2004.02.23

価値鏡について

<価値鏡>


価値と交換価値の関係が明らかにされた時、価値の概念が形成されたとしても、しかしその概念の中に単純から全体への行こうが繰り込まれていると言う事では有りません。価値の交換価値の分析の対象である価格による商品交換を色々な視点から探求するのです。単純な価値形態は、商品が生まれてきた人類初期の出来事であると言う観点は、発生的検討と言う事であれば、最もらしいがしかしここでの単純な価値形態は、歴史的なモノでなく、例えば物理学おいて等速直線運動と言う解明が、物体相互の働きかけで生まれる運動の複雑化から一気に解明するのでなく、まず働きかけのない一つ一つの物体の運動を捉えることで、<運動>の原理が明らかにされ、その原理が二つの物体の間でどの様に変化するかで、働きかけの内容が明らかになって行くかと言う考え方と同じなのです。つまり、交換の構造が問われるのであり、さらにその構造が多様な商品の交換となった時の現れ方を明らかにすると言う事です。

     20エレのリンネル=一着の上着
     10ポンドのコーヒー=1キロのミカン
     40ポンドのお茶=10冊のノート
     2オンスの金=2枚のCD
と言うそれぞれの個別の間に成り立っている単純な価値形態は、みな同じ構造となっているのです。
これは、「20エレのリンネル=一枚の上着」が、使用価値としての別々の違いにあって第三のモノが共通性となることから、その<共通性ある第三のモノ>を価値と呼ぶ−−リンネルに有るモノ上着に有るモノ、それらが共通性があると言う事でない限り、価値にはならないのです−−のに対して、さらに左右にあるモノの役割の違いを示しているのです。左辺の商品の価値に対して、右辺がその価値の等価形態と言う交換関係として成立しているのです。
二人の男がいて、彼等が兄弟の関係に有る事で彼等が同一の両親を持つと言う第三者と言う共通性の観点では、二人は平等な存在として捉えられているが、さらに一方が兄で他方が弟と言う別々の役割として有るという観点が得られているのです。
交換もリンネルと上着の間での交換であり、両者が交換関係を成り立たせるそれぞれにあるモノが共通性を持つ事なのです。両者はリンネルと上着と言う別々の使用価値としてあり、さらにそれらに<共通性あるもの>が有る事で、関係から見れば、両者は同一性として成立する事になります。この同一性は、私と相手が、それぞれ自分の所有物を相手の所有物と交換するのであり、別々の使用価値を入れ替えるだけであり、両者には天秤の上のリンネルと上着と言う平等性と言う事なのです。これが価値の本質論です。そこでその本質論を介して、再度交換を考えるのです。
リンネルの所有者たる私にとって自分のリンネルの使用価値は、自分が実現すれば、それはリンネルを裁縫した事になり、衣服とか布団カバーなどに作り替えてしまうのです。つまり、リンネルを他者の上着と交換すると言う事が出来なくなるのです。リンネルの使用価値は、あくまでも他者が実現する為にあり、私は他者の上着の使用価値を実現したいのであり、今回の場合私と他者が欲求が一致して、交換を実現したのです。 「リンネルと上着は、共通の価値により交換関係が成立している」とは、実体として両者に抽象的人間的労働が投下されているのであり、その実体により形成される両者の関係を価値と表現した場合、リンネルに内在する価値とは、まだ実体としての投下された労働のレベルであり、その実体が交換関係に入る事で、初めて<価値>と言う事になったのです。
リンネルと上着が、交換関係にはいるから、共通性が出来るのか、二つに共通性があるから交換関係がせいりつするのかと言う思考は、現実にある交換に対する構造の分析から、関係と実体と言う構造が得られている事を、原因と結果の様な発生の思考で考えていることなのです。 これを
     20エレのリンネル=一着の上着
     20エレのリンネル=10ポンドのコーヒー
     20エレのリンネル=40ポンドのお茶
     20エレのリンネル=2オンスの金
と言う様に、特定の商品から見るのは、リンネル所有者の観点と言う事であり
