2003.10.28作成・2003.11.16修正

言葉・表現・対象

言葉について考える


<I see Nobody on the road>
<私は、Nobodyな人を、見た>-----><私は、誰も見ていない>
言葉としての<Nobody>はある認識を表している。その言葉<Nobody>が指示する対象があると言う考え方。これは言葉が対象を指示すると言う事であり、例えば<りんご>と言う言葉と私の目の前にある<」>とが指示関係にあると言う事になる。さらにその目の前の<」>に対して<果物>と言う言葉が指示関係にあり、さらにその目の前の<」>に対して<物>と言う言葉と指示関係にあり、さらに<」>と<目の前のモノ>と言う言葉も指示関係を形成しているのである。最後の<目の前のモノ>と言う言葉の場合、私の視知覚の感覚器官である<目>を基準にした前後と言う位置関係をなしている<」>が対象になっているのです。各言葉は、<」>と指示関係にあるが、最後の<目の前のもの>と言う言葉は、<」>を<もの>と言う言葉と<目の前>と言う私との位置関係とが結合させた上で、指示しているのです。その<」>と言う個体が知覚され、さらにその個体が持つ多様な属性に対して、その属性の一つを持つ個体を実体として規定する事で、<生物>、<果物>と言う<言葉>として成立したのです。つまり、まず知覚された存在が対象としてあり、それが一塊のものとして個体として葉判断される。その個体に対して、私からの距離にあると言う側面が判断される事で、<それ>とか<これ>とか<あれ>と言った言葉として表されるのです。<私からの距離>が表に表れているが、同時に私からの距離にあるモノも含まれているのです。私が<それ>と言う言葉を発した時、他者は<それ>と言う言葉を聞く事で、言葉を発した私からの特定の距離にあるものを見つけ様とするのです。他者はその言葉から、確定されている<「そ」と表現される特定の距離にある>と言う事を捉え、回りにある色々なモノの中で、どれなのかを予想していくのです。

<Nobody>は、「私は誰も見ていない」と言う事を表現しているのです。私が見ている時色々なモノを見ているが、人については見ていないと言う事であり、それを色々なモノを見ていると同じ<見ている>と言う表現をする為に<Nobody(無人)>と表現しているのです。<存在しない人>を、例えば昨年交通事故で亡くなった友人Aが歩いているのを見たと言った時、幻覚としての友人の存在と言うことでしかない。それに対して<Nobody>は、Aさんでも、BさんでもCさんでも、その他の人でもない<人>と言う規定です。ロボットだけで動き続ける工場に対して、そこが無人の工場であると言う時、その無人とは、別の言葉で言えば「人間が誰もその工場にはいない」と言う事である。目の前の工場の内部は見たとおりのモノであるが、例えばよその工場では、人々が動き回って仕事をしている事も見たとおりなら、一方の工場Xは、<人が働く工場である>と言う事であり、他方Y工場は<人が働く工場とは違う>と言う事になる。つまり、工場Yを見た時、単に見えているモノには<ある>と言えるが、その見えているモノの中に<人がいない>と言える為には、<工場の中で人が働いている>事を、見たり聞いたりする経験があり、その経験による表象が、<工場の中で働いている人>と言う表象が、私に出来ているからです。いま工場Xについての知覚内容と私の経験から生まれているその表象が、重ね合わされて、いま知覚している工場Xに対して、判断を下すのです。その判断を言葉として表されたモノが<工場Xは人がいない>と言うことなのです。工場Xと言う言葉は、現に目の前にしているその建物を指示している が、<人がいない>と言う言葉は、工場の内部の状態を指示しているとは言えないのです。工場Xの中には人がいないのだから、いない人を指示は出来ないのです。<工場Xには人がいる>場合には、工場Xと言う言葉は、ある建物を指示出来るし、人と言う言葉も工場のなかにいるモノを指示できるのです。

「工場Xの中には人がいる」も「工場Yの中には人がいない」も、言葉としては同じなのに、前者は言葉と指示物とが対応出来るのに対し、後者は工場と言う言葉には指示物があるが、人と言う言葉には指示物がないのです。工場Xの中には見た通りにあるが、その見たモノのうち選択されてたモノが<人間が働いている>と言葉に表されているのです。その選択に意志の色々な側面が関わっていても、<人間がいる>と言う言葉に表される知覚内容が成立しているのです。つまり、客観的な出来事の中で、一つを選択する事は、偶然から意志までの幅があっても、認識としての選択であり、その認識が選択したモノを棚上げするとか、壊すと言った行動に導けば、選択されたモノは、物としてのあり方をかえるのです。今はがらーんとした工場のな内部も、二日前は人々が忙しく働いていたのである。私達は、今は以前と同じに建物としての工場があるのを知覚しているが、さらに私達は、工場の内部も見た通りに見ているが、その見たとおりの内容が、同時に以前に見たときの内容から見ると、<人がいない>と言う空間に見えるのです。現に今見えている事には、見た通りに何も変わりは無いのだが、ある通りにしか見えていないが、しかし同時にかって見えていた記憶の中に入っている見えていた状態からすれば、人が消えていなくなった空間として判断されるのです。記憶の中の工場の内部にいる人々や諸物の存在と言う表象に対して、現に知覚している工場の見た通りの内容との比較と言う、私達の思考上の活動によって<ある人Aさん>が消えている事を、今知覚している工場の内部には<人がいない>と言う言葉に表したのです。
工場Xと工場Yと言う別々の工場がありX工場は有人であり、工場の内部で仕事をしている人間がいる事に対して、工場Yも仕事をしているが、そちらでは人が仕事をしているのではなく、ロボットが仕事をしている様に、<仕事をする主体>と言う同一性により、初めて工場Xも工場Yも同一の地平に並ぶのです。「工場Xでは人々が仕事をし、工場Yでは機械が仕事をしている」事でしか無いのだが、両者とも<仕事をする主体>と言う観点から工場の内部を考え、さらにその主体が<人間>であるかによって<人がいる=有人><人がいない=無人>と言う言葉が成立するのです。その主体が<機械>であれば、<機械化である>が、ただ工場Xには、言葉が作られていないのです。

「工場Xの中には人がいる」も「工場Yの中には人がいない」も、言葉としては同じであると言う事。その言葉として同じモノが、その言葉の内容では、肯定と否定という判断を表しているのです。前者は工場Xの内部を見ている時に、目に入って来て、頭脳で受容されている光景を言葉にしているのです。それに対して工場Yの場合、現に見えていて目に入ってくる工場の内部の光景は、広々としていると言う事なのだが、しかし工場Xの内部を見ていた「人々が仕事をしている」経験は、工場の空間とその中にいる人々の存在を頭脳の中に表象するのです。そこで「工場Yの中には人がいない」と言う言葉は、しかしいま見ている工場Yのその空間の中に一瞬幽霊の様に存在する人々がいて、すぐに消えて無くなったと言う幻覚としてみえてと言う事ではない。<現にこの目で見ている>対象としては同じ事が、同一の工場であるか、形態が同一の工場であるか、の違いはあっても、その同一の工場の中で違いを確認するモノとして、<人の存在>と言う視点があるのです。工場Yの内部を知覚している時に、その知覚されている内容が、人の仕事をしている内部と言う経験が作り出す記憶とによって、同時に人の不在の内部として判断されるのであり、その判断によって成立している工場Yの内部の知覚内容があるがままの内部でありながら、<人のいない>空間となるのです。ただしその空間に対する知覚が別のモノに変わったと言う事では無い。その判断があっても、なくても相変わらず見えたままの知覚なのです。判断された知覚内容が別のモノに成ったのではなく、あるがままの知覚内容が判断との関係で成立する認識を<工場に人はいない>と言う言葉に表したのです。「工場Xに人がいる」と言う文章も、単に知覚している内容が直接に示されているのではなく、知覚されている多数のモノに対して、そのモノが<人間>と言う言葉に表される視点から選択されているのであり、その選択の構造が問われるにしても、まず選択されて言葉に表されていると言う事から始まるのです。そこで<工場Yには人がいない>と言う言葉は、現に工場Yの内部を視知覚していても、前の言葉で選択されて表された<人間>と言う言葉に表されるものが対象に成っていないと言う、ありのままの知覚を、反省の段階で取り上げて、言葉にしているのです。ありのままの知覚に対して、反省の思考として<人間がいない>と言葉に出せば、元々<人々が仕事をするために、ここに人間がいる>と言う時点に対して、いま<工場Yには、機械が仕事をするので、人間がいない>と言う事に成ったと言う、反省の思考をより進めるのです。

