2004.01.04

マルクスの価値形態論について

<価値形態論>



A:単純な価値形態
  20エレのリンネル=一着の上着 または10ポンのコーヒー=一着の上着 または

個々の交換だけであり、他の交換があっても、関係を持たないのです。だからこそ<または>となります。一つ一つの交換があっても、相互に関係を持たないと言う事です。その多数の個別が一つの集まり毎に集合化される事で、相互の集合は個別的としてありながら、集合毎に特徴を持つ事になるのです。その特徴によって相互に排斥したり連合したりするのです。それを個別が相互に関係を形成すると言うのです。
ここではリンネルの20エレは、10ポンドのコーヒーと交換される時、10ポンドのコーヒーの価値に見合った交換価値であると言います。反対から見れば、10ポンドのコーヒーは、20エレのリンネルと交換できる価値、つまり交換価値を持っている事になります。リンネルの方から見る時、現に今ある20エレの数量のリンネルにとって、自分の数量に見合ったどちらから見ても構造は同一なのです。各生産物の持つ交換価値とは、それらの生産物を数量比として扱うと言う事であり、だから「私のこの宝石一個は、君の今持っている食べ物の数量Xではとても交換など出来ないのであり、交換したいなら今の所有分の10倍はもって来なければ交換できません」と言う事に成るのです。「食べ物」には、数量Xでは一個の宝石に見合う交換価値が無いが、10X数量に成るとその交換価値が成立するから、実際に交換されると言う事なのです。
<20エレのリンネル所有者><10ポンドのコーヒー所有者>のどちらであっても、相手が自分の所有物を欲しいと思っているか、自分が相手の所有物を欲しいと思っているかによって、どちらの所有物が交換価値となるかが決まると予想します。相手が私のリンネルを欲しいと思っていても、私が相手の所有物に興味を持たなければ、交換が成立しません。相手の持つコーヒーに対して、飲み物として興味が無いと言う事は、コーヒーの使用価値を−−コーヒーの性質が人間の飲料欲求を満たすことがあっても、私には興味が無いと言う事だが−−私が実現しないと言う事なのです。しかしそれに対して少しばかりの興味があれば、どちらが先に相手の所有物を欲しいと思ったとしても、価値構造に取っては問題がないようです。つまり、交換の場にあっては自分の所有物の自然性による、その有用性は自分用としては実現されずに、ただ相手の所有物との交換に役立つと言う事以外に無いのです。私の所有物は、相手に取っての使用価値として実現されるのであり、私に取っては価値であり、交換によって20エレのリンネルと言う交換価値となのです。そしてこの交換価値は、あいての10ポンドと言う数量に見合ったものとしてある私の所有物の数量の事を言うのです。
リンネルがその自然的性質によって有用性が決まるのに対して、リンネルの社会的性質によって決まる有用性を交換価値と考えます。例えば私は相手の所有物であるコーヒーに対して飲料として興味が無いから、けっして交換が成立しないが、私の知人がコーヒー好きである事を知っているのでまず自分が所有する為にコーヒーとリンネルを交換するのです。相手からすればコーヒーを他者に渡す事は、コーヒーの自然的性質による使用価値によるのであり、私が一時的にも所有するのは、ただ彼と知人との間の交換を中継する為だけであると言う事になります。それは現に私が所有しているリンネルが、その自然性によって人間の身体の保温に有用であると言う事と私はその有用性を実現しないと言う事の区別なのです。私は自分の所有のリンネルの自然的性質としての使用価値を実現しないのであり、ただ他者に渡すためにだけ所有していると言う事です。これは私が所有したコーヒーが知人の為にだけ所有している事と何等違いは無いのです。単純な価値形態にある二つの生産物は、その使用価値と交換価値という構造が、ハッキリ露呈している形態と言う事になり、研究しやすいのです。
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「よく知られている様に、物々交換経済において二人の人間が自発的にモノとモノとを交換するためには、<欲求の二重の一致>がなければならない。それは、自分が余分に持っていると言う事が条件の事である。これに対して貨幣とは、誰もが受け入れてくれる交換の一般的な媒介であるが故に、欲求が二重に一致していない人間同士の交換も可能にする。貨幣経済においては、たとえ自分が欲しいモノを余分に持っている相手が、自分が余分に持っているモノを欲していなくとも、貨幣と引き替えならば自分の欲しているモノを手渡してくれる事に成るはずである。(岩井克人)
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この交換関係を抜きにして「リンネル」が衣服の材料になり、コーヒーが飲料になると言うのは自然な形態であり、当たり前だと言う判断は、人間の生命を維持すると言うレベルで結論できるものであり、今はそのレベルの話ではなく、リンネルを沢山持っている人が、自分の為に使用した後の残りは、宝の持ち腐れになるのを防ぐ為に、そのリンネルを他者に譲渡する事で、彼等にリンネルを有効に使用してもらいたいと言う話なのです。材質としては自然の形態として人間の身体の保温をするのに役立つモノである場合、一人の人の身体を保温する量は限定されるのであり、その限度を超えた量のリンネルを一人の人の身体の保温としては現実化されないと言う事です。つまりその限度を超えた量のリンネルにどんな材質のメリットがあっても、他者に使用してもらう事で実現される為には、AさんとBの間に譲渡と言う事が、あるいはBさんが窃盗と言う事で所有を変える事で無ければ成り立たないのです。
<リンネルに使用価値がある>と言う当たり前の考えは、リンネルと言う布の材質によって人間の身体の保温をすると言うレベルの話であり、今はそのリンネルがAさんの所有に成っているので泥棒でもしなければ自分のモノに出来ないので、保温すら出来ないと言う事なのです。ここではその材質がどうのと言うレベルの問題ではなく、逆にその材質から保温にとても有効であるのが分かっていても、自分のモノに成らないので、実行が出来ないと言う話なのです。
価値形態論におけるリンネルやコーヒーの問題は、その自然的材質が人間の身体の生命にとても重要であると言う事の上で、それを実行するのに所有と言う事を解決しないと、有効であることの実行が危ぶまれると言う話なのです。ここでは材質の云々と言う事ではないのです。当然ある材質を実行すると言う段階の話なのです。
単純な価値形態では20エレのリンネルにある価値は、相手の一着の上着にある使用価値を自分のモノにするに見合ったモノであると言う事と同時に、一着の上着にある価値は、相手の20エレのリンネルの使用価値を自分のモノにするに見合ったモノであると言う構造として成り立っているのです。全体的な価値形態にあっては一つの商品たるリンネルの内在する価値には、多様な商品のそれぞれの数量に見合ったモノが含まれている事になる。一着の上着に等置されることで、上着と言う形態に見合ったモノを価値として持っているのです。更に10ポンドのコーヒーに等置される事で、コーヒーと言う形態に見合ったモノを価値として持っている事になる。
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20エレのリンネル=一着の上着 −−−(A)
人間にとって私の所有の商品と相手の所有の商品とは、私の欲求の対象である相手の商品の使用価値と相手の欲しい私の商品の使用価値とで成立している。私と相手は相互に使用価値を手に入れる為に自分の使用価値と交換するのです。これは人間語の語りに他ならないのです。そこでこの人間語を商品語に翻訳します。上記の式は人間語を商品語に翻訳したモノであり、リンネルと上着と言う使用目的が別々のモノが等しいと言う事であり、両者に共通するモノがあり、両者のそれぞれは自らにあるその共通するモノを介して、自分たちは等価であると主張しているのです。商品語は両者が<使用価値リンネル+共通するモノ>=<使用価値上着+共通するモノ>と語っているのです。人間語では相手の使用価値を手にいれると言う事だけであり、<共通するモノ>などは何処にも見えていないのだが、別々の使用価値が交換されていると言う事実にこそ、それが潜り込んでいるのです。私の所にあり、交換の過程から相手の手に渡ると言うその間にあるリンネルや上着に<共通するモノ>が潜んでいるのです。リンネルが私の所にあっても私自身がリンネルを使ってしまえば<共通性のあるモノ>は実現されないと言う事になります。人間語では別々の使用価値があるから相互に交換されると言うのだが、それを商品語にすれば、相互のリンネルと上着が<共通性のモノ>により等価となっていると言うのです。
この式が、対称的であるのは、見た通り、リンネルと上着と言う使用価値としては別々のモノが、同一のモノを共通性として持っている事で成立している。左右を入れ替えても同じ構造になっているからです。ここでは、別々の使用価値であるリンネルと上着とに、それぞれあるモノが共通性を備えていると言う事を表しているのです。その共通性のモノによって、交換が成立していると言う事なのです。そこでこの結論を携えて、再度交換の場に戻る事で、交換を再吟味するのです。
再吟味の結果、リンネルと上着とは、その違った役割を演じている事が分かったのです。
私自身の方から交換を見る時、私がその使用価値を実現したい上着は相手が所有しているのでありその実現を欲求する私にとって−−欲しいと言う欲求は、それが役に立つと言う予想と自分のモノにしたいと言う事なのです−−まず相手から私の手にその所有を変えると言う事が第一となる。その所有を変えるのに、相手に無断であれば、それは窃盗であり、ゆずり受ければ譲渡になる。今の場合には、相手の上着を手に入れるのに、交換に自分のリンネルを渡すと言う事なのです。その一着の上着を手に入れるのに私自身が所有しているリンネルを20エレ相手に渡すのです。私の20エレのリンネルは相手の一着の上着との交換に値するモノと言うことで、交換価値と言われます。 相手の一着の上着ある価値に等しいとして、私の20エレのリンネルが交換の場に提出される。リンネルの使用価値、上着の使用価値と言うレベルで見れば、交換により、欲しい相手のモノが手に入るのであるが、それを式のレベルで見れば、20エレのリンネルは、一着の上着の価値に等しいものと言う事なのです。20エレのリンネルは、一着の上着に内在している価値の等価形態であると言う事なのです。私にとって20エレのリンネルは、そのまま使用価値として実現するのではなく、価値の実現を行うのです。その価値の実現は−−何故価値の実現と言うのかと言えば、式に表されている交換関係がリンネルと上着の両者ににそれぞれあるモノが共通性としてあり、それを価値と名付ければ、交換とはその価値同士による所有の変更なのだからです−−1着の上着の価値に等価なモノとしての20エレのリンネルと言う形態で表されるのです。この20エレのリンネルにはその中に価値があるのだから、自分の価値を自分で表してもいいのでは無いかと考えれば、それはリンネルの価値が、あくまでも、等式の関係にある事を前提に成立しているのであり、単独にリンネルの価値と言う事を考える事が出来ないからです。見た目には20エレのリンネルであっても使用価値としては、それを裁縫する事で上着を作ることが出来るモノであるが、しかし一着の上着の価値に等価なモノとしての<20エレのリンネル>と言う事になると、<20エレのリンネル>は、交換関係を成立させているリンネル価値の現実形態、リンネル価値の表現形態と言う事になるのです。
相手が私の所有のリンネルの使用価値を希望する時、そのリンネルの使用価値を実現する前にまず、リンネルの価値を実現しなければならないのであり、そこでそのリンネルの価値に等しい、自分の一着の上着を提出するのです。一着の上着は、リンネルの価値に等しいものとして、等価形態になる、あるいは交換価値になるのです。一着の上着は、その現物のままで、リンネルの価値に等価になり、等価になる事で、自らの価値を等価になった上着で表すのです。上記の式により、両者の共通であるモノを価値と呼んでいるのであるが、しかし見た目に表れているのは、相互の使用価値の違いだけであり、その違いに隠れて内在するものとして、共通なモノが規定されているのです。その隠れているリンネルの価値に対して、つまりリンネルの使用価値によるのではないと言う事だが、一着の上着が等価になり、等価になる事で、上着に内在する価値を<一着の上着>と言う姿として表すのです。上記の交換関係なしには、それぞれに内在するモノが共通性となり得ないのです。
リンネルを生産する具体的なリンネル労働にたいして、その具体性を抽象した後に残るモノを抽象的人間労働であると思考したとしても、それは単に思惟の自由でしかない。問題は、その抽象されたモノが、(A)式の交換関係に入った20エレのリンネルと一着の上着との関係から規定された時、初めて<価値>と呼ばれる事になるのです。抽象的労働は、その価値と言う関係概念を形成する実体と言う事であり、具体的労働の産物であるリンネルや上着、お茶、コーヒーが、交換の場に出は入りする事で、初めてその諸具体的労働では無い抽象的労働の投下されたモノが、(A)式の共通のモノと言う事になるのです。つまりここでは、共通性と言う事が中心なのです。別々の使用価値であるリンネルと上着にあって、両者に共通性として規定されるモノが、それぞれにあると言う事が中心なのです。
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リンネルと上着が果たす別々の役割がある。
(A)式では、それぞれにある使用価値とやはりそれぞれにある価値との関わりは、問われていないのです。ただ交換においては、別々の使用価値同士が共通するモノで関係を結ぶと言う事を表しているだけです。その関係を交換と言い、その関係から見た共通するモノを、価値と呼ぶのです。そのモノには、共通と言う属性があり、さらに交換関係から規定されることで、はじめて価値と呼ばれるのです。リンネルや上着の使用価値に対する第三者であり、それは労働生産物でありさらに、リンネル労働や上着労働といった具体的労働ではない、抽象的人間労働の投下されたモノと言う事になります。ただこの区別は、探求のはじまりであり、探求の結果として、<具体的、抽象的>と言う区別が統一的に把握されると言う事になります。つまり、リンネル労働が、あの抽象的人間労働と規定されてくる構造が明らかになるのです。その抽象労働の投下されてたモノが、交換関係から規定されたとき、価値と呼ばれる事になるのです。具体的労働が、同時に抽象手的人間労働でもあると言う構造が示されることで、最初のリンネル労働が抽象されて人間労働になると言う規定の意味合いが明らかにされるのです。現実の交換の場に入る以前にも、裁縫した上着を使用価値と価値の統一として考えるのは、自分が着るために上着を裁縫したわけではなく、あくまでも交換の場に持って行く為に生産している事を示しているからです。私達が上着を作るのは、自分用ではなく、他者の為に作っていると言う事を、使用価値と価値の統一と表すのです。
リンネル所有者は、自分の20エレのリンネルを交換価値として、相手の一着の上着を手に入れます。それは、20エレのリンネルがその数量のまま、相手の一着の上着の価値に等しいモノとして、交換価値になる事です。リンネルにある使用価値と交換価値の区別は、前者がその材質の性質により、私達の生きる事に有用である事を示すのであり、後者が私の所有のリンネルを相手が所有したいと希望している事を叶えるのです。リンネルはその交換価値により、相手側に所有が変更になるのです。単に相手が窃盗して所有を変えたのとは違い、リンネルにある交換価値により、所有が変わったと言う事なのです。私は交換の場に持っていくために沢山のリンネルを付くつているのであり、つまり商品としてつくっているのであるから、そのリンネルは交換価値と使用価値の二重化として成立しているのです。そのリンネルを盗賊に持っていかれてしまった場合、リンネルが交換の場で果たすはずの交換価値の実現が出来ないと言う事になります。盗賊が持っていった沢山のリンネルは彼がそのリンネルを別の交換の場に持ち出さない限り、単にその使用価値を実現すると言う事で交換価値は実現されないと言う事になります。
リンネルの交換価値は、相手の一着の上着との交換において20エレの数量になる事で、交換が出来ると言う数量のレベルのはなしであり、だから交換に際して20エレのリンネルが交換価値と言われるのです。つまり、リンネルには、始めから交換価値があると言う事ではなく、あるとしたら仮に<価値>とするのであり、その価値が交換の際20エレのリンネルと言う交換価値として表れると言う事なのです。そしてその価値は、相手が10ポンドのお茶に対しては、30エレのリンネル交換価値になり、5ポンドコーヒーに対しては、10エレのリンネル交換価値になると言うのです。リンネルの価値は、相手の数量によって、違った交換価値になるのです。これが価値と交換価値の関連なのです。「リンネルには交換価値があるから、相手の一着の上着と交換される」と言う考え方は、リンネルが交換の場に出ていく時、相手の一着の上着の価値に等価なもの、その価値に等しいモノ、として20エレのリンネルが交換価値となると言う結果として20エレと言う数量が出てきた事を、リンネルが持っている<交換能力>と短絡した事を表してしまっているのです。リンネルの交換能力の結果として、相手の一着の上着に対して、20エレのリンネルと言う数量として表れるのです。その表れたモノを交換価値と言うのです。リンネルがその材質により有用であることから生ずる使用価値とは別にある価値は、相手の一着の上着の価値に等しい等価形態として20エレのリンネルとして表れているのです。
(A)式は、リンネル価値=上着価値 と言う内実である様に見えるが、しかしリンネルが20エレ、上着が一着と言う数量の比として表されている事が考えられ無ければならないのです。交換の場では、私が相手の価値にのみ興味があって、それの使用価値に興味が無いと言う事は、例えば一着の上着を手に入れて、それを第三者のお茶と交換すると言う事になるかもしれません。しかしいまの単純な価値形態にあっては、リンネルと上着との交換であり、私は相手の上着の使用価値を実現するのに交換するのであり、あいてもリンネルの使用価値を実現する為に交換するのです。私にとって身体を保温するのに一着の上着が必要なのであり、その一着の上着が持つ価値に等しいモノとして、私のリンネルを20エレ交換の場に持ち出すのです。ただ単純な価値形態では、相手も使用価値の実現の為には20エレ分が必要になっているから、私が持ち出す20エレと言う数量が相手の要求によって決まると考えてしまうのです。ここでは、まず私も相手も自分の欲求の対象としては、それぞれ使用価値の実現と言う事なのです。その欲求の中で、しかし交換過程を経ることで客観的な交換構造を形成するのです。それがまさに(A)と言う式なのです。
リンネルの価値と上着の価値との関係なのです。単に上着の価値ではなく、相手の一着の上着が持つ価値に対して、その価値に等しいモノとして、特定された数量のリンネルを交換価値とするのです。この交換にあっては、私のリンネルの価値は、相手の一着の上着の価値に等しい、等価形態としての20エレのリンネルとして姿を見せるのです。私のリンネルの価値は、相手の上着の価値に等しい等価形態として20エレのリンネルとなるのです。私のリンネルは、もって生まれたままで等価形態になるのではなく、あくまでも相手の一着の上着の価値に等しいモノとしての等価形態として20エレのリンネルと言う事です。20エレと言う数量が、相手の一着の上着の価値から導き出されているのです。私の所にある20エレのリンネルは、始まりとしては私の工場のこの一週間の生産の結果としてあり、20エレ分は大人の上着では一着であり、子供の上着としては2着の裁縫が出来るのです。さて私自身がそのリンネルを裁縫すれば、それはリンネルの使用価値を実現してしまって、交換の場には全く出て行くことが無いと言う事であるが、その使用価値を実現せずに交換の場に持ち出せば、そのとき私はリンネルを価値として持ち出したと言う事なのです。そこには同じく上着を価値として持ち出した人がいて、私達は交換を実行するのです。
私は相手が持つ子供ようの上着一着に興味をいだき、その使用価値を実現する前に、まず手に入れようとします。一着の子供用上着の価値に等しいものである、10エレのリンネルと交換するのです。この単純な価値形態では、相手が15エレ分を希望すれば、さしあたって上着の価値に等しいモノとしては、15エレのリンネルと交換になるのです。つまり、色々な条件(欲望の二重の一致と言う事なのです)が整って交換が成立していると言う事なのです。この15エレ分はあくまでも相手の希望としてあるが−−15エレ分で子供用上着一着分を裁縫出来るのです−−つまり使用価値によって決まって来るのだが、しかし交換構造から見れば、相手の一着の子供用上着の価値に等価なモノとしての15エレのリンネルと言う事なのです。希望としての使用価値の15エレ数量分であっても、それが一着の上着の価値に等しいものとしてあると言う事が大事なのです。つまり一着の上着の価値が何であるのかは確定していなくとも、その価値に等しいモノとしてあるから、交換が成り立つと言う事なのです。一着の上着の価値に等しいモノ(等価形態)として15エレのリンネルと言う事なのです。交換能力としての一着の子供用上着の価値は、その能力を発現しなければならず、その価値に等しいモノとしての15エレのリンネルと言う姿として表すのです。反対に15エレのリンネルの価値は、一着の上着と言う姿として表されるのです。
リンネルは、自分の価値に等しいモノとしての、等価形態としての、相手の一着の上着と関係する。リンネルも上着も、その所有者にとって、その使用価値は実現されてはならないのであり、仮に実現すると、リンネルを消費したと言うことであり、上着を日常の衣服として着てしまうと言う事になります。と言う事は、リンネルにしても上着にしてもその価値の実現こそが問われているのであり、その価値の実現とは、相互に所有物を交換すると言う事なのです。ただ交換とであっても、私は自分のリンネルの使用価値を実現せずに価値として実現するのであり、相手の所有している一着の上着をてに入れて、更に身体の保温として使用すると言う、上着の使用価値に関わるのです。リンネルの価値を実現するとは、相手の一着の上着が、リンネルの価値に等しいモノとして、等価形態にあるモノとして規定を得るのです。相手の一着の上着を、黙って持って来てしまう事で、その使用価値を実現出来るのだが、あくまでも交換であり、ただこちらも価値の実現をすると言う事なのです。相手から見ればリンネルは使用価値として実現できるモノであるが、しかし私所有のリンネルはあくまでも私にとっては価値の実現としてあるのです。その観点から再度(A)式を考える事になるのです。
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交換関係が等置関係であると言う事は、どういう事なのかと言う事です。
20エレのリンネル=一着の上着 −−−(B)とはそれぞれの使用価値が異なると言う事です。この異なるものが交換され関係は、そのままではそれらが等置される関係であると捉える事はできない。交換されると言う事自体が、等置であると言う印を付けているわけではないのです。リンネルにも上着にも付いている目印は何なのかと言えば、それは価格と言う事になります。
20エレのリンネル=1000円、一着の上着=1000円と言う目印が付いていて、その目印を共通にして(B)と言う式になります。しかしこの共通性としての1000円と言う価格とは何かを説明しなければならず、その為にまず簡単な式の扱いから始まるのです。
二商品に共通の第三者があると言うのは、一種の作業仮説出しかない。
(B)は、使用価値としての側面と交換価値としての側面、すなわち互いに異質なものであると同時に互いに同質のもので量を異にするだけのモノとして、規定されている訳です。
使用価値が異質な側面を示し、交換価値が同質の側面を示している。
商品の価値としての定有は、その商品自身の使用価値では表現されない。価値は社会的な大きさであり、他商品との交換関係において他商品の使用価値で交換価値として表現される。同じ商品の価値の種々の他商品の使用価値による表現の多様さは、その商品の価値それ自体を決して変えない。相手が私の所有のリンネルの使用価値を実現したい為に、交換により手に入れようとします。この時の交換の構造が問われるのです。リンネルの価値に対して、その価値に等しい<一着の上着>を等価形態とするのです。この等価形態になる<一着の上着>を、交換価値と言うのです。つまり相手は、私の20エレのリンネルを手に入れるのに、交換価値としての<一着の上着>を提示するのです。交換の場において、相手の<一着の上着>が交換価値であると言う事は、20エレのリンネルの価値に等しいものとして、一着の上着が交換の場に出てくると言う事なのです。一着の上着が生まれながら自ら交換価値であると言う事ではなく、あくまでも20エレのリンネルの価値に等価である事により、はじめて<一着の上着>と言う数量分が、交換価値になるのです。上着にはその材質が保温に適していると言う有用性により使用価値であるように、はじめから交換価値が有る訳ではないのです。20エレのリンネルの価値に等しいモノとして、一着の上着が等価形態になる事で、使用価値であり同時に交換価値というのです。20エレのリンネルはその価値により、相手の所有に代わり、一着の上着は、リンネル価値に対する等価形態になる事で、私の手元に来るのです。(B)式においては、確かに両者に価値と呼ばれる共通性があるのだから、所有者同士はリンネルの価値と上着の価値とにより、交換が成立するのだと言ったとしても、これでは何故リンネルが20エレの数量で、上着が一着であるかを説明出来ないのです。つまり、相互に20エレ、一着と言う交換価値である事と価値とのつながりを説明するのです。価値が20エレとか一着とかの具体的数量とどうか関わるのかと言う事が大事なのです。それを説明する為に交換の場に戻る事になるのです。リンネルはまず相手の所有に変更になってから彼に対して使用価値が実現されるのだが、その所有の変更の為に、リンネルの価値を実現するのです。そこでどの様にして価値を実現するかと言う事なのです。相手の一着の上着との交換によるのです。その一着の上着が、20エレのリンネルの価値に等しいモノとして、等価形態になることなのです。つまり、これは実際の交換行為を構造として分析したところで得られた理解であり、「上着が等価形態になるから、交換がある」と言う様な理解ではなく、交換の完了を構造として捉えたモノなのです。
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次の様なきわめて簡単な事を見落としている。
20エレのリンネル=一枚の上着 と言う形態は、ただ 20エレのリンネル=1000円 と言う形態のまだ未発展な基礎でしかないと言うこと、したがって、商品の価値をまだ他の全ての商品に対する関係としては表してはいないで、ただその商品自身の現物形態とは違う物として表しているだけの、もつとも簡単な商品形態が、貨幣形態の全秘密を含んでおり、そしてその事によって労働生産物のあらゆるブルジョア的な形態の全秘密を萌芽の形で含んでいると言う事を見後して来た。 (マルクスからエンゲルスへの手紙・1867年6月22日) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
*)単純な、個々のあるいは偶然の価値形態: 20エレのリンネル=上着一着あるいは20エレのリンネルは上着一着の価値をもつ
この形態は、商品がただ偶然にそして個々に交換されるような発展段階で形成される。上の等式においてリンネルと上着はふたつの異なった役割を演じている。亜麻布はみずからの価値を上着で表現し、上着はこの価値表現の素材となっているのである。等式の左側は相対的価値形態と、そして右側は等価形態と呼ばれる。上着はこの等式のなかでこの等式の外においてよりより多くを意味する。つまり上着はここでは価値形態なのだ。リンネルはしたがって上着のなかでみずからの価値形態を獲得し、その際上着はただ交換価値としてのみ機能している。このような関係の中ではじめて、交換価値が商品体から分離されることによって、リンネルは商品となるのである。