     20エレのリンネル=一枚の上着、がリンネル所有者の観点として、自分のリンネルの使用価値は、相手が実現するものであり、私は価値を実現するのです。つまり、私のリンネルは私にとって交換の為に存在すると言う事なのです。相手が私に黙ってリンネルを持ち出しても、その使用価値を実現はできるのであり、使用価値の実現と言う事だけで有れば、それはあり得るが、しかしそのリンネルを所有している私には、たまったモノではないのであり、私にも相手の所有の上着を手に入れない限り、どうしようもないのです。そこに交換によって相手の上着を手に入れてその使用価値を実現するのです。身体の保温として使用するのです。その私のリンネルに対して、私が要求するものが多様になれば、それらとの交換にリンネルを提出する事は、一つの場合でも同じであり、それが上記の図式になるのです。リンネルの価値は、その価値の等価形態にある一着の上着、10ポンドのコーヒー、40ポンドのお茶等で表されるのです。

価値関係を鏡の比喩で語るとき、リンネルの交換相手の<上着、コーヒー、お茶、金等>がガラス材質の鏡と言う事です。そこで各鏡を前にしてたリンネルに対して、その価値と言う側面が映し出されるのです。それは鏡の前に立つ物体としての生きている私に対して、光りを介した光学的像が鏡に反射するのであり、そこに反射してくるモノが、私の姿が映っていると言う事になるのです。つまり鏡の前にいる生きた私の存在と鏡の写っている像との関係は、生きた私の存在に対して、それから反射してきた光がガラス材質の鏡に反射しているモノと言う事なのです。
リンネル存在はその使用価値と言う事であり、その使用価値リンネルは、自らの価値を交換関係にある相手の使用価値である「上着、お茶、コーヒー、金」<鏡>に対して、交換による反射で、一着の上着、10ポンドのコーヒーと言う姿として、映し出されているのです。
ガラスと言う材質である鏡とその前に立っている生きた身体としての私の存在は、同じ物体としての存在であるが、その私の存在に反射した光りが、鏡に反射している時、その反射として光学的像が成立するのです。私の存在とその存在から反射してくる光りの関係を一体化すると、私の存在が鏡と言う物体の中に入り込んで行く事になってしまうのであり、両者を関係として捉えていればその存在の光りの反射する側面が、光りを介して鏡に反射して像となるのです。
私の存在の回りにある沢山の物体は、光りを反射する限り全て鏡になり、私の存在の光りの反射を再度反射している。家の壁も部屋のカーテンも、私からの光りの反射が再度そこで反射していればそこに、私の存在の光りの像が成立しているのだが、カーテンや壁は、私からの光りの反射が、壁やカーテンとして反射している為に、映されているモノと映しているモノとの区別が出来ていないのです。私の存在の<原物>が、カーテンや壁に対して、反射して壁やカーテンとして映っているのです。ガラス質の物体も壁もカーテンも、私の存在の原物が光りの反射としている事には変わりがないが、ただ再度の反射としては、壁やカーテンに対して、ガラス質のモノは、反射率100%で有る事が、ガラス質に原物の像として映し出されているのです。
光りの反射構造を考えるのであり、壁やカーテンとガラス材質との違いは、ただ反射率の問題だけであるのです。その光りも、身体の表面に反射してしまうが、レントゲンは身体の内部にはいって反射するので、内蔵や骨が像として映し出されるのです。
リンネルの価値が、交換において一着の上着に、上着の現物として反射している事に対して、ガラス材質の鏡のように、特定の材質に反射しているとき、前者が鏡と呼ばれるなら、後者は貨幣と呼ばれると言う事なのです。鏡の映っている像は、鏡の存在が後ろに引き下がり、反射している像が表れる為に、現物とその像と言う対比が成立するのです。貨幣もリンネルの価値が反射しているのであり、貨幣を構成している紙や金や銀と言う存在は後ろに隠れ、リンネルの原物としての価値とそれらに映し出されているモノの区別がハッキリしてきたのです。リンネルと上着の場合、上着と言う現物体が、リンネルの価値の表れているモノとなり、使用価値としての上着と価値を表す上着との区別が立てられないのです。
交換における価値鏡と言う比喩はリンネル存在が使用価値と言うあり方であり、その使用価値リンネルが、交換にあって、相手の使用価値一着の上着を鏡とすると言う事です。その上着鏡に向かって、使用価値リンネルから反射してくる価値が、反射したとき、上着鏡に反射している像は、一着の上着と言う姿なのです。この上着鏡に映し出されているリンネルの価値は、一着の上着と言う姿と言う事なのです。一着の上着は、その生まれたままの姿でありながら、交換の場では、相手の価値を映し出している鏡であるとともに、その鏡に写っている像でも有るのです。ガラスの鏡が、鏡自体と映し出されている像の区別が出来ているのに対して、リンネルと上着の間の価値鏡は、上着鏡と言う自体とそこに映し出されているモノとは、区別が出来ていないのです。