私達の、対象を知覚する認識にとって、工場Xも工場Yも、まず同一の視知覚として表れるのであり、工場Xも工場Yもその内部は見た通りのモノとして知覚されているのであるが、工場Xにあって<人間がいる>と判断されと経験が、工場Yにあっては、そのあるがままの知覚内容の<諸物のある>と言う判断と関係することで、両者の間に<人がいない>と言う言葉にあらわされる認識が成立しているのです。<人がいる>とはかって経験したことであるし、今は<あるがままに知覚している>と言う事であり、その両者の間に成立するモノは、前者や後者を知覚する様には、知覚されないのであり、だからこそ<ほら これが>と言うようには、指示出来ないのです。<人がいない>と言う言葉の表すモノを考えてみても、それは工場Yのがらんとした空間を表象する事では無いはずであり、それはチェシャ猫の本体が消えた跡に、チェシャ猫の笑い顔や笑い声ではなく、笑いが残っていると言う言い方にしめされる不可能性に似ているのです。私達は、工場Yの内部を見ながら、同時に頭の中で人間の表象を作り出す事で、両者の間に関係を作り出し、その関係を<人がいない>と言う言葉に表すのです。その一連の認識過程と、その認識をその言葉に表す事が、私達が概念を持つ事、認識が概念と規定されると言う事なのです。その一連の過程を考慮せずに、がらんとした工場Yの内部に対して、人間の表象を実体化させて、あたかも幽霊が表れる様に、<いない人間>がいると考えてしまうことで、<人間がいる>と<人間がいない>と言う言葉のレベルで同一でしか無いモノを、知覚の対象の同一性にしてしまったのです。

先までこの工場YにいたAさんが、今私達の目の前からいないくなった。今工場Yの内部をみながら、工場Yにいた時のAさんを頭の中で思い浮かべた時、がらんとした工場の内部の知覚とAさんの表象とを関係づける私の意志はその関係を<Aさんがいない>とか<ここからどこかへ行った>と言う言葉に表すのです。Aさんのいないくなった工場内部の空間があり、私たちはその空間を知覚しているのではない。「Aさんがいる工場Yの内部空間がある」と言う事が成り立っているのは工場Yと言う存在のその内部空間と彼自身の存在の両方を、私達は知覚しているからである。それに対して、<Aさんがいない>空間が知覚される訳ではない。Aさんは、生きている限り移動して別の空間Bに居るのである。とすると移動した後の工場の内部空間に付いて考える事は、例えば私がそこにいつづけて居れば、目の前に空間を知覚しているのであり、先ほどまで居たAさんが居たと言う記憶による表象を、目の前の空間知覚の内容に関係づけることが、私がおこなっている思考に他ならないのです。Aさんが、この工場においてなしていた仕事の内容によれば、彼が工場Yから居なくなって、<Aさんが、いない>と言う事は、私達にとって仕事の継続をする為には、Aさんと同じ力量で仕事のできる人間が必要と言う事であり、その必要性の意識が私達の思考を成り立たせていると言う事なのです。客観的には、モノがある時とモノが無くなった時の空間では、そのあり方が違うのであり、モノがそれ以外に及ぼす重力関係が違うのです。モノがあれば、それだけで回りの空間に重力を及ぼし、空間の歪みを作り出すのである。居ようが居まいが、現に内部を知覚しているのであり、その知覚はあるがままとして成立しているのです。重力により歪んだ空間を見ているのであり、歪みのない空間をみているのです。

Aさんがいる内部を見ている事と、その知覚経験が工場を見ているときも継続していれば、途中でAさんが工場の外部に出てしまうと、いま工場の内部を知覚している知覚内容をその経験表象で関係づけるのであり、その関係付け自体が、<Aさんがいない>と言う言葉に表される事が出来るのです。現に目の前にしている対象の知覚は、色とか形とか大きさ等の表象として頭脳の細胞に成立し、また前にみた工場YにいるAさんに付いても、記憶として表象出来るのであるが、両者の間にできる関係は、その両者の表象のように成立するのではないのです。その関係は、言葉として表される事−−Aさんがいない−−で形成の証明を行うのです。

<人>と言う言葉も工場Xにおいて対象を指示しているのであるが、工場Yにおいてはその対象が存在しないのであり、<対象が無い事>を「人がいない」と表すのです。つまり、工場Xの中にある沢山の諸物の中で、仕事をしている者を対象にした認識を<人>と言葉に表される。その認識を表した言葉としての<人>を、仕事をしている者に指示と言う関係させる事で、<人がいる>と言う言葉になるのです。それに対して工場Yにあっては、<人>と言う言葉が指示する対象が無いことを、<人がいない>と言う言葉に表すのです。私がある日工場Yに出かけ内部に入ったときに見かける事は、目の前の見た通りの事であるが、同時に人の姿を一人も見かけないと言う判断は、自分自身の様な姿の者を、この目で見ることが出来ないと言う事です。この場合の<人>とは、単に自分の様な形態をしている者であるが、仕事をしている者と言う事であれば、機械を操作しながら仕事をしている者であり、単に立っている者や見学する者などではないのです。

