三浦つとむ<認識と言語の論理 第二部 勁草書房>

−−−−−−−−2002年01月29日−−−−−−−−
−−−−−−−−2002年12月08日修正−−−−−−−−
−−−−−−−−2004年11月22日修正−−−−−−−−

三浦さん<認識と言語の論理 第二部 勁草書房>

<人間は現実の世界の事物の区別の方法を、意識することなしに概念の区別にも適用してきた。頭の中の超感性的な透明な認識を区別する為に、ガラス瓶のレッテルに文字や記号を書くのと同じ様に方法をとったのである。超感性的な概念に感性手的な手がかりを与えて、それで区別しながら運用しながら思惟するやりかたを、自然成長的に採用し実現させたのである。P385>

まず<超感性的な概念に感性的な手がかりを与える>と言う事については、超感性的である概念を知覚する事は直接出来ないので、感性的なモノを感性によって知覚する事で、それが手がかりとなり、間接的に概念を捉える事が出来ると言う事です。どの様な<手がかり>なのかと言う事になります。

さて感性的なモノが超感性的なモノを捉える<手がかり>となると言う事について、考えて見る。
幾つかのガラス瓶の中に入っている、味とか、臭いに依って区別ができているが、透明な為、見た目に皆同じに見える液体に対して、ガラス瓶の表面に、見た目の区別を実現するレッテルを貼る事で、レッテルの区別を、中の透明な液体の区別として、実現しようと言う事をいっている。
幾つかのガラス瓶の各々に入っている透明な液体に対して、瓶に貼られた見た目の区別としてのレッテルは、内部の液体に関係なく貼られるのでは無くて、味とか匂いと言う側面からの区別に対応してレッテルが貼られているのである。ひとつひとつの透明な液体は、臭いや味で区別出来ているのであり、その区別できている液体を入れたガラス瓶に、文字の描かれたラベルを貼れば、中の液体を一々匂いや味で確認しなくとも、<ラベルの文字>と言う見た目の知覚による区別が、各瓶に入っている透明な液体を区別すると言う事になる。ラベルの文字は、液体の性質を対象にして、それを味や臭い等による、私達の頭の中に成立している認識を、文字として表したモノです。その文字の記されているラベルを個々のガラス瓶に貼れば、そのガラス瓶に入っている液体が、臭いや味を見なくとも、特定の性質の液体であると言う事で対処出来るのです。
文字を読んだからと言って、それだけで味が分かるのでも、臭いが分かるのでもないが、しかし文字を読んで了解できた内容は、目の前のこのガラス瓶に入っている液体の性質が、どんな現象を引き起こすかを考える事ができるのです。言葉による了解は、概念レベルの了解であり、その概念と鼻に来る臭いとの知覚により、このガラス瓶のなかの液体を、個別として理解するのです。
同じ大型の容器からすくい入れた、透明な液体が、五つのガラス瓶に入っている時、それらの五つの液体が、透明な為に区別がつかないのではと考えないのは、同じ液体が掬い入れたという事がわかっているからなのである。どれも皆透明であるが、ひとつの容器から入れられたのであるから、皆同じものであると言う事になる。しかしすでに入れられた後の五つの容器のなかの透明な液体から始められれば、五つの容器と言う区別があり、ただ中は透明である事では皆同じであると言う事になる。見た目にも、五つの容器であり中に入っている透明な液体と言うことで、皆透明である点では、同じであると言う事になってしまうのです。
そこで、このレッテル貼りの構造について考える。匂いや味では区別−−この液体はAの臭いがし、この液体はBの臭いがし、この液体はCの臭いがすると言う様に、一個一個の液体の性質は臭いとして知覚されるのであり、個別としてそれだけの臭いAとして、知覚されていて、それが多数の個別として個々の臭いとしてあると同時に相互の違いとしても成立しているのです−−が出来ているが、見た目では区別がつかない透明な液体が、その味や臭いの認識を文字に表しその文字の書かれたレッテルを貼る事で、あいかわらず透明な液体の見た目の区別は出来なくても、透明以外での文字の形と言う見た目の区別が、結果的に、味や臭い等による区別と同じ働きをするという事なのです。その臭いの認識と概念化した認識を表した文字との関係であり、文字を読む事で理解される概念化された臭い知覚が、実際に今知覚している臭いとどの様に結ばれるのかと言う事なのです。例えば、いま目の前にある魚を嗅いだとき、<くさい>と言葉にするのは、今鼻が感知しているモノに対して日本語と言う言葉にしたのであり、ハングルで言葉に出来ないのは、感知しているモノが無いと言う事からではなく、同じように感知しているモノに対ししていても、この臭いにこの文字の形、音声発音と言う約束事が出来ていないからです。
臭いとは、鼻が感知している、対象物に対する知覚であり、<臭い><甘ったるい><香ばしい><すえたにおい>と言う様にあるが、しかしこれらは日本語として表しているのであり、現に鼻知覚しているモノを日本語にしているのです。韓国語を知らないので、現に鼻知覚しているモノを韓国語として発声する事が出来ないのです。言葉に関係なく、現に鼻知覚しているのであるが、ただその知覚内容を言葉として表していると言う事になるのです。納豆と言う食べ物が有って、それを鼻知覚すると現に知覚している様に鼻の奥に感じられ、それを言葉として<ちっぴり臭い>と言えば、納豆から出る分子が鼻を刺激して知覚されているモノを言葉に表していると短絡出来ないのです。納豆から出てくる分子とその分子による鼻への刺激の両者の作る関係を、私達は<臭い>と言う言葉にしているのです。だから納豆から出てくる分子を<臭い>と言う言葉の対象とするのではなく、分子と鼻の刺激との関係が対象になっているのです。
納豆と言う存在とその分子−−鼻と言う知覚器官の存在と臭いと感じている事
納豆と鼻は、一方の納豆から出る分子があり、その分子が鼻器官に刺激を与える事で成立しているモノを臭いと言うのです。臭いは鼻器官の動作として成り立っているが、動作自体に対して、分子の構造の違いが、刺激の違いとして、動作の差異を作りだし、私達に別々の臭いと言う判断が出来るのです。分子が納豆と鼻を繋ぐ媒介項になっているのです。私達は、納豆を鼻の所に持ってきて鼻知覚をする事で、その分子が納豆から出てくるとして<納豆の臭い>と言う対象の持つ性質として判断するのです。