私が鏡の前に立つ時、そこに映し出されている像は、この私の存在の何が映し出されているのかと言う事になります。この私が映し出されていると言う事であるが、しかしこの私の何が映し出されているのかと言う事なのです。それはこの肉体としての存在に対して光りの反射が再度鏡に反射する事であり、光りの反射がもたらすモノと言う事になる。この肉体の存在に対して、何が映し出されるのかと言う問は、現に映し出されている像を分析する事で答えが出るのです。特定の波長の光りに反射してくるモノが、現に鏡に映し出されているのであり、例えばレントゲンと言う別の波長の電磁波で有れば、その電磁波の反射は、身体の内部を、印画紙に像として映し出されると言う事なのです。この生きたへ身体と鏡の像とは、光りによる反射が媒介するのであり、その像が何であるかは、光りの反射を問う事になるのです。私の何が映し出されるのかは、その媒介たる<光り>が何を伝達しているのかを問う事であり、伝達の結果としての鏡の反射像を問う事になるのです。私の存在の何が映し出されるかと言う問は、何が媒介し、何に映し出されるかと言う過程の問なのです。
一着の上着は、鏡自身である−−使用価値としての上着と言う事です−−と共に、映し出されている像−−リンネルの価値が映し出されている−−でも有るのです。私達の前にあるガラス材質の鏡の様に、鏡と映し出されている像が区別されているもので有れば鏡とそこに映し出されている像を区別して、像のもとである現物を探す事が出来るが、価値鏡の場合には、リンネルの価値は、一着の上着と言う材質の鏡に、一着の上着と言う姿として映し出されていて、映し出す材質である一着の上着と映し出されている像としての一着の上着との区別が出来ないのです。リンネル価値の像としての一着の上着とリンネルのまえにあるガラス材質の鏡としての一着の上着と言う区別なのです。像としての一着の上着は、あくまでも交換関係にあるリンネルの価値と言う側面が映し出されているのであるが、しかし交換関係に入る以前から存在する一着の上着と言う使用価値の存在と区別されないのであるから、鏡としての性格を持って生まれているかの様に短絡されてしまうのです。この短絡は、何処から生ずるのかと言えば、リンネルや上着を作り出す人間同士の関係から生ずるのです。私がリンネルを生産し、彼が上着を生産しているのだが、その両者が全く別々に生きていれば問題ないが、相互に関わらないと生きていけないのであり、そこから自分たちの生産したモノと相手の生産したモノとの交換を実施するのであり、その実施に際して交換の法則が働くと言う事なのです。
20エレのリンネルの回りにある、一着の上着、10ポンドのコーヒー、40ポンドのお茶、2オンスの金が、それぞれとしての鏡になる事で、リンネルの価値は、一着の上着、10ポンドのコーヒー、40ポンドのお茶、2オンスの金と言う姿として写っているのです。私の顔が、回りにある10面の鏡に写っている像が、皆同一性を備えているのに対して、リンネルの価値は、相手の姿として写し出されていると考えると。私の顔とリンネルの価値の<あり方>の違いと言う事なのです。リンネルと上着とが交換で対置されているのは、あくまでも使用価値リンネルと使用価値上着なのだが、それは同時に価値としての対置であると言う事なのです。そこで使用価値としての対置と価値としての対置とが、どんな関係で成り立っているのかと言う事になるのです。私の所持しているリンネルと相手が所持している上着とがあり、それを相互に20エレのリンネルと一着の上着と言う数量で交換する所にあるものを、いま言葉にしているのであり、一つは、私が欲しいと思っている上着と、彼が欲しいと思っているリンネルが、交換されていると言う事なのです。つまり使用価値同士が交換されるのであり、ただその交換は、お互いに一定の数量比としてあるのです。両者の交換が、この相互の数量比として表れる事を、リンネルや上着に内在する<価値>によって考えると言う事なのです。ここで何故<内在>なのかと言えば、リンネルや上着の<使用価値>が、見た目の通りだったり、使用の通りであったりするのに対して、<価値>は、その使用価値の外在性出はない<内在>と言う事なのです。そこで交換において、リンネルや上着に内在する価値は、相手の使用価値自体の姿として表されると言う事で、はじめて<価値、使用価値>の関連が見え始めているのです。