その工場があり、その中で沢山の機械が稼働しているのである。その工場に対して、<ある>と言う観点のみで考えれば、ロボット、旋盤、屋内灯等があると言う事なのだが、しかしその工場に対して、私達が経験するモノの<あり>を考えるのです。私が考える事は、頭脳の中の脳細胞の働きとしてあり、五感による知覚入力と相対的に独立している思考の世界なのです。表象や概念としてあるのです。その工場は五感による知覚入力の対象であり、その知覚の対象である事で、その工場は<ある=存在する>と言う言葉に成ります。そこで、知覚されている工場を表象して、その中にゲーム機械を表象するのです。この表象としてのゲーム機械は、工場の中に置かれているが、そこには地球の重力により床に引きつけられていると言う事実もない置き方なのです。つまり、工場の中の空間の表象とその空間の中にあるゲーム機械の表象だけが、ここでは<工場の中にゲーム機械がある>と言う事に成るのです。そこで工場の表象を五感の知覚による現物の工場に戻すとき、表象としての工場の中にあるゲーム機械は、知覚されている工場の中には<無い>と言う判断に成るのです。この工場に一切関係なく、ただ私の頭の中の妄想である諸物の表象があっても、<だから工場の中には、ゲーム機械ない>と言う言葉は出てこないのです。頭のなかの表象に対して、知覚されてくるモノと関係づける事で、現に知覚されているモノである工場が<ある>様に−−−−表象されているゲーム機械はその表象の世界には<ある>、ただこの「ある」は表象が浮かぶ事自体を言うのです。事物は五感にるよる知覚が、存在として成立するが、表象は表象が浮かぶ事自体を意識する事が、表象が<ある>と言うことになる。−−−表象のゲーム機械が<ある>と判断出来ないのです。つまり、その工場は私がこの目で現に知覚して居り、ゲーム機械は表象として意識されているだけであり、その二つが私の頭脳の中で判断された上で、その判断が<その工場の中にはゲーム機械がない>と言う言葉に表現されている。
客観的には、<工場には、1時時点で見たとおりであり、さらに2時時点でも見たとおりである>と言う事だけなのだが、その見たとおりに対して、工場の内部の諸物の一つAを、<工場にゲーム機械がある>と表現するのです。工場の内部の諸物の一つであるAを、誰かが外に持ち出したとして、その後に工場に入って内部を見回すと、私の目には見たと通りに見えているだけなのです。先ほど外に持ち出されたゲーム機械は、私が工場の裏で見た通りにあるが、再度工場の内部を見れば、私が経験して記憶として成立している<工場の内部にあるゲーム機械>と言う表象は、現に見えている工場の内部のありのままと重ね合わされると、私の頭脳の中で、はじめて<ゲーム機械がない>と言う言葉に表される認識が成立するのです。
ありのままに見えている事は、たえず現在であって、充足も不足も無いが、その現在の知覚内容の対象の同一性と記憶の知覚内容を重ね合わせると、増えたモノがあったり、無くなったりと言う判断が形成されるのです。工場の内部の諸物の継続的な存在は、私の記憶の中で、私が存在し続ける様に、存在し続けると、現にあるそのままの知覚内容と記憶の内容が重ね合わされるのであり、その重ね合わせと言う判断として<無い>と言う言葉が表現されるのです。いま見ているこの工場は、昨日見た工事と同一であるからこそ、その同一と言う内容の上で、現に見ている内部の状態を重ね合わせる事ができるのです。例えば二枚の写真があり、一枚にはA工場の全貌が写り、一枚にはB工場の全貌が写っている。二枚の工場の比較をするのは、両者とも<工場の全貌>と言う同一性の点によるのです。そこで一枚には<煙突がある>と言う事になり、一枚には<煙突がない>と言う言葉に成るのです。一枚一枚の写真は、そこに見た通りに写っていると言う事で全てであるが、その写真のどれも別々の工場であっても、全貌と言う点で<同一>を写していると、判断される事で、初めて私達は、両者を比較するのです。そこで比較しない限り、単にそこに<あるとおり>と言う事で済んでいたものが、一枚には<煙突がある>、もう一枚には<旗がはためいている>と言う事で済んでいたものが、比較する事で、<煙突がある>一枚の写真と<煙突が無い>一枚の写真と言う言葉が表されるのです。つまり、<煙突がある>と言えるのは、その一枚の写真だけで成立するが、<煙突がない>と言えるのは、一枚の写真からは生まれてこないのです。一枚の写真自身にとって<煙突>は、一切関係無いのに、<煙突が無い>と言われてしまうのは、その写真に工場の全貌が写っていると言う事で、別の写真の別の工場の全貌とが、<全貌>と言う事とで、関係をつける私達の思惟の働きかけによるのです。<私達の思惟による働きかけ>と言っても<主観的な間に合わせ>ではなく、一枚の写真に写っている見たとおりのモノに全てがあるのです。全てのモノ同士は只そこにあると言う事であるが、そのもが持つ属性によって相互に関連するのであり、私達は、その関連を<関係>と言う考え方に方向づけるのです。だから、一枚の写真には<煙突が無い>と言う言葉が唐突なのではなく、<煙突がある>と言う判断を前提にして、そこから思考が始まっているから<煙突が無い>と言う言葉が生まれてくるのです。

<Nobody>と言う言葉は、表象としてあるモノと現実の知覚とを重ね合わせた時、<私は、誰も見ていない>と言う表現があり、その表現と同一の内容を別の表現形態としてあらわしたのです。<私は、見る>と言う表現にあって、その見られる<対象>を想定するのであり、その想定された対象が<実体>として規定される事で、初めて<あるもの>が対象になるのです。私はこの道に1時間ほどたっていた。その1時間の間この道にいた私は、猫を見たり、犬をみたりしていたのである。これがその時の客観的な出来事です。そこで他者Bさんが私に聞くのです。<この道を人が通りませんでしたか>と。他者Bさんは、この道にいなかったので、午後2時からの1時間の間にここを通ったものがいたのかどうかを確認したいのです。このBさんの問いに対して私は<私は、誰も見なかった>と答えるのです。私にとってこの道における客観的な事は、猫を見たり、犬を見たり、鳥を見たりしていると言う事である。それに対して、Bさんにとって午後2時からの1時間の間には、ここの道にいなかったので、その道での客観的な出来事についての知覚が無いのである−−他の場所での客観的な出来事の知覚はあるのはあたりまえなのだが−−が、しかしその間の出来事についての自分の五感を使った<知覚>では無く、自分が経験していない事についての知識を得ようとするのです。Bさんにとって今問う事もその問いに対する答えを聞く事も、すべて<知>の次元の問題であり、頭の中の思考の問題となるのです。Bさんが私に問うのは、私が経験していた客観的出来事の中に、つまり私が五感で知覚していた内容に「道を人が通った」と言う事があったかどうかと言う事なのです。そこで私は答えるのです。私の視知覚の対象に<人>はいなかった。鳥や猫や犬は対象になっているが、人は対象になっていないと言うことなのです。そこで<Nobody>とは、「対象になっていない人」と言うことになります。「私は、対象になっていない人を見る」となり、<対象になっていない>と言う事は、結局見ていないと言うことなのです。「見えていない人を見る」と言う言い方は、自分の目で見ているが、見えていないと言う<見る>方を考えてしまうのであるが、見ると言う働きの中に、見られる対象が存在しないと言う対象側が取り上げられ無ければならないのです。瞼を閉じれば、目の中の光りの瞬きがみえていても、モノからの光りの反射が遮断されて眼球の中に入っていかない為に、一切のモノが対象にならないと言う事なのだが、今回の場合私が2時からの1時間の間には、人に反射した光りが、私の目の中に入ってきていないと言う事であり、それを<私は誰も見ない>と言葉にするのです。客観的には<私は鳥を、猫を、犬を見ている>と言う事であるが、その私が<誰も見ていない>と言う言葉を使う時、私に生じた客観的出来事とどの様に関連するのかと言う事になります。私が視知覚した経験としての客観的出来事の<対象>として一匹の犬や親子連れの猫や白い鳥や柳の木々があると言う事に対して、私が反省的思考を行うのです。その反省的思考の中で<視知覚−−対象>と言う構造の知を介して犬や猫や木々や鳥が対象である様に人間も対象になっているかどうかと言う問いが成立しているのです。私がBさんから突きつけられた問は、この道に立っていた時に私の見聞きしたことの内容を表象している事が、同時に<視知覚−−対象>と言う構造に付いての知を媒介に上に、<人>と言う像が成立しているかどうかを見つけるようにして下さいと言う依頼なのです。私がその時間帯のことを思い浮かべるのは、ひょっと浮かぶと言うことであるときもあれば、思い出すようにと言う依頼で思い浮かべる事もあるが、ただ思い浮かべてる内容の中に、人という表象があるかどうかと言うことなのです。その表象は私が思い浮かべると言う働きで形成されるのであるが、その表象が成立する原因は、私が自分の目で人を見る事なのであるからこそ、Bさんは私に<見たか>と問うのです。そして私が<誰も><見なかった>と答えるのは、<見る−見られるもの>と言う関係を具現した人の表象を否定をするからなのです。

