固有名を考える
固有名は正に私の名前である<山田和夫>ということであ。その固有名は、この私を指示するモノとして働くのであり、固有名は、その指示関係としてのみ成立すると言う事を、<固有名の意味>と結論する。そこでこの固有名の意味規定に対して、次のような例を持ち出してどのように考えるかと言う問を提出するのです。
(<明の明星=AAAA><宵の明星=aaaa>「A」)と言う二つの言葉は、夜明けに最後まで輝いている星と夕方一番に見える星と言う別々体験から成立している。二つの言葉は、二つの別々の出来事を言葉にしているのです。しかしその別々の出来事についての言葉は、星としては同一の金星と言う星について語っている事が分かったのです。同一の対象を指事していると言う事が分かったのです。その金星が地球の夕方と言う時刻では、他の星に比べて一番明るく輝くのであり、その金星が地球の朝方と言う時刻では、やはり一番輝いていると言う事なのです。それを言葉にしたものが「A」と言う言葉なのです。<明の明星>と言うひと纏まりの言葉は、対象としては<金星>を指示するが、しかし金星が地球との位置関係から表す状態についても、そこに表されているのである。日本語の表し方では、<明けの><明><星>と言う三つの語彙の組み合わせとして成立しているのであり、それを<夕方の><一番明るい><星=金星>と言う意味で<明けの明星>と表すのです。
私達が一日の中で経験する天体現象の内、二つの現象は、朝方と夕方と言う別々の時間帯の出来事として捕らえられていて、それを<aaaa><AAAA>と言う言葉で表すのです。この時この二つの言葉は、各々の時間帯にある天体現象の、特定の領域を表しているのです。
それが、朝方であるなら「明け方の空が明るくなるに従い最後まで輝いている星がある」と言う事であり、夕方であるなら「夕方の西の空に一番最初に輝くほしがある」と言う事なのです。その状態の星を一方は<AAAA>と言葉にするのであり、他方を<aaaa>と言葉にするのです。天体の多様な出来事に対して、その天体の現象のなかにある特性甲を、一定の視点から捕らえられ知覚した内容を言葉にしたのです。星は単に太陽との位置関係で輝くのであり、それが一番とか最後であると言う事は、あくまでも地球上の位置から星を見上げている時、星が輝くと言う過程を時間の流れで集めると言う事なのでしょう。つまり、<一定の視点>と言う何か主観的な響きのある言葉名のだが、しかし客観的に存在している時間とか位置関係とかを、特定の時間間隔、特定の位置関係から、天体現象を捕らえると言う事なのです。青空の日中から西の地平に太陽が沈むと空は暗くなり始め、星が輝きはじめると言う時間を考えているのです。ただこの時間は地球と太陽と諸々の星の位置関係を地球の上から知覚したものなのであり、だから<太陽が西の地平に沈む>と言う言い方は、地球と太陽の動きを、客観的には各星の位置関係を遥かな高みから見下ろした時に見える星の関係なのであり、その両者の移動を地球を固定したとき太陽が動くと言う現象として知覚されると言う事なのです。地球も太陽も相互に動いているのであるが、その相互の動きに対して地球を動かない静止した状態での太陽の動きは、地球の東の水平線から昇り、西の水平線に沈むと言う事になるのです。この<地球を動かない静止した状態として>と言う言い方は、思考上のあやふやな何かでは無く、私達の感覚的知覚が持つ特性であり、人間の目は、地球上にある限り、地球と一緒に動く為に、地球は動かない静止した状態ということになり、動くのは諸星に方だけになるのてです。それは私達の主観的な思い込みとか行った事では無く、感覚知覚の特性から生ずる認識内容と言う事なのです。
星が輝くのは、太陽からの光が各星に反射するからであり、その反射する光を私達の視知覚が知覚する事で、月が輝いていると認識されるのです。太陽と星があり、太陽の光が星に反射している限り、星は輝いているのだが、しかしその輝く星も、太陽からの光が反射して輝いている地球にあっては、その輝きの中にいる限り星の輝きを<見る事>が出来ないのであり、地球の球と言う特性から太陽の光は半分の球面に反射している時、他の半分には光が届かない為に反射しないのであり、そこを闇と言うのです。そして私達がその闇の中にいる時太陽の光りの反射で輝いている星を<見る事>ができるのです。明るい状態から闇の状態に変化して行く過程で、変化する明るさが最後に闇に変わる事で、星の輝きを知覚できて行く。このとき地球に対する位置の違いによって星の輝きの大きさが違うのであり、変化する明るさの中で輝きで見えて来る星に時間差が出て来るのです。この時間差を<一番最初に輝く>と<最後まで輝いている>と言う視点で区別すると言う事なのです。
これが<aaaa、AAAA>と言う言葉で表す<特定の天体現象>なのです。
