まず私達は、天秤ばかり、バネばかり、と言う道具を使用して物の重さを量るのです。この計る行為にあって例えば、手に持ったリンゴのずっしりとしたそれを<重さ>と呼んだ場合、その<重さ>と計量される200グラムと言う数量とはどんな結び付きがあるのかと言う問に対して、どの様に答えを出したらいいのかと言う事に成ります。手に持って知覚されている<重さ>と呼ばれているリンゴの属性が、計量器の上に乗せられた時、のびたバネの長さから、200グラムてあると理解するのです。つまり、手に知覚されているずっしりとしたそれを、計量器は200グラムと言う数量を表示するのです。手にずっしりとしているそれと、計量器の200グラムと言う表示の関係を明らかにしようと言う事なのです。今、私は、自分の前に有るリンゴを右手にとり、その重さを右手に感じるのであり、さらに左手にパチンコの玉10個持った時、左手に重さをかんじる。両者を<重さ>で比較するとリンゴが少しばかり重いのを感じるので有る。この感じるという感性は、物体に属性としてある性質を、私達の身体−−手や鼻や皮膚や耳や眼−−と言うセンサーを通じて知覚されている事であり、ただ電子のセンサーと違うのは重さを感じるのが、飽くまでも、手であり、身体の手と言う場所で感じていると言う事に成る。
つまり、リンゴを持つ手が、重さを感じている時、そのリンゴの、ある特定の属性を手で<重さ>として感じるのであり、さらに自身で右手や左手を身体図として位置付けるのでしょう。これは、感性的認識といった言葉で言われる図式なのでしょう。個体として一個一個のモノとしてあるリンゴやパチンコの玉には、物質としての性質としてあるモノ−−物質の属性と規定するのです−−を私達は<重さ>と言う言葉で言い表すのです。リンゴを手に載せている時に手に感じている多様なモノの中で、何を<重さ>と言う言葉で指示するのか、つまり子供に向かってリンゴの<重さ>と言う言葉が、どの様に伝達されるのかと言う事なのです。子供もみずからリンゴを手にとれば感ずる事が出来ているのであるが、ただ感じているどれが<重さ>と言う言葉で指示していいものなのか、特定するものは何なのかと言う事なのです。理屈としては物体に対して属性として有るモノが私達の五感を入力として知覚されると言う事であり、手と言う触知覚では何種類か有り、その内の一つが<重さ>と言う言葉で表される知覚と言う事なのです。触知覚は手が物体に触れる事で手を入力としてなされるのであり、物体が持つ多様な属性が手から知覚されて頭脳で判断されるのです。子供がリンゴを手にとるのであり、私がリンゴを手にとるのであり、彼が手にとるのであり、そしてだれも皆手に感ずるのです。この手に感じている事に対して、日本語を話す人間で有れば誰にも同一である<重い>と言う文字の様に、感ずるモノに同一性を規定しようとすると、対象の同一性と同じ理屈で、感じている事の内容の同一性を考えてしまうのです。100人の人が手にリンゴをもてば、その手に<重い>と言う言葉に表される知覚内容を同一として持つ事になるのだと言うのです。100人の人のそれぞれの手に握られている100個のリンゴは、皆リンゴとしての同一性であり、一個のリンゴを交互に握れば同一の個体と言う事になります。100個のリンゴと言う対象の場合出来が違っているのでその一個一個により感ずるモノも違っているはずであるが、一個のリンゴを握る場合には、同一である対象に対して、100人の人が握れば、彼等の人数分の感じているのです。ただ100人のそれぞれの人が感じていると言う事は、100人の固体の数だけ<感ずる事>があると言う事ではないし、かとっいって皆<同一の感ずる事>であると言う訳でもない。感ずるのは主体としての個人で有るのだから、手が握る対象としてのリンゴに対して今感じているのであるが、その感ずる働きは主体の身体活動に伴うものであり、手が冷たいので<握るのをやめる>とかそのまま<がぶりとかじりつく>と言う事の様に身体活動に伴なっているのです。感ずる事に個別性を見るのは、その感ずる主体としての私達のこの身体の存在の個別性によるのだが、その個別性は孤立しているのではなく、物質に働きかける身体としてあり、その働きかけの中で働きかけられる物質を対象とした感ずる事が成立しているのです。物体に働きかけるこの身体はまたセンサーで有る事によりセンサーによる知覚された内容の頭脳における表象を介して身体による働きかけが多様化していくのです。その様な身体活動の一過程としてある<感ずる事>をそこから切り放して、100人の人の個別性のように個別化して考える所で100個の感ずる事を想定して、100個に比較を持ち込み違いとか同一とかを考察しようとするのです。感ずる心とは、外部から閉ざされたうかがいしれない内部にある何モノかではなく、身体活動に伴う多様なモノへの選択と言う事なのです。地球の中心に落ち続けるリンゴの運動がそれを握る私の手に加えられる力を、私達はリンゴの重さと言う言葉に表す知覚として感ずるのです。同じリンゴでも地球上で感ずる重さと月の上で感ずる重さには違いがあるのは、リンゴを引きつける引力の大きさの違いと言う事なのです。
さて、リンゴ、梨、西瓜、茶碗、石、鉄片等には、重さと言う属性があり、それを手にとれば、手が感じているものの一つが、ひんやりとしている事も有り、丸い形でもあるが、今は重さなのでしょう。
この手で感じるリンゴの重さは、物理学の知識からすれば、リンゴとリンゴ以外の物体とが引き合う関係で成立し、私とリンゴの間にも引き合う関係があるのだが、ただリンゴに対する私の大きさが余りにも小さい為に引き合うだけの力が成立しないのであり、地球規模に成るとリンゴを引きつける力が顕在化するのであり、その顕在化した力が、リンゴの重さとして私の手に感じられる事になります。<重さ>と言う言葉に表す手が感じているそれは、さし当たり私達の手に乗りさえすれば、いつでも感知できるのです
各々の物体に<重さ>と言う属性がある。----(1)
<本体としての物体と属性としての重さ>と言う区別、此れは今の私にとって、哲学書などから得た一つの知識であり、此の知識に対して、手に握っているリンゴと手に感じているものを重さと規定する事で(1)の言葉の示す対象が特定されるのであり、それにより(1)の内容を理解したと判断するのである。
この手に握られたものが、リンゴ本体であり、手に感じているものが<重さ><触覚>手の開き具合が<大きさ>というように。
そこで、私達の目の前にある、例えばリンゴや皿と言うものに対して、重さと言った触覚による知覚と眼による視知覚等が統合され、リンゴと言う物と、重さや冷たさ、大きさという認識が成立するのでしょう。五感によって知覚されているものが、属性として、その五感によって知覚されているものの統合体が、本体として規定される。此の統合の材料は、五感による知覚で成立するが、統合としての本体、あるいはリンゴ自体は、悟性とか理性と言った認識によって把握されると言う事になるかもしれない。
これが(1)によって得られる、認識についての知識であり、私達は、現に握っているリンゴと言った物体に対して−−食べる為に握っているのですが−−思惟として分析していくと抽象的思惟として<本体と属性>と言った項目を得たのです。
属性は、感性的認識によつて知覚され、本体は、属性の複合と言う悟性的認識で知覚され、本体と属性の統一が、理性的認識で知覚されると図式化してみる。
