を言う。

さて、労働価値論から得た論理で、言語や絵画等の表現が持っている内容とか意味とか を考えてみる。対象内容説も作者認識内容説も鑑賞者認識内容説もみな、実体であるも のがそのまま内容であると結論している。

 ☆表現上の絵の具あとで、何が描かれているか、と言う問から、つまり、描かれる内   容の問いから、対象である現物が、対象内容説で有ると答えるのだし、
 ☆作者が文章を書きはじめる時、彼は何を書くかと言う問は、彼の考えている事を書   くのだと言う答えにな  り、それが文章になるのであるから、だから出来上がっ   た文章は、作者の思想を内容とすると言う事を、作者認識内容説と言い
 ☆出来上がった文章を鑑賞者が読む時、形式だけ有る文章から、何であるか解らな    いが、私達の頭の中に生まれたものを、文章の形式に対する内容であると言う事   が、鑑賞者認識内容説とする。

      対象−−認識−−表現 
と言う過程的構造に対して、まず<対象−−認識>と <認識−−表現>を以下の様 に考えるのです。
 <対象は、認識の内容を形成する実体であるが、対象そのままで、認識の内容なので はない。認識は、表現の内容を形成する実体であるが、表現の内容ではない。>

 過程的構造における<認識の内容>は対象と規定される<もの>によって形成されるが、対象そのものが、内容では無い事。例えば、私が目の前にしている机の上に <赤いリンゴがある>のを見ている時、その赤いという視知覚の内容(注1)は、リンゴの所にある<赤い>と言うものが、そのまま認識の内容、視知覚の内容に なったと結論したとしたら、これこそ、対象がそのまま、頭脳の中に入って来て、認識の内容になったと言う事になる。対象たるリンゴの所にあるのは、特定の波長の電磁波の反射であり、この波長の電磁波が<赤>なのでは無くて、あくまでも眼から入る事で認識として赤いと成立する事なのです。リンゴとその反射であ る単なる電磁波が、眼を介して頭脳で処理されている事を視知覚認識としての<赤 い>ということであり、対象たるリンゴは、視知覚の<赤い>という内容を形成するが、対象たるリンゴが<赤>なのではないのです。
 そこで、これらの説明に対して、<でも、赤いリンゴは、私の目の前のそこにあり、赤は、リンゴ自身の所に有るではないですか>という疑問が出て来たとすれば、それに対する反論は、<私の目の前のそこに赤いリンゴが有る>と言う、眼を入り口 とした認識を言葉にしているのであり、私が見聞きしている事は、対象が実体とし て形成に加担している事に依って成立しているのである。この実体として形成に関わる事が、対象を<そこに存在するもの>とする認識となると反論するのです。
 さらに、例えば、<無人の南極の地で、100メートルの氷の山が崩れた時の、大饗 音は、果たした音であるかどうか>と想像した時、氷が崩れた時のエネルギーが空気を振動したとしても、その振動は音ではなくて、その振動が耳を入り口とする認 識が成立する時の、その認識の内容が<音>なのである。

エネルギーによる空気の振動は、認識の内容たる<音>を形成する実体であるが、<音>と言う内容を持つ認識で有る一端との関係を形成する一端たる実体であるが、決して実体が、そのまま認識の内容である<音>になるのではないと言う事である。

ということで、言葉表現の内容や意味とか言われるものは、音声や文字の形に結びついている関係それ自体として存在する。
そこで、問題になるのは、<関係それ自体>ということになる。関係自体が音声や文字に結びついていると言う事とは、どう言う事かとなるのです。
この関係は、現象的には、<インクの跡や音声>と<認識>との間の関係として成立している。つまり、もっと一般的に言えば、物質(インクの跡)と精神(認識)の関係と言う事になります。しかし、このレベルでは、<関係>はまだ言葉だけであり、二つの項目が規定されているだけである。
そこで、関係は両項目があり、その両者にある共通性を見つける事であるから(注2)少なくとも共通性を探し出す事になります。
<音声やインクの跡>と<認識>が結びつく時の<結びつき方>があり、認識自体がそのまま<インクの跡>の所まできて、二枚の紙が重なる様に、重なると考えれば、此れこそ、<実体的>ということで、私達の日常の認識がそのままインクの跡に付着するということになり、認識に構造などない事になります。しかし両者が関係としてある時、両項目は、それぞれ共通性が捕らえられます。<インクの跡>は、特定のかたち、文字として、形相互の区別を作り出し、<認識>は概念となる事で、<文字の形>と<概念>とが、一意的な関係を形成し続けるのです。
<認識>と<インクの跡>との共通性は、<リンゴと梨>とにある共通性たる物質がある事で果物と呼ばれると言う意味での共通性ではない。後者が実体的なひとつの共通性であるとすれば、前者は、両項目の各々がそのままではなく、実体と規定される事で、始めて関係を持つと規定するのである。
<認識>と<インクの跡>とが関係を持つと言う事では、単に経験している両者を<関係>(注3)と言う言葉で結びつきを表現しているだけであるが、<認識><インクの跡>が、各々実体規定を受ける事で、はじめて<関係>と言う言葉で言われる対象が明らかにされるのです。つまり、以降は<関係>と言う言葉を使わずに、実体的規定を得たもの同志としての、<概念とインクの特定の形>と言う事で示されるのです。
<関係>が単に言葉であるときには、イメージされているのは、私達の頭脳の中の考えると言う活動であり、他方は白い紙の上のインクの跡であり、コンピューターの画面の光の点滅であり、それら二つが、<関係>しているということなのです。日本語として解る<関係>とは、その日常的な使用のなかで使っていることばであり、二つの物が想定され、それらの相互の働きかけによつて成立している事が、知覚されているのでしょう。