この時、現に知覚している臭いに対して、その<臭い>が納豆から出てきて、私達の鼻が<臭い>と知覚するのだと、普遍したら、そこから間違いが始まるのです。<臭い>は、あくまでも鼻の中で起きている器官の動作であり、人間の知覚器官としての鼻を通じてなされる頭脳の処理なのです。つまり<臭い>と言うのは、現に<臭っている>と言う認知動作であり、その認知動作をするのが、鼻を入力器官とした頭脳の動作だと言う事です。その鼻からの頭脳への処理を<臭い>と言うなら、納豆から出てくるモノに対して<臭い>だと断定する事は、認知とその認知の対象を区別していない事になります。そこで納豆にある<臭いの元>と言い方をするのは、認知としての<臭い>に関わるモノであるから、その関係を考慮にした言い方になるのです。例えば今部屋入って来た人が、<何だこのいやな臭いは>と言い出せば、臭いの元を探しだし、それを部屋の外に出して、部屋の空気の入れ換えをして、臭わなくするのです。机の引き出しに入っていた腐った食べ物が、臭いと知覚する対象であり、臭いの元だと考えるから、そして腐った食べ物をなくせば、臭わなくなるから、腐った食べ物に臭いがあると結論するのです。
腐った食べ物から出るのは特定の分子であり、その分子が鼻で知覚され頭脳で処理される事を<臭う>と言う言葉で表し、そして現に臭っているのです。その食べ物を取り除くと鼻で知覚される分子が無いのであるから、臭っていないと言う事なのです。<臭いの元>と言う時、食べ物の事なのか、それから出る分子の事なのか区別が出ていないのです。食べ物がその部屋に有っても密閉して有れば、分子は人間の鼻に到達しないから、臭いを感じないと言うことです。その特定の分子を<臭い>と言うのではなく、その分子が鼻で知覚され頭脳で処理されている事を<臭っている>と言うのです。分子は<臭っている>言う認知動作を形成する実体であり、この関係の中で、分子が届いていないのに<臭う>と感ずれば、分子の到達による鼻の知覚細胞が作動に対して、細胞の作動が生じたと言う事であり、それは頭脳の処理の暴走として、幻臭と呼ばれるのです。

 五つのガラス瓶の中の、各液体の透明性と言う属性は、他の属性で有る味とか匂いとかと統一される事で、各液体の個有性があきらかにされる。透明性による見た目の区別が出来ないと言う事は、相変わらず変わらないとしても、他の見た目の区別を作り出す事で、私達にとっての透明性による不区別が、と言う事は、液体自体は、各々の属性によって、五つとも、A液、B液、C液、D液、E液と言う様になつているが、私達の対象視覚認知を、不可能にしている事に対し、各液の区別性を成り立たせている有る特定の属性(味といったもの)に対応して、対象認知を成り立たせて、「透明性がある事で視覚認知のみが出来ていない状況」から、視覚認知が出来る方向へと、実践的に解決するのである。それが個々で言うレッテル表示なのです。
この実践的ということは、透明性と言う事が、液体自体の個有性である限り、液体の性質をかえない限り、液体の中に染料を入れて色を付けて、透明性を廃棄すると言った事をしない限り、継続するものであると言う事であるのを前提に、それでも視知覚を成立させると言う私達の、意志を実現させると言う事なのでしょう。透明性が有るから、視知覚による区別(1)は、不可能だから、味とか匂いとかに依って区別(2)する。その区別(2)による各液体の個別性を、視知覚によっても認識しようと言う事なのです。液体の透明性に対しては、すでに個別性の区別は出来ないのであり、それを私達の視知覚に何とかして関連させようと言う事なのです。

五つの瓶と言う個別性は、ひとつひとつの瓶の形や大きさが、空間を占有していると言う個別性であるがさらに中に入っている液体の個別性を、つまり液体の性質による個別性を何とか明らかにしようと言う事であり、それを匂いや味でその性質を明らかにしているのです。今の所液体の透明性においては、否定としては区別が出来ず、肯定としては皆同じであると言う事なのです。空間的に隔てられ、特定の形をしたガラス瓶が五個あり、その五個の個数だけの瓶にそれぞれ同じ透明の液体が入っているのです。見た目の透明性では、皆同じでも臭いは別々の五個は、瓶の蓋をあけて、その都度嗅げば臭いとして知覚出来るのだが、蓋をしたまま、瓶を見ただけでも、中の液体が理解できれば、と言う実践が要望されるのです。そこでその臭いで知覚されたモノに対して液体A(アンモニア)とラベルに表示して、その液体が入っている瓶にレッテルとして貼る事で、中の液体が<アンモニア>と言う名前である事が理解できるのです。<アンモニア>と言う名前の理解は、その臭いや味等で知覚されるその性質の理解と言う事です。
五個の瓶の内一つの瓶には、レッテルとして<アンモニア>と表示してあります。このレッテルの文字は特定の性質の液体を表している。文字としての<アンモニア>は、特定の性質を指示する。その文字の書かれた用紙をレッテルとして瓶に貼る事で、<アンモニア>と言う文字がレッテルと言う形態として、この瓶の中の液体を指示するのです。アンモニアと言う文字は特定の性質を表しているが、その文字がレッテルとして瓶に貼られる事で、その瓶の中に入っている液体が、その特定の性質の指示対象となるのです。<アンモニア>と言う文字が、話し言葉として、あるいは書き言葉として、個別的な対象Aを指示する事で、そのAが文字に表されている特定の性質の現実態となる。文字としての<アンモニア>は、特定の性質や種類を表すだけであるが、それが言葉としてレッテルの様に、瓶の貼られることで、瓶と一対一の対応関係を形成すると−−別の瓶がもう一つ有ると、別に印刷した用紙をもう一枚用意をして、瓶に貼る事になるのです−−瓶の中の液体が、<アンモニア>と言う文字に表される特定の性質の現実形態であると言う表示になるのです。瓶に貼られているのは白い紙であり、それは一つ一つの瓶に一枚一枚はられるのです。それに対<アンモニア>と言う文字は、物質の特定の性質を表しているが、その文字が用紙としてこの瓶に貼られれば、「 <アンモニア> 」と言う文字が記された一枚の用紙の、その一枚と言う固体が、形による固体を中の液体の個別として規定するのです。その特定の形の瓶と言う個別を介して、中の液体も<アンモニア>と言う特性としての個別となるのです。