私とガラス材質の鏡とは、全く別物であり、私の身体が、鏡に像として写っているのに対して、ガラス材質の鏡が私の身体の存在を<鏡>として、自らを映すと言う事は考えられないのです。鏡に反射しいるモノを、原物たる私の顔の<像>として視知覚する事で、ガラス材質の鏡の特性を知るのですが、しかし鏡という物体からも光りは反射してきて、私の身体存在に反射しているが、私の身体の何処にも鏡の反射を知覚出来ないのです。価値鏡の場合、リンネルの価値が、相手の身体そのものを鏡として、身体そのものとして写っているのであり、それは上着やお茶やコーヒーのそれぞれの価値が、リンネル身体を鏡としてリンネル身体として表されていると言う事になるのです。つまり、ここでは鏡になるモノは、交換の一方にあがる為の使用価値として有ればいいのです。そこでリンネルを鏡として、その回りにお茶、コーヒー、金、ミカンを置き、各それぞれの価値を映すのです。どの商品の価値もみな、使用価値リンネル像として、使用価値リンネルに写っているのです。使用価値リンネルは、その姿のまま、他の商品の内在する価値を、外的に表すモノとなっているのです。交換関係にある使用価値リンネルは、相手にとってとても有用なモノとして有るのだが、ただその有用性としてのリンネル20エレ分は、一着の上着、10ポンドのコーヒー、40ポンドのお茶、2オンスの金に内在する価値を、外的に表すモノとなっているのです。
各商品の価値の等価形態としての使用価値リンネルであるのに、材料としての面でしかないはずなのに、その使用価値が実現されてしまうと、等価形態の材料が消えてしまい、等価形態と言う規定が成立しなくなるのです。使用価値リンネル20エレは、そのままで布としての有用性としてあるが、そのそのままが、相手の上着の価値との関係で、等価形態と規定されるのです。リンネルと呼ばれる布はその自然材質の繊維から織られたものであり衣服等を作るのにとても役立つのだが、その自然性のモノが、社会性と言う属性として等価形態、価値体を得ることになるのです。この社会性とはリンネルの自然性に対して、人間の労働の投下されたモノと言う観点からの属性であり、使用価値の捨象とは、その残りとして労働の投下されたモノと言う観点が残ると言う事なのです。20エレリンネルの使用価値を実現せずに、等価形態にあると言う規定を維持し続ければ、相手に対して、その数量が変化しても、相変わらず等価形態にあると言う事になるのです。ここでの重要性はその使用価値に有るのではなく、使用価値を同一性にした数量の変化が本質なのです。
使用価値リンネル20エレの<内在する価値>と言う言い方は、自然材質の繊維から織られている布と言う、その自然性に覆われている為に見えなので、内在と言う事であるが、しかしその自然性はタマネギの皮の様に一枚一枚はいでも、何も見あたらないのであり、そこには隠されているモノなど見あたらないのです。では自然性の皮を剥いた後には何が残るのかと言えば、社会性でありそれを、言葉で表すと価値と言う事になるのです。視知覚による知覚は自然性を捉えるが、価値と言う側面は、その視知覚に捉えられないので、内部に隠されていると言う事になるのです。ではその隠されている価値がどの様にして、この様な言葉<価値>として示されるモノとなるのかと言う事です。それこそが価値形態論にほかありません。リンネルと上着とは交換関係において、リンネルの価値が相手の一着の上着で表されると言う事です。リンネルの社会的属性である価値は、しかし交換関係にある相手の上着の使用価値で表れていると言う事で内在するモノとしての価値でありながら、外部に上着の使用価値として表れていると言う理解になるのです。
ガラス材質の鏡を前に立っている私の存在にあって、その物体としてのこの身体の鏡に面している側面から反射してくる光りが、鏡に反射している時、その鏡に反射してくる光りを私達が視知覚する際に、鏡のそこに私の顔の像を見る事になるのです。原物からの光りの反射が、再度鏡に反射している時、原物に対して、鏡に反射しているモノを像として、その像を自分の顔と判断しているのです。原物からの反射として来る光りが、鏡に反射する事で、鏡に像を知覚するのです。これは原物に対してそこから反射する光りを視知覚する事で、原物たる富士山が見えると言う事と同じなのです。反射した光りは、反射物の表面の形態と特定の波長の光りとして私達の視知覚に知覚される事で富士山を見る事になるのです。鏡のそこに顔が知覚されるのは、顔の表面からの反射した光りと特定の波長が空中を伝達して、再度鏡に反射している時、鏡に反射している事が、鏡に像が形成されていると言う事なのです。私の回りは、太陽からの光りが物体に反射して、その表面の形態と特定の波長が、充満しているのであり、だからこそ回りは明るいと言う事なのです。
