2002.01.29

<対象−−認識−−表現>と言う過程論を考える。

主体的表現、客体的表現とは、日本語表現における<てにをは>と言う語の説明に為に提出されて来たものであり、日本語史的には、<詞と辞>における辞と言う理論から生まれてきているのであ。詞には対象があるのに、辞には示すべき対象が無い様に見えると言う事でしょう。詞としての<山、川、愛情>には、その指示すべき対象があるのに、辞には<そのような>対象が無いと言う観察結果を前提にそこから新たな予想を組み立てて行くのでしよう。観察結果とは、現に言葉を使い伝達が上手くいったり、思った事が伝えたり、間違った理解をしたりと言う日常の言語経験を踏まえ、そこに成立している言語構造を追求しようとして、理論的行為が追考されて来たのです。日本語史てきには、和歌の製作における、<てにをは>一つの違いが、自分の思った事と違ったものになってしまうと言う経験があるのです。いかに思ったものを和歌として出すかと言う時、はじめて詞や辞についての自覚を目覚めさせたと言う事でしょう。<詞と辞>から、<主体的表現、客体的表現>への語彙の変化は、その間に言語過定説と言う言語についての本質論が介しているのである。<対象−認識−表現>と言う人間の活動の一般性を前提に、絵画とか言葉とか労働とかの表現活動の各々の特性が明らかにされるのです。
例えば、「山や川や木々や空や雲」があり、それらは、絵を描く私の世界の中でにあると言う事になります。一枚のキャンバスはその空間の中にあり、それらを空間の中の諸物を対象にして、それを描いていると言う事になる。一枚のキャンバスに描かれた絵の具の跡は、この世界の山や川とつながりがあり、その繋がりを感性的とすると、「山や川や空」と「キャンバスの上の絵の具の跡」は、線、形、色と言う同一性によって繋がると言う事であり、さらに<選ばれた>「山や川や空」が、<どの方向から>見られているのかと言う、「山や川や空」に対する認識が、一枚のキャンバスに、絵の具の軌跡として表されたのです。一枚のキャンバスの上の絵の具の跡は、まだそれが絵の具と言う物質であると言う事であるが、その絵の具の跡が、「<山と川>が描かれている」と言う再規定を得るのは、絵の具の跡がつくっている<形や色>と、私の目の前の<山や川>の「形、色」との同一性なのです。私の目の前にあるものの内、選択された<山や川>に対する知覚が、<形と色>の形態として分析され、その分析内容を頭の中のイメージとして組立ながら、一枚のキャンバスの上に絵の具で塗られることで、<形と色>の形態となり、絵画が成立するのです。一枚の絵の具の跡を<形と色の形態>とみる時、私の目の前のある<山と川>が、キャンバスの上に描かれていると言う事になり、私の目の前にある多様なものの中から、<山と川>が選ばれ、対象になり、その対象である<山と川>に対して、<形と色>との分析から得られた認識を一枚のキャンバスの上に描く事で、絵画が出来上がるのです。
<山と川>は、絵画の表現された<形と色の形態>との関係から、対象と呼ばれ、その対象が<形と色の形態>と言う認識として把握される事で、その認識が、初めて絵画表現されるのです。
私の目の前にある世界の多様なものから、ある特定のモノとしての<山と川>が選ばれて、対象になると言う言方は、その選択を促す<絵画表現>と言う目的によって初めて成立すると言う事を忘れているのである。何も考えずにボーと前の<川と山>を見ている事はあり得るが、それはその場にたたずむ事で体の動きを止めていると言う事になるだけです。この世界の中で生きている時、世界の諸物Aを<形と色>で見ようと言う思いは、現に一枚のキャンバスや平らな岩肌に、その<形と色>を形態化させる事で、描かれたモノと世界の諸物Aとを突き合わせて、初めて対象Aを<形と色>でみると言う思いが、成立する。別に絵を描かなくとも、目の前の<山や川>を見ている時、それは見ると言う目的にとっての対象と言う事になるが、しかしその見えているものを描く時、私達はキャンバスの絵の具の跡の<形と色>による形態と目の前の<山と川>とを交互に見比べて、<形と色>の比較を行うのです。キャンバスの上の絵の具の跡が作る形態は、その形態を作り出す認識がめだしているものを対象にするのである。だからあくまでも<認識−対象>と言う事であり、その認識が何を対象にしているかは、表現された形態のあり方によって決まるのであり、その決まり方を個別化と言うのです。認識は対象に対してその普遍的な面を目だしてしまうのだが、その普遍性を目出した認識が表現おいて形態化される事で、<形態化されたもの>と<認識の対象>が関係を持ち、そこで対象が個別として扱われるのでする。