<アンモニア>と言う文字とそれが紙に書かれレッテルとして貼られる事の構造なのです。私達が日常考えている言葉として、例えば<山田和夫>と言う言葉を固有名として理解している。それは一人の人間の固有性を表すモノとしての言葉として<山田和夫>であるが、同時に特定の一人の人間に貼られたレッテルと言う事なのです。単に固有名と言う一般性だけではなく、この一人の人間を指示する事として成立しているのです。あの一人の人間を指示しているのは、<山田瑞季>と言うレッテルであり、その一人の人間を指示しているのは、<山田侑夏>と言うレッテルと言う事なのです。現にこの人を指示しているものとして使用されているのであり、絶えず具体的な現場で、個別として使用されているのです。その中で固有名と言う言葉の意味するモノを考えると、<この人にもあの人にもその人にもあるレッテルであり・> と言う説明になるが、しかしこれは固有名の普遍性のみを示しているのであるが、その普遍性としの固有名が、<山田和夫>と言う文字として一人の人にレッテルとして張り付いていると言う形態として現れていると理解する事なのです。つまり、自分の名前として<山田和夫>を使用している事に対して、その使用が固有名の普遍性の実現態と言う理解から、その普遍性にたどり着くのです。普遍性に対して個別性と言う用語での理解ではなく、普遍性の現実形態としての個別性であり、だから<山田和夫>と言う固有名が私自身を指示するレッテルとして、色々な場面で使用されている事が、私自身の固有性の表現であるのです。<山田和夫>と言う固有名が指示する対象は、私自身の特定の属性なのだが、ただそれは玉葱の一枚一枚の皮のように有るのではなく、私が他者に関わっていく時の現れとして有るモノと言う事なのです。

そこで、このラベルを貼ると言う構造をふまえながら、概念について考えると、<超感性的な概念に感性的な手がかりを与える>と言う時の、此の感性的な手がかりとは、将来、文字や音声と成る物の事を言っているのであって、ガラス瓶に張り付けるレッテル、文字の書かれた白い紙、を指すのでしょうが、しかし、五つの瓶の一つ一つに入っている透明な液対は、その透明と言う事で、区別できないのであり−−皆同じ透明の液体であると言う事です−−ただ、五つのガラス瓶の空間を占有する形や大きさにより、五つと言う数量が有るだけであり、その五つの中身の液体が、相互に区別される為には、味とか匂いといった、つまり液体の性質を目当てに、レッテルが貼り得るという事になるのでしょう。
超感性的な概念に対して、透明な液体と言う実践的な区別による、個物の特定化、透明な液体一つ一つに別の属性である味や臭いにが有るから、それをたよりに、味や匂いによる区別を便りに、透明であろうと、見た目の区別を作ること、つまり、レッテルを貼る事を媒介すると、概念の場合、このレッテルを、この概念に貼るというその選択の基準は、何に成るのかという事になります。
液体の場合には、その特殊性の透明と言う規定−−−此の規定は、色相互の区別とか、大きさの区別と言う事物の感性的なあり方のひとつです。透明な液体が、五つの瓶に入っていて、五つあっても、五つの瓶の一個一個の区別は、その瓶の形や大きさによる空間的配置によるのです。中の液体同志は、透明な液体と言う次元で同一であり、見た目からは液体の性質の区別が出来ないのです。別々の性質がある液体でありながら、見た目からの区別が出来ないと言う側面を、液体における超感性的側面と言う事になるかも知れない。五つの瓶の中の液体に対して、感性的と言う事は、個別的な液体が相互に、色や量や形や大きさで違うと言う区別が出来ると言う事であり、今回の場合、色の観点から<透明>と言う規定の為に皆同一であると言う事なのです。その液体が臭いや味等の点で区別が出来ていれば、その区別を透明な液体に対して、実践的な区別として使用する方向で成立したもモノが、レッテルやラベルと言う事なのです。
透明である事により、そこから直接区別が生まれるのではない。透明である事はそのまま続くのです。もし透明性を無視するとしたら、その透明の液体を色で着色して、区別するのです。これはガソリンを赤色に、灯油を無色で色分けする事で二つの液体を区別するのと同じです。五つの瓶の中の透明な液体が、その目に映る透明のままで、五つの液体の区別がつき、一つ一つの瓶の液体が何であるか分かるようにする方法として成立するのです。区別は、透明である所から生まれるのでなく、透明で区別がつかないのに関わらず、その液体の入った瓶の表面に液体の性質としての臭いから得た認識を言葉に表し、白い紙に印字してレッテルとして貼るのです。瓶の中身は皆透明で有っても、レッテルの表示により、中身が何であるのか分かると言う事なのです。白紙に印字されている文字は、目の前の液体の性質についての知覚を表しているのです。当然その液体についての探求から得た知覚であり、私達がその液体Aを他の液体Bと混合する時、液体Aについての知識を介して、混合で生ずる状態を予想したりイメージしたりするのです。
五つの同一の大きさで同一の形をした瓶の中に入っている透明な液体は、そのたびに並びかえればどれがどれであるのか分からないのであり、単にその瓶の形態で五つの個数としてしか区別されないのである。それに対して透明な液体の各々<−、−、−、−、−>は、例えば臭いと言う視点から性質が知覚されるのであれば、その知覚された性質に対応して<abcde>と言う区別をつけて、五つの瓶を<−a、−b、−c、−d、−e>と示すのです。<−、>と言う事で、視知覚としては、皆透明であると言う事を表し、また視知覚としてはラベル表示としての区別を<abcde>で表している。つまりラベルに表示されている<abcde>と言う区別の表示は、透明な液体の性質についての臭知覚によつて認識されている内容の表現であり、表現された形態が、視知覚の対象となるのです。つまり<−a、−b、−c、−d、−e>は、五つの容器に入っている液体の、相変わらず透明であると言う視知覚と、ラベル視知覚を示している。そのラベル視知覚は、五つの容器の中の液体の性質についての臭知覚を表している文字とか記号とかを知覚しているのです。文字や記号の書かれている白紙と、容器の中の液体が関連しているのだが、しかしあくまでも臭知覚による認識内容が表されていると言う事を介して関連しているのです。と言う事は、すでにラベルを貼られた後の五つの瓶を見た人間にとって、入っている透明な液体とそのラベルを見る事は、そこに貼られている事で両者が関連していると言う事を理解する。中に入っている液体の<性質>を表していると理解するのだが、その<性質>について、例えば<透明であると言う性質>では無い事は確かであり、<何の性質であるか>と言う事が明らかにされなければならないのであり、その<何であるのか>と言う問いに対する答は、まず自身の知覚で認識する事なのです。今見ている容器<−b>の<b>が、実際に自分の鼻で知覚した臭いを、ラベルとして表現していると理解するのです。
出来上がった瓶を始めて見る人は、いま目の前にある瓶のラベルと、その中の透明な液体を鼻で臭知覚する事で知覚した内容を表現と言う関係で理解する事であり、その理解が出来上がれば、ラベルを目で見る事で、現に鼻でかがなくとも、その臭知覚の内容が理解出来ると言う事となのです。