ただ、感性的認識だけは、この眼によって成立していると言う事で、対象が探し当てられているので理解できるのだが、悟性的認識の場合には感性的認識によって得られている味とか色とか大きさ、触覚等の<複合>としての本体を行うのがそうであるとしても、複合とは言葉だけであって、けっして複合の構造が示されている訳ではないし、ましてや属性と本体の統一を捕らえる理性的認識など、明らかにされていないのです。現にある感性的認識を出発点にして、そして此れこそまずはじまりであり、そのデータなるものが、悟性、理性という認識能力により変化する事で、私達の表現現象として成立している構造を明らかにすることなのでしょう。さて、ここで新たな思考実験を行うのです。上記で記して来た、一個一個として感知されているリンゴや鉄片や西瓜や鉛筆等に対して、両の手を使用して二つの個体を関係づけるのです。
両手で、二つの物を持つ時、リンゴ一個と、石二個が、同じくらいのおもさとして感じられるとすると、それを次のような、重さの関係として表現してみる。此れは棹秤の両皿の上にものを載せ、どちらかに傾くかで<より重い>と言う事だけは解る構造になっている。以下は、天秤が水平を保ち、両方の<重さ>が等しいと言う事になります。リンゴ3個=一個の西瓜
リンゴ2個=石1個 −−(2)
石3個=鉄片1個 −−−(4)これらの天秤の上のリンゴ3個と西瓜一個の関係は、リンゴ3個の<重さ>と西瓜一個の<重さ>が、秤で釣り合っていると言う事で有り、それらの目の前で起きている出来事を別の言葉で<重さ>が同じ、等しいと言い換えるのです。
ここで使われている<重さ>と言う言葉は、リンゴ一個の場合でも、二個の場合でも、それを手に持つ時に手が感ずるモノを表しているのです。だから一個のリンゴを<重さ>と感じている時、三個のリンゴを手に持った時の<重さ>は、一個の三倍の<重さ>であると言う事ではないのです。感じている<重さ>に違いが有ることは理解していても、それが数量的に三倍であると言える為には、別の段階が必要になるのです。
一個と一個、二個と一個と言う様に、相互に量の違いとし、重さの数量の違いとして示されている。ただ此の関係は、日常的には<天秤ばかり>と言う道具を使って確認しているのであり、秤の上にあるリンゴと西瓜がどちら側に傾くかで、どちらが重いか確認出来るのだが、しかし、この秤が成立する構造こそが、明らかにされなければ成らないのでしょう。
この(2)の関係であれば、天秤の両辺が等しく傾きのない状態であると言うだけです。この天秤の片方に、基準に成る<錘>が載せられるかどうかは、現代の私達の時代では当たり前なのは、現に錘と言うものが発明されているからであり、その錘をつかって物体の重さを計る日々の出来事から、過去を振りかえって発生を考えるから、どうしても<錘>になるものをみつけようとしてしまうのです。いま私達は、何気なく実践として使用している天秤ばかり、バネばかり等に付いて、その構造を明らかにしようと言う事であり、既に目の前に道具として成立している<計り>を前にして、つまり二つのリンゴの内どちらが重いのかを調べながら、その行為の中に<はかり>の構造に付いての知があるかどうかを見ているのでしょう。
<錘>が出来ている事に対して、その錘の論理構造を明らかにする事は、歴史的な発生を考える事と同じなのでしょう。何を基準にするかは、その社会によるのでしょうが、しかし<秤>である限りその論理構造が明らかにされると言う事なのです。
そこで、(2)における、リンゴ3個とか石一個と言う量についてを考えると、その数量は同一の質を土台にするのであって、質である同一性としての<重さ>が、本体としての物に内在する、属性としての<重さ>として規定されるのです。ただし手のひらに載せられているリンゴの<重さ>の感覚は、手と言う器官がリンゴの落下により生ずる力を<重さ>として知覚している事であり、そこを前提にリンゴと言う主体とその属性と言う分析思考されるのです。重さは多様な属性の一つとして捉えられるのです。手が現に知覚しているのは手の平に載せているモノとしてのリンゴと<重さ>であると言う全体であり、それを分析思考として主体とびく性と言う視点から区分けしているのです。その区分けで取り出されたモノが、<重さ>と言う事なのです。私がリンゴを手に載せている時、重さを感じたり、丸さを感じたり、ひんやりしたモノをかんじたりしているがしかしそれは<属性>と言う視点から知覚しているのではない。あくまでも手に載せられているリンゴそのものとして知覚しているのです。
(2)についての分析思考をします。天秤の両辺にあるモノ同志が釣り合っている事を考えると、その釣り合いとは、その両辺のモノの<重さ>と言う属性が「共通として」ある事で成立する重さ関係なのです。この場合は等しいと言う<重さ>の関係のであり、右側に傾けば、「リンゴ三個<石一個」と言う<重さ>の関係と言う事であり、左に傾けば「リンゴ三個>石一個」と言う<重さ>の関係と言う事です。三個のリンゴと一個の石とは、それぞれの材質で自然に存在するモノであるが、その<重さ>と言う属性の共通性により、天秤の上で<重さ>の関係を結ぶのです。つまりリンゴにも石にもその属性として<重さ>がある事は、それらを手のひらに載せる事で知覚しているのであり、それは手とリンゴとの天秤の一種と言う事なのです。私達が<重さ>として知覚する時の手とリンゴの関係が、天秤という形を介する事で、リンゴと石との特定の関係として示されるのです。手は今載せているリンゴと先ほど載せていたリンゴとでは、いまのリンゴの方が<重い>と言う判断が成立しているのであり、そこで知覚しいる両方のリンゴの<重さ>と言う属性を前提に、天秤の上のそれぞれにある<重さ>と言う属性と言う視点から、三個のリンゴと一個の石との釣り合っていると言う特定の形態を反省すると、三個でも一個でも知覚されるリンゴや石の属性としての<重さ>が、つまり載せられていない時でも、載せられている時にでも、天秤の様な形とは無関係としてのリンゴや石の属性としての<重さ>であるが、それが天秤の上に有る事で自己としての三個のリンゴの<重さ>が、相手の石一個と釣り合っている、等しいと言う事になるのです。天秤の上のりんごと石とは、その属性としての<重さ>により、関係を結んでいると言う事を、手で知覚しているモノとしての<重さ>を属性として分析する事で私達の頭は把握しているのです。ただしこの分析としての<重さ>は、釣り合い、右傾斜、左傾斜のどれでも得られるものであるのに対して、特に釣り合っている状態の天秤を前にした時、分析から得られた属性としての<重さ>に構造がでてくると言う事なのです。それが三個のリンゴの<重さ>は、相手の一個のリンゴに等しいとなるのです。天秤とは、手の上で知覚されていたリンゴや石とか、同時に<釣り合うと言う形態・A>によって作り出される<重さの関係・B>と言う事なのです。Bが一般論としての重さの関係であるのに対して、その一般論を前提に、一般論を舞台にして特定の形態としての<釣り合い>を捉えることなのです。三個のリンゴは、重さとしては、一個の石と等しい、と言う事なのです。