その森に入ると、物の付いている名前の記憶が、私達の頭から消えてしまう。物自身が自ら<名前>を名札の様に身につけているのではない。物に対して、私達人間が名前を付けるのである。私達は、物をその固有の性質で取り扱うと同時に、名前を介してその物についてコミュニケーションを行うのです。その森に入ると物の名前の記憶が無くなってしまっても、目の前にあるものを手に取り、食べる事が出来るのであり、それを名前で呼べば、<りんご>と言う事になります。さて問題は、その森に入ると<物の名前>の記憶が無くなりるが、しかし<物に名前が付いている>と言う事の記憶は無くならないのです。だからこそ<この、この、エーと、>と言う口ごもりが生じてしまうのです。口からストレートに出ないのは、物に名前が付いている事は分かっているが、今目の前の物の名前が分からないと言うことなのです。それは例えば、私が野山を散策しているとき、木々や花々を見ていて、ひまわりとかコスモスと言う名前は分かるが、後は全く分からない場合、ただ木々とか花という理解で終わってしまうのです。多分な名前と同時にそれぞれの花や木の特有性を覚える事で、名前が口に出るときには、その名前が指示している花の表象が出てくると言う事になります。ただその名前で呼ばれる花の特有性のうち、私達の体の健康に効く成分があると言う知識を得られるかどうかは、名前を覚える事とは別のその花の物という特性を覚える事であり、実際にその花を煎じて薬にした物を飲む事で、体にどんな変化をもたらしたかと言う所までの過程を理解する事なのです。