発展段階の偶然な交換であっても、その偶然性が問われているのでは無く、そこで成立している価値形態の中に貨幣形態の萌芽があると言う事が問われているのです。発生的には、商品に価格がつき、その価格と貨幣により商品の交換が行われていると言う現代の貨幣形態に対して、その様な貨幣の発生を考えるのは、まさにその貨幣形態が成り立っている今の社会の出来事なのです。<何がどの様になれば>今ある貨幣の様に「なる」のかと言う事なのです。目的は現代の日常使用している貨幣にあって、使用する事で理解されている事に対して、しかし貨幣とは何であるのかと言う貨幣の構造が明らかにされているわけでは無いのです。貨幣を使用している事で理解されているモノとその<使用されている貨幣>を研究の対象にしている事との区別なのです。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
単純な価値形態は、所有者同士の欲求が一致した事により成立している交換であるが、仮に一致しなくとも交換が成立する為に、交換に導くモノとして貨幣が成立するのだと言う考え方を作り出すなら、それは現に私達が貨幣による売買により、交換を成立させていると言う事を、その単純な価値形態に当てはめているにすぎないのです。つまり<欲求>そのものがなければ、交換自身が成立しないと言う事であり、何故なら所有者の欲求は、直接であろうと間接であろうと、実現されるのであるし、仮に中間に貨幣を所有してまだ欲しいモノが手に入らないとしても、それは欲求がなくなったと言う事ではないのです。それが<私の役に立つと言う事>と<それを手に入れようとする事>であり、前者が使用価値であれば、後者が交換価値と言う事になる。「お互いが相手の所有しているモノが役に立つと思っているので、相互に持ち物を交換する」と言う図式の説明では、単に相手のモノが役に立つと言う思いだけなら、相手に黙って持って来てもいいのです。そうではなくて所有者にとって自分のモノは、自分に使用価値として実現するのではなく、相手にたいして使用価値として実現するのであり、自分にとっては相手のモノとの交換価値を持つと言う事なのです。使用価値とはそのモノの性質によって私達の生活とか生きる事に役に立つと言う事であり−−この規定は、物がその性質によって人間の活動に役立つと言う、普遍的な所で成り立っているのであり物があれば、その性質により有用性があると言う事で、新しい時代になれば新しい物がその性質により役立つのであると言う事なのです。物は時代時代によって新しく生まれて来るのであつてもその性質に依って有用であると言う規定には変わらないと言うことなのです−−その役立つ事であるなら、相手が私のモノを無断で使用しても役に立っている事に代わりがないのです。無断であれば泥棒であり、または恵んでくれたモノと言う事になるのです。私が所有する物である<リンネル>が、有用であると言う事は、私が実際に使用する事で、その有用性を実現すると言う事なのです。つまり物はその性質によって私達に有用になるのであるが、しかしその有用性は実際に使用して実現されるのであり、だから私が<リンネル>を使用する事が目的に所有していて、使用する事で有用性の実現を行う事に対して、自分の使用の為に所有しているのでは無い時、それは所有していない人が使用する事で有用性が実現すると言う事なのです。ここに<リンネル>の所有の変化、つまり交換が始まるのです。