天秤の外の三個のリンゴと一個の石とは、私達の感覚器官による<重さ>の知覚として成立しているのでありその知覚を踏まえると、天秤の上にある三個のリンゴと一個の石の釣り合いは、三個のリンゴが、<重さ>として一個の石に等しいとなるのです。単に両者に<重さ>があると言うだけでは、両者の属性としての<重さ>を規定しているだけであるが、天秤の上の両者が<重さ>として等しいと言う場合、個体としての個数に関わるので有り、その天秤の状態を踏まえると、三個のリンゴの属性としての<重さ>は、相手の一個の石自体として表されると規定するのです。
私達が属性としての<重さ>を認識するのは、手に載せた特定の大きさのリンゴや石等に対してなされるのであるが、それらのモノを天秤と言う実践で、関係づける事で、<重さ>をモノ同志の形態として表す事が出来る様になったのです。天秤の上で釣り合っているリンゴと石について再度考えてみる。
二個のリンゴの重さが、一個の石の重さに等しい。あるいは一個の石の重さが、二個のリンゴの重さに等しいと言う物言いは、二個のリンゴと一個の石とを左右に載せている天秤が釣り合っている事実を説明するモノとしてあります。天秤が釣り合っているのは、左右の天秤の上の二個のリンゴと一個の石のそれぞれの<重さ>が等しいからであると言う考えは、天秤の釣り合いの構造を説明する言葉としては正しいのでしょう。
しかし物体としての天秤のあり方に対して、左右に載せられているリンゴと石とが、地球の引力による力が加えられている事でリンゴや石や天秤に生じているモノを<重さ>として示しているだけであり、釣り合いの上のリンゴと石は、その重さによって均衡がとられているのだと言う事なのではなく、<重さ>が、一方は二個のリンゴの数量で、他方は一個の石の数量として表れているから、釣り合っていると言う事なのです。<重さ>によって結論づけようとするのは、私達が手の平に載せて感じているモノを<重さ>とする時に、その感じている重さは、手の平の上にある特定の数量で形のものである石であったり、リンゴであったりしてる所から生み出されているのに、現実には二個の丸い石であるのに、その特定性が抽象されてモノの重さと言う事に結論されているからです。それに対して天秤は、その左右に載せられているモノが特定の数量としてあり、単に<重さ>に解消出来ないからなのです。私達にとって道に転がっている石が歩行にじゃまであれば、それをどける努力をするのに、二個持ち上げるより、一個の方が軽いからと言う事で<重さ>が数量や大きさ等に規定されている事は経験しているのです。
現代の私達に、天秤に無関係にそれぞれ単独であるモノがその<重さ>で等しいと言えるのは、単独のモノの<重さ>が、100グラム等の数字表現をしているからです。同じ100グラム表現であれば、それは同じ重さであると言う事なのです。しかしこの様な判断が出来るのは、<重さ>を数量表示が出来るようになった構造が有るからです。そこでまさにその構造の解明がなされると言う事なのです。それが天秤ばかりと言う事になるのです。釣り合いのとれた天秤の上の二個のリンゴと一個の石とに対して、感性的認識に依って得た<重さ>と言う知覚が、リンゴや石と言う主体の属性として分類されてくると、最初は、両者のそれぞれの属性としての<重さ>が等しい「から」、釣り合いがとれていると判断するのです。その様な言葉で説明するのです。しかしその様な説明に対して、次の様に反論するのです。属性としての<重さ>には、どちらの方が重いと言った区別がないのです。重さに大小を決めるのは、主体としてのリンゴや石のレベルなのです。その大きさや密度や数量などの大小が、重さの大小を決めるのです。とすると天秤の釣り合いとは、<重さ>として、二個のリンゴと一個の石とが、釣り合っていると言う事なのです。天秤に何も載せずにそのままにしておけば、釣り合っているのと同じなに、二個のリンゴと一個の石で釣り合っていると言う事なのです。<重さ>によって釣り合っていると結論する前に、<重さ>が、二個のリンゴとして有る時と一個の石として有る時釣り合っていると言う事なのです。
私達の手が感じている<重さ>とは、リンゴや石にある属性の一つであると言う判断に対して、ではその属性としての<重さ>とは何かと言えば、地球が作り出す引力がリンゴや石に働き掛けている時の現象と言う事なのです。手のひらに載せられているリンゴを地球が引っ張る力を<重さ>として感じていると言う事なのです。天秤の上で釣り合っているのは、その重さとして知覚される力が、二個のリンゴと一個の石の場合には、同等であると言う事なのです。これはモノの重さに対して、それが私達の知覚によるモノであると言うレベルから知覚している対象たるリンゴや石と言う物体と地球との引力関係と言う本質を解明する事で、地球とリンゴや石との間の力関係が、天秤の上で釣り合っていると理解するのです。重さとは確かに手の上のリンゴや石から知覚されるモノとしてあり、それを石やリンゴと言う主体の属性として了解するのです。しかし知覚の対象たるリンゴや石を、さらに地球との関係で捉え直すと、リンゴや石の大小が引力による力の大小として表れていると了解でき、私達は大きなリンゴを重いと感じ、さらに二つのリンゴの場合には更に重いと感じると言う事なのです。
とすると天秤の上の均等しているリンゴや石は、地球の引力による二個のリンゴや一個の石に対する働きかけが、同等であると言う事を、手が感じるモノを<重さ>が同じであると言っているのです。地球と言う一つのモノが引きつける力(甲)に対して、地球上の諸物のそれぞれが引きつけられる事で生ずる力は諸物を地球の中心へ落下させる運動であり、手の上にリンゴを載せると言う事は、その落下運動するリンゴを支え続けている事であり、そのささえの時に手はリンゴを<重さ>として感じる事になるのです。天秤の左右の二個のリンゴと一個の石が釣り合っているのは、地球からの同一の引力が二個のリンゴに対する働きかけと一個の石に対する働きかけが、天秤の左右で等しいと言う事です。引力と言う同一の力が、天秤の左の二個のリンゴに対する働きかけとして表れている事と右の一個の石に対する働きかけとして表れていると言う事であり、さらに両者への働きかけの結果が同一であると言う事です。そこで天秤の右に載せられている二個のリンゴの<重さ>とは、左に載せられている一個の石に対する働きかけとして現れているのです。二個のリンゴの属性としての<重さ>が、天秤を降りても成立しているモノであるのに対して、天秤の上で一個の石と均衡を保っている事実により、二個のリンゴの属性としての<重さ>は、引力の働きかけで均衡している一個の石であると言う別の表現になるのです。リンゴ2個=石1個 ---(3)