<物に名前が付いている>という事と<この物は、林檎と言う名前である>と言う構造なのです。前者が概念であり、後者はその概念の現実態であり、<概念は、現実態として表れる>という事が概念の本質と言う事なのです。つまり、「私の目の前の物に<林檎>と言う名前が付いている」という事が、<名前>と言う言葉に表れている概念の現実態と言うことです。それは結局この様な文として表れていると云う事なのです。<A−りんご><B−みかん><C−西瓜><D−クリ><E−鯨><Z−ダイヤモンド>・・・・という事は、それぞれに名前があると言う、あるいは指示すると言う事であり、<モノ−名前>関係の現実態であると言うことなのです。だから<A−?>と言う名前を思い出せない場合でも、<モノ−名前>と言う関係を知ってはいても、具体的なこのものであるAの名前が思い出せない事か、あるいは知らないかと言う事なのです。新しいモノが生まれて来た時、それにも名前を付けると言う実践があるのです。
日常的には<一般論−具体論>と言う区別で示している事は、概念とその概念の現実態と言う事であるが、重要なのは、概念の現実態の成立が、ヘーゲルの様に概念自らの働きに依って成立するといった考え方ではなく、「概念の表現としての言葉が、モノを指示する」と言う言語表現をを経る事で、初めて成り立つのです。概念は言葉として表現され、その表現としての言葉が、概念が生まれてきた対象物に指示として関わる事で、その個別的で具体的な対象物自体が、概念の現実態となるのです。
ミル「固有名=固有名詞には、特定の対象への<指示>機能があるだけで<意味>はない。アリストテレスと言う固有名は、対象に貼られた<レッテル>のようなもので、レッテル自体には<意味>が無い。レッテルは、例えばガラス容器に貼られる事で始めて、その役割をはたすのであり、容器とは別な所では、何の意味も無いと言う事。容器との関係ということであり、容器を離れている事を<自体>と言うのです。白い紙に<アンモニア>と文字が書かれていても、容器にはってないかぎり、単に紙に文字が記してあると言う事だけであり、その紙を容器に貼ってあれば、はじめて書かれた文字と紙とが、レッテルと言う役割を果たすのです。容器に入っている液体が、特定の性質をしたモノである事が、表現されているのです。現にいまその容器に入っている液体があり、その液体が何であるかと言う事、つまり液体の特定の性質について、貼られているレッテルの文字が表していると言う事なのです。文字は、液体の特定の性質について表しているのであるがその文字を記した白紙を容器に<レッテル>として貼る事で、その容器の中の液体が<アンモニア>と言う言葉であらわされる、特定の性質を持つと言う事になるのです。つまり、文字に記されている<アンモニア>と言う文字は、特定の刺激や皮膚を溶かすと言う性質を表しているのであるが、その文字を<レッテル>として貼る事で、容器の中に入っている液体がその性質を持ったものというとになる。文字が<性質>を表していると言う事と、その文字を記した紙が<レッテル>として貼られている容器の中に液体が入っていると言う事の区別をたてるのです。
今私達は、自分達の前に透明な液体あるのを知覚している時、その液体に特定の性質がある事を他の液体とまぜたりする事で知ることができるのです。その知られた性質を例えば<アンモニア>と言う文字に表す事もできるのです。その<アンモニア>と記した紙をレッテルとして貼る事で、現にある透明な液体を、透明であると言う事しか分からなかったものから、特定の性質である事を概念として知り、その液体を他の液体とまぜる事で、その液体の特定の性質が表れているのを知覚するのです。私達が自分の目の前にある透明な液体についてその性質を認識するのは、その液体が例えば皮膚に触るとか、他の液体と混合するとかであらわれる事を対象にして成立するのです。
文字はある特定の性質を表現しているのであり、字義の通りからすれば、例えば透明な液体についてその性質が認識されると、その頭脳の中に成立している認識を頭脳の外に文字として出す事を表現するとしているのです。この文字における表現形態は、外部の文字と頭脳の内部の認識と言う関係として成立しているのです。頭脳の内部にある認識としては、対象の種類と言う側面が、性質として認識されていると言う事であり、性質は認識の内容としてあるが、対象については、それらの諸性質の束としてあると言う方向に行くのです。玉葱の一枚一枚の皮が、各性質の認識を表すなら玉葱とは、その皮の纏まりとしてあるのです。それに対して文字として表現されている認識がレッテルとして貼られる事で、その容器に入っている液体は、そのレッテルに記されている文字が表現している<アンモニア>と言う性質の現実形態としてあらわれるのです。諸性質の束では無くて液体自体が、文字として表現されている性質の現実形態と言う事なのです。
認識のレベルでは、対象は、自体とその属性と言う区別を得る事になり、さらに自体と属性とは属性の集合、集まり、束が自体であると言う事になるのです。属性とは一つ一つの性質を言うが、自体とはその属性の集まりと言う事なのです。ただこの考え方では、沢山の属性に対して<幾つ>集まると自体になるのかと言う事が問題になって来るのです。<幾つ>集めるかと言う以前にすでに自体と言うものがあるのです。
クックは、自分たちが初めて見た動物に対してその呼び名を知ろうとして原住民に尋ねる。
原住民は「Kangaroo」と答えるのです。クックはその「Kangaroo」と言う言葉が、その動物の呼び名であると判断したのです。しかしその言葉は、その動物には一切関係なく、別の言葉で表せば「貴方の言っている事が分かりません」と表せる言葉なのです。「Kangaroo」と言う言葉は、原住民の言葉にも関わらず、その発音が、その動物を指示するモノとして成立してしまったのである。ここで何故その発音なのかと言えば、言葉としては、「貴方の言っている事が分かりません」と言う言葉と同じ意味を持っているからです。そこにいる特定の動物に対して、指示として「Kangaroo」と言う言葉が成立したのです。
では「貴方の言っている事が分かりません」と言う言葉に付いてもう一度考えてみる。別々の国の言葉を話している二人の人がいて、甲が問を出すが、乙は彼の音声は耳に入るが、言葉として分からず、自分の思いを発声するのです。それが「貴方の言っている事が分かりません」と言う言葉になります。乙に取って自分の目の前の人が、発声をしている事は、その音が耳から入ってくる事で分かっている。しかしいま甲の発声からは、自分たち仲間同士の発声から得られる相手の言っている事が分かる様な、言葉が分かる様な事が生じていないのである。それは例えば猫の鳴き声を聞いても言葉として聞いているのでないから、猫が何を言っているか分からないと決して言わない事と対極しているのです。何らかの感情から発声しているのであり、食べ物をやって見ると言う事で済ませるのです。つまり、甲の発声も猫の発性も、乙に取っては同じ単なる音声でしかないが、ただ甲の場合自分と同じ形をした人間であると言う事が分かるから、その発声は猫の発声と違って、自分達が発する音声が言葉である様に、たぶん言葉であると言う予想出来るのであり、だからこそ<何を言っているのか分からない>と言う判断に成るのです。甲の発声する音声を<言葉>として理解する事は、乙が自分達の発声を<言葉>として理解している構造を、そこに捉えると言う事に成るのです。「乙が甲の発声している音声を聞いていても、その意味が理解出来ていない」と言う言い方は、第三者が二人を見おろす立場から観察して言っている事であるが、しかしその音声を理解できていないのは、あくまでも乙であって、その乙の思考が、言葉として発声されている事に成ります。甲の音声に対して、甲の仲間は意味が理解できているのに対して、原住民たる乙達に取っては、意味が理解出来ていないと言う事です。甲の発声する、意味を持っている音声としての<話し言葉>に対して、それを耳で聞き、音声が頭の中に入っていくと同時に、音声が持っている意味を取り入れる事が出来る者と、音声が耳に入ってくるがその意味を取り入れる事が出来ない者とがいるということなのです。
「貴方の言っている事が分かりません」と言う言葉は、乙が五感で知覚している内容に付いての彼の判断が表されているのである。乙にとって、甲の発声現象が対象になるが、この時の対象である発声現象は、風の音、川のせせらぎと同一レベルでしかない。それが特定の現象である事、つまり特定の対象である事は、結局<言葉である>と言う対象である事は、その発声現象に意味が付いていると言う規定による対象である事なのです。そしてここからややこしく成るのです。言葉と言う発声現象に意味が付いていると言う事は、私が背かにリュックサックを背負っている様に、発声現象たる音に別の何かである意味が付いていると言うことではないのです。つまり音に対して音以外の実体が重なっているのではないのです。それは音に対して関係として成立するモノがあると考える事です。私という現にいまここにある存在に対して、もうすでに死亡してこの世界にはいない人々であるのに、祖先としては成立っている様に、あるいは私に対して別の人が兄弟として関係する様に、関係としてあるものと言う事なのです。では音に対して関係するモノとは何でしょうか。それが概念と言う事です。音と概念とが関係し、その関係を持っている音を言葉と規定するのです。音と概念との間にある関係あって、その関係を担う音を−−この関係を言葉で言おうとすると、どうしても実体的に表現せざるをえないのであり、だからこそ音という実体に対して、赤ちゃんを背負う様に、音が関係を担うと言わざるを得ないのですが、音自体を考えると、音韻による音相互の差異が成立する事であり、その差異によって出来る多数の語彙と言う形態に対応した概念が関係づけられると言う事なのです。差異があってもどの語彙もみな物理的には音であり、空気の振動として成立しているのです。音が音韻による多様な形態を形成すると言うことです。−−、はじめて<言葉>であると言う事ができるのです。すると音がマイクロホンからはいり電流の変化として電線を導通しスピーカーのコーンを振動させると音としての言葉が響いてくる時、音韻という各音の違いによって成立している各語彙が、発声されてマイクロホンから入るとき、各語彙の音の変化と電流の変化を、1対1の対応させる事で、導通した電流がスピーカーを振動させると、その振動は各語彙の音の振動として表れるのです。各語彙の差異にたいして各概念が関係している為に、スピーカーから出る音にもその関係が継続しているのです。つまり、マイクロホンから入りスピーカーからでる間の電流の導通が一定している為に、話した音とスピーカーから出る音が、同じ音韻として成立するのです。安物のスピーカーからは歪んだ音になる場合があるけれども。
音と概念の間の関係が客観的であるとは、私達が子供の頃から言葉を覚える時に、音韻による音の規則とその音韻の組み合わせのそれぞれに一定の概念が関係している事を言うのであり、その関係は覚える事であり、だからスピーカーから出る音に言葉を知るのは、その音韻から一定の概念が想記出来るからです。その音韻による一定の音声表象と一定の概念の関係が<一定>であると言う事が、客観的関係と言う事に成ります。外国に出かけて看板やスピーカーから流れ出てくる人間の発声に、言葉としての意味を理解できないのは、それらの文字や音声に成立している概念との一定の関係を私が覚えていないからです。スピーカーから流れ出る音の音韻としての規則性とその規則で成り立つ語彙に一定の概念が関係している事を覚える事なのです。九官鳥は音の音韻としての規則性を発音出来ているが、そこに成立している概念との一定の関係を捉えていないから、<小竹さん、おはよ>と発音しても、けっして話言葉では無いと言うことなのです。
音は音韻と言う側面から考えられるとしても、では頭の中にあるとされる<概念>と言う言葉の正体は何でしょうか。それはモノの種類と言う側面の認識として頭脳の細胞の働きとして成立しているのである。ただこれだけでは、音声が物理的な空気の振動としてあり、それを耳で知覚出来るモノと考えられるの対して、概念は、頭の中の私秘的なものとなって、本人にしか分からないものとなってしまうのです。確かにいまの上の様な考え方からすれば、概念は私秘的な存在になってしまう。しかし<概念>と言う様に、この言葉に表される<何物か>であるモノに対して、その何物かは言葉として表されているのであり、表される言葉としてその姿をみせているのです。その表されている言葉が、認識の対象を指示する時、対象は種類と言う側面にしか注意がいかなかったのに、ここに来てはじめて、言葉の指示される対象自体が、そのままの姿で、言葉に表される<何物か>の現実的姿と言う事になるのです。つまり、対象の<種類という側面>ではなく、対象自体かそのまま<種類>の現実態ということなのです。対象の沢山ある側面のどの側面なのかが限定出来ないのです。例えば、私の目の前にある対象に対して、<ノート>と喚んだり<文房具>と喚ばれる時、目の前のモノのどの側面なのかがが、指示できないのです。つまり、指示はあくまでも目の前のモノ自体であるのです。それを私の目の前のモノが「林檎ぐらいの大きさで、まん丸く、赤い色をしている」と言う時、そのモノの<色と言う側面><大きさと言う側面><形と言う側面>と言う言い方が出来るために、どうしても<側面>と言う思考を作らざるを得ないのです。これは対象に付いての認識と言う考え方であるが、ただ認識は私達の身体活動を導く地図としてあると言うレベルで考えれば、認識は表現を介して認識の対象に関わっていくと言う事が忘れられているのです。さて<種類と言う側面>が、頭脳の上の超感性的認識として成立する事を、普遍的な認識と言うなら、対象自体がそのまま、その普遍的認識の現実態と言う個別的認識と言う事になるのです。それはあたかも普遍的から個別的に<認識>が。具体化したと言う様に見えるのです。ヘーゲルはそれを理念自身の運動であると言う規定しているのです。しかし理念の自己運動なのではなく、表現形態を介した運動であると言う事なのです。普遍的認識が、物質の表現形態において、その表現の個体がその姿のままで個別的認識でもあると言う事を、あたかも普遍的認識自体が、個別的になったと結論されているのです。
甲の発声現象が対象に成るとは、乙の五感によって存在として知覚されていると言う事であり、その存在として知覚されてい対象に<言葉>としての内容を理解しようとする事で、初めて意味が分からないと言う判断が成立するのです。単に音現象であるなら、「私の座っている部屋の右窓の外で音がする」と言う事で、音の来る方向とか、モノが落ちた音であるらしいとして理解されるのです。その<ではないかと言う理解>は窓を開けて外を見る事で、壁に立てかけていた自転車が地面に落ちたお音であると言う様に確認出来るのです。単なる音とは区別され話し言葉の音声には、意味が付いていると考えるのです。単なる音と言う事であれば、話し言葉の音は、人間の喉から出る音と言う事であり、猫でも犬でも牛でもない音としての人間の声と言う音に成るのです。そしてその音に意味が付くことで、人間の声が<言葉>と規定されるのです。この音に意味が付くと言う事は、音と概念が関係する事なのであるが、しかしその概念を<意味>と理解してはならないのです。何故なら、関係と言う事は、音と概念がそれぞれ独立していると言う事であり、例えば喉を痛めて声が出なくとも、概念だけは頭の中に成立していると言うことなのです。その概念と音との間の関係が成立し、その関係を担う音の事を<言葉>と言うのです。私ともう一人の人の間にある関係に対して、私がその関係を担う事を<弟>と言い、他者がその関係を担う事を<兄>と言うのです。さて当然概念もその関係を担うのであり、その関係を担う概念を<意味>と言うのです。
そこで<関係>を担う音や概念の正体とはどうなるのか。まず音は、音韻と言う差異によって語彙として成立し、同時に概念がその語彙に対応して分化していくのです。
乙の耳に聞こえている甲の声は、<言葉>であるはずなのに、つまり自分達が話すような言葉なのに、そして自分達の言葉は聞けば理解できるのに、全く分からないのです。甲の話す言葉とそれを聞いて判断する乙の思考が、この言葉に表されたのです。<分からない>と言う言葉が、乙の思考を表し<貴方の言葉>と言う言葉が、乙の判断している内容を表す。その内容は、甲の話し言葉を対象にした乙の頭の中に認識−−甲の音声を音として耳で聞き、聞いて頭の中に入ってくる音声表象を言葉と言う概念に照らして、意味を知ろうとするが、意味が分からないと言う判断として成立するのです。−−として成立しているのです。
自分の仲間同士の間での言葉のコミュニケーションの様に他者や自分の発声に意味を理解する事が出来ているのなら、まさにその様に成らない今の自分がいるのです。私に取ってテレビドラマの主人公が話す日本語は、端的に分かるのです。ただヘーゲルの論理学と言う書物を読んでも、日本語として<あいうえお>と言う言葉としては読めるが、全体で何を言っているのか分からないと言う言い方に成る。ちんぷんかんぷんである事なのだが、外国語が分からないのではなく、個々の語彙は分かるのだが、その語彙が繋がった全体に成ると分からないと言う事です。