さて、関係と言うことばのイメージにたいして、更に<どんな関係か>と問うのは関係の両項目にたいして、実体をとらえることになるのです。つまり、一般論としての
共通項を捕らえる事になるのです。

認識と概念とは、労働と労働力と同じ論理構造であり、生きた労働が、具体的な生産物として投下されたものとしてあるのが労働力であると言うような関係として成立している。例えば、物理学で言えば、重いものがあり、それを、身体全体を使って一生懸命おす事で、物が動き出す時、一生懸命押すと言う事と、そこに特定の力が物に加わり動きだす特定化された力との関係であり、実体論は、一生懸命に押す事が、そのまま物に入り物が動き出すと考える事で、関係論は、押す事には変わりがないが、押されるものの重さにより、一寸した力ですむこともあれば、相当の力が加えられなければならないと言う事になります。press(押す)と言う私達の活動は、押されるものの重さに依って表される、あるいは、具体化されるのであり、その表されたものが<力>と言う言葉なのです。この<press(押す)>と言う事と、<力>との区別をつけないと、押される<もの>の重さの違いが、押す事に現れない為に、<press(押す)−−押されるもの>と言う事で終わってしまうのである。

もう一度<インクの跡>から考えてみよう。
色々なインクの跡があるが、それぞれに共通する形が実体化されたインクの跡でありその実体化されたインクの跡と認識の実体化された概念が関係を持つと言う時、そしてこの言い方は、三浦さんの言葉によれば、言語規範と言う事になるが、<特定の形と概念>と言う関係が、白紙の上に現に書かれたインクの跡に結び付けられることで、書かれたインクの跡が、特定の形となる事で、同時に関係に一端で有る概念が結びつく事で、インクの跡は、意味をなす、内容ある文字、言葉になるのです。
現に体験しているものの中で、その体験しているものについての概念が形成されながら、同時に自らの手で記していくインクの跡が、特定の形になる様に、彼以前の人々が<文字>として帰した形をまねる事で、作っていくのである。
このインクの跡は、音声の場合には、オウムの発する言葉なるものや、タモリの中国語、フランス語なる物まねの言葉とおなじであり(注4)問題はそのインクの跡に<概念>が関連しているかどうかであり、子供が<言葉として>インクの跡を、形として覚えていく時に−そしてこれは、人間の記憶力という頭脳の能力の問題なのでしょう−−彼がその活動の中で、どのようにして概念を形成してきて、インクの跡と関係付けるのかと言う事が、結局言葉を覚えると言う事なのでしょう。

私自身が記する
      <インクの跡>   −−−(1)
      <特定の形−−概念>と言う関係−−(2)
      が統一される事で、私の声や文字が、言葉と言われるのです。
オウムや、タモリは特定の形の音を発するのであり、(2)の関係が統一されていないと言う事になる。かれの音声は、たまたま(1)のレベルであるだけであり、耳にしている音であるだけにのです。
ただし此れは論理としての関係論のレベルでの説明であって、これを自分に引き付けて語るとすると、(1)の<インクの跡>とは、どんな形をしたインクの跡でもということであり、形にもならない形であったり、ミミズののたうちまわったあとであるということであり、それは無数にある形と言う事をいっているのです。
猿が書いても、象の鼻についたインクが白紙の上に記した跡であろうと、変わりなくと言う事なのでする。
そこで、論理としては無数にある形に対して、箇々の形に捕われない、物質的と言ったレベルでのインクの跡と言う事が、(1)ということになります。
その無数の形の中から、特定の形が取り上げられて、その形を自ら記していける様になる事と、概念化された認識を対応させることが、(1)と(2)の統一ということなのです。(2)の関係が、(1)に関連付けられるとは、(1)のインクの跡が、特定の形として記されるということであり、そのように記される事が同時に概念の対応を含むと言う事で、仮に私が、壁に書かれたアラビア語の文字の形をまねたとしても私は、言葉を記した事にはならないが、アラビア語を読み書きできる人にとつて、私が形をまねした記したインクの跡も、テープレコーダーに録音した言葉と同じ様に意味有る言葉として理解するのです。つまり、私は、テープレコーダーの替わりをしただけになるのです。(注5)