物体の多様な属性のうち、<重さ>と言う面だけに視線を向ける事で、箇々の物体を関係づける思考が成立するのです。モノを手に持つ時、手が感じているモノを<重さ>と言う言葉で表しているのであるが、その<重さ>と言う言葉に表されている、手から感じている知覚内容は、手の平の上に載せられている二個のリンゴを主体とすれば、その主体の属性と言う事になります。今手に載っているモノが主体なら、その主体の諸属性の一つを感ずる事で認識しいる内容を<重さ>と言う言葉に表されているのです。主体としてのリンゴは、人々が自分の手のひらに載せられるモノであるのに対して、手が感じているモノは載せられているリンゴの属性を感じていると言う事なのです。感じているのは、あくまでも手に載せている人間だけで有り、載せている人が感じているモノは、その感じている本人の知覚の問題なのです。その知覚内容が他者と同じと言う発想は、リンゴとそれを手に載せる事で生じている知覚と言う構造の問題で有り、その構造は誰も同じなのだと言う意味で、知覚の内容が同一であると言う結論なのです。自分の眼球を取り出して、ほらこれが僕の眼球だよと他者の前にさらすと他者も自分の眼球をさらせば、そのさらされたモノが人間の身体の器官としての種類が同一だけであり、唯一の神のように一つであると言う意味ではない。眼球としては同一であるとは、身体器官の種類が同じと言う事です。それと同じ様にリンゴを手に持つ事で手が感じているモノが、だれのもみな同じであると言う事を、次の様に考えるのです。
神の視点からは、リンゴを皆手に持っている事と皆手に感じている事を見通せると言う事であり、神は見通せるから、感じている知覚内容を比較して、同じであると結論できるのです。私自身は自分の手のひらにリンゴを載せている事と感じている事が成立しているが、他者の場合には手にリンゴを載せている事は分かっても、感じている事を自分の様には出来ないのです。自分場合には感じているのでるが、私が他者を見る場合あくまでも感じている人を、あるいは感じているのか分からないがその人を、見ているだけなのです。つまり私がリンゴを手に持つ事や他者がリンゴを手に持つ事は、リンゴと言う種類が同じで持つ行為が同じでも、私が感じている事に対して、同じ様に他者も感じているとは私から言えるのは、相当の手続きを経なければならないのです。私でも彼でも彼女でも、手にリンゴを持てば、その重さを感じると言えるのは、私達の身体の生命としての働きが同じであるから、手に持つ行為が同じなら感じる事も同じであると言う事なのです。その種類と言う側面とその種類の一つとしての私が、現に手にリンゴを載せて感じていると言うことなのです。私が今持っている荷物は、いま感じている重さであれば、彼女には持たせたら重すぎるかもしれないので、私は彼女にその荷物を持たせなかったと言う私の判断の拠り所は、私が持っている荷物を彼女が持てば感じるで有ろう重さと言う予想なのです。彼女ならその位の荷物なら風船の様にしか感じないと言う比喩は、どちらにしても彼女が感じると言う事を当然とする、私の判断が有るのです。そこで誰でも感ずるのである事に変わりは無いが大事なのは、どの様に、どの位、と言う量的な事なのです。生命体としての人間の身体と言うレベルは、感ずる事を規定するが、どんなと言うレベルは、個々の生命体の問題となるのです。種類と言うレベルでは、誰にも当てはまる事であり、それを前提に他者に向かっていくのだか、しかし個々の人の具体のレベルでは、度合いも絡んでくるので、同じと言う結論はすぐには出来ないと言う事なのです。度合いは理屈で言えば、ゼロから無限大まであり、何処で合うのかを結論出来ないと言う事なのです。神はその度合いさえも見ていると言う事なのです。天秤の上の二個のリンゴを手に載せることで感じている<重さ>と、天秤を降りた一個の石を手に載せる事で感ずる<重さ>とは、二個のリンゴと一個の石とがその<重さ>と言う属性を共通にして関係があるとなるのです。私達が、関係と言う語彙で考える事が出来るのは、リンゴと石に対して、それを主体にした属性と言う区別を考えられる様になったからです。重さは、リンゴの属性として考える事が、リンゴ本体を手に載せる事で感じている認識内容を介して成立している。そこで天秤の均衡は、その関係の特定の例であり、別の場合は右上がりであったり、左上がりであったりと言う関係なのです。均衡した天秤の場合は、<重さ>の視点からでは、両者の重さが同じであると言い換えられるだけなのです。この<重さが同じ>と言う言葉は、天秤の上の両者が<重さ>で関係していると言う事であると同時に、<均衡している>と言う事を。同じと言っているのです。属性としての<重さ>だけでなく、その均衡を量的に考えるから、<同じ重さ>と言う事なのです。しかしその均衡を、そこに載せられているリンゴと石の量で考える事が必要になるのです。左はリンゴ二個で右は石一個で、均衡になり、だから<重さが同じである>と言うことなのです。共通性としての<重さ>は質としであり、それが量としての<重さ>、つまり等しい、大小になるのは、その重さの本体であるリンゴ自身石自身のレベルなのであり、リンゴ二個の<重さ>と石一個の<重さ>が量としての<重さ>で有る事で、はじめて同じ重さと結論できるのです。天秤は何も載せてない状態では、均衡しているのであり、単に均衡と言う事ではなく、載せられた諸物によって、均衡で合ったり、左右上がりであったりと言う事なのです。
属性としての<重さ>を前提にすると、両者が同じ重さであるから均衡していると言う言い方は、均衡を<同じ>と言い換えているだけです。<何が同じなのか>に対しては天秤が均衡していると言う事だけであり、決局言葉としては堂々巡りになってしまうのです。天秤の均衡と言う事実を言葉にしているだけなのです。問題は均衡している左右に載せられているモノを考えなければならないのです。それがリンゴ二個であり、石一個なのです。リンゴ二個は、重さとしては、石一個に等しいと言う事なのです。ここで初めて重さがリンゴと石の属性としてではなく、リンゴに個と言う姿と石一個と言う姿で、釣り合っていると言う事なのです。リンゴという主体や石と言う主体は、その諸属性のひとつとして重さが有るのではなく、一方は二個のリンゴであり、他方は一個の石が、それぞれ重さとして天秤で均衡しているのです。さしあたって(3)に対する理屈と言うことなのです。この様に記して来て、秤と言うものが、私達の生活のなかにあり、一冊の本を秤の上においたり、バネ秤に吊るしたりする事で、120グラムであると秤に表示されると、此の本一冊は120グラムの重さがあると私達は判断するのです。
一冊の本にある<重さ>なるものが具体的に何グラムあるのか解らないので、それを知るものが秤だと言う事であるなら、それは、現に感知している重さに対して、別の形態で表すと言う事が、秤の本質であると言う事を言っているのであり、此の本に何故<重さ>があるのかと言う疑問は、物理現象の問題になるのです。観点をかえると、1gと言う重さは、g原器の鉄片が、地球の重力により引っ張られる力が、物体におよぼす現象を一定の数量化として、約束的に決めたものなのです。どのくらいの数量化を、1gとするかは、あくまでも約束事として成立しているだけです。この約束事は、日本での<匁>とイギリスの<ポンド>と言う様に別々に決められていても、鉄片と言う客観的な存在は同一である為に、<匁>と<ポンド>が、一定の比率として換算できると言う意味での約束事なのです。本当は、一定の比率を持つ事を、換算というのですが。さて(2)の関係を再度考えてみる事にする。
(3)における諸物は、(2)において、相変わらず存在し、地球との関係から成立する、重さなるものがそこには有る。しかし、その重さも飽くまでも属性としての規定であって、諸物の重さが、(2)の関係のなかでは、どのようにあらわれるかと言う問は、(3)についての解明でえられた単純な構造について知が前提になるのです。