この<欲求の二重の一致>と呼ばれる構造の中に、貨幣の萌芽があると言う事なのです。一着の上着と言う使用価値が必要であるから、相手から見れば必要な量である20エレのリンネルは、相手の上着の一着分に見合った交換価値に成るのです。私にとって必要な量の一着の上着と相手にとって必要な量である20エレのリンネルは、必要度が合ったからこそ交換が成立したのだと理解することは全く一面にすぎないのです。一面にさせない為には何が必要であるかと言えば、単純な価値形態にある、その等式を関係として捉え、関係に合っては使用価値としては別々のモノが、等しいのは、それぞれの内部に同一のモノがあるからだと言う理解なのです。その「同一のモノ」を<価値>と命名すれば、その価値が交換において、私が必要とする交換の相手の一着の上着を手に入れるのに、その一着の上着の交換に見合ったモノとして提出された20エレのリンネルを交換価値として表すのです。単純な価値形態にあっては、私の所有するモノは、相手にとって使用価値を実現するのであり、私にとって交換価値であると言う事なのです。交換価値として実現する事で初めて使用価値としても実現されると言う事なのです。たぶん貨幣とは、自己の所有物にある交換価値と言う側面になるモノを取り出して、一つの物に表したと言う事になりそうです。

交換において、リンネルも上着も自分の価値を、相手の使用価値の数量に等価として、自己の使用価値の数量で表すのです。自己の数量で表された価値を交換価値と言うのです。自己の価値は、相手の使用価値の数量に等価としての自己の使用価値の数量として表れ、その表れたモノを交換価値と言うのです。単純な価値形態にあっては、リンネルの20エレ数量は、相手にとって必要な数量であるが、しかし自己の価値にとって相手の使用価値の数量に等価として表れているのです。単純な価値形態では、自己の使用価値の数量と言う規定は、あくまでも交換する相手に取っての使用価値であり、だから20エレのリンネルと言う現物体は、私が欲しい相手の一着の上着に等価なものとして、価値の表現形態なのです。相手が私に黙って、20エレのリンネルを持って行けば、それは使用価値として使われてしまうと言う事に成るのです。それは価値の表現形態となる事はないのです。単純な価値形態にあるリンネルと上着には、両者のそれぞれに共通性としての<価値>が内在していると言う事になる。リンネルに内在している価値は、私にとって使用価値になるであろう一着の上着との交換に値する、つまり等価なものとしてある20エレのリンネルと言う現物として表れているのです。この価値の現れている<20エレのリンネル使用価値>を、交換価値と言うのです。「使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材的内容をなしており、同時に交換価値の素材的担い手をなしている。」(マルクス)
リンネル所有者にとって自分の20エレのリンネルは、相手の一着の上着と言う使用価値を「手に入れる」為の交換に<値するもの>に成るのです。役に立たないモノより役立つモノと言う意味で使用価値であるが、しかしあくまでも、「手に入れる」と言う事なのであり、それを使用価値が交換価値の素材的担い手となると言うのです。交換にあっては使用価値は、素材的担い手と言う事なのです。一着の上着の使用価値に対して、それを手に入れる為に交換に値するものとしての20エレのリンネルと言う事になるのです。20エレのリンネルに内在する、相手の所有物一着の上着を手に入れるに値するモノを<価値>と言って見るのです。私が相手の一着の上着を手に入れるのであっても、動機としては欲求としては、使用価値の実現をのどんでいるが、しかし交換は、リンネルや上着の価値が関わるのです。この相互の価値が、リンネルと上着の交換を成り立たせているのです。今ここで問題になっているのは、私が所有しているリンネルと相手が所有している上着に対して、それらを相互に交換する事を説明しようとして、それらに使用価値があると言う事から始まると、<私は相手の上着が保温として有用であるから、私のリンネルと交換するんだ>と言う説明になってしまうのです。確かに役立たないモノを手に入れる事は無いのだが、それはあくまでも私達の動機でしか無いのです。私達は、その動機によって交換を始めるが、しかし客観的な交換の構造に則って交換を実行するのです。それが商品の使用価値と価値と言う構造と言う事なのです。
リンネルはその交換関係に合っては相手の使用価値である一着の上着と言う現物との交換同等性として規定される。これはリンネルに内在する価値が、相手の一着の上着と言う現物体との等価と言う規定を持った20エレのリンネルとして表れているのです。リンネルは自分に内在する価値を一着の上着と言う現物のままと等価なものとしての20エレのリンネルと言う交換価値として表しているのです。20エレのリンネルは、姿見には特定の使用価値のように見えるが、一着の上着と言う使用価値の交換に等価なものとして、価値が表れているのです。つまり、リンネルの内在する価値は、一見20エレのリンネルと言う外見で表れている様に見えるが、しかしあくまでも一着の上着と言う現物の交換に等価であると言う姿なのです。リンネルや上着に内在する価値は、それぞれの姿としてある様に見えるが、リンネルや上着の価値は、リンネルや上着がそれぞれの使用価値であるから、お互いに交換が成立すると言う様に見えるが、つまり私は相手の上着が役に立ち、相手は私のリンネルが役に立つから、交換が成立すると言えそうだが、だから役に立たないと思えば、交換が成立しないと言う事なのだが、しかしそんなに直接ではないのです。
相手が所有する一着の上着は、保温としては大変役に立つモノでありながら、私のリンネルとの交換関係に入ると、交換関係にある共通性としての価値が、その保温性と言う使用価値のままと交換同等性を持つ20エレのリンネルとして現れていると言う事です。ここではお互いに現物同士の交換であるが、両者が交換に入るのは、両者に共通のモノがあるからと言う事なのです。この共通のモノ(価値と名付ける)を前提に、交換の現場にもどるのです。
私が上着の有用性の為に相手の一着を手に入れ様とする時、その有用性つまり使用価値によって手に入れ様としてしている事が全てではないのです。何故なら単に有用であるなら、窃盗して自分のモノにすれば言いのです。つまり上着には有用である事と正当な手続きを与える価値があって初めて交換が成立すると言う事なのです。そこで使用価値とは別にあるモノを価値と命名するのです。上着やリンネルは、その有用においてある使用価値と交換においてある価値とによって成立しているのです。私が彼の上着が欲しいのは、それが有用であるからなのだが、しかし上着やリンネルの商品としてのあり方に交換の構造があるのです。それが使用価値と価値の構造なのです。私が彼の上着を欲しいと思う時、上着の有用性に依るのであるが、実際の交換は、上着やリンネルの商品としてのあり方によって実現されるのです。商品にある使用価値と価値のあり方が問われるのです。
私達が交換の場で目にしているのは、使用価値としての現物の生産物です。しかし交換である限り個々の商品には、交換を成り立たせる価値があり、その価値によりお互いが交換されると言う事になります。ただこの考え方では、個々の商品にある使用価値が何も考慮されていないのです。使用に役に立ちそうで無いモノは、必要としないのであり、交換が成立しないと言う事なのだから、交換には使用価値が関係している事は明らかなのです。二つの商品の間のある等価の関係は、交換を概念化する事で成立し、両者に共通のモノがあると言う事です。その共通のモノをさしあたって<価値>と表示します。この関係概念では、あたかも俯瞰の位置から見おろされている様であり、そこから個々の商品の視点にまで降りると言う事です。それが使用価値を再考する事なのでしょう。一度交換の場に戻る必要があるのです。