瓶に入った透明な液体は、相互に視知覚としては区別がつかなくて、皆同一に判断されてしまうが、液体についての臭知覚によって知覚された液体の性質を表したラベルを見る事で、そのラベルaが貼ってある瓶の中の液体の性質が、理解されるのです。もしラベルの<abcd・・>を見る事から、自分の鼻で実際に嗅いで知覚し無い限り、インクの跡としての<a>を<bやc等>から区別しているだけであり、そのラベルが貼ってある瓶のなかの液体の−−これは視知覚で透明な液体として知覚しているのだが−−性質を表している事を理解出来ないのです。それは私にとってハングルの文字がただ線の形の違いしかわからなくて、それが日本語の文字のように理解できないと言う事と同じ事なのです。日本語では<山><富士山>と言う文字を、意味が理解できると言う事なのです。見た目の視知覚と同時に<意味>が理解できると言う構造なのです。
瓶の中に入っている透明な液体は、透明であっても液体と言う事で見た目に理解でき、さらに瓶に貼られたラベルも見た目の理解ができ、例えば瓶の位置を変えても、ラベルの違いで直ぐにわかるのだが、しかしラベルが、対象たる瓶の中の液体の性質を臭知覚して得た知覚内容を表していると言う事を理解しない限り、ラベルの意味がついに理解出来ないのです。だから私達が学校の化学教室にはいって棚に並べられている沢山の、ラベルを貼られている瓶を見て、そのラベルの文字を見ても、瓶の中の液体の性質を、実際の液体を使った方法でしっていない限り、それが対象の性質を知覚した認識を表している事に到達出来ないのです。以前に透明な液体Aの性質について知覚していて、その知覚内容をラベルとして、液体Aの入っている瓶に貼付けてあれば、以後瓶に貼られたレッテルの文字を読めば、その中に入っている液体の性質が、蘇ってくるのです。透明であることによる視知覚の区別化が出来なくても、ラベルの視知覚により、以前の臭知覚による知覚内容が蘇るのであり、蘇る事で対象の視知覚による区別が完成するのです。経験しなければ、ラベルをどれだけ見続けても、何も蘇って来ないのであり、ラベルを経験する人は、ラベルの区別が、現に嗅ぐ事で成立する臭知覚の内容の表現である事を理解して行く事なのです。ラベルは瓶に貼られているから、透明な液体の入った瓶とラベルが関係を持っている事なのだが、しかし液体の透明と言う性質が表されるのでは無く、液体の性質の内、臭知覚によって知覚される内容が問われているのであり、その臭知覚の内容を表したラベルが瓶に貼られる事で、透明に見えている液体が、ある特定の性質の液体と規定されるのです。液体には他に性質があっても、ラベル表す性質を持つ対象と言う限定化が、つまり特殊化が成立するのです。

三浦さん的に言えば、液体の透明性の為に、液体の見た目の区別がつかないが、しかしラベルの表記の違いについての見た目の区別をたてる事が、液体自身の区別として了解されると言う事です。瓶は形でも、その中の透明な液体でも、同一に見えてしまうのであり、ただ形による一つ一つと言う個体としての区別が出来ているだけなのです。ラベルはその五つの瓶を、一つ一つ別々のものとして、その表記の文字で区別をするのです。五つの瓶をどんなに並び換えても、一つ一つが別々に区別出来ているのです。五つの瓶の中に入っている液体について、その透明さによる見た目の区別の不成立と、貼られているラベルの見た目の区別が、その対象についての認識を表していると言う了解と言う事です。瓶に貼られているラベルAを見ていても、相変わらず瓶の中の液体は透明であり続けているが、しかしその透明な液体が<アンモニア>と言う言葉で呼ばれる時、見た目は透明で独特の臭いがして、他の液体と混交すると特定の現象が現れるという性質の目の前の瓶の中の液体を指示する事になるのです。<アンモニア>と言う言葉は、ラベルとしては瓶に貼られている事で、特定の認知を表した<アンモニア>と言う言葉とは別に、対象の指示として働くのです。つまり言葉としては、ある液体の性質についての認識を表しているが、その言葉が白紙に表記されてラベルとして瓶に貼られれば、そのラベルに表記されている<アンモニア>と言う言葉に表されている認識の具体的形態となるのです。
<対象に関わるラベル>と言う事こそが、ここでの非常に重要な基点ということなのです。
ラベルは、たんに特定の大きさの白紙であり、そこに記号とか文字とかがインクで表記されているからこそ、視知覚の対象になるのであり、瓶をみたり、中に入っている液体を見たりする事と何の代わりも無いのです。しかしその記号を書かれた白紙に対しては、その文字が対象たる液体の性質についての認識が表されていると言う理解が無ければならないのです。そしてそこでラベルをどんな目的で瓶に貼ったのかと言う事なのです。いま目の前にあるその瓶の中に入っている液体の性質を、その文字で表していると言う事なのだが、それ以外にそれがラベルとして貼られている事が、現に今目の前にある液体自身がその性質の現物形態であると言う事を示しているのです。つまり、白紙の上の文字であるなら、それは液体の性質についての認識を表していると言う事で完了しているのであるが、その文字の書かれている白紙をラベルとして<この目の前の>瓶に貼る事で、この瓶の中の液体が、まさにその性質を持っているモノと言う姿を表すのです。白紙の上の文字や記号は、諸対象における共通の性質についての認識を表現しているのであり、だからその認識はあくまでも、どの個別にも存在しているものを認識しているのであり、その意味で普遍性を表しているのです。そこから、普遍性を示している認識内容が、どのようにしたら個別そのものをねらい撃ちするのかと言う事が表れて来るのです。認識は個別を対象にしていても、ただその諸個別の共通性だけを抽出し、残りを捨象しまっているから、認識の中では個別はなくなっているのです。