    「三浦つとむは言語過程説を踏襲しつつも時枝の意味論を修正し、関係意味論
    を提案した。すなわち、「音声や文字にはその背景に存在した対象から認識へ
    の複雑な過程的構造が関係づけられている。このような音声や文字の種類に結
    びつき固定された客観的な関係を言語の意味という。」と説明している。対象
    や話者の認識は意味そのものではなくて、意味を形成する実体だとする説明で
    ある。これによれば、意味は話者や聞き手の側にあるのではなく、表現そのも
    のに客観的に存在するのであって、表現(音声や文字)の消滅と共に、そこに
    言語規範によって固定されていた対象と認識の関係、すなわち意味も消滅する
    と言うことになり、従来の意味論の持っていた基本的な問題点が解決を見たと
    思われる。」
音声や文字とは、私が耳で聞く人の喉の声帯の振動する音であり、白紙の上のインクの跡を言う事になる。それらの存在に対して、<背後>と言う言葉を考えてみる。「まず母親の背後に隠れた2歳の子供」と言う場合、二人の人間の位置関係を示して居るのであり、二人はあり方としては同等なのです。その同等のあり方をしている二つのモノが、特定の位置関係をなしているのであり、だから<背後>とは、母親と呼ばれる人間の存在に対して背中と言う身体の面を前にした位置に子供と呼ばれる人間がいると言う事なのです。とすると<音声や文字>の<背後>と言う事は、声帯の振動である音とインクの跡である文字の<背後>と言う事で、私達の頭の中にある観念とか概念を想定しているのであるが、しかし問題は子供と母親の<背後>の例の様に、二人の人のそれぞれの特性に即した位置関係と言う規定が成立しているのである。今の場合母親の身体の特性のうち<背中>の側面に位置している事を<背後にいる>と言うのです。とすると<声帯の振動やインクの跡>の<背後>と言う事で、<声帯の特性>や<インクの跡の特性>を明らかにしなければ成らないのです。その特性が明らかにされて、インクの跡も声帯の振動もはじめて背後にある観念や概念と<言語と言う関係>を結ぶと言うのでしょう。声帯の振動とは、あくびの音も声帯の振動であり、くしゃみも振動であるが、それが特定の性質を持つとは、声帯の振動が<音韻>と呼ばれる特性を得ることなのです。男性の低い声も女性の高い声もがらがら声も絹を破いた様な、別々の声なのに<音韻>と言う同一性を持つと言う事なのです。その音韻は話し言葉としてあり、また書き言葉として<あいうえお、かきくけこ、さしすせそ、・・・・>として表すのです。ただし話し言葉は開くのでも<話す>と言う事で声帯の振動であり、耳から聞くことであり、それを<話し言葉>と記しているのは、書き言葉として表していると言う事であって、この書き言葉を書きながら、あるいは読みながら、了解されているのです。
<インクの跡>が特性を持ち文字と呼ばれるのは、その線が作る特定の形をなす事で、<いろは・・・>48文字のひらがなを作り出しているのです。インクの跡であろうと、墨の跡であろうとその線が形成する形が、インクの跡であっても文字と呼ばれるのです。さらに<未>と<末>の違いが、横線の長さの違いが、言葉の違いとい言う事なのです。その<いろは>と言うインクの跡の背後に概念や観念が存在する事で、<いろは・・>はじめて、文字としての書き言葉になるのです。その<いろは・・>の背後に<概念、観念>があることで、<わたし>と言う文字に特定の概念がつき、<あなた>と言う文字に特定の概念が付くと言う事なのです。
その「インクの跡や声帯の振動」<A>の背後に存在した<対象から認識への過程的構造>「B」が関係づけられているのであり、このAとBとの間に成立している関係こそが、インクの跡たる書き文字が持つ意味と言う事なので。つまり、意味がその両者の間の関係を指し示すと言う事は、Bはその意味という関係を形成するモノとして成立しているのであり、関係を形成するモノを<実体>と言うのです。インクの跡である書き言葉が意味を持つとは、そのインクの跡を知覚する事とで同時に背後にある概念との間の関係を意味として理解すると言う事です。話者の発した書き言葉は手によって筆記されたそのインクの跡とその背後に存在している、対象からの認識として成立している概念との間の関係を、持っているのです。聞き手がその文字が読むとは、視覚から知覚したインクの跡とそれが持つ関係を捉える事であるが、私達が言葉を覚える過程で対象からの認識と、文字としてのインクの跡との間を関係づけているのであり、だから他者の言葉を耳で聞くときに、その覚えた関係(インクの跡−概念)を前提にして、他者の想定している概念を、関係のレベルで想定するのです。話者は、自己が作り出している対象からの認識を、<インクの跡、声帯の振動−概念>と言う関係にして、現実の発声や文字として発話するのであり、聞き手たる私は、彼の言葉を聞く事で、その言葉の持つ<インクの跡−概念>を頼りに、彼の認識を認識するのです。彼の頭の中にある認識に対して、頭蓋骨を開いてのぞき見ると言う事ではなく、認識が<インクの跡−概念>の関係の概念に成ることで、逆にその概念から認識に辿りつくのです。あるいは彼の認識と同じ過程により自分の中に認識するのです。彼も彼女も私も貴方もそれぞれが自分の頭で認識するのだから、他者と関わる構造に成っていないのであるが、しかしそれぞれの認識が、対象についての認識であると言う事で、対象を共有し、認識の同一性を自覚するのです。しかしさらにその認識を<インクの跡−概念>として言葉に表現し、その言葉を概念の生まれ所である対象を指示するモノとして働かせると、認識としては個々の人間の頭の中に秘蔵されていたはずのモノが、対象自体の姿のままで、概念の現実形態となるのです。概念と言う認識は、対象の奥深いどこかに潜んでいるものを捉えているのではなく、対象自体がそのままで、概念の現実態となっているのです。