(甲):リンネルの所有者は自分の欲しいと思っている、使用価値になる相手の上着一着を手に入れ様とする。相手の上着は、自分にとって使用すれば役立つ物として使用価値を実現するモノであるが、しかし役だたてる前に自分の手に入れるモノのとしてあり、その手に入れると言う側面として<価値>なのです。−−この使用価値と価値の区別は、リンネルと上着の交換と言う事態に対して、その側面を論理として捉えている所に成立しているのです。別々なモノとして捉えられているが、しかし両者がどの様に統一的に捉えられるのかと言う事が次に成立してくるのです−−使用して実現出来そうであると予想が出来る事と<手に入れる>と言う区別があるのです。前者を使用価値とすると後者を価値と規定するのです。上着は着る事でその使用価値が実現されるのであり、価値は交換する事で実現されると言う事なのです。使用価値の実現は、上着の材質により現に身体が保温されるという事になるのに対して、価値の実現とは、相手のリンネルと所有を変えると言う事なのです。上着所有者乙が所有している上着の価値を形成するモノは、その価値と同じ価値である、つまり等価な、20エレのリンネルとして姿を変えていると言う事なのです。甲も乙もその所有物、リンネルと上着とを交換するのであり、交換する事で、今までのリンネルの所有から上着の所有に代わり、同じように上着の所有であったものがリンネルの所有に変わったと言う事なのです。その所有を変えたリンネルと上着の材質の有用性により使用価値として実現させれば、それはそれで消費されたと言う事で完了するのです。甲は所有を変えた上着を丙の所有するモノと交換すれば、そこには同様な交換原理が成立していると言う事なのです。
さしあたって甲は自分の所有物であるリンネルを乙に渡し、交換に一着の上着を手に入れた後、上着を着用して保温として使用すれば、それは上着を使用価値として実現をしたと言う事で、交換の完了と言う事になります。
ここで少しばかり理屈を考えてみます。乙にとって自分の所有する一着の上着の<価値>を形成するモノは、上着が甲の所有に変更された時、上着と一緒に甲の所に移動したと言う事になりそうです。それは上着の材質の有用性が使用価値として、甲に移動して甲が着用する事で甲の身体の保温と言う事で実現されたと言う考え方と同じなのです。しかし上着の使用価値は、上着を着用する事で実現しているのに対して、上着の共通性は、まさにリンネルとの交換の場で価値として実現されてしまったと言う事なのです。上着は交換が終了して甲の所有になった後、甲が着用すれば使用価値が実現されてしまったと言う事に対し、再度丙との交換の場に臨めば、上着の価値が、交換の場で実現されると言う事になります。上着の価値はその価値に等価な−−20エレのリンネル=一着の上着 と言う交換関係を成立させている同一な共通なモノとして両方に価値があると規定されているのです−−上着の価値と同一な価値を持つ20エレのリンネルに変更されたと言う事なのです。乙の所有の上着にある価値は、上着の所有が甲に移動しても、一緒に移動していると言う事でしょう。
ここで初めて
       20エレのリンネル=一着の上着 −−−(1)
における共通性であるモノに付いて考えるのです。
それぞれ使用価値として別々のモノがありそれが第三者として共通のモノを持つ事で等式が成立していると言う事なのです。その第三者とは何かと言うば、リンネルと上着に対してお茶と言う様な存在では無いと言う事です。第三者とは二つの存在とはべつの形態と言う事なのでしょう。
二者があり、それが第三者を基準に数量の比較になるとき、その第三者は、二者に対してそれらに共通するモノであると言う結論できると言う事です。これは論理思考として成立していると言う事です。 それはリンネルがその材質を生産する具体的労働物であり、上着も具体的労働物であるのに対して、それらに対して第三者と言う事であり、それが具体的労働の産物ではないと言う意味で、抽象的労働の産物と言う事になります。二者に対して共通のモノとは、抽象的労働の投下されたモノと言う事になります。この抽象的労働の捉え方は、リンネルや上着を作る具体的労働に対して、この具体性ではないと言う意味で抽象的と言っているのです。まだ否定的な意味合いとしてあります。しかしこの抽象的労働を肯定的に捉えると、この具体的労働がどれも皆人間の生存に必要なモノとしてあると言う意味で、人間的社会的労働と規定するのです。
リンネルや上着に投下されているこの人間的労働は、少なくともこの時点では、リンネルや上着やお茶やコーヒー等それぞれとして内在しているのです。それがリンネルと上着の交換の際に両者に共通なモノとしてなったと言う事です。
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アリストテレス「まず第一に、商品の貨幣形態は、簡単な価値形態の、すなわち何か任意の他の商品による一商品の価値の表現の、さらに発展した姿態にすぎぬと言う事を明白に述べている」「彼は言う。<五枚の褥=一軒の家>は、<五枚の褥=若干の貨幣>と区別される所はないと」彼は更に言う。かかる価値表現がそこに潜んでいる価値関係は又次の事−−すなわち、家が褥に対して質的に等置されると言う事、及び、これらの感性的に相異なる諸物はかかる本質上の同等性なしには較量されうる大きさとして相互に連関しえないものだと言う事−−を条件とすると言う事を、洞見している。彼は言う「交換は同等性なしにはあり得ないが、同等性は較量可能性なしにはあり得ない」と。しかしかれはここで立ち止まって、価値形態のより以上の分析を断念している。<しかし、かくも種々様々な諸物が較量されうると言う事は、真実にはあり得ない事である>と。
アリストテレスが、彼のより以上の分析が失敗したのは、何のためであるか、価値概念の欠如の為である事を自ら我々に語っている。褥の価値表現において家が褥の為に表示する同等なものは、すなわち共通の実体とは何であるか、そんなモノは「真実には実存しえない」とアリストテレスと言う。何故か、家が褥に対して一つの同等なものわ表示するのは、家が、褥と家との両者における現実に同等なモノを表示する限りにおいてである。そしてその同等なものとは、人間的労働である。所が諸商品価値の形態において、すべての労働が同等な人間的労働として、したがって同等な意義を持つモノとして表現されている事を、アリストテレスは価値形態そのものから読みとる事が出来なかった。と言う訳は、ギリシャの社会は奴隷労働に基づき、かくして諸人間及び彼等の諸労働力の不等性を自然的基礎としたからである。価値表現の秘密、すなわち、全ての労働が人間的労働一般であるが故の・またその限りでの・全ての労働の同等性及び同等な妥当性は、人間の同等性の概念がすでに国民的感心の固定制を持つ時のみ解明される。だがそれは、商品形態が労働生産物の一般的形態であり、かくしてまた、商品所有者としての人々相互の関係が支配的な社会的関係である様な、そうした一社会において初めて可能である。アリストテレスの天才は、まさに、彼が諸商品の価値表現において一つの同等性関係を発見したと言う点に輝いている。ただ彼は、彼の生活した社会の歴史的に柵に妨げられて、この同等性関係なるものは、いったい真実には何であるのかを見いだす事が出来なかったのです。(マルクス・資本論)
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さて問題はここからです。(1)を前提にすれば、AAとは、まず一着の上着に対して20エレの数量のリンネルが交換に値する、つまり交換価値と言う事で示されます。リンネルにあるAAは20エレのリンネルと言う交換価値として表れるのです。逆に20エレのリンネルの交換に値するものとして一着の上着が交換価値となるのです。この場合も上着のAAが、一着の交換価値として表れているのです。もともとそれぞれとしてある一着の上着であり、20エレのリンネルであるのに交換の場にあって相手側と一定の数量と交換される時、相手との交換に見合った、等価なものとして20エレのリンネルが交換価値になるのです。20エレのリンネルはその数量のリンネルのままで交換に値すると言う事になるのです。10エレならば交換が成立しないと言う事です。リンネルも20エレであれば交換価値になると言う事なのです。20エレのリンネルはそのまま衣料として役立つモノであるが、そして役立つモノでなければ、交換の場に出る事も無いが、交換の場では相手の一着の上着を手に入れる時に、<交換に値するモノ>になるのです。この<交換に値するモノ>となるのは、リンネルがその材質で役立つモノであると言う事で無く−−役立つモノであるなら窃盗で手に入れてもいいのです−−別のモノが必要になります。それをAAと呼べば、リンネルは使用価値とAAにより、はじめて<交換に値するモノ>になり、一着の上着に対して20エレのリンネルと言う交換価値なのです。
リンネル所有者が、上着所有者にむかって、このリンネルは貴方にとても役立つよと言い、この役立つリンネルを交換するのに値するモノとして上着が選ばれるのです。この<役立つリンネルを交換するのに値するモノ>とは、リンネルにAAがありそのAAに等しいAAをもつものとして上着があると言う事なのです。(1)にある両辺のそれぞれに内在する共通なモノをAAとすれば、そのAAにより所有を変更するのです。お互いに自分の所に無く相手の所にあるモノを手に入れるのだが、お互いに<欲しい>と言う欲望が一致したから、交換が成立したと言う事です。これは使用価値としてのリンネルや上着と言う事なのです。さらにリンネルと上着が交換されると言う構造として両者にAAと言う共通なモノがあるのです。ここで単にAAだけを考えるなら、所有を変更しても全く同じ事でしかない。AAと言う視点から見れば、外観がリンネルか上着かと言う区別であり、だからAAだけでは、私が相手の上着が欲しいと言う事で交換が成立している事を無視してしまう事になるのです。交換はAAによって成立し、交換終了後使用価値が実現されると言う事なのです。交換では<AAと使用価値>との構造が出来上がっているのです。目的は相手の使用価値を手に入れる事であり、ただ手に入れるのに交換と言う構造をなすと言う事なのです。自分の所有のリンネルのAAを相手のAAを介して上着に関係づけると言う事です。自分のAAと相手のAAは、同じ人間的社会的労働の投下されたモノであり、その同じと言う関係から上着の現物体である使用価値に関わるのです。
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「我々はここで、価値形態の理解を妨げる全ての困難の基点に立っているのです。商品の価値をその使用価値から区別する事、あるいは、使用価値を形成する労働を、単に人間の労働力の支出として商品価値でで評価される限りでのその同じ労働から区別する事は、比較的たやすい。使用品または労働を一方の形態で考察する時には、他方の形態では考察しないし、他方の形態で考察する時には一方の形態では考察しない。これらの抽象手的な対立物は自ずから互いに分かれるのであり、したがって又た易く見分けられ得るのです。」(マルクス)
商品を分析的に使用価値として、あるいは価値として考察する事は容易である。更に商品の二要因をそれらの実体にまで遡及して論ずる事も容易である。商品を分析的・一面的に考察し、その結果として得られた使用価値と価値と言う二要因及び労働の二側面は<抽象的な対立物>である。それは具体的な対立物として現実の商品の矛盾を論ずる為の基礎の分析なのです。ここでは商品なるモノを「価値抽象」と「使用価値抽象」との、頭の中での観念的な対立物の統一として把握する段階の事を述べているのです。
古典経済学は不充分ながら価値の実体を明らかにした。だが価値の形態に付いてはその研究はおろか、問題を立てることさえ出来なかった。(1)と言う価値等式に含まれる価値表現の「形態内実」を明らかにしたのです。それは価値概念と価値形態との内在的関係の証明であると言えるのです。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(1)の等式に対して、使用価値と価値のそれぞれで理解する事は、次のための段階にすぎないと言う事であり、この分析の結果を踏まえて形態論を把握すると言う事なのです。そのためにもリンネルの価値が、相手の上着の使用価値で表現されると言う表現形態を理解する事なのです。
リンネルや上着はその材質の有用性により−−実際に着用されたり裁縫されたりする事で材質が有用であると実証されてきた、つまり着用して保温されていると言う事です−−実際に使用され使用価値を実現されるのです。上着を<使用価値として>実現すると言う事は、上着を作っている布の材質に対して、単に自然材質であると言う事ではなく、その材質を人間の身体の保温用として確立させる努力から作られたモノであると言う規定を加えているのです。身体の保温として有用である事が材質に手を加えて実証されているモノを使用価値と言うのです。つまり単に自然のモノがあると言う事ではなくて、その自然のモノが人間の身体との関係で成立している時使用価値と言うのです。その様な自然のモノを普通には労働の生産物と言うのです。モノの材質による有用性とその使用による使用価値の実現であり、モノを人間の活動との関係かに規定された時、使用価値と言うのです。有用性はその使用価値を形成する実体としてモノにある性質と言う事になります。使用価値とはモノが人々に使用されて有用性が実証されてきて明らかにされたモノの材質の事であり、それが現に個別的に人々に使用されると言う事で、使用価値が実現されるのです。モノの性質と言う側面は、沢山の人々に有用であると言う事だが、それが現に私や彼や彼女や貴方に使用される事で実現される有用性を使用価値と言うのです。私達が使用することで実現された使用価値は、再度モノの性質の有用性を確実にしていくと言う普遍的な面があると言うのです。モノの性質の普遍面は単に有用性と言うだけだが、その面が現に今いるここの人々に使用されると言う事で実現される有用性を使用価値と言うのです。
さてもう一つの<価値>について、交換関係である(1)の等式は、有用な材質によって出来ている使用価値であるリンネルと上着に共通性として内在する、人間的抽象的労働の投下されたモノを介して、両者の間に成立している関係を示しており、両端のリンネルや上着をAAで結びつけると言う事です。AAによって結びつけられるリンネルと上着とが関係すると言いその内在するAAによって関係の内容が決まってくるのです。この場合AAは、投下された人間的抽象的労働と言う事になり、そのAAによって結びつけられた両者の関係を交換と言うのです。使用価値リンネルと使用価値上着の間に成立している関係から、リンネルのAAを規定するとき、AAをリンネル価値と言いAAを含む使用価値上着をリンネル価値AAに等価と言うのです。「リンネルに投下された抽象的労働はリンネル価値を形成する実体としてある」と言う論理なのです。リンネルの価値はりんねると上着の交換関係のと所にしかないのであり、その関係を形成するのがそれぞれに投下されている抽象的労働と言う実体だと言う事になる。リンネルと上着のそれぞれの所有を変える交換と言う行為は、私が欲しいモノである使用価値上着と彼が欲しいモノである使用価値リンネルとが、それぞれ欲しい人の手に渡ると言う事なのです。その交換行為をりんねると上着に即して表したのが(1)の等式になります。
私が相手の一着の上着を<手に入れる>のに自分の価値あるリンネルを提出するのであり、10エレ数量では、交換できないが20エレの数量分では交換できたと言う時、その20エレのリンネルに交換価値があると言う事になります。リンネルに価値があると言う事に対して、どのくらいのリンネルであれば、相手の一着の上着と<交換できる>かと言う事になり、交換が「20エレのリンネル=一着の上着」という事で完了すれば、リンネルの価値は、20エレの数量として具体化され上着の価値は、一着として具体化されたと言うことです。さらに言えば、リンネルの価値が20エレ交換価値になるのは、交換に関わるものとしての<一着の上着>の価値に等価であるからです。両者が同じ共通性としてあるから(1)の等式が成り立つのです。この交換価値である<リンネル20エレ>は、相手の一着の上着の価値に等しいと言う事であり、使用価値である20エレのリンネルが、他者にとってその数量で男子成人の一着の上着として出来るのであっても、交換にあっては、上着の価値に等価んものとして交換される使用価値と言う事なのです。交換においてリンネルの価値は、相手の上着一着と交換される20エレのリンネルとして交換価値となるのです。
私達にとって相手のリンネルや上着やお茶やコーヒーは、その使用価値として欲しいのであり、それはコーヒーを飲料として使い、上着を保温として使う事なのであるが、しかしその前にまず自分の手に入れなければならないと言う事です。つまり<欲しい>と言う欲求は、<飲料として飲みたい>と言う事と<自分のモノにしたい>と言う事なのです。自分のモノにしない限り、それに手を付ける訳には行かず、無断で手を付ければ、コーヒーは飲めるが窃盗になってしまうのです。そこで大まかに言えば前者が使用価値であり後者が価値と言う事になります。私達の交換とか労働とか言う一切は人間の意志とか欲望に関わると言える。しかしその意志でも欲望でも、その中から実体としてモノが生まれて来るわけでは無いのであり、あくまでも導きの糸として、媒介としてだけであり、モノの生き死にに手助けをすると言う事だけなのです。私達は相手の物が欲しいのであるが、それは<私の所になく彼の所にある>と言う事だからこそ成立する欲望なのです。その様なモノのあり方にたいして、一つの態度は窃盗と言う事であり、更に無償の譲渡と言う事であり、さらに等価交換と言う事なのです。そして今はその等価交換と言う事が問われているのです。
上着の使用価値とは、上着の材質が作り出す性質が人間の保温として実現される事からその材質の性質を規定したモノと言う事になります。材質が人間の身体に保温として関わっている事を、材質の有用性に規定したときに出来る概念と言うことなのです。材質の有用性は上着の使用価値を形成する実体としてあると言う事です。この上着の使用価値と言う規定は、単に自然物質としての布と言う次元ではなく、あくまでも人間の活動に関わるモノと言う次元なのです。自然次元での布の材質は、その使用価値を形成する実体と言う事なのです。上着と人間の身体との間に保温すると言う関係があり、上着の布の材質をその保温と言う関係から規定した時、それは使用価値と言う事になるのです。
価値とは、リンネルと上着の(1)の等式にある交換関係から、その関係を成り立たせている両者に共通するモノ−−抽象的人間労働の投下されたもの−−を規定する事です。交換関係からみたその実体を価値と言うのです。ここでは関係している両者を俯瞰する平等の位置から眺めているのであり、視点はどちらにもぶれていないので、価値も使用価値も、両者に備わっているものとなるのです。つまりリンネルや上着が商品として交換の場に出てくる時、両者には価値と使用価値とが統一されていると言う事なのです。しかし実際に交換の場では、私が所有しているリンネルは、私にとって使用価値として実現されれば、リンネルを使用してしまうと言う事であり、彼が上着を所有していても着て保温をすれば、それで完了してしまうのです。とすると私にとって私のリンネルは、決して使用価値として実現されてはならないのであり、そのかわり価値の実現を実行すると言う事なのです。現象的には私のリンネルが彼の所有になり、彼の上着が私の所有になると言う事です。これをリンネルの価値から見れば、自分のための使用価値の実現の為に相手の上着を一着手に入れようとする時、相手の上着の価値に等しい価値のある、等価である自分のリンネルを提出するのです。リンネルの価値は、上着の価値に等しい私のリンネルで実現されるのです。
また反対を考えてみる。私の所有しているリンネルが相手にとって、とても重要な使用価値を実現出来そうなので彼が欲しいと思っているのであれば、私のリンネルの価値、つまりリンネルが彼の所有になる実力は、私が欲しいと思っている上着の価値に等しい交換価値としての20エレのリンネルとして、実現されるのです。リンネルの価値が、最初から20エレのリンネルとして実現されないのかと言えば、リンネルに対して20エレと言う数量は、一着の上着の価値に等しいモノにならない限り、出てこない数量なのです。ここでの20エレのリンネルは、相手が自分の為の使用価値の実現に適していると言う事で出てきたモノでは無いのです。相手の一着の上着と交換するのに、上着の価値に等価でない限り、私の方から<これだけの数量のリンネル>と言うわけには行かないのです。リンネルの価値とは、リンネルと上着が交換される時に、その交換に導くそれぞれにある力の内リンネルにあるモノであり、リンネルの価値を見れば、相手の一着の上着の価値に等価なものとしての20エレのリンネル交換価値として、交換の場に表れるのです。
私は一着の上着が自分の使用価値の実現に適しており、彼は40エレのリンネルが自分の使用価値の実現に適している時、上着やリンネルの数量は自分たちの必要によって決まるのであり、必要からとすれば特に問題があるようには思えないのです。使用価値とは、そのものの性質によって有用にされると言う事であり、有用の範囲によって数量が決まると言う事なのです。
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その性質によって有用なリンネルや上着に対して、それぞれ私的所有物として存在しているからこそ、私が上着で保温したいとかリンネルで上着を作りたいと思っても、まず他者の物を自分の物にしてから上着を保温として使うと言う事です。それぞれの生産物が私的所有物として独立している上で、相互に交換がなされる時、その所有物に内在する交換の為の力を、仮に価値と規定するのです。それは、リンネルが持つ材質の性質から上着を作り出す事が出来る事を、リンネルの使用価値と規定する様に、しかし使用価値ではないモノとして内在するモノを価値と規定するのです。リンネルの使用価値は、その材質によって上着として裁縫されると言う様に成立しているのであり、その有用性は、相手の所有になっていても、別に変化がある訳ではないのです。有用であるモノは使用される事で、実現されると言う事です。その有用であるモノを私が使用するにしても、他人のモノ自分のモノに関係なくその有用性は明らかになるが、自分のモノはそのまま使用できるが、他者のモノは、まず自分のモノにした後に使用すると言う事なのです。その自分のモノにする特定のあり方をここでは、<交換>と言うのです。その交換を(1)の式として表しているのです。自分のモノにも相手のモノにも、内在している両者に共通性があると言う事が分かるのです。その共通性のモノを、さしあたって<価値>と命名するのです。つまり、他者の使用価値ある所有物と私の使用価値ある所有物を、相互に交換すると言う事実を分析して得た、そこに成立している構造の認識が成立したものなのです。そしてその知識を(1)の様に表しているのです。当然(1)の式にも欠点があり、20エレのリンネルと一着の上着とが交換関係を形成していると言う、別々の使用価値のモノが、20エレと一着と言う別々の数量単位で等しいと言う事を示しているが、その数量の等式は同一の質の上で成り立つのであり、20エレのリンネルと一着の上着のそれぞれにあるモノに共通性があると言う事で、その共通性のモノの上で数量の比が成立すると言う事なのです。(1)と言う表現がされる時、そこに表れている両者の違いが、同一の質によって支えられていると言う事であり、その質に付いては、この式では示されていないのです。その質に付いては表現されていないと言う事なのです。それは何故でしょうか。私が所有しているリンネルと彼が所有している上着があり、お互いに相手のモノが欲しいから、交換をすると言う事でしか無いのです。相手の一着の上着を手に入れたら寒さを防ぐのに便利であると言う事になるし、彼も私のリンネルをてに入れれば新しい上着を作ることが出来ると言う事なのです。ただ交換の際相手の一着の上着に対して、こちらが相手の欲しい量としてリンネル20エレを交換すると言う事になるのです。この日常の行為において、私達が実施している交換が、ある客観的な構造の上で成り立っているのであり、私達は欲求に則って行為していても、自分はその欲求を意識しているだけで、行為そのものによって交換の客観的構造になっていると言事なのです。
交換おいて私達の欲求は、交換を動機づけるモノとしてある。上着が無いと体の温度が保たれないのだし体の保温の為に上着が作られていると言う事なのです。その上着が相手の所にあるので、それを自分のモノにするために、窃盗するか、ゆずり受けるか、等価交換するかと言う事になり、そこには私達の欲求と言う主観が振る舞う客観的な場があり、その場の上で主観が働いていると言う事なのです。例えばビルの屋上からの飛び降り自殺は、彼の生きていくと言う希望の喪失から生じた事なのだが、ビルの屋上に上りそこから飛び降りると言う事は、飛び降りた時の運動エネルギーの強さにより、床に体が当たった時に肉体に多大な損傷を与える事が、肉体の死に繋がるからなのです。高い所に生ずる運動エネルギーの大きさと言う客観的構造の上ではじめて成立する飛び降り自殺と言う事なのです。無重力の世界では起こり得ない死亡と言う事なのです。生きる事への希望の喪失は、彼が死のうとする事への動機なのです。そうの様な喪失が無ければ、死ぬ事も無かったと言う意味で、彼の生きる事への喪失と言う主観が動機になると言う事と、高い所を選び飛び降りると言うジャンプの選択は、客観的にある高い位置にある物体のエネルギーの大きさが飛び降りる時に関わる事を体験しているからこそ、選択されると言う事なのです。
客観的にある交換の構造の上で行われているので、お互いに欲しいモノを交渉して数量を決めるのであり、そこで交換が成立すると言う事になります。窃盗はその使用価値だけに視点を向けているのであり、所有している事で成立しているモノを全く無視しているのです。私的所有物であるリンネルが交換の場に来る時、その使用価値とは別の内在するモノとして価値を考えるのであり、その価値によってリンネルと上着が交換関係を形成すると言う事なのです。リンネルと上着が交換関係を形成するのは、両者にそれぞれ内在するモノが共通性としてあるからだと言う事なのです。そこでその共通性のモノを基準にしてリンネルと上着の交換を考えるのです。リンネルの場合交換の場に出ている時、交換相手の上着に内在するモノに等しいとして、20エレのリンネルが提出されるのです。この20エレのリンネルを、上着の価値に対して交換価値と言うのです。上着の方から見れば一着の上着は、リンネルの価値に対して交換価値と言われるのです。両者のそれぞれにある共通性のモノを価値と命名すれば、交換の形態にあっては、リンネルの価値に等しいモノとして一着の上着が交換価値となるのです。リンネルに内在する価値は相手の一着の上着と言う姿として表れていると言う事なのです。価値は、リンネルや上着がその材質による使用価値に対して、その見た目のものとは違ったと言う意味で、内在していると規定しているのです。そのリンネルに内在する価値が、一着の上着と言う使用価値の姿のままで表されるのであり、その内在する規定とその姿のままとの規定が統一されているモノを交換価値というのです。つまり、リンネルの使用価値では無いものであった価値が、一着の上着と言う現物の姿の間まで、表れていると言う事なのです。
私がリンネルを所有し、彼が上着を所有している時、リンネルも上着もその材質によって使用価値なのだが、それが相互に交換しようとする時、相手も私のリンネルがとても有用である事を知っているのであり、相手にその有用なリンネルを渡そうとする時、私は自分の20エレのリンネルに交換価値があると考えるのです。リンネルの使用価値の上で、リンネルは相手にとても有用だと言う事の上で、さらに交換が出来ると言う二つの視点が混合されたとき、リンネルに交換価値があると言う事になるのです.しかしこの混合は、リンネルと上着にある価値に対して、リンネルの価値に等しいモノとして一着の上着自体が交換価値になると言う、価値と交換価値の構造を平面化した所で成立し、交換に入る以前に成立している使用価値に、すでに交換価値を重ねてしまうのです。リンネルの価値が、相手の上着の使用価値の姿として表れている時のその使用価値を交換価値と言うのです。この過程を経験していると始めから使用価値そのモノが交換価値であるかの様に判断されてしまっているのであり、私の所有しているリンネルはとても役立つから、君の上着と交換出来るのだと言う事なのです。リンネルの価値がリンネル自身の使用価値として表れていれば、リンネルの使用価値そのものが交換価値であるから、相手と交換されると言う事になるが、そうではなく交換の場において相手の上着の価値に等しいモノとしての20エレのリンネルになる事で、20エレのリンネル自身が、上着の価値の初めての交換価値となると言う事なのです。
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「単純な価値形態はリンネルの価値を上着でのみ表現する制限された一面的な価値形態である。上着もリンネルもリンネルに対してのみ直接交換可能な個別的等価物である。第一形態は社会的なものとしての価値の概念に対して不充分であるから、リンネルの価値を様々な商品で費用源する全体的価値形態へ移行しなければならない。」
この考え方は、単純から全体への移行に付いての説明であるが、しかし<それは価値の概念に対して不充分である>からと言う事ではない。ヘーゲルの様に概念から出てくるのではない。概念はあくまでも導きの糸であり、現実の各側面を統一的に説明するものとして有るのです。
20エレのリンネル=一枚の上着 と言う形態は、ただ 20エレのリンネル=1000円 と言う形態のまだ未発展な基礎でしかないと言う事は、各商品にすべて価格があり、それが250円とか100円と言う表示としてあり、目的としては、その価格表示が何であるのかを説明する事なのです。この社会で現に生活している者にとって、多様な商品が価格をもっていて、それを貨幣と交換する事、つまり購買して自分のモノにして消費する事は当たり前なのです。各商品に価格があると言う事に対して、<20エレのリンネル=一枚の上着>と言う個別的な形態は、その価格表示の未発達な基礎であると判断され、その基礎の解明がなされると言う事なのです。
この個別的な価値形態に対し、その出所として各商品が価格を持つ事で、例えば一着の上着が、他の多様な色々な数量の商品と交換される事は、一着の上着が、その交換相手の数に合わせた多様な交換価値を持つと言う事になるのであり、それは一着の上着に一つの価値があると言う事と矛盾する様に見えるという事なのです。つまり、多様な商品相互の交換関係を、その商品相互の交換価値として見ると、各商品に価値があるという言い方が、どうもおかしいという事になるのです。ここから価値と交換価値の関連が明らかにされのであるが、そのとりかかりとして
          20エレのリンネル=一枚の上着 
を規定し、二つの商品の間から、価値と交換価値の関連が明らかにするのです。
20エレのリンネルの価値に対して、一着の上着がリンネル価値に等しい、等価形態をとるのであり、その等価形態にある一着の上着を交換価値と呼んでいるのです。「20エレのリンネルが相手の所有になるためには、相手の一着の上着が、交換価値である事で、交換が出来る」という言葉になるのです。リンネルは各商品に対して、20エレ分の交換価値を持つ、あるいは10エレ分の交換価値を持つ、あるいは1エレ分の交換価値を持つと言う言い方になるのです。各商品が交換の場にあって、相手の商品の数量に合わせて、自分の数量も決まって来るとき、その数量分のリンネルや上着やお茶の事を、交換価値と言うのです。
つまり、リンネルもお茶もコーヒーも商品である限り、その一つの商品が他の商品の数量との量的比率を形成しているのであり、そこから論理的手続きを経て、価値と交換価値の関係が明らかにされたのであり、その明らかにした手続きとして単純な価値形態としての
20エレのリンネル=一枚の上着 なのです。
20エレのリンネルに対して、上着は<一着>が交換価値であり、逆に一着の上着に対してリンネルは<20エレ>が交換価値になるのです。リンネルも上着も、それぞれ相手に対して自分自身はその数量分で、交換価値になるのです。
相手はその商品を自分の為の使用価値として持っているかもしれないが、私は自分のリンネルを自分のための使用価値として持っているのではないことだけは明らかです。使用価値を実現してしまえば、交換の場にリンネルを持ち込む事はあり得ないのだからです。私は自分のリンネルを相手の上着を手に入れるために持つ手いるのであって、だから私のリンネルは交換価値を持っていると言いうるのです。ただ相手の一着の上着に対して、どのくらいの数量になるかは、相手との交換の場で決まると言う事なのです。一着の上着との交換に20エレ分にもなるのかと驚くかもしれないし5エレ分で済んだと言うかもしれないのです。
価値と交換価値の関係が明らかにされた時、価値の概念が形成されたとしても、しかしその概念の中に単純から全体への行こうが繰り込まれていると言う事では有りません。価値の交換価値の分析の対象である価格による商品交換を色々な視点から探求するのです。単純な価値形態は、商品が生まれてきた人類初期の出来事であると言う観点は、発生的検討と言う事であれば、最もらしいがしかしここでの単純な価値形態は、歴史的なモノでなく、例えば物理学おいて等速直線運動と言う解明が、物体相互の働きかけで生まれる運動の複雑化から一気に解明するのでなく、まず働きかけのない一つ一つの物体の運動を捉えることで、<運動>の原理が明らかにされ、その原理が二つの物体の間でどの様に変化するかで、働きかけの内容が明らかになって行くかと言う考え方と同じなのです。つまり、交換の構造が問われるのであり、さらにその構造が多様な商品の交換となった時の現れ方を明らかにすると言う事です。