個別的なものとしてある各液体が、その共通性として性質が認識されて行く時、性質が抽出されて来る事は確かだが、同時に他の性質は捨象されてしまうのであり、認識としては、かくかくしかじかの性質があると言う事で終わってしまうのです。しかしその性質についての認識が、白紙に文字として記された上で、瓶にラベルとして貼られると、文字として表現されている対象の種類と言う側面の認識は、ラベルに貼られる事を介して個別としての、いま目の前にあるこの瓶の液体に関わるのです。その瓶の中の液体は、普遍的性質の現象形態としてあらわれるのです。瓶の中に入っている液体であるなら、単に瓶と言う特定の容器の容量の分が入っていると言う事でしかないが、その液体の性質が認識される事は、いったん個別性が捨象された普遍性としての側面がとリあげられてしまい、その普遍性の面の性質は、他の液体の性質と、例えば混合される事で、二つの液体とは別の性質の液体が出来上がると言う事が、理解されて来るのです。つまり、容器に入っている液体Aの性質が認識され、さらに他の液体Bの性質も認識はされる。両方の液体を混合する事で、各性質がどのような変化するのかと言う問題が生ずるのであり、それは液体Aの量と液体Bの量の比率と言う、量と言う新しい視点からの考察が始まったのです。両方の液体とも、各々の性質において、量的比率から混合されるのであり、それはとりもなおさず、個別的なモノである各液体が、その性質から認識される事は、単にモノの性質を認識すると言う次元の問題であるが、しかしその性質の認識は、一定量の液体同士の混合と言う次元になると、性質の認識の時に捨象したモノは、捨象したと言う事で打ち捨てられて言い訳では無いのです。つまり、瓶の中に入っている透明な液体は、性質の認識にとっては、中に入っていると言う事デ済むのであるが、他の液体との混合と言う事になると、一定の量と言う事が重要であり、混合以前にも、瓶の中には瓶の大きさに合わせた量が入っていると言う事が、忘れられている、或いは性質を認識する際には、量と言う事は、特に取り上げられることは無いのです。ラベルを貼ると言う事は、液体の性質についての認識が、表現としての文字や記号を介して、一定量の液体としてあると言う事を示ス事なのです。この一定量としてある事を、性質についての認識が、普遍性であるなら、個別性としてあると言う事なのです。もともと瓶の中には、一定量がは言っていたのだが、それが個別的と言う事では無い。性質が認識される事で、認識内容が、普遍性として成立するが、その普遍性としての認識内容を、表現した記号や文字としてラベルで瓶に貼る事で、瓶に入っている液体の量の個別性が普遍性である認識に同時に個別性を与えるのです。
ここで、透明な液体の入った瓶にラベルと言う考え方から、言葉にまで拡張して考えてみます。
瓶にラベルを貼ると言う事を、ラベルに表記された文字が対象を指示すると考えます。紙としての白紙に糊が塗布されて瓶の表面に貼られます。貼られた白紙は、その瓶に対してのみ一体一の対応をするモノとなります。そのはられた紙に<アンモニア>と表記されていれば、瓶との対応としての白紙に対して、表記としての<アンモニア>と言う文字は、瓶の中の液体の性質に対応する事になる。瓶の中の液体に対して、その属性としての性質と言うレベルが対応しているのです。白紙とそこに表記されている文字と言う全体から見れば、単なるインクの跡ではなく、瓶の中の液体自体に対して、液体の性質を介して、指示すると言う事なのです。ラベルは文字を記しておく仮の何かではない。文字と一体になり、液体を指示するのです。マジックインクで瓶に直接書いても良いのであり、その場合にはマジックインクと言う物質によるインクの跡が文字となるのであり、そのなることで、瓶の中の液体を指示する事になるのです。ラベルは瓶に貼られているから、貼られている白紙は、その瓶に関わるのであるが、同時に書かれている文字から瓶の中身の液体に関係していることが示されるのです。流動性である液体であるから、それを固定しておくために瓶に入れるのであり、瓶に入れば瓶の容量分だけの液体がまとまった個体として想定されるのです。その液体の属性としての性質によって、液体は<アンモニア>と呼ばれるのであり、さらにそれが液体であるのも、属性としての性質なのです。瓶と言う特定の形に入った液体がまとまったもの、個としてある時、その個体は同時に液体性、透明性、アンモニア性等と言う様に諸属性を規定するのであり、その属性の一つの性質を<アンモニア>と言う言葉に対応させるのです。ただし属性を対応させると言っても物理的に<アンモニア>と言う言葉に対応するものを切り放す事など出来ないのです。この対応は私達の頭の中の認識として成立させるのであり、一方は音声表象、形象表象としての<アンモニア>であり他方は例えば味知覚としての<属性>と言う事なのです。そしてその対応にある表象を介した物質としての声帯の振動である声や青色インクの跡としての文字が話し言葉や書き言葉として、瓶にラベルとして貼られる事で、この瓶の中の液体自体が、その味知覚される属性の実体化として扱われ、液体自体が<アンモニア>と言う言葉で指示されるモノとなるのです。
表象レベルの音声表象−−味知覚による属性の認識
と言う関係を、ソシュールにならって<ラング>言語規範と言っても、それが私達の喉の声帯の振動として現実に発声される事で言葉となるのであり、その現実的な空気の振動担ってることが、話し言葉であるのです。
その規範について、例えば有る特定のモノを日本語では<木>とインクで書き、英語では<Tree>とインクで書く事で、文字表象のそれぞれが違いが成立するのは、規範の一端を担う表象が任意である事でその関係が成立していると言う説明をするのです。この説明は現実の言語における本質的な側面としての規範を対象としているが、その規範の現実化されたモノとしての具体的な言葉と言う所を明らかにしない限り、単に規範としてそれぞれの国の言葉があると言う説明で終わってはならないのです。
<一方は音声表象、形象表象としての<アンモニア>>と言う言葉は、コンピューターのディスプレーの画面に表示された現実の言葉であると言うのは、コンピュータでの現実的とは、文字表現が、フォントと言う文字表示過程を経ているのであり、このコンピュータでは<OSAKaフォント>で表示されているのです。フォントと言うディスプレー用の文字を介して表示されている言葉は、ではどんな内容が表示されているのかと言えば、いま記しているこれらの言葉を含め、どんな言葉も皆規範の構造があり、その規範がを介して、音声なり文字として表現されるのです。この<規範を介して>と言う構造が問われるのです。現に今目の前にあるこの液体に対して、その性質についての知覚を、<特定の性質の知覚>と関係づけ、次に<特定の性質の知覚−−アンモニアと言う表象>から、アンモニアと言う文字表示を、その液体に付けると、液体自体が<アンモニア>と言う言葉の規範としての特定の性質であると言う処理を受けるのです。言葉以前に、その液体が他の液体と混合されるときに示されている性質に由来しているのであるが、 対象が物質的な物であるなら、瓶の場合と同じ様に考えられるが、感情とか精神とか関係の場合には、文字の記された紙のラベルはあるが、瓶の様に<これ>と指示しても、他者と共有出来ていないのです。多分「あるそぶりを、悲しんでいるとか、楽しんでいる」と言う事で、言葉との指示関係を自覚するのでしょう。現にある心の状態が、そぶりとして出ている事に対して、それを「悲しんでいる」と言う言葉で指示するのでしょう。色々な状態があってそれらに特定の言葉を関係付ける<指示>が成立する事が、ある特定の状態の成立過程から得られた<概念>を表した言葉が指示していると言う構造である事の理解なのです。