対象は、五官による知覚により、感性的認識され、その認識を一枚のキャンバスに絵の具の跡として塗られることで、表現された絵画が成立するのです。何が描かれているのかは、絵の具の色や線で形づけられたモノによる相似形で分かるのです。青い絵の具の背景と白い曲線に囲まれたものが、ある場所から見上げられた青空の中にうかぶ白い雲であると言う事なのです。さらに、現代美術の絵画が、直線と三つの色だけで描かれているのに、過定説の対象に当たるものが無いのでは無いかと言う時、風景画にあっても、絵の具による<線と色>が複雑な形として、対象の形や色をまねているのに対して、対象から知覚された色や線や面を直線性としてのみ取り出して描かれていると言う事なのです。つまり、風景画は、対象から得られる知覚内容のうち、<線と色>の、その線の形や色が、複雑な曲線やランダムな曲線と多様な色として取り出されるのに対して、現代美術は単純な直線と数色を描くのです。一枚のキャンバスに<二階建て家>が描かれていると言う時、私の前にある家なるモノと、描かれた家とは、線と色と面の関係が成立っているだけであり、けっして私の目の前の家が、キャンバスに乗ってきたと言う様な事では無いのです。私の目の前の二階建ての家があり、それを南向きのこちら側からみながら、描くのであるが、これは絵を描く為の知覚行為としての認識行為なのである。しかしキャンバスの上の絵の具の作る形態は、つまり現実に描かれたものは、その見えている家についての認識のある一部の認識が描かれたと言う事なのだが、その一部の認識は、現に描かれた絵画の内容として占めされているのです。しかし現に目の前のものについての視知覚による認識に対して、絵画として表される認識は、感性的と言うレベルであり、だから<認識の一部>と言う言方は、正確では無いのでしょう。絵画表現の認識は視知覚として成立したものであって、それが<線や形や色>と言う事です。
対象に対する認識とは、表現する主体が活動するこの世界についての認識と言う事であり、その現実世界についての認識Aに対して、絵画として表現される認識Bは、認識Aとして成立するものの<線や色や形>と言う側面の認識Bが表現されると言う事なのです。認識Aは、世界についての五知覚と言う多様としてあるのに対し、絵画表現を形成する認識Bは、その一つである<線と色と形>と言う内容として成立しているのです。風景画は、風景として認識されている世界に対し、その風景物を、<線と色と形>の連合として表現したのです。ただ、認識Aが、世界についての認識として成立していても、それは世界と言う無限定なモノとしてしかないのであり、それが絵画表現された事で、その表現された形態を介して世界に関わると、世界は個別として表れるのでする。それは世界についての認識が、表現された形態から関わる個別的世界になるのです。その過程により、世界の個別と言う認識を形成するのです。<対象−認識>と言う過程で成立する認識は、一般性の認識であり、その一般性の認識が物質的形態と言う表現を得るのであり、その形態と対象が関係する事で初めて対象の個別性が認識の、それも表現されて認識の個別性として表れるのです。これが、一般性としての認識が個別性になると言う構造なのです。対象が存在として個別であっても、それについての認識は一般性として成立してしまい、個別は捨象されてしまうのであり、後は存在としての個別をどのように認識するのかと言う事は、つまり一般性の際に捨象された個別は、一般性の認識の表現である物質の形態が対象に関わる事で、対象は一般性の認識の現実形態である表現形態の現象形態として捉えられる事ではじめて一般性の認識の個別的と言う規定として扱われるのです。つまり、存在としての個別は、認識の個別として示されるのです。私の目の前にあるモノは、<山>の一つとなるのです。
現代絵画は、世界の中から得た視知覚による<線と色と形>を、一種類の線たる直線と、三つの色である赤、青、黒と言う色を、絵の具と言う物質で表したものなのです。絵の具の痕跡としての現代絵画は、<色と線と形>と言う認識をあらわしたものであり、その表されたものと、一枚のキャンバスが存在する教室や学校や町や地球などの世界の物体とを関係付けようとしても、そこある複雑な形と色の形態とは、直接的なつながりは見えないのです。風景画と呼ばれる一枚のキャンバスの上の絵の具の作る形や色の形態は、私の目の前の家の色や形の作る形態と、つがつている様に見える為に、描かれたものと世界が直接繋がっているのです。風景画の繋がりは、家の形や色と言う面だけであり、それは現代絵画の直線と色とが、世界と繋がっている事とおなじなのです。例えば天使を描いた宗教画と呼ばれる絵画も、<色と形と線や点>による組み合わせが本質であり、それが<人間の赤ん坊と鳥の羽>による天使と言う名で呼ばれる<形や色>を介した絵の具による形態なのです。