     20エレのリンネル=一着の上着
     10ポンドのコーヒー=1キロのミカン
     40ポンドのお茶=10冊のノート
     2オンスの金=2枚のCD
と言うそれぞれの個別の間に成り立っている単純な価値形態は、みな同じ構造となっているのです。
これは、「20エレのリンネル=一枚の上着」が、使用価値としての別々の違いにあって第三のモノが共通性となることから、その<共通性ある第三のモノ>を価値と呼ぶ−−リンネルに有るモノ上着に有るモノ、それらが共通性があると言う事でない限り、価値にはならないのであり、のに対して、さらに左右にあるモノの役割の違いを示しているのです。左辺の商品の価値に対して、右辺がその価値の等価形態と言う交換関係として成立しているのです。
二人の男がいて、彼等が兄弟の関係に有る事で彼等が同一の両親を持つと言う第三者と言う共通性の観点では、二人は平等な存在として捉えられているが、さらに一方が兄で他方が弟と言う別々の役割として有るという観点が得られているのです。
交換もリンネルと上着の間での交換であり、両者が交換関係を成り立たせるそれぞれにあるモノが共通性を持つ事なのです。両者はリンネルと上着と言う別々の使用価値としてあり、さらにそれらに<共通性あるもの>が有る事で、関係から見れば、両者は同一性として成立する事になります。この同一性は、私と相手が、それぞれ自分の所有物を相手の所有物と交換するのであり、別々の使用価値を入れ替えるだけであり、両者には天秤の上のリンネルと上着と言う平等性と言う事なのです。これが価値の本質論です。そこでその本質論を介して、再度交換を考えるのです。
リンネルの所有者たる私にとって自分のリンネルの使用価値は、自分が実現すれば、それはリンネルを裁縫した事になり、衣服とか布団カバーなどに作り替えてしまうのです。つまり、リンネルを他者の上着と交換すると言う事が出来なくなるのです。リンネルの使用価値は、あくまでも他者が実現する為にあり、私は他者の上着の使用価値を実現したいのであり、今回の場合私と他者が欲求が一致して、交換を実現したのです。 「リンネルと上着は、共通の価値により交換関係が成立している」とは、実体として両者に抽象的人間的労働が投下されているのであり、その実体により形成される両者の関係を価値と表現した場合、リンネルに内在する価値とは、まだ実体としての投下された労働のレベルであり、その実体が交換関係に入る事で、初めて<価値>と言う事になったのです。
リンネルと上着が、交換関係にはいるから、共通性が出来るのか、二つに共通性があるから交換関係がせいりつするのかと言う思考は、現実にある交換に対する構造の分析から、関係と実体と言う構造が得られている事を、原因と結果の様な発生の思考で考えていることなのです。 これを
     20エレのリンネル=一着の上着
     20エレのリンネル=10ポンドのコーヒー
     20エレのリンネル=40ポンドのお茶
     20エレのリンネル=2オンスの金
と言う様に、特定の商品から見るのは、リンネル所有者の観点と言う事であり
     20エレのリンネル=一枚の上着、がリンネル所有者の観点として、自分のリンネルの使用価値は、相手が実現するものであり、私は価値を実現するのです。つまり、私のリンネルは私にとって交換の為に存在すると言う事なのです。相手が私に黙ってリンネルを持ち出しても、その使用価値を実現はできるのであり、使用価値の実現と言う事だけで有れば、それはあり得るが、しかしそのリンネルを所有している私には、たまったモノではないのであり、私にも相手の所有の上着を手に入れない限り、どうしようもないのです。そこに交換によって相手の上着を手に入れてその使用価値を実現するのです。身体の保温として使用するのです。その私のリンネルに対して、私が要求するものが多様になれば、それらとの交換にリンネルを提出する事は、一つの場合でも同じであり、それが上記の図式になるのです。リンネルの価値は、その価値の等価形態にある一着の上着、10ポンドのコーヒー、40ポンドのお茶等で表されるのです。
価値関係を鏡の比喩で語るとき、リンネルの交換相手の<上着、コーヒー、お茶、金等>がガラス材質の鏡と言う事です。そこで各鏡を前にしてたリンネルに対して、その価値と言う側面が映し出されるのです。それは鏡の前に立つ物体としての生きている私に対して、光りを介した光学的像が鏡に反射するのであり、そこに反射してくるモノが、私の姿が映っていると言う事になるのです。つまり鏡の前にいる生きた私の存在と鏡の写っている像との関係は、生きた私の存在に対して、それから反射してきた光がガラス材質の鏡に反射しているモノと言う事なのです。
リンネル存在はその使用価値と言う事であり、その使用価値リンネルは、自らの価値を交換関係にある相手の使用価値である「上着、お茶、コーヒー、金」<鏡>に対して、交換による反射で、一着の上着、10ポンドのコーヒーと言う姿として、映し出されているのです。
ガラスと言う材質である鏡とその前に立っている生きた身体としての私の存在は、同じ物体としての存在であるが、その私の存在に反射した光りが、鏡に反射している時、その反射として光学的像が成立するのです。私の存在とその存在から反射してくる光りの関係を一体化すると、私の存在が鏡と言う物体の中に入り込んで行く事になってしまうのであり、両者を関係として捉えていればその存在の光りの反射する側面が、光りを介して鏡に反射して像となるのです。
私の存在の回りにある沢山の物体は、光りを反射する限り全て鏡になり、私の存在の光りの反射を再度反射している。家の壁も部屋のカーテンも、私からの光りの反射が再度そこで反射していればそこに、私の存在の光りの像が成立しているのだが、カーテンや壁は、私からの光りの反射が、壁やカーテンとして反射している為に、映されているモノと映しているモノとの区別が出来ていないのです。私の存在の<原物>が、カーテンや壁に対して、反射して壁やカーテンとして映っているのです。ガラス質の物体も壁もカーテンも、私の存在の原物が光りの反射としている事には変わりがないが、ただ再度の反射としては、壁やカーテンに対して、ガラス質のモノは、反射率100%で有る事が、ガラス質に原物の像として映し出されているのです。
光りの反射構造を考えるのであり、壁やカーテンとガラス材質との違いは、ただ反射率の問題だけであるのです。その光りも、身体の表面に反射してしまうが、レントゲンは身体の内部にはいって反射するので、内蔵や骨が像として映し出されるのです。
リンネルの価値が、交換において一着の上着に、上着の現物として反射している事に対して、ガラス材質の鏡のように、特定の材質に反射しているとき、前者が鏡と呼ばれるなら、後者は貨幣と呼ばれると言う事なのです。鏡の映っている像は、鏡の存在が後ろに引き下がり、反射している像が表れる為に、現物とその像と言う対比が成立するのです。貨幣もリンネルの価値が反射しているのであり、貨幣を構成している紙や金や銀と言う存在は後ろに隠れ、リンネルの原物としての価値とそれらに映し出されているモノの区別がハッキリしてきたのです。リンネルと上着の場合、上着と言う現物体が、リンネルの価値の表れているモノとなり、使用価値としての上着と価値を表す上着との区別が立てられないのです。
交換における価値鏡と言う比喩はリンネル存在が使用価値と言うあり方であり、その使用価値リンネルが、交換にあって、相手の使用価値一着の上着を鏡とすると言う事です。その上着鏡に向かって、使用価値リンネルから反射してくる価値が、反射したとき、上着鏡に反射している像は、一着の上着と言う姿なのです。この上着鏡に映し出されているリンネルの価値は、一着の上着と言う姿と言う事なのです。一着の上着は、その生まれたままの姿でありながら、交換の場では、相手の価値を映し出している鏡であるとともに、その鏡に写っている像でも有るのです。ガラスの鏡が、鏡自体と映し出されている像の区別が出来ているのに対して、リンネルと上着の間の価値鏡は、上着鏡と言う自体とそこに映し出されているモノとは、区別が出来ていないのです。
私が鏡の前に立つ時、そこに映し出されている像は、この私の存在の何が映し出されているのかと言う事になります。この私が映し出されていると言う事であるが、しかしこの私の何が映し出されているのかと言う事なのです。それはこの肉体としての存在に対して光りの反射が再度鏡に反射する事であり、光りの反射がもたらすモノと言う事になる。この肉体の存在に対して、何が映し出されるのかと言う問は、現に映し出されている像を分析する事で答えが出るのです。特定の波長の光りに反射してくるモノが、現に鏡に映し出されているのであり、例えばレントゲンと言う別の波長の電磁波で有れば、その電磁波の反射は、身体の内部を、印画紙に像として映し出されると言う事なのです。この生きたへ身体と鏡の像とは、光りによる反射が媒介するのであり、その像が何であるかは、光りの反射を問う事になるのです。私の何が映し出されるのかは、その媒介たる<光り>が何を伝達しているのかを問う事であり、伝達の結果としての鏡の反射像を問う事になるのです。私の存在の何が映し出されるかと言う問は、何が媒介し、何に映し出されるかと言う過程の問なのです。
一着の上着は、鏡自身である−−使用価値としての上着と言う事です−−と共に、映し出されている像−−リンネルの価値が映し出されている−−でも有るのです。私達の前にあるガラス材質の鏡の様に、鏡と映し出されている像が区別されているもので有れば鏡とそこに映し出されている像を区別して、像のもとである現物を探す事が出来るが、価値鏡の場合には、リンネルの価値は、一着の上着と言う材質の鏡に、一着の上着と言う姿として映し出されていて、映し出す材質である一着の上着と映し出されている像としての一着の上着との区別が出来ないのです。リンネル価値の像としての一着の上着とリンネルのまえにあるガラス材質の鏡としての一着の上着と言う区別なのです。像としての一着の上着は、あくまでも交換関係にあるリンネルの価値と言う側面が映し出されているのであるが、しかし交換関係に入る以前から存在する一着の上着と言う使用価値の存在と区別されないのであるから、鏡としての性格を持って生まれているかの様に短絡されてしまうのです。この短絡は、何処から生ずるのかと言えば、リンネルや上着を作り出す人間同士の関係から生ずるのです。私がリンネルを生産し、彼が上着を生産しているのだが、その両者が全く別々に生きていれば問題ないが、相互に関わらないと生きていけないのであり、そこから自分たちの生産したモノと相手の生産したモノとの交換を実施するのであり、その実施に際して交換の法則が働くと言う事なのです。リンネルの<価値>と言う時、リンネルの使用価値に占領されてしまいそうであるが、しかし価値の場合、その使用価値ではないと言う所に有るので、リンネルの価値が映し出されている と言う事は
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B:全体的な価値形態
  20エレのリンネル=一着の上着 及び一着の上着=10ポンドのコーヒー 及び10
  ポンドのコーヒー=40ポンドのお茶 及び40ポンドのお茶=20エレのリンネル
  この関連は
     20エレのリンネル=一着の上着
     20エレのリンネル=10ポンドのコーヒー
     20エレのリンネル=40ポンドのお茶
     20エレのリンネル=2オンスの金
の様に商品のなかの一つを取り上げて、個別化されていた交換を、両者の数量比と言う関係で捉え直す事で、上着を取ってみても、コーヒー、お茶、リンネルを取ってみても、その数量比の内容が変わるだけで、数量比による相互関係が成立するのです。取り上げられた一つの商品は、これと言う特定性があるのでなく、そこにある商品のどれにとっても成立する関係です。
一着の上着を所有している者にとって、相手の20エレのリンネルが使用価値として有用に思えるから、その使用価値を実現するのに、まず彼からもらわなくてはならないのであり、ただ交換としてが欲しいと思う時その20エレのリンネルの価値に等価である自分の一着の上着を提出するのです。リンネルの価値は、その価値に等価な一着の上着で表すと言うのです。そしてコーヒーもお茶も金も皆その姿のまま、リンネルの価値を表していると言う事なのです。
この説明を鏡の比喩で言えば、リンネルを囲んで、上着鏡、お茶鏡、コーヒー鏡があり、その鏡にリンネルが映し出されるのだが、しかしリンネルそのままが映し出されるのでなく、あくまでもリンネルの<価値>と言う原型がその鏡に映し出され、一着の上着と言う像、10ポンドのお茶と言う像、40ポンドのコーヒーと言う像、2オンスの金と言う像として写っているのです。それは私達にとって、鏡に顔を映そうとする時、この身体の存在(リンネル存在)にたいして、その身体から光りとして反射してくるモノ(価値)が、鏡に反射して、<顔の像(一着の上着)>として知覚されるのです。鏡の写っているモノが、自分の顔の<像>であるのは私の顔の存在から反射して来ている光りが鏡に再度反射している空です。その鏡に反射している光りを目が視知覚する事で、鏡と言う物体に像としての顔を知覚するのです。顔と言う存在とそこから反射してきている光りが鏡に反射している時、反射しているモノを<顔の像>と言うのです。
ここで顔がそのまま鏡の中に入って行くと考えると、それは顔と言う存在が、実体のまま鏡の中に入ってしまうと言う事であり、入ってしまえば、顔という存在は無くなってしまうと言う事なのです。これを実体論的思考と言うのです。しかし顔と言う存在と鏡の像とは、光りの反射に依って関係していると言う事なのです。関係であるから、顔が鏡の中に入っていくとしても、光りの反射として鏡に反射しているのであり、その反射の所に<顔の像>を視知覚するのです。
さてリンネルが、上着鏡、お茶鏡、コーヒー鏡、金鏡に写し出される時、リンネルは、その価値が映し出されるのであり、映し出された像は、リンネルが映し出されているのではなく、あくまでも上着として、お茶として、コーヒーとして、金として映し出されているのです。リンネルの価値と言う側面が交換反射によって、上着に上着姿として、金に金姿として、お茶にお茶姿として写っているのです。交換で所有を変えるのは、あくまでもリンネルや上着と言う現物であるが、その内的構造としては、リンネルや上着やお茶や金の価値が、相手の使用価値と言う姿として現れていると言う事なのです。リンネルや上着の所有の移動は、両者が商品として持っている構造の現象なのです。鏡の比喩は、この構造を説明するものなのです。
どの生産物も交換の場に合っては、自らの価値をたの生産物の使用価値の姿で表しているのであり自分の使用価値の姿以外が、皆価値の姿となっているのです。これはリンネル以外の他の生産物はその使用価値があるから、リンネルと交換されると言う事を言っているのです。リンネルこそが唯一使用価値を発揮していない存在なのです。リンネル所有者がリンネルの使用価値を実現してしまえば。それは交換の場に出る事は無いと言う事なのです。