私の前の天秤は、左右の二個のリンゴと一個の石とが、重さとして釣り合っていると言う事であり、両方とも<重さ>そのものとしてのリンゴであり、石であると言う事です。属性としての重さではなく、本体そのものが重さと言う事なのです。(2)は、左右に載る諸物の内、右側にのる物を例えば、鉄片に統一する事で、その鉄片一片を重さそのものの基準とするのです。天秤の上のリンゴ二個と鉄片10枚とが釣り合っているとすると、リンゴ二個の重さは、鉄片10個分に等しいと表現するのです。更に鉄片一片を言葉として1グラムという文字で表せば、鉄片10枚は10グラムであり、リンゴ二個の重さは、10グラムと言葉にするのです。
天秤の右に載せられている基準としての錘も、単に特定の材質の鉄片でしかないのであり、それに属性としての重さが有ると言う理解になってしまうのです。ただしその<基準>と言う言葉が問題であり、そもそも鉄片が錘として基準になると言う言葉が出て来るその構造を明らかにしようとしているのですから、基準と言う言葉が指し示すモノを明らかにしなければならないのです。なぜなら<その鉄片が錘として基準である>と言う時、目の前の天秤と言う道具があり、右側に付属の錘を載せて、左に重さ計りたいリンゴを載せる事で、錘一個が100グラムであれば、2個の錘と釣り合う事になれば、リンゴの重さは200グラムであると言う事になるのです。リンゴにある多様な属性の一つである<重さ>が、200グラムであるのです。リンゴの<重さ>と言うのは、あくまでも属性としてであり、それは手のひらに載せたときに知覚しているモノなのです。それに対してその<重さ>が、200グラムと言う規定は、リンゴと他の物質との間で作る天秤と言う形態なしには成立しないのです。
重さを持った鉄片Aの対して、天秤の右に載せる事で、属性としての<重さ>であるものが、その特定の大きさの鉄片自体=<重さ>であり、つまり固体としての鉄片自体が<重さ>と言う事なのです。この天秤の上では、鉄片は、属性としての<重さ>があると言うのではなく、実体としての<重さ>と言うことなのです。この実体としての<重さ>とは、目の前のその大きさの鉄片自体Aが<重さ>である事で、Aが一つ、Aが二つAが三つと言うように数量化が出来る様になったのです。では鉄片の他の属性はどうなったのかと言えば、時間の変化で重さが変化してはならないのであり、その変化を遅らせる働きをする<堅さ>が、一定の<重さ>を継続させるのです。鉄片とかリンゴとか、それぞれ個別として考えるとき、主体としてのリンゴ本体に対してその性質が属性として考えられているのです。
私達が手のひらに載せたリンゴ一個に重さを感じている時、私達が立つこの台地たる地球からの引力がリンゴを地球の中心に引きつける力を、リンゴの重さと感じているのであり、だから単属でリンゴに<重さ>があるのではないのです。<重さ>とは、地球とリンゴとの間に成立する力関係であり、その力関係が、リンゴに現れている事を、リンゴに<重さ>があると、私達は知覚するのです。とすると、リンゴに属性としての<重さ>があると考えるのは、引力の元である地球は地上の諸物を平等にしているのであり、地球の事を抜きにして諸物を考えるとき、諸物の違いが<重さ>の違いであると思考するのです。当然諸物を知覚する私達自身も地球上の一つであるから、リンゴより西瓜の方が重いと言った事を考えるときには、地球の事は考えなくていいのであり、ただリンゴや西瓜の属性、つまり性質や材質としての<重さ>と言う思考をするのです。その個別的なものとしてのリンゴや石に属性としての<重さ>があっても、天秤に載せられた二つのモノの重さ関係では−−そもそも両者が天秤に載せられると考えるのは、両者に<重さ>と言う属性があるからだと言う判断を私達はするのです−−その<重さ>は、属性としての扱いを受けるのではない<リンゴ本体そのもの=重さ>と言う思考をせざるを得ないのです。
本体と属性と言う思考は、例えば玉葱の皮を属性と考えると、一枚一枚の皮を剥いでいくと、最後には本体そのものが無くなってしまうと言う事であり、属性の集合が本体であると言う事なのです。ただし玉葱は、その皮をどんどん向いていくと言う行為ですむが、逆に属性をどれだけ集めていくと本体になるのかと言う事は理屈の問題なのです。玉葱の皮を剥くと言う事を理屈で説明すると、モノ本体から属性を取り外していくとそこに残るのは、モノ自体であり、各属性を知ることがそのモノについて認識する事であれば、その属性を全部はぎ取ったあとのモノ自体は、決して認識できないと言う事になるのです。
ここでは属性についての知覚が認識と呼ばれているのである。一枚一枚の皮を玉葱と呼ばないのは、あくまでもその皮の集合体を玉葱と呼んでいるからで有り、本体と属性を区別して考えないとならないのです。物自体と言う思考は、認識が属性だけに限定しているからこそ、本体自体は認識出来ないと言う事になるのです。しかし天秤の場合には、属性と考えられている範疇が決して絶対なモノではなく、本体=属性と言う事になるのであり、そうすれば、属性の認識は、そのまま本体の認識でもあると言う事になるのです。本体=属性と言う規定は、<重さ>と言う属性が分かったから、すぐに本体としてのリンゴが分かると言う事ではない。ここでの本体は、鉄片自体が<重さ>と言う視点から、本体=属性 と言う事であり、鉄片を重さの実体とするのであり、鉄片の他の属性は、重さの実体化を助力するものとして規定するのです。つまり、重さが変化しない材質が選択されると言う様に使われるのです。
その錘二個が、左に載せられるリンゴ一個に対して、釣り合いのとれている状態にあれば、リンゴ一個の重さについて考える時、次の様になる。天秤とは、その左右に経載せられているモノが、その属性である<重さ>で関係をしていると言う事であり、その<重さ>による関係の特性1が、釣り合いであり、<重さ>による関係の特性2が、右下がり、<重さ>による関係の特性3が、左下がりと言う事なのです。特性1の場合、私達の目の前にある天秤の状態を指示して、釣り合っていると言うのであるが、問題は錘二個とリンゴ一個で、釣り合っていると言う事なのです。錘二個分の重さとリンゴ一個分の重さで、釣り合っていると言う事なのです。錘の重さも、リンゴに重さも、属性としてであり、天秤が構成されるのが、モノにある多様な属性の内、<重さ>によって出来ていると言う事なのです。つまり諸物に対して属性を考えるのは、その一つ一つの属性により、天秤であったり、食物であったり等するのです。その働きの違いを属性によって説明するのです。天秤は、色合いとか形ではなく、まさにその<重さ>で成立しているのです。とすると天秤が左右に載せられているリンゴと錘の等しい<重さ>で釣り合っていると言う説明は、天秤の原理と釣り合いの両方を説明しているだけなのです。重さが等しいとは、一個のリンゴと二個の錘と言う形態で等しいと言う事であり、さらにリンゴ二個の場合には錘二個で等しくなるのです。リンゴもその個数で<重さ>が違うのであり、だから単に<重さ>と言うだけでは、地球の引力による固有の質量を持つ物体に対する働きかけを示しているだけであり、その働きかけがどのくらいなのかは、引力が働きかけている物体の固有の質量の大小によって決まるのです。