むかしギリシアでは、「明けの明星」と「宵の明星」は別の星と思われており、
明けの明星はフォスフォール(Phosphor、ラテン名:ルシファー、Lucifer)、
宵の明星はヘスペロス(Hesperus、ラテン名:ウエスペル)と呼ばれていました。
当時バビロニアの天文学はギリシアより進んでおり、「明けの明星」と「宵の明星」
が同じ星であることに気がついていました。そして愛と美の女神イシュタルの名前で
呼んでいました。金星を意味するビーナス(ギリシャ神話では アフロディーテ明け
の明星イオスフィルスと宵の明星ヘスペルス
紀元前6世紀に、サモアのピタゴラスがそれらの智識をギリシアにもたらしたとい
います。そして金星はギリシア神話の愛と美の女神アフロディテ、そしてヴィーナ
ス(Venus)の名前で呼ばれることとなりました。
<aaaa=ルシファー><AAAA=ウエスベル>と言う事です。問題はこの言葉が指示するモノは、天体の特定の現象であり、その現象が「対象」となっているのです。しかし<ルシファー>と言う言葉を、「明けの明星」と変えた時、天体現象の中の<特定の天体現象>と言う視点が個々の語彙として表現されているのです。天体現象の中の<特定の天体現象>と言う視点を、一語の<ルシファー>と言う言葉で表現する事と、その視点を<明け方><明><星>と言う言葉の組み合わせとして表現する事とは、両者とも<特定の天体現象>と言う視点の内容が表現されていると言う事なのです。<ルシファー>と言う言葉も、その視点を表していて、<ほらあそこに輝いてい星が、ルシファーだよ>と指示しながら説明するのです。説明する人間には、今見上げている天体の現象が、特定の視点から見ている事が分かっているのであるが、その説明を聞く者にとって、彼が説明する言葉と指し示す指の方向を見上げる事で、そこに見える星を、<ルシファー>と言う名前と対応付けるのです。<ルシファー>と言う言葉が何を指し示すのかを知っている人間にとっても自分の目で見る事ができると言うレベルで自覚的に知っている<その星>の事だけであり、無自覚的には、その指示される<その星>が夕方のこの時間帯に南西の夜空に表れている事を、その時間帯にその場所で見上げると言う実銭される事が、無自覚な知としてあるのです。だから説明する人間が、説明を聞く人間を、その場につれて来ル事で、<その星の特定性>を経験させているのです。
説明を聞く人間もその場面にいる事と<その星>を視知覚する事の両者で始めて、<ルシファー>とが何であるかを知るのです。ただこの指示行為による説明では、その<星>だけしか向かわないのであり、「その星がとる特定のあり方」については、指示では説明出来ないのです。なぜならその指示行為がなされる事が、正にその星の特定のあり方である<明け方の最初の輝き>と言う事を選択しているからです。だから昼と言う時に、金星があったとしてもその指示行為が出来ないのです。夕方と言う時間帯の選択と指示される方向にある<輝く星>と言う事が、頭脳の中に認識される事で始めて<ルシファー>と言う言葉がでてきたのです。<ルシファー>と言う言葉を知っている人が、新しい人にその<ルシファー>と言う言葉を教え様とする時、夕方の時間帯に西の空を見上げながら教えるのは、見上げた空の<輝く星>を知覚する事と同時に<夕方の特定の時間帯>と言う事を認識させる為なのです。見上げると言う事で見える<輝く星>については視知覚の問題だが、その夕方と言う時間帯を選択する事は、正に一日の中の時間帯を選ぶと言う実践なのです。それは視覚とか聴覚と言った感覚知覚の問題では無くて、生活している一日の中の<夕方>と言う時間帯と言う事なのです。<ルシファー>と言う言葉では、その言葉が成立して来る特定の天体現象が成立っている時間帯を選択すると言う意志の上に視知覚による<輝く星>が、表現されたのです。それに対して視知覚されているモノを、天体の何処でも輝いている一つとして<星>と名付け、夕方の時間の選択と言う意志を<宵の>と名付ければ、<ルシファー>と言う現場で役立つ言葉か、そして固有名こそが言葉の成立している場面で使われる指示の言葉が、現場を離れた<宵の><明><星>と言う言葉として表現されるのです。何故なら<宵の>と言う事で一日の時間帯が、朝方、昼、午後、夕方、夜中と言う様に区別された上で、その一つとして<宵の>と捕らえられた事により、一日の時間の何処が指示されているのかを理解出来るからです。<宵の>とは別に明星とは無関係であり、私達が生きている一日の時間の変化を太陽の照らす明るさの変化として捕らえる事なのです。<ルシファー>では、指示の為にその言葉が使用される特定の時間帯が選択されると言う意志があってこそ成立するが、<宵の明星>と言う言葉になると一日の時間変化の経験を踏まえ、当然<ルシファー>と言う言葉もその経験の上に成立っているが、一日の時間の変化を区別した言葉として成立したモノとして表現していると言う事なのです。