C:一般的な価値形態
     一着の上着
     10ポンドの茶     =20エレのリンネル
     2オンスの金
一般的価値形態にあっては<一着の上着、2オンスの金、10ポンドのお茶、40ポンドコーヒー>のそれぞれは、20エレのリンネルの使用価値に見合ったモノを交換価値として持っているのです。
再度鏡の比喩を使うと、リンネルと言う鏡があり、その回りに上着、お茶、コーヒー、金があるのです。その回りにある上着の価値が、お茶の価値が、コーヒー価値が、金価値が、リンネル鏡に反射して、リンネル姿で写っているのです。お茶、コーヒー、金、上着と言う別々の使用価値であるモノの価値が、リンネル姿と言う同一体として表されるのです。つまり、交換関係にあってそれぞれに内在する共通なモノを<価値>と言う言葉で表すと、まだ交換と言う現場では、二つのそれぞれの使用価値のモノが、所有を変えていると言う事だけであるのに、その交換の場にある生産物にあるらしい価値と言うモノを予想するのです。全体的価値形態の段階では、一つの生産物の価値は多様な他の生産物の姿としてあるのに対し、一般的価値形態では、多様な生産物のそれぞれに内在する価値が、一つのリンネルと言う姿として、現れていると言う事なのです。多様な生産物は唯一の生産物であるリンネルと唯一交換出来ると言う事なのです。