そこで、私達は、日常的な活動の中で、感じたり見たり聞いたりする中で、どのようにして、概念を形成するのかと言う事になります。
<概念>とは、<対象の種類という側面の認識>であると言う時−−認識を内容の観点から見た時の説明である−−、その内容を獲得した認識の特定の段階を<概念>と言う事であるなら、どのようにしてその段階になるのかということになります。そして、この特定の段階というとき、はじまりの段階は、いわゆる感性的認識と言われるものが示されるのでしよう。
その感性的認識は、対象のどんな側面を内容としているのかと言う事になります。対象の種類と言う側面−−超感性的認識の内容−−と言う事に対して、個別と言う側面が感性的認識の内容になります。個別的なものが、五感による知覚を介して認識内容なすものとして捕らえられると言う事が、感性的認識の最大の働きとなります。
そこで、いわゆる五感としての色や味や触覚や音等は、その感性的認識の内容である、対象の個別と言う側面と、どのように関わるのかと言う事になのます。
それは、五感による知覚内容である色とか光りとか音等で規定されているものがあると言う事になり、<ものがあり、それが赤い>と言う事になる。これがさしあたっての感性的認識の内容であり、更に言えば、その感性的認識の個別的なものに対して、個別的なものの性質である色とか音とか味とか大きさで、個別を区分けすることにより、もの自身とその性質と言う区別が成立して、感性的認識は、超感性的認識へと構造化されるのである。つまり、構造を支える基礎として感性的認識は相変わらず成立しながら、<ものがあり、それが赤い>と言う認識が成立しながら、同時に上部にその感性的認識の内容である諸個別を、性質という感性的認識として成立しているものを基準に、あるいは共通性としてグループ化すると言う働きをなすのである。

さて以上の様に、認識の構造化を分析したのであるが、これらは思惟としての対象の分析であり、<赤い色のもの>としては、確かに成りたつているが、しかしあくまでも抽象的な思惟であったり、あるいは言葉だけであつたりしていて、その<あかいもの>が、例えば、歩く時の道しるべとしてあるとか、果物の中の色であると言った、私達の生きる上の実践に関わるものであり、そのかかわりにより、感性的な内容が構造化されるのであり、そのかかわりの上に立っている事が、思惟としての本体と属性と言った分析として抽象化されているのでしょう。
<ものがあり、それが赤い>と言う感性的認識に対して、ものと属性により、ものが、属性と言う共通性で、集合化されて、そのものが、共通性を介して種類と言う側面として認識されると言う、認識の一般論は、思惟において正しい行程であるようなのであり、私達は思惟における抽象を、上のように考えているのだけれど、しかし私達の存在は身体を介した活動としての存在であって、その活動の選択の基準が、頭脳における思惟であるなら、単に認識活動としての思惟のみではなくて、活動の選択としての思惟、つまり対象の形態を問う形態論が問われる事になるのでしょう。
認識の一般論は、この形態論(注6)を明らかにする時の、導きの糸となるのです。

(注1)視知覚の内容として<赤い>と色が成立していると言う時、私の前の机の上のリンゴの存在に対して、私の眼と頭脳の何処かの極所に<赤い色>があると規定する。頭脳の細胞の化学的、電気的な構造としてあるものの内、ある特定の構造を仮に<赤>とすると、細胞上の構造Aは、机の上のリンゴの<aka>とどんな関係をもつているかと言う事になります。確かに細胞上の変化として有るのだが、それを、<aka>との関係で、<認識としての赤>と規定するのである。現在の脳学の最新の機器を使用した脳細胞の研究の成果は、関係の一端である、脳細胞を調べているだけであり、そのある動きがどうかは、現に知覚している主体が、みずから赤いものを見ていると言う意識によってしか示されない。なぜなら、脳細胞の変化であるといっても、五感を含め身体全体が働いている時の、判断として成立しているからだ。
 その判断を抜きに、<赤い色のリンゴが有る>という知覚は、意識されていないのである。例えば、ある特定の色によつて色分けされた図表に対し、色の違いで図表Aが違う様にしておき、更に色の区別をなくした図表Bを作っておくと、Aにみえるか、Bに見えるかで、その人に特定の色の認識が成立していにいるかが、見る人以外の人にも確認できるのである。色に依って形付けられた文字に対して、色の区別が出来ないと文字として読み得ない区別を作る事で、直接には文字を確認できるかどうかで、間接的に色の確認をするのです。ただし文盲にとって文字そのものが読めない為に、色の区別が出来ないかのような可能性はあるが、その場合にも、文字の形を描いてもらえばいいのであるが。