風景画の様に目の前の対象とキャンバスの上の絵の具の作る形態が、特定の形と色の同一性と言う点で繋がるのに対し、目の前にあるモノから得られた<線の形や色>の感性的認識を、単純な直線と色の区分けだけで表現した形態は、目の前にあるものの特定の面だけが対象となるのです。自分の目で見上げたもの知覚認識の内、曲線と直線の複雑な組み合わせと多様な色の混合で表す具象画に対して、単純な直線と単純な色の組み合わせで表現する抽象画の区別であり、具象画が表現された形態の特定性によって対象と繋がるなら、抽象画は、単純な形態で対象とツナがつているのです。この世には存在しない幻想画や宗教画とて、<線と色>の組み合わせであり、ただどのような特定な形態であるのかと言う事は、つまり特定の形態が天使とよばれ、幽霊だと言う事は、多様な思考をする人間の活動の中で表現された絵画が、天使とか幽霊の創造された形を形態化したからなのです。頭の中で作られたイメージを観念的に対象にして、それを<色と形>による形態として表現しているのであり、天使や悪魔が宗教思想の中で作られたイメージとして頭の中に成立しているのです。一枚のキャンバスの上の絵の具による<形と色>の形態は、対象と直接関連するのではなく、対象についての認識を介して関連するのであり、対象は<色と形>として認識され、認識の中でその組み合わせができるのであり、それが天使や悪魔と呼ばれる、絵の具による<色と形>の形態として表現されるのです。
シュールレアリスムと言う絵画思想がある。ダリの<柔らかい時計>には、現実にはあり得ない形態をした時計が描かれているのだが、しかし一枚のキャンバスの上の絵の具の作る<形と色>の形態は現実の時計のつくる<形と色>の円形と文字模様の形態が、変型されたものとして成立しているのです。どうしてそのような変形をさせるのかと言う事なのです。その変型させると言う思想こそ<シュールレアリスム>と言う事である。
      <「柔らかい時計」のイメージは、20世紀の大きな発明であると思います。
       アインシュタインによって、時間の普遍性が崩されたのと同等の意義がある
       ように感じます。このイメージは無意識の内に受け入れられ、いたる所に使
       われました。絶対であると考えられてきた時間の流れに疑いが持たれてきた
       のです。また、時間に縛られる人間の反抗を象徴するのかも知りません。>
絵画表現の本質は、<線や色>と言う感性的認識の表現であり、その絵の具の<色や線による>形態が、想像上モノであろうと、ありえない変形であろうと、本質は感性的認識としての<線と色>であり、その<線と色>とがつくる形態が、山や川や家などの形態であるとき、「<家>を描いている」と言うのだが、しかし絵画表現はあくまでも<線と色>の形による形態であって、その形態が<何か>であるのは、絵画表現の所にあるのでは無く、人間にとっての諸表現のなかで持つ絵画表現の特性と言った事によるのでしょう。つまり、「時間に縛られる人間の反抗」と言う「言葉」では無く<歪んだ時計の形態>を描く事で、一つの思想を視覚化するのであり、絵画はその視覚化の現実なのです。だが、もともと思想があって、その思想を<伝達する為に>絵画があると言う考え方ではなく、各表現形態持つ事で、認識の構造が成立すると言う事なのです。つまり、<思想>と言うまとまったものがあって、それを言葉や絵画や音楽に表現すると言う事では無くて、各特性で成立っている表現を形成する各々の認識を、人間の活動と言う全体から見た時、ひとまとまりの頭脳の働きとすると言う事なのです。絵画表現される感性的認識や言語表現される超感性的認識の統一体として人間は頭脳の中に認識を形成して、各表現を形成して行くのです。その統一体は、感性的認識や超感性的認識以外の第三者としてあるのではなく、このひとつの身体による口で話し、手で描き、目で見つめると言うと言う諸活動をひとまとめにして表しているだけなのです。

そこで絵画が、世界についての認識の内、感性的認識を表現しているとすると、言語は超感性的認識を表現していると考えるのです。つまり、対象の感性的側面が、絵画として表現されているなら、対象の種類と言う側面が、言葉として表現されていると言う事になります。<感性的側面と種類と言う側面>の区別は、先ず感性的なモノが現に目でみたり鼻で嗅いだり舌で味わったりすると言う、いわゆる感覚器官で知覚するものであり、現に色の差異を知覚していると言う事で成立している。その現に知覚している内容が、ここでは感性的認識と言う言葉が指し示す対象になっているのです。では種類と言う側面はどうなのかと言えば、それが超感性的認識としてあると言う事で、まず感性的認識の否定として、<では無い>と言う事なのです。音の知覚が成立っているときに、それは<色では無い>といった否定では無く、感性を否定するものとして超感性と言う事なのです。