D:貨幣形態
     20エレのノリンネル
     一着の上着
     10ポンドの茶      =2オンスの金
     40ポンドのコーヒー
形態Dにあってはリンネルも上着も茶もそれぞれの価値を、同一種類の商品である金によって、又 <量的には>同一の大きさの金2オンスとして、統一的に表現している。金2オンスは、ここでは他のどの商品にとってもそれぞれに内在する不可視的内在価値の現象・具現形態である。
唯一の交換できるモノとして金があり、その金の特定の数量を貨幣呼称の基準にした時、初めて円とかドルとか元と言う貨幣になったのです。

いまここに10個の生産物があるとする。それは暖をとったり食欲にしたり歩いたり昇ったり飾ったりするモノとして使われるのです。それを<ABCDEFGHIJ>とする。それらが相互に交換される場面を考える。
1A=2B,3B=4C,2C=7D,3D=1E,3E=5F,6F=1G,2G=3H,3H=2I,10I=9J等
単純な価値形態にあっては、交換される両辺は、自分の数量と相手の数量で交換が見合うと言う事なのです。例えばAの数量10でなければ、Gの数量1に見合わないと言う事になるのです。つまりそれぞれの生産物が他者と交換される時、自己の数量と他者の数量とがそれぞれの数量比として交換されると言う事となのです。そこでは二つの生産物の組み合わせは任意であり、そこにある生産物の数だけの組み合わせがあるのです。ここではまだ自己の数と他者の数がその数量比を構成していると言うだけなのです。1A=2B,3A
全体的価値形態では、任意の生産物Aに視点を移し、他の生産物との数量比を構成するのです。A数量1がB数量2とC数量3とD数量4とE数量5とF数量6とG数量7とH数量8とI数量9とJ数量10と交換される事は、BにもCにもDにもその視点は移せるのである。しかしこの段階では生産物Aの数量は、他の生産物BCDEの数量によっまちまちなのです。
一般的な価値形態では、生産物Aが関係する他の生産物との数量比において、生産物Aの数量を一定Xとする事で、生産物Aの数量Xで関係する他の生産物の数量が約されるのです。他の生産物のそれぞれの数量は、生産物Aの一定の数量Xと関係する事で、それぞれの数量において同一であると言う結果をえるのです。つまり生産物Aの数量Xを介して他のそれぞれの数量の生産物が同等になるのです。

そこでもう一度単純な価値形態を考えるのです。20エレのリンネル=一着の上着 と言う等式はリンネルと上着と言う使用形態の違う物が、等しい関係を結ぶと言う事を表しているのです。両者が質として同一であるからこそ、量としての比較がなされるのです。使用形態としては別々のモノであるモノに対して、仮にその質的同等性を<価値>とすると、価値と言う両者のどちらにもあるモノを介して、リンネルと上着が、同等関係を結ぶのです。そこでその質的同等性たる<価値>と言う言葉が何を表しているのかと言う事になります。それはリンネルと言う布と上着と言う身体の保温をするモノと言う別々の形態に対して、それらの違いにも関わらず同一であるモノと言う事になります。それが私達の労働の産物と言う事です。人間の労働の投下されさされたものと言う事なのです。自生しているモノを食べるにしてもそれを取ると言う活動がなければ成らず、木の所まで歩き、木にのぼり手に取ると言う活動にゆよってはじめて食べることが出来るのです。その私達の活動が、そのモノに投下されたと言う事なのです。それは車を押すとき私達の活動から生まれる力が手を通して車に伝わり、静止していた車が動くと言う事で表されている、身体活動から生まれる力が手を伝わって車に移ると言う事なのです。つまり、これは自然の現象であり、物理学の中でエネルギー不変の法則と呼ばれているモノであり、私達の身体運動が創り出す力は、他のモノに伝達してたそのモノを運動させると言う事なのです。人間の場合のその身体活動たる自然運動は、自己の生命を維持すると言う目的の達成にあり、私達はそれを労働と呼ぶのです。私達の回りにある自然の事物はその材質によって相互に関わるモノとしてある。食べ物としてあるものは、高い所にあり、梯子と言う道具を使い、はさみと言う道具で切り取り手元に持ってくるのです。それらは相互の関係により私達の活動を媒介するものなのです。それらを私達の活動から規定する時、労働の投下された生産物と言うのです。労働によって生まれる労働力と言う実体が物に加わる事で、その形を変えたり、場所を移動したりすると言う事なのです。その労働力と言う実体を創り出す労働と実体としての労働力のくわえられた物が、単に自然物と言うことばかりでなく、私達の生命を維持するものとして労働生産物と言う事なのです。石とか樹木とか水、雲、鉄等は自然の物質であるが、それらの材質によって私達の生命を維持するモノとなり、私達の身体活動によって働きかけられるモノは、そのモノに身体活動で創り出されるエネルギーが加えられる事で、働きかけの結果が出てくるのであり、その結果が私達の生命維持の媒介になると言う事で、単に自然物ではない人間の労働の生産物と言うことになるのです。
さて、単純な価値形態である<20エレのリンネル=一着の上着>とは、20エレの大きさの織り布リンネルと上着一着とが交換と言う関係を形成しているのです。リンネル所有者は自分のリンネル20エレを、仕立て屋の作った上着一着と交換するのであり、このとき両者に同等性として内在している「価値」が、リンネルにおいては20エレ数量としての交換価値として表れ、それが一着の上着の使用価値と見合っていると言う事なのです。仕立て屋の方から言えば、上着に内在する「価値」は、一着と言う数量としての交換価値として表れ、それが20エレのリンネルの使用価値と見合っている事なのです。
その等式は、リンネルと上着という別々のモノが、両者に内在する価値で、同等性を結ぶのであるが、これを相互の交換で見れば、私が彼の所有物を自己のモノにするには20エレの数量が一着の上着に見合っているから、交換するのです。私にとってかれの上着はとても有効なモノになり得るのであり、その有効な使用価値である上着一着と私のリンネル20エレが交換されるのです。私にとってリンネルの使用価値は、私が実現すればそれで完結してしまい、交換で他者に手渡すと言うことが出来なくなるのです。私のリンネルはその性質として有用性があるにしても、けっして私の使用されるものでは無いのです。私のリンネルの使用価値は、あくまでも彼に対してであるが、ただ彼の所有になっていないので、使用価値の実現の前にまず交換がなされる事が必要なのです。そこで<交換がなされる>時、リンネルと上着は、20対1の比率で交換され、リンネルに内在する価値がその比率での交換価値として表れているのです。
つまり私の所有しているリンネルには、その材質から来るが、しかし他者のための使用価値と交換関係にある両者の、等価であるための同一性としての<価値>があるのです。この規定はしかしその材質による使用価値は、全く自然のあり方でどんな時代でも成り立っているのです。しかしそこに内在している価値は、交換関係が成り立っている事に対して、その構造として捉えたものなのです。交換が成立していて、リンネルや上着やコーヒーの生産が、交換を前提になされていると言う事を示しているのです。その交換の場の成熟の上での生産なのです。このような場の成熟の上で初めて、生産物は、その材質による使用価値と交換としてあらわれる価値があると言う事なのです。交換の場にある生産物の事を商品と言い、さらに交換の場に持ち込む為に生産する生産物を商品のの生産と言うのです。
私はそのデザインとか形とか着心地等で欲しいと思っている彼の所有している一着の上着と、今私が所有しているリンネルとを交換する場合、私の方は20エレの数量で、その一着の上着が手に入ると言う事です。もし私に10エレの数量しか無ければ、その交換は不成立に成るのです。両者の交換と言う同等性を形成する両者に内在する−−外的にはまさにリンネルと上着と言う見た目にも別々の形態のものとしてあります−−モノを価値と命名すれば、リンネルに内在する価値は、20エレの数量のリンネルと一着の上着の、その数量比としての交換価値として表れるのです。
両者を交換関係として見れば、別々の形態の両者のそれぞれに内在するモノの同等性によって成立していると言う図式です。両者が「=」によって等しいと表されている時、左右の別々の違ったモノが、その内在するモノによって等しいと言う事なのです。関係と言う概念で理解すれば、この様になるのだが、その概念に依って得た内在するモノとしての「価値」が、この関係から導き出されるのです。さて交換と言う関係を再度現場で考えると、交換とは、私が持っているモノと彼の持っているモノとをその所有を変更する事です。所有しているモノ同士で見ればその所有を変更する事であるが、しかし元々交換すると言う事は、私が自分の持っているモノをその性質から役に立ててしまえば、有用なモノとして消費されてしまうのです。しかし私は自分のモノを消費せずに、彼のモノを手に入れて消費したいと言う事なのです。私が持っているモノは、彼のモノを手に入れるための交換手段として使われるだけです。しかし私の持っているモノは、確かに私にとっては交換の手段であるが、そのモノが彼から見れば有用なモノであるからこそ、当初の交換が始まろうとしているのであり、だから私のモノは、私にとっては交換手段だが、同時に彼にとっての使用に有効なものであると言う事なのです。私のモノも彼のモノも使用価値を持つのです。両者のモノはその材質から使用に有効なモノとして使用価値である事が前提であり、その上で私も彼も自分のモノを交換手段として使うのです。交換とは、私の欲しいモノは向こうにあり、彼の欲しいモノはここにあるので、お互いに自分の欲しいモノを自分のモノにするためには、向こうのモノをこちらに、こちらのモノを向こうに移動する事なのです。彼のモノがどんなに多様な使用価値があっても、こちら側に交換により移動しなければ、その使用価値は実現されないのです。その使用価値を絶えず前面に出しながら、同時に自分のモノを交換の手段として使う事が、20エレと言う数量と一着と言う数量として表れていると言う事です。
交換を前提に生産された生産物を商品と名付ければ、交換関係にある商品を同等とさせる同一性を価値と言い、その商品に内在する価値は、相手の商品の使用価値との数量比、つまり交換価値として表れるのです。交換の関係にある形態の違いの両者には、関係を形成している実体としての共通性があり、その共通性をそれぞれが持つ時、それぞれが持つモノを<価値>と言葉にすれば、と言う事はそれぞれに使用価値としてある事とは別に<価値>があるのです。私は、相手の一着の上着が欲しいのであり、だから相手に<対して>自分の持つリンネルを20エレ提出すれば、それは相手の一着分にある<価値>と同じになり、私の方から言えばそれで交換が成立したと言う事なのです。私のリンネルは彼にとって使用価値の実現が出来るモノ、つまり布として有用であるよと言う事だけなら無料で譲渡しても良いのだが、それが出来ないから、相互に交換を、それもリンネルと上着と言う用途の違うモノ同士が、同一の価値あるモノとして交換されるのです。ただしこの説明は、リンネルと上着とがれぞれの用途としてある事が、全く考慮されない説明なのです。交換を関係概念だけで捉えると、両者を高見から見おろす事になり、両者に共通するものだけに眼が奪われてしまい、共通性として<価値>だけが表に浮かび上がるのです。つまり、リンネルの布としての用途と上着の着用による保温性と言う使用価値が、思考の抽象で隅に追いやられてしまい、ただその共通性だけが、思考の表舞台に立つのです。ただし関係概念で捉えた交換におけるリンネルと上着に内在する<価値>は、それが現実の交換の場でどの様な構造を持つかを考える事で、高見から見おろす利点が出て来るのです。交換を関係概念で捉えると、両者に価値という共通性が姿を現すのであり、その姿がつぎの思考の段階に役立つのです。それが内在する<価値>が、どの様に表れているかと言う思考に成るのです。つまり、関係概念でとらえた両者に共通する<価値>と言う規定が、ここで記述されるのです。
では、関係概念にあって思考上抽象されて捨象された用途の側面は、どの様にいき続けるのかと言う事に成ります。それは交換の場において、リンネルの使用価値は、相手にとっての使用価値であり、私にとっては相手の上着が使用価値としてあるのです。私は相手の使用価値である上着が欲しいのであり、その上着一着が持つ価値に見合ったモノとして、私のリンネルを20エレ分提出するのです。リンネルの価値は、あいての一着の上着に見合った20エレ分として提出されたその数量比として交換価値として表されたのです。価値はそれぞれに内在しているが、交換の場ではその価値が、数量比と言う交換価値としてその間に表れているのです。関係概念では関係の両端に共通なるモノとして、それぞれ内在する価値を規定しているが、その価値が、交換の場では交換される両者の数量比として表れているのです。両者の間に表れているのです。
上着一着と言う数量単位は、私の欲しいモノとしての単位であり、一家四人であれば、一家四人分の上着が欲しいと言う事に成ります。一家として必要に促された数量なのです。それに対して私がもつリンネルの数量は、上着一着が持つ価値に見合った、リンネルの価値を表す数量なのです。20エレと言う数量は、単に数字上の数量であると言う事でなく、ましてや一家に必要な数量でもなく、上着一着の数量の価値に見合った、リンネルの価値を表す数量なのです。上着一着と言う数量は、使用価値として必要な数量であるが、リンネル20エレと言う数量は上着一着の価値に見合ったリンネルの価値を表した数量なのです。20エレのリンネルとは、上着一着の価値を表している姿なのです。リンネルは単独に20エレと言う数量が成り立つとしても、それがリンネルに内在している自分の価値を表していると言う事では無いのです。交換を関係概念で捉えた時、それぞれに内在する<価値>を規定したのであり、関係を抜きに単独に内在する価値を考えては成らないのです。交換関係にある私の商品に内在する価値を、私が欲しいと思っている商品の使用価値の数量にみあったものとしてある−−私は相手の持っているモノの一着の上着が欲しいのです−−私の商品の数量で表しているのです。交換関係にある各生産物は、商品として価値と使用価値を持っているのであり、私の商品の価値は、相手の商品の特定の数量(Y)に見あった、私の商品の数量(X)として表れているのです。この私の商品の数量(X)を、交換価値と言うのです。私の商品リンネルがX量が交換価値だから相手の商品上着Y量と交換できるのだと言う説明の仕方になるのです。相手の商品上着のY量は、私が欲しい量の上着と言う事であり、欲しい量の上着に見合ったモノとして私の商品リンネルの量Xが決まってくるのです。この<見合っている>と言う事を交換関係における商品に内在する価値と言うのです。生産物を商品として交換する事があり、その交換を生産物同士の関係と規定すると−−この関係にある各生産物を商品というのです−−商品と規定された生産物には、生産物本来の使用価値と交換関係を形成する実体としての価値があるのです。交換関係にある特定の数量の各商品は、自分のものに必要な、相手の生産物の数量(Y)に対して、それに見合う生産物の数量(X)を対置させるのであり、その対置させた数量(X)の生産物は、商品に内在している実体としての価値の表現形態となるのです。この価値の表現形態を交換価値と言うのです。だから「私は交換価値としての数量(X)の商品を持っている」と言う言い方は、交換以前のその数量<X>の商品が交換価値だと結論している事なのです。しかしそうでは無い。交換以前の数量(X)のリンネルが、そのまま交換価値なのではない。私がほしい相手の生産物の数量に対して、その数量(Y)の商品の価値に見合った価値を表す数量(X)を対置するのです。ここで初めて数量(X)の商品は、自分のほしいと言った数量ではなく、価値を表現する数量と成るのです。ただし価値を表す数量であっても、相手から見れば相手の必要な数量であるのです。価値を表現する数量(X)の商品であるからこそ、交換価値と言うのです。ここには数量(X)の生産物が二度使われていて、単に自分たちの生活に必要な数量の生産物と、交換関係に入っている数量(X)の生産物と言う事で、後者を商品というのです。
この資本主義社会にあっては、労働の諸産物は、自家用でない限り、交換の場に出すことを目的に生産されているのであり、それは商品として生産されるのです。私達が生産物を商品と言うのはその様な社会のなかの出来事であるが、ただし商品であるからと言っても、交換の場で交換が成立するかどうかは決まっていないのです。