意味と意味を形成する実体と言う区別です。インクの跡に<言葉としての意味>があるのは、インクの跡が<あいうえお>と言う文字として成立することで<意味>を持つと言う事であり、そのインクの跡が、対象からの認識として成立している概念との関係を形成している事を、インクの跡が<言葉としての意味>を持つと言うのです。あくまでも関係出合って、インクの跡が概念を背負うように持つのではなく、概念は概念としてありながら、インクの跡と関係を結ぶと言う事なのです。インクの跡は白紙の上にあり、概念は頭の中にあるのだから、両者が関係を結ぶにしてもその構造が分からないではないかと言う疑問は、白紙の上のインクの跡が、単にこぼれた泥水の痕跡ではなく、あくまでも文字としてあると言う事なのです。色を帯びたインクの跡であり、達筆なインクの跡であり、みみずがはうようなインクの跡出合っても、それらがどれも文字として規定されるのはインクの跡が作り出す特定の線の形が、人間の意図によつて作り出されると言う、私達の頭の中で作成される表象にもとづいて、手書きされていると言う事なのです。頭の中に表象として存在する文字の形と概念を、私達は関係づけているのです。頭の中で成立している文字表象と概念の関係は実際の手書き文字が、概念が認識として対象にしていたモノを指示する事で、レッテルと言った指示関係としてある事で、その姿を見せているのです。頭の中で成立している文字表象と概念の関係のうち概念は、その出性の場所たる対象に戻るのである。文字表象の現実態である文字が、レッテルとして対象を指示する事で、対象は、つまりその属性としてではなくその姿のまま、概念の現実態となるのです。文字表象と概念とが形成する関係を規範として規定するのは、その規範に則って現実の言葉が成立すると言う事なのだが、<則って>と言う事で、両者の形成する関係が、現実的には、対象とその指示としての言葉としてあると言うのです。対象の特定の側面に関わる認識が言葉として表され、その表された言葉が、今度は対象を指示する事によって、対象自体がそのままで、特定の側面でしかなかったはずの認識の現実形態となるのです。つまり、特定の側面ではなく自体がその姿のままであらわれるのです。認識のレベルでは、特定の側面と言っても、その特定の側面(a)を取り出す為には、他の特定の側面(b)を取り出して、bではないaと言う様に言葉を重ねて行かなければ成らなくなるが、認識が言葉として表され、その言葉が対象を指示することで、対象が全面的に認識の現実態となるのです。どの側面がと言う必要も無く、よけいなモノを抽象しいて残ったモノがとも言う必要もなく、対象がそのまま現前するのです。
私達は、日々の実践の中で、認識の表現を介して対象に向かうのであり、その表現が向かう対象がそのままの姿で、認識の現実形態となるのである。しかしその実践で得た対象についての認識を反省すると、対象とその属性と言う区別を立てざるえないのです。カントの<物自体>が、多様な属性を抽象した最後に残る物であり、私達の認識はその属性を知覚する事で成立するのだから、認識としては<物自体>は、知覚されない事になるのです。認識とは属性を知覚する事であり、その多数の属性を知覚し、結合する事で、物自体の認識になると言う推理をするのです。しかし認識を<対象−認識−表現>の過程として見ない言い限り、多数ある属性を幾つ結合すると統一体に成るのかと言う問題が生まれて来るのです。たとえ一つの属性であろうと、その属性の知覚としてうまれる認識を表現する事で、表現物を対象を指示する事で、一つの属性を持つ対象が、そのすがたのままに認識している属性の現実態と成るのです。つまり、認識としては一つの属性なのだが、しかしその対象そのものが、一つの属性として認識されているモノの現実態と言うことなのです。