指示はある特定の状態を対象としているが、その特定の状態が、他のモノの働きかけで生まれて来ていると言う理解から、ひとつの概念が成立して来ていると言う事なのでしょう。自分の大事にしているモノが、目の前からなくなり、どうしても見つからないと言うことが、悲しい気持ちにならせるとしたら、そのけ気持ちに対して<悲しい>と言う言葉で指示すれば、その前後のモノとの流れを、頭の中で<概念>として成立した認識を<悲しい>と言う言葉で表し、<気持ち>と言う対象を指示するのです。対象は<心の状態>を指示しているが、その<心の状態>が成立する過程があると言う事なのです。その状態を作り出す客観的な物が存在している。そのモノと心の住み場所との関係から、心に成立する状態を、感情と規定しているのです。その関係の内特定のモノが、特定の心の状態を作り出すと言う事では無い。多様であるが、その社会と言う枠組みがあり、悲しみも社会的なモノなのでしょう。例えばリンゴと言う果実は、特定の季節の中で生まれ、特定の場所にあると言う様に成立していて、リンゴと言う言葉が、特定の形の果実を対象にしていても、その対象と他者との関係があるからこそ、関係性の中の対象と言う位置を持つ事になる。つまり、<リンゴ>と言う言葉は、今目の前のその対象を指示するが、しかしその指示するモノが、他者との関係の中にあると言う事が、頭脳で概念として成立しているのであり、その概念が言葉として表現される事と、その言葉が、あるモノを指示する事で、初めて概念は、個別的になるのです。概念が表現された言葉が、対象を指示する事で、その指示する対象の個別性を介して、概念が個別的になると言う事となのです。平たく言えば、一判論を提示していて、その一般論を、例えとして具体的な物に適用しながら説明する事で、具体論になると言う事でいうるかも知れない。

概念自体は、あるいは諸概念は、相互に一切の区別の出来ないものとしてあると言う事を前提にして、しかし、感性的手がかりがそこにはあり、その手がかりをたよりに、感性的存在で有るレッテルとしての文字や音声が貼付けられるという事になると考えるとします。つまり、概念のレベルでは、少なくとも、感性的なありかたとは、手をきっているのであり、だからこそ、概念だけでは、相互の区別が出来ないと言う事であり、区別とは、感性的なもののあり方そのものであり、そのあり方を、感性的として、認識するので有るという原則を前提にして、それでも、結果的に概念相互と言う、感性的レッテルを貼る基準が、何で有るのかと問う事ができるのでしょう。<概念=超感性的認識>と言う文字を貼る事で、<感性的認識>と言う文字のレッテルの隣に区別されるものとして成立して来る。この時問題なのは、個々のレッテルによる相互の区別は、ひとつひとつの個別的なモノの区別と言う事なのだが、その個々のモノの間には一定の関係があるのに、文字として見ている限り、一個一個と言う区別としてしか見られなくなるのです。その個々の文字による区別は、しかし表現としては切り離し、関連させたりする事で、相互の関連が、私達の頭脳に認識されるのです。その相互についての認識も言葉に表せれば、三つ目の言葉になってしまうのです。これこそが、言葉の特性における感性的なあり方なのです。超感性的認識を感性的なあり方の文字や音声として表すときの、感性的と言う意味なのです。構造としてあるモノを、言葉として表す時に、構造は、文字として個別化され、多数の文字の連なりになりながらも、その言葉を読んだり来ていたりする事で、構造の認識が頭脳の中で成立すると言う事です。
さて、もう一度概念について考えてみる。
概念とは、対象の種類と言う認識で有ると言う事で、感性的なあり方から手を切るのであるが、しかし対象から手を切る事は、又同時に、区別を成立させる感性的なあり方を、持たないと言う事に成る。ただこの言い方は、認識自身を調べて、絵画が、対象の色や形との関連を持ち続けるのに対して、そのような関連と切りはなされるのが、概念と言う認識に他ならない。ただこの場合は、<対象−概念>と言う事と、<対象−表現>と言う関連の違いを当然に前提にしているのです。絵画も言語も<対象−表現>と言う所で関連しているのであり、絵画の場合の関連と言語の場合の関連を考察した時、キャンバスの上の絵の具の跡は、対象との色や形による幾何的同一性があるのに対して、言語の場合は、漢字の象形性が、対象の形との幾何的同一性を持っている事を除けば、アルファベットやひらがな等は、対象の形や色等に関連がなくなつているのです。<対象−認識>と言う事を、例えば頭の中でイメージした赤の成立は、現に目の前のリンゴの<赤い>と言う事と繋がっているのであり、人の顔も、イメージとして頭の中に浮かぶと言う事で、対象と繋がっていて、その繋がりを、感性的と言うのです。つまり、対象に対する感性的知覚の場合、対象の<色、形>が、知覚の内容として頭の中に成立していると言う事なのです。ただこのイメージは、現に感覚知覚している対象から頭脳の中に生まれたモノなのだが、現実に対象としていなくとも、イメージとして成立させる事で、イメージを対象として、それを言葉や絵画として表現するのです。ここで初めて、現実に知覚が対象としている諸物についての認識が、分化され、イメージや概念として対象化される事で、<対象−認識−表現>と言う一般的な過程的構造は、物質的な物を対象として成立していた関係が、イメージとか観念をも対象にできる様になつたのです。つまり、<対象−認識−表現>と言う過程的構造は、あくまでも本質論のレベルでの話であり、例えば今私の目の前のモノを<リンゴ>と言う言葉で指示する時に<モノ>が対象では無くて、頭脳への像との関係の内、<モノ−像>と言う関係に際して、その関係から見られた<モノ>を対象と言い、その関係から見られた<像>を認識と規定するのです。
鏡の光学的像は、鏡と言うガラス物質の所にある様に思えるが、しかしガラス表面に塗布された塗料と同じ様にガラスの所に像があるのでは無く、鏡以外のモノの光学的像を反射させて、鏡以外のモノに像を結ばせるのです。鏡は、モノの光学的形態を像として反射させるだけであり、その反射の際に像が鏡のうえにゴミの様にあると見られてしまうだけである。私達が鏡のそこにモノの鏡像をみていて、そこに像があると考えてしまうのは、反射して来る光学的形態の、その反射を、モノの像の存在と判断しているのです。反射して来る光学的形態が、強力な光であるなら、鏡のそこに光りがあると言う事なのです。アタカも強力ライトから光が出て来る様に、鏡から光が出て来るのです。自ら光を出すものと自らは他者の出した光を反射するだけなのとは、光が、反射する際にも、光を出す物の情報をたずさえているのであり、だからこそ鏡による反射の際にも、鏡のそこにモノがあると言う光学的情報を示すのです。