(注2)これが、関係と言う言葉の定義であり、共通性は、今までは実体とか本質とか言う言葉で示されていて、単独項の場合、その実体が項そのものであります。神こそ単独者であるために、内属はあり得ず、神自身が外化すると言う様になるのです。関係になる事で両項目そのままではなく、それに内属するものとして、共通性が規定されるのです。

(注3)日常使用している<関係>と言う語で、例えば、兄弟と言う関係は、その関係の両端たる私とAとが、親から生まれた共通性とその順序により、一方が兄、他方が弟と規定される事であるのだが、私とAとのふたつのものに対して、たんにそれぞれであるなら、関係は成立しない。しかし同一の親から生まれたと言う事を共通性とした私とAとの間を、関係として、その関係から規定された私を兄、その関係から規定されたAを弟とした、兄弟と言う関係が形成されるのである。私もAも、同じ親から生まれたと言う経験が、その関係という言葉の経験的内実なのでしょう。
 私とAは、兄弟と言う関係を形成する。あくまでも、共通性を介した<私とA>なのであり、単に私とAと言うだけで有るなら、あくまでも現象的には正しいと言えるだけで有り、親Bから生まれたと言う私の側面と、同じく親Bから生まれたと言うAの側面とが、共通していると言う規定を受けながら、私とAとを帰り見る事で、始めて私とAとが、兄弟と言う関係になるのです。
 関係とは、私とAとの間でなりたつが、私とAとに有る側面が、共通性の規定を受ける事で、共通性で規定された側面としての私とAが、<兄と弟>と言う関係に成る。
 <関係>と言うからには、少なくとも二つの個別化されたものが有る事。その関係は、二つのものの間にあり、兄弟関係の場合は、私とAとの間にいる私やAと同じ存在の親をかいした何ものかと言う事でイメージされている。

(注4)私にとってオウムの発するおとは、<おはよう>と言う挨拶の言葉としてきこえるが、けっして私に向かって朝の挨拶を実行しているとは考えていないのです。タモリの物まねであろうと中国人の言葉であろうと、彼等の声は、単に音でしかないのは、他者が話す言葉を日本語として理解できるように私の頭の中の構造化されていないからであり、例えばヘーゲルの「大論理学」に眼をとおす時そこに書かれた文字が日本語であり、<ある>とか<存在>と言う言葉がわかるが、文章としては呼んでも分かった気持ちにならない経験のときの、最初の<言葉として解る>ということが成立していないからだ。
 ヘーゲルの「大論理学」は、いちいちの語彙としての言葉は、日本語として解るのだが、語彙のつながりとしての文章となると、端的に解らないのである。

(注5)壁に書かれているアラビア語を、見よう見まねで、白紙に書き写す時、私のなしている事は、その形を描いているだけであり、日本語で<おはようございます>と言う文字を書き写す時の、頭の中とはちがつていて、けっしてその文字に挨拶の意味が有ると言った理解にはならないのです。
 しかし、私の記したインクの跡は、アラビア語と言う書き文字を理解できている人にとつては、挨拶の意味が有る事が解るのであり、私と彼とは、ある特定の形のインクの跡を残す事が出来るのは同じであるが、その特定の形と概念が関係している事を私には理解できていないが、彼には理解できているということなのです。
 論理としての問題は、<インクの跡>と<特定の形のインクの跡>の関係である。<インクの跡>とは、現実に記するということであり、タイプライタで打つことであり、後者は、現に記されたものが特定の形をしていると言う事なのです。

(注6)価値形態論−−(3)
商品の価値分析によって得た、商品に内在している価値としての抽象的人間労働を共通項とした二商品の、一着の上着=一エレヤの布と言う等価関係 −−(4)
 (4)の等価関係の一着の上着に内在する価値を、他方の一エレアの布で表すことは、商品に内在している価値なるものが、はじめ他の商品の自然形態で表されたと言う事になり、それが(3)の価値形態論なのです。つまり、商品が価値と使用価値の統一と言う事であっても、店頭に並べられた商品は売れなければ、価値として実現しないし、ましてや他者に渡る事で使われ、使用価値として実現しないのであるという、現実の交換によってはじめて両価値が実現すると言う事を考えなければならないのである。
(4)のように、内在した価値成るものによつて、等価関係が出来ていると言う事では、現実に成立した交換の後、事後に、その構造を反省したに過ぎないのである。