リンネルと上着との交換とは、リンネルが、価値としてその価値に等価な一着の上着と関わる事であり、リンネルと全く別の使用価値である上着が、リンネルの価値の等価形態となる事なのです。等価とは、リンネルの価値に等しいと言う事であり、形態とは、上着と言う姿が、リンネルの価値に等しいモノとしての姿であると言う事なのです。上着はその姿ではどう見ても身体を保温する特定の使用価値でしかないのに、交換において、リンネルの価値に対する等価形態となるのです。上着と言う特定の使用価値が、リンネルの価値を表す材料となっているのです。王様の頭に乗せられる冠は、金と言う材料で頭の形に型どられて作られるのだが、冠にとって金は、あくまでも材料であり、ただ金の輝きが材料の選定に重要であると言うことなのです。冠である事と金と言う材料である事の区別なのです。冠があくまでも王様の頭の形に型どられるのに対して、使用価値一着の上着は、20エレのリンネルの価値に対する等価であると言う事を示すのです。
冠とは、王様の頭を飾るモノと言う概念によって作られるのであり、その概念を設計図にして金と言う材料を、設計図の形の表象を頼りに加工するのです。現実の冠は、金の冠として私達の目の前に有るのだが、その冠の形や大きさは、王様の頭の形によって規定され、さらに王様の権威を飾るモノと言う視点を形にしたモノと言う事なのです。私達の頭の中にある<王様の権威を高める為に頭に飾るモノ>と言う視点を現実化するとき、金が材料として、その輝きと希少性と加工しやすさで選択された上で加工されたと言う事なのです。つまり私達の頭の中にある、目の前にいる王様の権威を高めると言う思想の現実化として、色々な使用価値から金が、材料として選択されて加工され金の冠が作られたのです。金と言う材料は、自然の鉱物の中に存在して、そこから掘り出されて来るモノであるのだから、冠や貨幣に加工されなくとも、相変わらず特定の鉱物であり続けるのであり、ただ私達はその金を特定の形に加工するのであり、その加工された特定の形になった金を、あの思想から見ると思想を現実化した形態と言う事になるのです。あの思想が、金と言う物体の形と言う形態として表されたと言う事なのです。頭の中のあの思想が頭から抜け出して金の冠になったのではなく頭の中のあの思想を媒介して、設計図にして、私達が身体の活動として金を加工したと言う事なのです。頭の中から抜け出すと言う考え方は、思想によって媒介された身体活動による加工とその加工の結果としての金の冠に対して、媒介で有るモノを直接とした所から生まれているのです。特定の形をしている事を思想が乗り移ったと考え、その乗り移った思想と金と言う材料とが、一つに統一された時、金の冠であると言う結論なのです。金と言う所に思想が乗り移ったのではなく、あくまでも私達人間が、その思想を媒介して、設計図にして、身体活動による加工で成立したと言う事なのです。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 「あるモノの所有者が他のモノを欲する。彼は交換を欲するが、交換できるかどうかは決められない。交換するか否か、どの様な比率で交換するかを決められのは相手方である。この状況が簡単な価値形態です。」