概念相互と言う事で、少なくとも、二個以上の概念が有ると言う事に成るのだが、しかし、この二個と言う規定は、感性的なあり方により成立しているはずであるのだから、種類という認識として概念が成立する時、当然感性的なあり方と手をきっているのであり、個数と言う規定も、概念においては、成り立っては無い事に成る。とすると、<概念は、対象の種類と言う認識で有る>と言う事と、<概念相互>とには、直接なつながりは無いので有ろうか。
あるものが、感性的認識の対象になる時、あるものは、感性的なあり方としてあり、さらに、あるものが、超感性的認識の対象になる時、あるものは、種類という側面として有るのだろうが、しかし、両者の対象の関係は、全く別物ものでは無くて、感性的認識の対象になる時、始めて、あるもの=対象 になり、その対象にたいして、さらに、種類と言う側面が超感性的に認識されるのでしょう。とすると、まず感性的に認識される事により、あるものが対象となり、あるものは、感性的なものとして認識の内容と成り、感性的認識が初めて対象にした<あるもの>の<種類と言う側面>が超感性的認識の内容となるのでしょう。
超感性的認識の内容が、種類という側面を持っているとしても、しかし、あるものが対象とならなければ、種類と言う側面も成立しないと言う事なのでしょう。「<あるもの>が、感性的認識の対象になる」と言う言方は、対象になった事により、はじめて<あるもの>と言えるのである。<では何が>対象になるのであるのかと考えたとしたら、それらの疑問に対する答えは、対象になる事でそれが何であるのか分かる事なのであり、対象になる以前のモノが、対象になり、はじめて<分かる>と言う事です。だから<あるもの>があってそれが、対象になると言う事では無くて、対象になっているからこそ、<あるもの>と言うことである。<あるもの>とは、<対象−認識>と言う関係から見られる対象であり、その認識の言語表現と言う事です。
認識から独立したものがあり、それが認識の対象になった事から、<認識と外部>が関係を結び、外部を対象と規定し、認識の内容を<あるもの>と規定する。外部がどの様に認識されるのかと言う事は、対象となる過程が問われているのであり、
超感性的認識として概念が成立する時、当然感性的認識で捕らえられたものがまず、対象と成り、その対象について、さらに、種類と言う側面が捕らえられると言う事なのでしょう。対象の種類と言う側面への認識が、超感性的な認識される時、そこには必ず、対象が無ければ成らないと言う事になるのでしょう。その対象の成立が、感性的認識によって成立すると言う事なのでしょう。

では、諸概念と言う言葉は、どこから生まれててきたのか。当然感性が対象としているモノの所からと言う事になる。無数の対象が感性的活動の媒介となる事で、活動によって連関される過程の頭脳への反映が概念と呼ばれる元になるのです。これが概念の根本の所なのでしょう。ただし私達にとってどの様に現れているのかを目の前にするのは、言語表現と言う事になる。つまり、<概念>と言う言葉をどの様に使うかと言う事なのです。言葉全体が概念の表現であるが、その中でも<概念>と言う言葉として表されてもいるのです。
言葉として現れている概念は、言語表現に対する反省から生まれてきている。絵画表現を形成する認識が感性的認識である時、その認識は、対象のあり方と、表現として形成されている対象から決まってくるのであり、両者の間のある特定の関係を感性的と言い、認識を感性的認識と言うので有るのに対して、言語表現の場合の認識は、絵画表現を形成する認識の様に感性的では無いと言う意味と、感性的認識と何らかの関連が有る−−この関連を、感性的内容が認識の内部に保持されていて、いわゆる止揚と言う概念で理解できると一応考えておく。しかし、この止揚とは、まだ単なる関連があると言う事を前提にしているにすぎないのであるのだけれど−−と言う事で、超感性的認識(別名、概念)とするのであり、そしてこの<超>とは、単に<否><非>では無くて、あるものが有り、さらにそれを超えて、と言う事は、一段高くなっているのは、前段が前提されていると言うことであり、と理解するのでしょう。
さらに、概念の表現で有る言葉は、多数の語の組み合わせとしてあるのだから、その多数の各々が概念の表現であるとしたなら、概念も多数あると言う事になるのでしょう。個々の語彙が概念を表しているのではない。個々の語彙の集合としての一つの文が概念を表しているのであり、ここの語彙は、個別の対象に対する指示を示すだけであり、個々の対象に対する感性的活動が作り出す関連が、個々の対象を伴って概念として表現されるのです。
つまり馬と言う言葉は、目の前のこのモノの名前としてあり、同時に種類としてあるが、それを<馬が走る>と言う文にすると、種類と言う側面は、目の前のこのモノの特定の側面を示す事になるのです。ここでは<馬>の種類と言う側面とは、生物学的な他の個別との特定の側面を言うのではなく、それも含まれるが、走るモノとか寝るモノとか食べるモノといった無限の側面があるのです。馬と言う言葉は、何か多数の個別に共通する<馬性>なるモノを表していると言う限定的なものではないと言う事なのです。<馬が走る>と言う文は、個別としての馬と呼ばれるモノ、犬と呼ばれるモノ、猫と呼ばれるモノ、と言う中で、どれにも共通な<走る>と言う活動として、馬を規定していると言う事なのです。そして特に<馬は走る>と言う文における<は>と<が>の違いが、概念の規定たる普遍性、特殊性、個別性を表す事になるのです。
馬が走る・・・とは<が>により、個別としての馬にたいして走ると言う規定をするのです。今私の前にいるこの馬は、牧場の中の一匹であり、背景に牧場の様に集まりがあり、その集まりの一匹としての馬に対して走ると言う規定をしているのです。牧場の中にいる動物の中で、「牛が走る。猫が鳴く。アヒルが泳ぐ。」と言う様に、単にそれぞれの動物の事を並列的にあつかうのです。あるいは、教室の生徒を前にして、この20名の生徒の一人としてのA自身を選ぶ時、彼が走るのです。
それに対して<馬は走る>の<は>は、どんな馬も、馬である限り走ると言う事と考えるのです。しかし無数の馬の共通性としての<走り性>なるモノを考える事で成立する普遍性に対して、無数ではなく個別としての一つであっても、<走る>と言う規定がこそが普遍性として、一匹の馬でも、走るモノであると言う実体=個体 として捉える事で成立するモノを示すのです。一匹の馬の中にある属性としての<走り>が、諸属性の一つであっても、その属性を実体として規定する事で、走るモノ=馬 と言う事になるのです。<は>が普遍性を表すと言う時、それは馬と言う私達の目の前にいるモノが、その走ると言う属性=実体と言う規定を与えると言う事なのです。