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単純な価値形態にある生産物の数量は、交換する所有者の必要から生まれるのです。お互いに相手の持つ商品の数量が、欲しいのであり、それを自分の手に入れるのに、相手の数量に見合った価値である自分の所有物の数量が決まってくるのです。ただここでは、私の所有する商品の数量は、私がほしい相手の商品の数量の価値と見合った価値をもつ数量であるはずなのに、その数量が相手の欲しい数量であるかどうかは、決まらないのです。
私は今、二匹の魚が欲しいだけであり、その二匹の魚の価値にみあった数量の野菜を提出すればいいと思っていたが、しかし相手がほしい数量がもっと多いのであれば、交換の妥協点が付かなくなるのです。つまり、単純な価値形態にあっては、私が欲しいあいての商品の数量(X)に見合った私の商品の数量(Y)は、相手が欲しがる私の商品の数量(Z)と合わないことなのです。それは欲しい数量と価値を表す数量の違いと言う事なのです。では価値をあらわす商品の数量(X)と相手が欲しい商品の数量(Z)とを合わせる方法は何かと言う事になります。

     20エレのリンネル=一着の上着
     20エレのリンネル=10ポンドのコーヒー
     20エレのリンネル=40ポンドのお茶
     20エレのリンネル=2オンスの金
 全体的価値形態では、リンネルの所有者が上着を一着、コーヒー10ポンド、お茶40ポンド、金2オンスを欲しくて所有者から手に入れる時、やはりそれらの数量の生産物の価値に見合う、自分のリンネルの価値を、20エレを交換に提出するのです。−−ここには、相手が私の所有のリンネルを欲しいと言う事が当然に成っている事が前提で、相手が欲しがらなければ交換そのモノが成り立たないと言う事です。単純な価値形態では、この交換が個別の生産物だけの間に成り立っているだけだが、諸生産物の品種が多くなれば、交換は相互性を持つ事になるのです−−20エレのリンネルは、交換の対象である、それらの生産物に対して交換価値として表れているのです。単純な価値形態で20エレのリンネルが交換価値として表れる時それは同時に相手の欲しい数量と合致しているのであるが、ただ相手の欲しい数量に併せて、10エレのリンネルが交換価値になったり、30エレのリンネルが交換価値になったりするのです。しかし全体的価値形態では私が欲しい相手の数量を、こちらの所持している生産物の価値の表現形態である交換価値の数量に合わせるのです。私は本当は20ポンドのコーヒーが欲しいが、私の持っている20エレのリンネルに合わせて、10ポンドのコーヒーを手にいれるのです。もう10ポンドを手に入れるためには、あと20エレのリンネルを手に入れておく必要に成るのです。つまり、全体的価値形態では、自身の価値を表す交換価値の数量が、私の欲しい相手の生産物の数量を規定するのです。私は自分の所有する生産物を、価値を表すために生産すると言う方向に向かうのです。と言う事は、他者の為の使用価値を生産するのです。私が欲しいと思っている相手の生産物の数量が、自分の価値の表現形態である交換価値である私の生産物の数量によって決定されてくるのです。単に欲しいだけの数量ではなく、私が所有している生産物の価値の表現形態である交換価値の数量で決まってくるのです。

 一般的価値形態では、次の様に成ります。全体的価値形態が、リンネル生産物の所有から見た場合に、自らの内在する価値を、相手の使用価値の数量に見合った交換価値として自らの使用価値の数量で表現しているのに対して、相手側の諸生産物の方から見た場合、コーヒー、お茶、上着、金等に内在する価値は、リンネルの20エレの数量に内在する価値に見合った、自らの使用価値の数量として表されるのです。上着は自らに内在する価値を、リンネル20エレと言う使用価値に関わる事で、一着として表すのです。コーヒーも又その価値を、リンネル20エレと言う数量に表れている価値に見合った、10ポンドという数量で表しているのです。上着もお茶もコーヒーも金も皆20エレのリンネル使用価値に関わる事で、自らの価値を自らの使用価値の数量として表すのです。この表れ方を私達が思考する時、現れである自らの使用価値の数量が、もともとある数量として交換価値だと結論されてしまったのです。私の所有しているリンネル20エレが交換価値だから、あいての一着の上着と交換されるのだと言う事になってしまったのです。もともとある数量がそのまま交換価値ではないのです。それが相手の使用価値と交換される事で、あいての使用価値と引き替えられる事で、その使用価値に見合った価値として自らの使用価値で表すと言う事なのです。相手の使用価値との関係が、自らの使用価値を、価値の表現形態とするのです。関係が成立しなければ交換価値にも成らずに使用価値の実現と言う事で完了してしまうが、リンネルは裁縫されてそれで役目を終えるが、交換関係に入れば、その関係を形成する価値の表現形態としての使用価値と言う役割を果たすのです。そのリンネルが交換された後に使用価値として実現されるのかどうかは、相手の問題と言う事なのです。
何故交換されるのかと言う事は、諸物の生産が全く私的なモノとしてあるので、その生産物が他者の手に渡るには、無断で移動するか、譲渡により移動するか、相互に移動するかによるのです。相互に移動する場合には、移動する相互の生産物の間に生ずる構造が明らかにされなければ成らないのです。
諸生産物が相互に価値として関係する。例えば、上着がリンネル20エレに関係する事で、上着の価値は、リンネル20エレに等価である上着の使用価値の数量で表すのです。一般的価値形態とは、諸生産物が、一つの生産物の使用価値に関係する事で、自らに内在している価値を、自らの使用価値の数量で表すのです。相手は、自分の使用価値と引き替えに私の使用価値を交換するのだが、それは同時に価値の表現形態に成ったものを手に入れたと言う事なのです。
貨幣形態とは、20エレのリンネルが、布としてのリンネルでありながら、その数量で他の生産物と関係する事で、他の生産物が自らの価値を自らの使用価値の数量として表す時のリンネルのあり方を言うのです。上着が一着として、20エレのリンネルに関わる事で、一着が上着の価値の表現形態であると共に20エレのリンネルに相当すると言う事になるのです。このリンネルの代わりに金を使用すれば、上着は自らの価値を、一着の上着として表し、その一着の上着が、同時に金1オンスに相当すのです。金1オンスは、指輪やネックレスなどの装飾として役立つものとしての使用価値としてあるが、その金の使用価値の数量が同時に上着の価値の表現形態である上着の使用価値と等しい事で、金の使用価値がそのまま、価値を数量として表すと言う事なのです。
20エレのリンネル=一着の上着  ・・・・(1)
と言う単純な価値形態に合って、両者の交換を「=」によって等しい事であらわすが、それはリンネルと上着と言う二つに対して、第三者としての共通性のモノがあるからなのだが、それを<価値>と命名すれば、それが何であるかは、(1)と言う表現された図式の対象を前提に第三者と言う事で説明がはじまるのです。(1)が私達の前にありそれが諸物の交換と言う行為を図として表したモノなのであり「=」と言う記号は、リンネルと上着と言うどう見ても別々のモノの中に、共通のモノがあると言う事を表しているのです。それぞれの中にあるモノが同一である事を、両者が共通性を持つと言い、「=」であらわすのです。さしあたってリンネルと上着と言う別々のモノにある共通なモノとは何かと言えば、それは生きた労働の投下された実体化された労働と言う事になります。
各生産物が皆、1オンスの金に交換関係を結ぶ。例えばリンネルが、1オンスの金と交換関係を結ぶ時、リンネルを所有する方から見れば、その1オンスの金に見合ったものとして、リンネルを20エレ分交換するのであるが、彼の1オンスの金は、私の使用に必要な量でなのです。私のリンネルの20エレは、金の量に見合った、等価な量と言うことになるのです。1オンスの金は、飾りとして指輪や冠を作るのに適した量である。この金に見合ったとは、金の有用性に見合ったと言う事ではなく、その有用性な金を<手に入れるのに>見合ったと言う事なのです。私のリンネル20エレ分は、1オンスの金の所有に見合うモノを持っていると言う事で、それを交換価値と規定するのです。つまり金の有用性は、金と言う物質のあり方から来ているが、その金を私の所有にしなければ、どんなに有用で合っても、実現されないのです。彼が所持している金のその有用性が、私にも実行出来るのだが、しかしまず私の手に入れると言う事であり、私が手に入れる為に彼の所有物に内在するモノとして<価値>が規定されるのです。その<価値>の20エレのリンネルの事を交換価値と言うのです。彼の所持している金が物質として、飾りや冠を作るのに役に立つから私のモノとの交換が始まるとしても−−つまり私が彼の金など欲しいとは思っていないのであれば、けっして交換など成立はしないのだが−−その交換が始まる時の、リンネルと金の中にある交換される力を<価値>と規定し、その力に依ってそれぞれの数量で交換される時の、れぞれの数量を交換価値と言うのです。これはリンネルと金との交換を関係概念で考えているのであり、関係する二者のそれぞれであるリンネルと金に交換を成立させる力、実体としての<価値>を認めるのです。それぞれにその実体があるから交換関係が成立するのだと言う考え方なのです。ただこの関係ではリンネルも金もそれぞれに使用価値があると言う事が切り捨てられているのです。二つのモノリンネルと金には、交換が成り立つ為の実体だけが、想定されているのです。関係概念で得られる実体と言う規定は、私達の思考において、どの様な働きをするのかと言う事が、新たな問題なのです。つまり私達が現実に経験している商品の交換において成立している構造に対して、思考の末に得られているモノが、関係概念なのです。そこには経験が知っているモノの使用価値は捨象されているのであり、関係概念が得られた末に、再度使用価値の存在している現場に舞い戻る事が必要に成るのです。