一つの語彙で呼ばれていたのであり、<金星の特定のあり方>をそのまま一つの言葉で表している。それに対して、日本語の<明けの明星><宵の明星>と言う言葉は、金星の特定のあり方の、その特定性をも表現しているのです。その二つの言葉が、対象としては同一の金星を表すと共に、その対象たる金星の特定のあり方も表していると言う言い方は、次の事を区別していない。つまり、ギリシャの時代から、明け方と夕方に西の空に輝いている星が見られていたのであり、その特徴が自覚された時、始めて<明けの明星><宵の明星>と言う言葉として表現されていたのです。そこにある金星と言う星は、太陽系の他の星との特定の位置関係を持つと言うことであり、アタカも太陽系を高みから眺めおろす事でみられる星と言う事なのです。それに対してその金星が、太陽と地球と金星の三つの星の位置関係を、地球から眺めた時に知覚されると言う事なのです。太陽系を高みから眺めると言う発想は、現に地球の上にいる私達人間の頭脳の中の創造として成立しているのであり、それは図として表現された地図を介して創造されているのです。夜空を眺める事だけであるなら、星は全天にちりばめられているのであるが、諸星を特性でまとめる事で、太陽系の諸星と言うまとまりとなるのです。<明けの明星><宵の明星>は、全天の輝く星と言う事であるが、それをさらに星の特性による太陽系と言うまとまりか区別された時、始めてその太陽系の金星と名付けられた星を指示していると言う事が明らかになったのです。
太陽と地球と金星の三者の位置関係が、地球の明け方や夕方に一番輝いて見える星と言う観点から認識されているものを、表した言葉が<明けの明星><宵の明星>ということなのです。私達の視覚経験から言えば、全天にある星を眺めているのであり、決して太陽系の高みから星を眺めると言う訳には行かないのです。それを金星と言う星が対象になり、金星に対する私達の捕らえ方を言葉に表したものが<明けの明星><宵の明星>と言う言葉であると言う言い方は、<私達の捕らえ方>という何か主観的なものと言うニアンスを言ってしまうのです。金星と言う星を太陽系の特定の位置にある星と言う言い方は、全天の星の観察から得られた知識によった私達の認識であり、高みに昇って眺めているかのような私達の頭脳の為せる想像図なのです。太陽系と言う太陽と諸星との特定の位置関係は、地球から眺められて全天の知識から作成されているのであり、最初は地球を中心にした諸星の位置関係、つまり天動説であり、後に太陽を中心にした地動説となるような考え方として形成されて来たのです。
<明けの明星><宵の明星>と言う言葉は、同一の対象である金星を指示し、その対象に対する把握と言う私達の捕らえ方の違いを表していると言う言い方は、すんなり受け入れられそうにみえるのです。何故なら言葉は、思いや思想や把握を表したものであると言う一般論が潜んでいるからです。対象とその把握と言う、区別があるかのようなのです。<宵の明=私達の捕らえ方><星=対象>と言う事であると言うのです。前者は、地球上で成立している明け方と言う時刻の出来事であり、それを私達は視覚を介して知覚しているのです。その時刻に夜空を見上げているのです。それはこの地球と言う環境の中で成立している現象であるが、決して私達の把握の違いと言うような事では無いのです。その特定の状態が対象になっているのであり、その対象の中に金星と言う星があるのです。時事刻々と変化して行く全天の状態に対して、明け方最後まで輝いている星と言う状態が、対象なのです。それを対象にして表した言葉が、<明けの明星>と言う言葉です。さらに夕方一番最初に輝く星を対象にして言葉にしたものが、<宵の明星>と言う言葉です。
ここで視点がしめされる。全天の多様な星を知覚している。太陽が西に沈むと私達の回りは少しずつ闇になって行く。この明るい状態から暗くなる状態になる事を夕方と言うのであり、その夕闇の中で空に星が輝く様になるのだが、この輝きの一番初めの星の存在が知覚された時、その確認された<一番最初の輝き始めた星>を<宵の明星>と言う言葉で表したのです。全天の星の中からある特徴から把握されたモノ、「夕方、一番最初に輝く」と言う視点から得られた<一番最初の輝き始めた星>が成立したのです。金星と言う太陽系の中の一つの星に対して、地球や太陽との位置関係から生ずる金星の特定のあり方は、金星を含む太陽系の中の出来事であり、その出来事を地球の位置から私達が知覚するのです。その知覚したものを言葉として表現したのが、<明けの明星><宵の明星>と言う言葉なのです。全天の星の中で、<夕方一番最初に輝く>と言う視点から対象として得られている領域を図式すると、<対象−認識>となる。つまり、夕方や朝方と言う時間帯と金星と言う星とが、<最初に輝く、最後まで輝く>と言う視点からひとまとまりとして捕らえられる時初めて、それらは対象となるのです。特定の視点から捕らえられたモノが対象となる時、全天の星の出来事の中の一つであるが、それらが一つの視点から捕らえると言うことを認識の内容として成立すると言うのですその認識の内容を、言葉として表現したものが<明けの明星><宵の明星>と言うことばなのです。