「対象や話者の認識は意味そのものではなくて、意味を形成する実体だとする説明である。これによれば、意味は話者や聞き手の側にあるのではなく、表現そのものに客観的に存在するのであって、表現(音声や文字)の消滅と共に、そこに言語規範によって固定されていた対象と認識の関係、すなわち意味も消滅すると言うことになり、従来の意味論の持っていた基本的な問題点が解決を見たと思われる」
聞き手自身の認識が、話しての話の理解にどう関わるのかと言う事です。まず<話し言葉>と言う表現そのものに、客観的に存在する意味とは、<特定の声帯の振動=音韻>と<特定の認識=概念>との間の関係が、話し言葉に備わっていると言う事であり、その備わり方を客観的と呼ぶのです。私達が生まれてから言葉を覚えて使って行くのは、その関係を覚えると言う事です。その覚えた関係を頼りに他者の発した言葉に接した時、彼の言葉にあるその関係と自分の知っている関係を照らし合わせるのであ留が、しかしその関係を照らし合わせると言う事で終わりなのではなく、彼の言葉が指示する対象を、私自身の五感で知覚して、その関係を形成した概念の現実態であると言う了解をするのです。私が韓国語のハングル文字を見ても、単に線と丸と四角のインクの跡でしか無いのは、そのインクの跡を声帯の振動として現れる音韻を知らないのと、さらに特定の認識たる概念との関係を知らないからなのです。例えば、私の目の前にある<」>に対して日本語では「林檎」と言う名前であると覚えることは、同時に概念としては、特定の形態をして、果物と呼ばれる食べ物であると言う事を覚えると言う事なのです。
<特定の声帯の振動=音韻>=<りんご>と言う音声と、<特定の認識=概念>=「その形をした果物と言う食べ物」と言う事を覚えている事なのです。そして<」>を<りんご>と言う言葉が指示するのは、まさに指示されている<」>が、その概念の現実態と言う事であり、実際に<」>を手に取って食べて、その独特の味を味わい、腹を満たすのです。猿も象も<」>をとって食べるのであるから、そのものが食べ物に成ると言う現実を実践しているのです。つまり、対象たる<」>を知覚してその属性が食べられるものであると判断しているが、その判断を特定の声帯の振動たる音韻として発声できないと言う事なのです。<」>と言う対象に対してその属性が<食べられるもの>として認識され、その認識を<リンゴ>と言う音韻に関係づける事で、名前が作られる。その名前を<」−りんご>と言う指示とする事で、「食べられるもの」と言う概念の現実形態として<」>が現れるのです。その現実形態として、食べてみれば独特の味がある食べ物であるという感覚が成立してくるのです。<食べられるもの>が概念であると言う事は、<」−人間の食欲を満たすモノ>と言うレベルの事だが、と言うことは他にも食べられるモノがあるのだが、しかしその概念が言葉として表され<」>を指示する様になると、対象たる<」>は、それぞれの栄養素の違いや酸っぱいとか甘いとか辛いとか苦いといった独特の味の一つであることが分かるのです。普通それを<リンゴの味がする>と言う様に、感覚で知覚した独特の味をする<」>を対象として指示している言葉を使って表現するのです。
話し手たる他者の<リンゴ>と言う言葉を聞いた私達は、その言葉から<」>を表象して思い浮かべるのであるが、同時にその思い浮かべている<」>に対して<」−名前としてのりんご>と言う事も前面に出してくるのです。単に偶然に思い出したのではなく、彼の<リンゴ>と言う言葉が、名前であるという理解をしているのです。つまり、表象としての<」>と<りんご>と言う音韻表象は、頭の中の別々の領域にあるのですが、私達はその別々のモノを、<名前>と言う指示関係を表す概念によって、両者を結合するのです。さらにその思い浮かべた<」>は、食べる事で五感から知覚された<独特な味の食べ物>と言う認識を<食べられるモノ>と言う概念に抽象して、<リンゴ−食べられるもの>と言う規範関係を作り出すのです。<リンゴ>と言う音声表象と対象たる<」>の表象の間の関係を認識してに概念化したものを言葉に表したモノが、<名前>と言う事なのです。<」>を対象にしてその形や色や味等の総体が認識されて<リンゴ>と言う音韻と関係をつけるのです。両者があってその間にあると言う、言葉にすれば<関係>と言う言葉に表現されるものを考える。両者がまずあり、その間にあるモノが、関係という言葉で指示されるのです。両者は私達の五感で知覚出来るが、そ間にあるとされる<関係>と言う言葉が指示するモノは、どの様に知覚されるのかと言う事に成ります。
<」>と<りんご>がある。これを言葉で説明すると、前者は実物であり、それを私達は頭の中に表象として、形や色や大きさや手触りや味や重さを表象するのです。後者は文字表象であり、毛筆の跡であろうと、インクの跡、コンピュータ画面の光りの点滅であっても、線の大きさ形と言う一定の形をした表象として成立している。そこで二つの間にある関係は、後者の<リンゴ>と言う表象が、書き言葉として「<」>の<名前>」と言う事で表されるのです。両者の間にある関係は<リンゴ>と言う文字表象を<名前>として現れ、<」>を名指されるものとして現れるのです。つまり両者の間にある<関係>と言う言葉で表されるモノは、<」>を<りんご>と呼ぶと言う事で現れるのです。<」>を目の前にして、「<そのリンゴ>をとって下さい」と発話するのは、<」−りんご>と言う約束に則って、両者の間にある関係である<名指される−名指す>と言う概念の現実態になるのです。<」>にたいして<−−みかん>でもなく<−−すいか>でもなく<−−りんご>と言う約束ができ、両者の間の関係は、<名指される−−名指す>として現実化されるのです。私達が<」>に対して、自分たちの声で<リンゴ>と呼ぶ時、言葉としては<りんご>と言う音声があるだけなのだが、しかし<」>を知覚している事と、<りんご>と発話する事で、「発話する」と言う行為が、<ものを名指す>と言う概念行為であることを表しているのです。<」−リンゴ>と言う両表象の関係は、<」>を目の前にしている事と、それについて<リンゴ>と発声する事として現れ、発話は特定の内容の言葉として現れているが、それは、名付けると言う私達の内的な概念活動の現実態と言う事なのです。私達の頭の中にあるのは、<」>と言う表象と<りんご>と言う音声表象で圧手、私はそれを頭の中に思い浮かべる事が出来るのです。さらに両者を思い浮かべながら両者を関係づけるのは、頭のどこかに両表象を見おろす上位の位置があり、そこにある何かによってまとめあげる様に見えるのです。しかし両表象を見おろす上位の位置に何かがあるのではなく、現にこの目で知覚している<」>に対して<りんご>と発話する事で、上位の位置にある何かの現実態と言う事を表しているのです。<名付ける><名指す>と言う発話行為として現れている事を、実体的に見ようとして関係と言う言葉で表したのです。関係とは、<」=形態表象>と<リンゴ=音声表象>との間にあると言う事で、両者とは別の第三者と言うあり方を考えてしまうのです。両者の関係は、言葉として表されている総体であり、個々の語彙が表す実体相互がつくる関係が、その総体として表されているのです。<」>と<リンゴ=音声表象>との関係(A)は両者の間にあると言う言い方は、関係が対象自体にある事なのだが、しかし両者とは別の第三者と言う事ではなく、両者自体が関わっているのです。
Aに対して私達はどのように知覚するのかと言う認識のレベルで語る場合、Aは<」>や<リンゴ=音声表象>のように知覚されるのでは無いのです。知覚されるのは両者であるが、両者のそれぞれの<あり方>も知覚されていて、その<あり方>に関係と言う言葉で指示するものがあるのです。「<」>は、木に成っている」とか「テーブルの篭のなかにある」と言う様な<あり方>なのです。だから<」>の<あり方>と言う時、それ以外のモノのあり方との<関係>であると言う事なのです。その<関係>を明らかにするとは、両者の<あり方>を明らかにすると言う事に成ります。つまり、<」>を知覚する時、その<あり方>まで知覚しているのであるが、それは他者<リンゴ=音声表象>の<あり方>にも規定されて来る為に、それを両者の間に<関係>があると言うのです。両者がそれぞれ知覚されるのだが、同時にその<あり方>も知覚されてはいても、<あり方>の主体たる<」>や<リンゴ=音声表象>のみが対象になってしまい、<あり方>は、<あり方をする主体>と言う属性表現に成らざるを得ないのです。この表現は一つの主体に全てを預けてしまい他の主体とのつながりを表す事が出来ていないのです。そこで初めて<関係>と言う両者の間にあるものと言う考え方が出てきたのです。