リンゴ一個より二個の方が<重い>のは、地球の万有引力による働きかけが、リンゴ一個より二個の方が大きいと言う事であり、それを手に載せた時、一個のリンゴも二個のリンゴも手に<重さ>を感ずるが、後者の方が前者より違った<重さ>で、より重いと感ずるのです。現に地球による万有引力の働きかけが、一個のリンゴに対しても二個のリンゴに対してもあり、その働きかけの直中でリンゴを手に載せれば、一個より二個の方がより重いと言う事なのです。天秤に有っては、一個のリンゴも二個のリンゴも、それ自体が<重さ>なのであり、けっしてリンゴの属性として有るのではないのです。つまり、リンゴは、リンゴの木になる食べられる実であり、青色から熟す事で赤色に変化していくのです。この様な色々な性質があるリンゴを天秤という台に載せる事で、天秤と言うモノの<重さ>による関係として成立しているモノに規定されて、リンゴは<重さ>と言う側面だけが取り上げられて、それは<リンゴ=重さ>と言う実体化となるのです。<重さ>と言う言葉は、属性として成立しているはずなのに、天秤と言う場面では、リンゴ=重さ と言う扱いをうけるのです。この扱いを受ける<重さ>は、属性に対して実体と言う論理概念なのです。リンゴに重さが有るのではなく重さそのものであると言う事なのです。
二個のリンゴは、天秤の上に載る事で、自らの属性としての<重さ>を、相手の錘の数量で表す。リンゴ一個の<重さ>は、釣り合っている時の<重さ>そのものである錘二個分であると言う様に。
(3)の場合、リンゴと石は天秤の上で釣り合っていると言う事だけであり、(2)は、その様な釣り合っているモノが沢山あると言うのです。それに対して 二個のリンゴ=一個の錘 と言う関係は、沢山の諸物とその諸物から選ばれた−−時間的変化をしないと言う属性で選ばれているのです−−鉄片とが<重さ>で関係づけているのです。沢山の諸物は、単に天秤の左側に載っていると言う事ではなく、左側に載せることで、自らの<重さ>を表そうとしているのです。自らが天秤の左に載る事で、すでに載っている鉄片一個の重さが、自らの中に幾つあるかを表すのです。釣り合いのとれている天秤とは、左にのるリンゴ二個は属性としての<重さ>を、私達が手に載せる事で知覚している<重さ>を、右に載っている錘何個分あるかで、表すのです。天秤に関係しなければ、錘何個分と言う発想は成立しないのです。天秤を離れたリンゴと錘は、その材質も形も違うのでありそれを比較しようがないのです。しかし自らの属性としての<重さ>によって天秤の上で関係する事で、天秤の上にのると言う事は、それにのるリンゴと錘の、多様な属性のうち、<重さ>を実体とする関係であると言う事なのです。天秤に載る事の構造として<重さ>が規定されているのです。この構造に対して<重さ>が同じであるから、天秤が釣り合っているのだと言う思考は、一個のリンゴと二個の錘と言う全く材質も形も違うモノが、その<重さ>で同じであると言っているのです。天秤は、リンゴと錘と言う別々のモノが共通として<重さ>があると言う事なのです。リンゴは食物として、鉄片は農機具の材料として、使用されているのであるが、その内の一つの性質・属性である<重さ>を共通性として天秤と言う、リンゴと鉄片の<重さ>関係を作るのです。天秤は、その上に載せられるモノ同志が、それぞれの<重さ>で関係を結ぶと言う事です。問題はその<重さ>が、等しいとか右側が重いとか左側が重いと言う言葉の様に、現に生じている天秤の作る状態の説明として有る事とは、いかなる事なのかと言う事です。問題は<重さ>の量の規定なのです。この量の規定こそ、リンゴの二個と言う数量であり、錘の一個と言う数量なのです。この一個とか二個とかの数量に対して、重さが10グラムから20グラムになれば、二倍の重さと言う事になるのだが、と言う思考はリンゴの内部の何かの問題なのではなく、一個一個の固体としての問題なのです。リンゴには内部に<重さ>と言う言葉に表す何かがあり、その何かを手等に依って知覚した上で<重さ>と言う言葉を表しているのではない。手に載せているモノ自体が、<重さ>なのです。私達にとってモノの<重さ>とは、まず手に載せられるモノの重さとして知覚されているので有り、そこにいる限り、手に載せられているモノは、そのモノ本体とその属性としての<重さ>と言う固定をするのです。しかしその様な固定の思考に有っても実践形態の天秤で考えるとき、はじめて<重さ>の規定の仕方が分かるのです。それが属性としての重さの実体化であり、リンゴ自体が重さそのものであると言う事なのです。
天秤を離れたリンゴや錘が、認識の対象として有る場合、それらは個別的なものとして扱われるのです。確かに天秤に載っている場面があるのだが、その場面も天秤に関係ない所で、つまりリンゴの木に実っているモノとしてのリンゴである事が始まりであり、そこには属性としての<重さ>があると言う事が前提になってしまうから、天秤にのっても重さは属性のままになっているのです。その重さが等しいから天秤は釣り合っていると言う事になるのです。しかし属性としての重さが等しいと言う事は、現に目の前で成立している天秤の状態を、言葉にしているだけで、<等しい>と言う言葉が、何を表しているのか明らかにされていないのです。現に目の前の天秤の状態を対象としているのはたしかだが、その対象の構造が明らかにされていないと言う事なのです。それは<重さ>が量として、一個一個のリンゴや一枚の鉄片と言う形態としてあると言う事なのです。天秤は、一個のリンゴ自体も、二個の錘自体も<重さ>なのです。ただリンゴを天秤に載せる時の意図としてリンゴの<重さ>を、相手の錘に照らして、表現しようと言う事なのです。リンゴ一個の<重さ>は、錘二個分としてあると言う様になるのです。そしてこの錘A一個を1グラムと規定すれば、右においたその錘Aに対して左に釣り合いのとれた、同一材料の鉄片1をおく事で、錘Aと同じ錘を沢山つくるのであり、後は数量の計算の問題となるのです。最初に作られた錘Aの事をグラム原器と言う事になるのです。諸物体が箇々の物としてのみ、属性と言う規定で認識されてくる重さに対して、諸物に共通のものを介して、関係を結ぶのだが、此の重量関係を、左辺の、例えば、リンゴに視点おいてみると、リンゴ自身の属性である重さを、右辺の石自身で表すと言う事になるのです。あらゆる物質が、自身の重さを特定の一つの物質、例えば鉄片の自然形態で−−−と言う事は、鉄片の属性としての重さによってではなくて、重さを持った鉄自体でと言う事なのであり、単に皆それぞれ属性として重さがあると言う事では済まされない次元になっている事なのですが−−−表す時、はじめて、秤の基準としての<グラム原器>の成立になるのです。感性的認識として成立する、リンゴの重さは、つまり、リンゴそのものにおける重さという属性は、重量関係にある他の物体自身たる鉄片全体で表された事で、鉄片は、リンゴと同じ様に、鉄片本体と重さという属性と言った区別で考えられるのではなく、本体そのものが、属性の現実形態になっていると考えるのです。ただ、此の重さは、鉄片の属性はなくて、重量関係にある、共通性としての重さであり、かつリンゴの属性である重さのなのであるが、リンゴの重さが、重さそのものである鉄片で表される事で本体とか属性と言った抽象思考、分析思考では捕らえられない、弁証法的思考が成立してくるのである。