とすると対象は、金星であり、金星についての捕らえ方が<明け方の最後までかが焼いている>と言う言葉であると言う言い方は、金星を含む太陽系の星相互の位置関係のうち太陽と地球と金星の位置関係の金星だけを抜き出して対象としているのであり、三者の位置関係を地球の上から知覚すると言う事を、<捕らえ方>と言っているのです。ギリシャ語では、日本語の明けの明星を<ルシファー>と言うとき、捕らえ方も対象も全て含まれているが、しかしそれらは姿を見せていない為に、ただ対象を指示すると言う事だけしか表に表れていないのです。<ルシファー>とは、ほらあれのことだよというのです。どれがルシファーなのと聞かれれば、あそこで一番輝いている星のことだよと言うのです。しかしこの言い方を述べない場合、そこを指で指し示したとしても、その指事している対象があるにしても、そこには<明け方最後まで輝いている>と言う規定は示されないのです。たんに金星の存在を指示する事はできても、その金星がどのような側面を示すのかと言う事は指では指示出来ないのです。ルシファーと言う名前と金星(ビーナス)と言う名前の違いは、全天の特定の位置にいる星、あるいは太陽系の特定のいちにある星、を金星あるいはビーナスと言うのに対してルシファーとは、明け方の一番最後まで輝いていると言う側面を取り立てて表現している金星の事を言うのです。問題はその側面の取り立ては、<明け方の一番最後まで輝いている>
と言う言葉に表されると言う事です。<ルシファー>と言う言葉で指示する対象が、全天の太陽系と言う星の集まりの中の一つの星である場合、一晩中輝いているのであるから、<ほらあの星がルシファーだよ>と言えるはずだが、しかし明け方の最後まで輝いて残っている星のみを指すなら、指で指示するひとにとって、その時間帯だけの指示行為は、<一番最後まで輝いている>と言う事の現実過程と言う事なのです。この指示行為は、しかし時間帯に関係なくたえず存在する金星を指すか、特定の時間帯に指すかと言う、時間帯の選択と言う事が実例となる。
対象の種類と言う側面が概念として認識され、その概念が言葉として表現されるということになる。しかしその認識は、人間の身体活動においては、対象の種類と言う側面を使用した活動となり、朝方一番最後まで輝いている星が消えるまで起きているとか、その星の輝きを仕事の一段落にすると言う様に使用したとすれば、種類と言う側面の実施と言う事なのです。その出来事を労働の終始の基準の時間とする事で、種類と言う側面を<明けの明星>と言う言葉に表現する事とは別の表現形態となるのです。
「対象の種類と言う側面の認識として概念が成立する」と言う言い方は、金星と言う星が対象になりその側面が概念として認識され、<明けの明星、宵の明星>と言う言葉として表現されると言う事なのです。そこで<金星と言う対象の種類と言う側面>とは、何を言おうとしているかです。<明けの明星、宵の明星>と言う言葉の方から考えるなら、金星と地球と太陽と位置関係を、地球を固定した中心として特定化する時の、その状態を示している。つまり、金星と言う単独なものだけを眺めているのでは無く、その金星を眺める人間の立つ大地である地球と金星を光らせ、地球を夜にする太陽との三者関係こそが、金星を介して対象になるのです。目が金星に向かっている時その目が知覚しているモノだけを<対象>としてしまうから、太陽と地球との位置関係を地球を中心にした特定の位置関係を話者の<把握の仕方>と言う振り分けをしてしまったのです。
そのような振り分けをせずに、太陽と地球と金星の位置関係を地球を固定した所から認識しようとする事で、はじめて客観的な<太陽と地球と金星との位置関係>が、地球を基点とした位置関係として認識されるのです。客観的とは、太陽系の各星の位置関係を、神のいる高みから見下ろす様にとらえたものをいい、その位置関係を地球を中心にしてとらえたものが、特定の位置関係と言う特定性として表れるのです。つまり、<明けの明星、宵の明星>と言う言葉は、金星を含む太陽系の星の位置関係が対象となり、その対象が<地球を中心にした位置関係として>認識されると言う事で、その認識の内容が表現されたのです。
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