20エレのリンネル(所有者A)=一着の上着(所有者B) と言う価値形態にあっては、Aは相手のBの一着の上着を手に入れるのであり−−一定の規則によって手に入れて初めてその有用性を実行出来るのであり、相手の所有を無視すればそれは窃盗と言う所有の変更です−−その相手の所有物を手に入れる為に、自分のリンネルを提供するのです。この提供時、リンネルの数量は相手の一着の上着との交換に適している数量と言う事になります。その適している条件として<Bが使用価値の実現に適した数量と言う事になる。衣服で有れば一着とか、食べ物で有れば四人の一日分と言う事>になるが、相手の一着の上着の価値に等価なモノとしての20エレのリンネルと言う事になります。Aは上着の一着を手に入れたいのであり、Bはリンネルを20エレ手にいれたいのであるから、上のような等式が成立すると言う事になる。この単純な価値形態では、Aの立場から見れば、自分のほしい一着の上着をBが所有しているのであり、その一着の上着との交換に適したものとして20エレのリンネルが提出されるのであるが、その数量分がちょうどBが欲しいと思っているリンネルの数量と一致していると言う事なのです。<20エレのリンネル>はBの欲するリンネルの数量でありながら同時に一着の上着との交換に値するモノであると言う事なのです。つまりBにとってコーヒーが欲しいのなら、AがどんなにBの上着が欲しいと思っていても、交換は成立しないが、この形態では両者の欲求が一致して交換が成立していると言う事であり、問題は欲求の一致と言う事ではなく、その欲求の一致による交換の成立時の構造が明らかにされたと言う事なのです。その一致時の交換の構造が明らかにされると、回り道をした一致による交換も、基本としては同じ構造であると言う事なのです。私は自分の欲しいモノを相手から手に入れるのであるが、それが回り道をして手にいれても、途中のモノが自分の欲しいモノでなくとも、その使用価値で自らのリンネルの価値を表すと言う事なのです。自分の価値を相手の使用価値で表すと言う事が交換の本質と言う事なのです。ここでは、一着の上着との交換に値するモノとしての20エレのリンネルが、同時にBが欲しがる特定の量の使用価値リンネルと言う事なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 「欲する商品の数が増えれば交換の機会が増え、彼の持ち物が商品として売られる確実性を増すが同時に相手の数も増える。これが拡大された価値形態である。ここでは交換の困難はいっそう数を増す。だが市場を良く観察して、多くの商品と交換できる一商品を発見し、その所有者が欲する商品を提供出来るようにすれば、もとの所有者は多くの欲する商品を入手出来るようになる。これが一般的価値形態である。この一般的価値物が社会的に認知された特定の使用価値物に収斂すればそれが貨幣である。歴史的にはこれは結局貴金属、金銀になった。」
20エレのリンネル=10ポンドのコーヒー、10ポンドのコーヒー=一着の上着、と言う二つの交換過程があり、20エレのリンネル=一着の上着、と言う交換が成立すると考える。
Aにとって、10ポンドのコーヒーは、飲料としてのコーヒーではないが、しかし20エレのリンネルの価値を10ポンドのコーヒーで表している
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 経済学をめぐる巨匠たち(経済思想ゼミナール)・小室直樹・ダイヤモンド社
マルクス経済学の限界
労働価値説「商品の価値は労働の投入量によって決まる」と言う古典派のリカードが作り上げた学説なのです。しかし労働価値説には決定的な欠点が在った。それは「労働の換算」の問題である。労働価値説では「モノの価値は、それを作るのにどれだけの労働時間がかかったかで決まる」とされている。つまり一時間で一個しかつくれないモノの価値は、一時間で10個つくれるものの、10倍と言う等価値と言う訳なのです。物々交換の原始社会であればともかく、生産工程が複雑化した近代資本主義社会の下では、生産に要した時間を単純集計するだけでも大変な作業である。熟練の職人の一時間と見習いの職人の一時間では、おなじ一時間でもその価値には大きな開きがある。商品の価値を算出する際、いったいこれをどう換算するのか。換算率はどうやって決めるか−−これが労働力の換算の問題である。リカードは、労働価値説について「これは資本主義以前の世界でしか通用しないと反省したのです」しかしマルクスは「労働力の換算率は市場のメカニズムに依って決まる」としたのです。
これに対してマルクスの説明は循環論に陥っていると批判下のが、ベーム・バベルクでした。
そもそも労働価値説においては労働時間は「モノの価値を決める要素」だったはずである。その労働時間の実質的な価値(賃金)が市場で決まるとなれば、賃金は物価(モノの価値)と相互関連関係にあるから、話は堂々巡りで説明にも何もなっていない、と言う訳である。
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