本体に対して、属性は、本体を構成する部分であつたり、複合体として本体があったりと言ことであり、この次元であれば、箇々の属性はどんなに事があっても、本体と区別され続けるのだか、しかしその属性が、あたかも本体そのものになるような現象が観察される事からヘーゲルの様に、概念の本性として<本体と属性>の区別は、同時に同一になるのだと結論するのです。しかし、<本体と属性>と言う区別は、そのままで、重量関係の内部で左辺の属性である<重さ>が、右辺の本体で−−内部にあるものが、外部に出る事を表現、あるいは現象というなら−−表現されると規定するのです。字義どおりに、<表に現れる>のであり、その<表に現れる>と言う事が、概念として<属性が本体になる>と解されるのです。
鉄片自体に重さがあるから、gram(グラム)原器になるのでは無い。つまり、鉄片自体は、他の物質と同じ様に重さをもったものであるが−−その重さと言う属性で他の物質と共通性の点で関係するのですが−−他の物体が、自身の重さを、鉄片自体で表そうとする事によりはじめてgram(グラム)原器になったので在る。1gの鉄片も物質である限り属性としての<重さ>があるが、しかしその重さはと問う事が無いのは、鉄自身の重さは、鉄自身に問題なのではなくて、他の諸物が、各自身が自分の属性としての重さをあらわすためだけであって、1gの鉄片の重さ、つまり1gの重さが、何オンスの鉄片で表されるかとか何匁の鉄片であらわされるか、と言った他の原器との関係から、相互に他で表すときにのみあらわれて来るのです。
リンゴは自分の属性である<重さ>を、同じ<重さ>である属性によつて構成されている鉄片本体を材料にして、表に現すが、しかしリンゴの<重さ>が、リンゴから抜け出して姿を変えた訳ではなくて、重さを属性として持つ鉄片を使用している事が、あたかもリンゴの重さ自身が出て来たかの様に理解されているのです。しかし、<表に現す>事で、リンゴの<重さ>である属性と、重さを持った鉄片たる本体とが、つながりを形成しても、リンゴの属性と鉄の本体とが、具体的に形成する関係が、まだ明らかになっていないのです。それを明らかにするのが、以下の説明なのです。(2)について別な観点から考えてみます。それは、マルクスの資本論の価値形態論なのです。
A 簡単な、個別的な、または偶然的な形態
1個のリンゴ=2個の石 −−(A)
相対的形態 等価形態−−−(A−1)
等価形態 相対的形態−−(A−2)
ここには、自然物としては、別々のものである。リンゴはその<重さ>を、石で表現
する。石はこの<重さの表現>の材料として役立っている。リンゴは能動的役割を演
じ、石は受動的役割を演じている。リンゴの重さは、相対的な重さとして表され、相
対的形態にある、石は等価物として機能し、等価形態にある。
両形態は、同じ<重さ表現>の互いに依存し合い、かつ対立しあう両端である。
石は、自分の属性としてある<重さ>を自分で表現するのではない。
この(A)には、2個の石=1個のリンゴ と言う逆の表現が成り立つが、しかし今
度は等価形態と相対的形態の位置が変わると言う事なのです。
(A)は、リンゴと石とは、重さの大きさとしては、同じ単位の諸表現であり、同じ
性質の物であることを含んでいる。
しかし、質的に等置された二つの物は、同じ役割を演じるのではない。リンゴの重さ
だけが表現されるのです。石は重さの現物形態として、重さそのものとして、通用す
る。さらにリンゴは、重さとしてのみ、石にかんけいするのです。味とか、手触りと
か言う事は隠れてしまうのです。しかし、この段階では石の属性と本体とはまだ明確
に区別されてはいないのです。石にも重さがあるからと言うような単純な理由しか示
されては、いないのです。つまり、両方の<重さ>だけに、交互に視点が移るだけに
なつてしまうのです。単なる比較になってしまうのであり、ここでは基準と言うもの
は成り立っていないのです。
2個の石の<重さ>は、石を手に持てば知覚されているが、(A)の等式にあっては一個のリンゴの知覚される属性としての<重さ>が、石と言う姿として、現物体とし示されると言う事です。リンゴを手に持って知覚している<重さ>は、リンゴ自体が<重さ>として、2個の石で表されると言う事です。2個の石は、特別に着飾る訳でもなく、その姿のままで、リンゴに内在する属性としての、言葉でい言えば<重さ>を、表すのです。一個のリンゴにある多様な属性のうちの一つである<重さ>は、多様な属性の一つと言う意味で相対的であり、2個の石は、その姿のまま全体で、リンゴに内在する<重さ>に等価であると言う事になる。<このすがたのまま>と言う事が、あたかも石の属性としての<重さ>が姿自体に成ったかの様に理解されると、石=重さという事に成るのです。石にある<重さ>は相変わらず属性でしかないが、天秤の関係にあるとき、石の姿のまま、リンゴの<重さ>を表す為に、石は自らの属性である<重さ>が実体化したかのように見えるのです。
天秤に乗る以前に両者はそれぞれ属性として<重さ>である。それが天秤に乗る事で石とリンゴは、<重さ>として2個と一個で、等しいと言う事なのです。<重さ>と言う属性としてそれぞれが手に知覚されていると言う事の上に、一個より2個の方が重いと言う感覚になります。天秤はその<重さ>を前提に、左のリンゴ1個の<重さ>を、右の2個の石で表すと言うのです。私達はリンゴ一個の<重さ>について、手に乗せている事で知覚しているが、その知覚されている<重さ>を、天秤の世界で、石2個の姿に現物化するのです。天秤の世界を離れば、石さえも属性として<重さ>が知覚されるのであり、私達は自分達の知覚内容を思弁するとき、本体と属性と言う区分けをし、属性の集合が本体であると言った思考をしてしまうのです。しかしリンゴや石が天秤の上に乗る重量関係の世界では、石はその姿のまま、リンゴの<重さ>を表す材料となるのです。この<重さ>の表し方が、りんごの2個の<重さ>は、石一個であると言う事になるのです。石は<重さ>の現実体と言う事なのです。これを私達の思弁の世界では、<重さ>が実体化したと言うのです。「例)蟻酸プロピルと酪酸とは、別々のものであるが、同じ化学実体−C、H、O−で出来ているが、ギ酸プロピル=酪酸 と言う等置において、第一に両者はC4H8O2 で成り立っている事が述べられている。酪酸の化学的実体が、酪酸の物体形態から区別され、表現されている。(資本論)」
重さとしては、諸物体は、地球の重力による引張る力が、与えられているものと考えるがしかし、物体を<重さ>と言う観点のみで捕らえているだけであるに過ぎず、諸物体にその自然形態を以外の規定を与えている訳ではないのです。しかし諸物体を、相互に重さによる関係があると捕らえると、両手に載せて、右手側のものが重いと言う知覚をする事で<重さ>による比較が成立するのです。
(A−1)と(A−2)の違いは、どちらが自らの<重さ>を、天秤に乗せられている他者の全体で表しているのかと言う事です。どちらにとっても、自らの<重さ>を他者で表しているのであり、どちらを取るかは全く個別的と言う事なのです。
それに対して
簡単な、個別的な、または偶然的な形態 を
1個のリンゴ=2個の石 −−(A)
自らを表す 他者全体−−−(A−01)
他者全体 自らを表す−−(A−02)