一枚のキャンバスに描かれている絵の具つくる形態は、私の目の前にある富士山と言う名前のものと結びついていて、富士山と名指されるモノを、対象にして描くと言うのです。描かれた絵の具の軌跡は、富士山との<形や線や色>と言う点で結びつくのであり、富士山に対する私達の認識の内、<形、線、色>と言う認識が、一枚のキャンバスの上に絵の具を塗る事で表現されたと言う事なのです。富士山を対象にした時に頭の中に成立する認識Aのうち、<色、形、線>と言う感性的な面の認識と手を使用して絵の具を塗ると言う行為からキャンバスに表れる絵の具の跡についての知覚とが連合する事で、絵画が完成して行くのです。これが対象たる富士山に対する認識のうち、感性的認識が絵画として表現されたと言う事になる。それに対して同じ対象をA認識しながら、<山>と言う言葉として表現する場合、A認識のうち、超感性的認識が表現されたと言う事です。さしあたって、これはA認識に対して、感性的、超感性的と言う区別をした事になります。区別の点から振り返れば、A認識は、二つの認識の統一体と言う事と考えます。富士山と言う対象を見ている時、私達はそこに<感性的、超感性的>と言う構造として認識すると言う事になるのです。感性的と言う面が、絵画に、超感性的と言う面が、言葉に表現されたと考えるのです。これらを認識ではなく、対象のレベルで言えば、感性的と言う時、それは今見ている富士山と言う山の所にあるものが、<形と色>と言う面で、認識されていると言う事であり、超感性的とは、今見ている富士山と言う山の所にあるものの、種類と言う面が、認識されていると言う事になります。色や形であるなら、現に知覚している事で理解できているが、種類と言う面は、どのように知覚されるのでしょうか。いま私の家の南側に見えているモノを富士山と言う名前で呼ばれている<山>があり、それは冬景色の白と特有の形をしているのが見えるのに対し、家の北側では八ヶ岳と言う名前でやばれている<山>があり、やはり冬景色の白と特有の形をしているのが見えます。それは別々の所にある、各々の形をした別々のものでありながら、同一の名前である<山>と呼ばれているのです。別々のモノが、<特定の形と特定の大きさで、平たい大地にある>と言う規定が共通性と言う事になる。感性的なものとしては、その形や色であるものだが、それに対して大地と言う第三者を同一とした<特定の形や大きさ>の個別を<山>と言う言葉で表すのでしょう。つまり、感性的認識が捕らえているモノの中で特定の形をした特定の大きさの個別と、その個別以外の大地と言う第三者を介した特定の共通性が、<山>と言う言葉として表現されるのです。この地球の大地に対してある特定の高さの土地を、<山>と言う言葉で表現したのです。感性的認識が捕らえた<形や色>である個別に対して、大地の上にあると言う関係から見る事で、その<形による高さ>をなす個別を<山>と規定する。個々のモノは、感性的には<高さは、形の作る>いち形態だが、そしてそれを絵画に描く事ができるが、それが大地との関係から見れる時、はじめて<山>と言う言葉に表現される<超感性的認識=概念>になるのです。個々のモノも大地も、各々感性的に認識されるのであるが、それが関係の観点認識される事で<概念>となる。しかしまだこの時点では個々のモノや大地に対する感性的認識だけであるが、関係からみられた<高さ>が、<山>と言う言葉として、個々の<高さ>のあるモノにラベルとして張り付けられると、関係から見られた<高さ>は、種類と言う側面でしかなく、それは個々のモノにおける共通性であって、個別が捨象された残りとして把握されているだけであるが、その種類と言う側面を表した<山>と言う言葉を、今も目の前にある個別にラベルとして関係付ける事で、単に共通性と言う普遍性でしか無い概念が、個別性を得る事になるのです。これも<山>、あれも<山>、それも<山>と言う事になり、概念を個別的に扱う事ができる様になったのです。これは概念が生まれる時に、感性的認識の対象にあつた個別性が、抽象と言う事で捨象される際に内部に保存されたものが、外部に個別性で出て来たと言うヘーゲル流の思考に見受けられる観念論的なものの、完全な批判としてあるのです。概念はドンな事をしても自らの内部にある力で個別化される訳出は無いのです。言語における規範は、だから種類と言う側面を、文字や音声に関係付けると言う事なのだが、しかしこれでは、現実の言語活動における一面デしか無く、感性的認識が対象としている個別に<名前>として張り付ける事で、その個別が、概念の個別と言う表現形態になるのです。