と言う様に、一個のリンゴは<他者>である事と<自らを表す>との二つがあるのではないかと言う考え方は(A)を俯瞰する立場の言い方であり、けっして一個のリンゴや石の視点から成立してはいないのです。つまりこれは、お互いに自分の<重さ>を表すのだと言い募るだけで、石が将来の基準になると言う確約があるわけではないと言う論理の様に、お互いに自分が自分の重さを表すのだと言う事ではなく、リンゴに二つの面があり、リンゴは自らの重さを、自らを他者として自らで表すと言う事になってしまうのです。これは天秤の必要性がないと言う事なのです。B 全体的な、または展開された形態
1個のリンゴ=2個の石 or 1個のリンゴ=1本の箸 or
ある一つの物体りんごの<重さ>が、色々な物体で表現される。色々な物体は、リンゴの重さの
鏡となっている。石と言う鏡、箸と言う鏡、コップと言う鏡、と言う様に、多様な鏡が、リンゴ
の周りにあるのです。リンゴ以外の諸物が<鏡>の比喩で語られるのは、
C 一般的形態
1本の箸 =]
2個の石 =]1個のリンゴ
1個のコップ =]
−−− =]
無数の物体の中心に、リンゴと言う鏡があり、各物体の重さが、そこに写しだされている。
D g原器形態
リンゴの位置にあるものが、特定の形と大きさをしたものとなり、それを1gと約
束する事で、g原器が成立する。CとDとの違いは、Cが鏡として、無数の物体の
重さを写す位置にありながら、数字と言う言葉に置き換えたことで、単位を得る事
ができる様になつたのがDなのです。対象としては、リンゴも鉄片も変わりがない
が、そして、天秤の基準として皿の上に載せられれば同じだか、1匁や1オンスと
言った言語表現に行く時の対象になるかどうかで、原器になりうるかと言う事なの
でしょうる。1個のリンゴが、例えば、1匁と言う約束する事で、多数あるリンゴ
は、どれも皆同じ重さに統一できれば、後は算数の問題になるだけです。つまり、
Dは1個の物体の大きさが、摩滅したり、変型したりしない事が条件付けられる事
で、始めて厳密な基準が出来上がるのです特定−−変型しない、磨耗しないと言う
条件が付けられている−−の物体が選択されることが、Cの段階で成立しているが
それが、言葉の次元で表現される対象になることで、1gとか1匁とか1ポンドと
言う様々な表現がされるのであり、その基準の中で、世界的に選ばれたのが、<g
原器(国際キログラム原器)>と言うのです。
(註1)キログラム(SI単位)
質量の基準には水が選ばれ、ラボアジェら暫定的なメ−トルに基づき1dm立方の最大密度(約4℃)の蒸留水の質量測定を行いました。これが最初の1kgです。ラボアジェは王政時代に徴税請負人・火薬監督官等の職に就いていたため皮肉にもフランス革命の政治犯とされ獄中から実験室に通って測定を行い、測定修了とともにその命を断頭台で終えたのです。
その後正式に1mが制定され、再測定の結果、正確な値が得られ、それに基づき白金製円柱形の原器が199年に製作された(古文書保存所)。その後1889年白金90%、Ir(イリジウム)10%の安定な合金製原器が複数個製作され、No.3原器が国際キログラム原器として選ばれ現在に至っています。日本にはNo.6の原器があります。
国際原器の質量の変化は10-7以下、0.1mg以内である。
イリジウムは存在量が少なく、年間数トンしか生産しないことや、加工が
難しい等の理由により用途は小規模で特殊なものに限られていて、白金と
の合金などが装飾品などに使用される程度である。その他に、キログラム
原器と呼ばれる、重さの定義を示す物の材料となっている。キログラム原
器は白金とイリジウムが9:1の割合である合金で出来ている。
基準の内最古のもの:バビロンの「ミナ」である。ミナは重量単位で、一ミナはおよそ700グラムに等しい。基準は、アヒルの彫刻(5ミナ)及び白鳥の彫刻(10ミナ)の形になっていて、商品の重さを計る時の天秤の錘として使われたと考えられている。
1960年、長さの基準として使われて来たプラチナ・イリジウム合金の棒は廃棄され、メートルの基準はクリプトン原子が持つ特定の波長の165万763.73倍と定義され直した。合金の棒の決めた長さが、基準であるが、その長さの数量的比率の成立するものであったなら後の問題は、物体の変化が起きない物であったなら何でも良いのであり、クリプトン原子の波長がその役割を与えられたのです。しかし、あくまでも、165万763.73倍と言う様にメートル原器が実際になくとも、165万763.73倍と言う量的比率が成立する元になっている事が解ればいいのです。ただ、メートル原器たるプラチナ・イリジウム合金の棒が無く なった後に、<クリプトン原子の波長と165万763.73倍>と言う言葉が一人歩きをすると、165万763.73倍と言う半端な数字に特別な意味を込めてしまうのです。合金の棒が、<1>と決めてあるから、その1との比率として成立してきたと言う事であるのに、1の元の合金の棒が無くなったばっかりに、直接眼に見うる物が無い為に、神秘になるのです。その神秘は、秤の構造についての論理の前に出せば良いのである。
所が、キログラムの基準は、じつは全く変わっていない。キログラム原器であるあの同じ円筒が、いまだにパリの地下金庫内に、水晶の厚板の上に設置された三重の保護がラス容器の中に鎮座している。しかし、そうした環境にあっても、たの物質の原子が円筒の表面に付着してしまうのです。
(註2)物体の固有の質量
質量
質量とは,物質そのものがもっている値です. 物理学として物事を扱う場合の,最も基礎的な量の1つです。 問題を解くときには大抵の場合,質量という量を考えなければなりません. 運動方程式そのものにも含まれている量です.
質量とはそもそもなにか,ということを考えてしまうと 意味が分からなくなってしまいます. 僕たちはなぜ生きているのか,のような根本的な問題だからです。物質には質量というものがある,と考えるしかありません。
重さ
対して,重さは「力」のことですから, 物質そのものがもっている値とは言えません. 地球で計ったのと月で計ったのでは重さが変わる、という表現はよく目にします。重さは場合場合によって変化する量なのです。 重さは力です.その力の源とはなにかというと,万有引力です。世の中の物は万有引力によって力を受けます。万有引力を受けたことによって発生した力が,重さなのです。こういった力を考えるとき,物理では「場」という概念が登場します。まず質量があれば重力場というものがつくられ、その重力場に別の質量が入ってくると、質量は重力場から力を受けると考えるのです。僕たちは地球のつくる重力場の中で生活しています。
何かの重さを計るとき,例えば体重を計るには体重計に乗ります。すると体重計は身体の質量に応じた力を受けます。体重計の中にはバネが仕込んであり、バネの受ける力に比例して目盛りが動くようになっています。 バネの力というのはフックの法則に従いますから、うまいこと目盛を設定してやると重さから質量を計れるという仕組みです。
しかし地球上と言えども場所によって重力場の大きさは違います。高いところに登れば重力場の大きさは小さくなります。だから同じ体重計を使って同じ物を計っても、場所によっては違う値になります、月の重力場は地球のものよりずっと小さい(約6分の1)ので、月面上では体重計の示す目盛りは,地上よりずっと小さいでしょう。