例えば、前足を骨折した馬は、もう走れないのであるから<馬は走る>とは言えないのです。そこでは<この馬は走れない>と言い、<これ>と言う個別として捉えられている馬に対して、走れないモノと言う実体化するのです。あるいは20名の生徒の中でA自身が選ばれる時、19名の生徒のそれぞれの事情にも関わらず、A自身の事情でのみAが選択されると言う事なのです。Aは20名の生徒の一人であるが、それぞれの個体たる生徒は、各自が持つそれぞれの事情により<走る>と言う事が限定されて来ると言う事なのです。<他の生徒はどうか知らないが、私は走る>と言う事なのです。私には私だけの事情があるから<走る>のだと言う事です。「他者に関わり無く」と言う時、一度関係を規定し、さらにそれを否定すると言う操作がなされているのです。他者と私を隔てるモノは、それぞれの事情であるから、それぞれの特性で、私や彼や彼女とを区別するのであり、個別としての私や彼や彼女や貴方に対して、単なる個別を越えて、それぞれの事情と言う視点を介して、個別である時、Aと言う事情を持つ私、Bと言う事情を持つ貴方と言う他者の関われない私であったり、彼であったりと言う特殊性として規定されるのです。<は>は、その様な認識としての概念を前提にして表現されているのです。
20名のクラスメイトの中で、<私は明日休む>と言えば、<は>は、20名のそれぞれの事情によって、お互いに自分だけの特性と言う視点を作るのです。それに対して、<私が明日休む>と言う時の<が>は「明日休む」モノの集まりの中で、その一つとしての私と言う規定なのです。
<私>と<休む>と言う概念の関係は、「は」と「が」により、別々の形態をとると言う事です。
「私」の存在に対して、属性の一つとして<休む>を扱うのが、<は>であり、<休む>と言う属性を持つ主体であれば、あらゆる主体が同等であることを、主体の一つである事を<が>で表すのです。 組み合わせた語彙の多数が、概念の多数を導くと、感性的認識がその感性的と言う事で自らの区別を持っているのに対して、超感性的認識つまり概念は、多数として相互に区別が無いと言う事になるのであり、ここではじめて、諸概念相互が区別を持たないと言う事が、論理として成立してきたのでしょう。
つまり、概念は、表現論の研究を前提に、絵画表現の特徴や言語表現の特徴を比較した時、認識の違いとして示されたことで、超感性的と規定され、対象の種類と言う側面が認識されると言う事になり、区別がある感性的認識に対して、対比される。
ここで考え違いをしてはいけないのは、<語彙の数だけ概念がある>と言う事と<概念が多数あるから、語彙も多数ある>と言う事の違いなのです。概念は、超感性的と言う事で感性的な性質が無いと言う事であり、当然ひとつとか二つと言う区別は成立しないのです。その区別のない概念が、言語表現を介して対象に関わる、指示すると言う関係を形成する事で、対象そのものが、概念の個別化としてあらわれるのです。共通性として抽出されてきた概念は、その共通性が抽出される、個々の対象を、共通性の共通面を持つと言う点でなく、共通性の表れたものとして規定されるのです。 更に、表現としての言語が、多数の語彙の組み合わせと理解されると、同時に語彙の数だけ概念が想定されと、超感性的と多数とから、諸概念に区別が無いということになるのでしょう。
概念とは、表現論一般を前提に、言語表現から導き出された認識の特殊性であり、当然他の特殊性である感性的認識に比較されてくるのだが、しかしあくまでも、言語表現という形態を対象にして明らかにされてきたものであって、さしあたっての結論としては、言語として表現される認識が、概念として了解されてくるのである。
そこで、表現論一般として<対象−認識−表現>として構造化すると言語表現の認識が、概念として分析されるとして、対象との関係から、対象の種類と言う認識で有ると言う事に対して、言語として表現されない認識としての、概念認識があると言う事であるなら、それは言語として表現されないが、別の物質形態として表現されているのであり、認識が、諸表現形態をとるので有るということを無視してしまうことになる。またその考え方は、<精神は物質に取り付かれている>という詩的比喩の重みおも、無視してしまうことになる。
*********************************************** 概念・・人間の思考活動の基本的な形態であり、人間は事物についての概念を形成し、これを使用する事で、事物の本質的な特徴を捉える事が出来る。概念は言語と共に生まれ、言語によって表現される。言語によって表現された概念の事を「名辞」と言う。これは文法で言う名詞または単語に相当するモノで、主語や述語として命題の構成要素となるものである。論理学的に言えば、概念(名辞)とは、判断(命題)の構成要素となるモノに他ならない。例えば「人間は動物である」と言う判断は、「人間」「動物」と言う概念を要素に持っている。しかし必ずしもまず概念があって、その語に判断が構成されるわけではない。「人間」「動物」と言う概念そのものは、多くの事物とそれの性質や状態についての様々な判断を前提とし、基礎として形成されて来るモノである。人間がある事物について、その概念を作る事は、簡単に言えばその事物に名前を与えると言う事であるち。
概念の意味、内容・・ある多くの事物の持つ様々な特徴の中から取り出された来た、それらの事物に共通な、しかしもそれによってそれらの事物が他のじぶつから明瞭に区別されうる様な、本質的な諸特徴の事を言う。
概念の「意味内容」の事を、論理学では、概念の「内包」と呼ぶ。これに対して、有る概念を適用しうる事物の集合、すなわち概念の「適用範囲」の事を、概念の「外廷(クラス)」と呼ぶ。
哲学においては、古来概念と実在の関係、あるいは概念の起源とその認識における役割の問題を巡って様々な見解が対立し、論争が行われて来た。
中世/概念の実在を巡る問題・・・実念論と唯名論
近世・・・・・経験論/概念の起源を感性的な知覚にのみ認める
       合理論/悟性または理性の働きによって産出される
カントは後者であり、純粋悟性に先天的に備わった、いわゆる思考の形式であり、感覚によって得られた多様な表象と結合し、それを構成する事によって認識が成立すると説いた。
ヘーゲルは、こうした考えを更に発展させて、概念を単に抽象的なものとしてではなく、具体的にしてかつ一般的なもの(具体的普遍)として捉えた。
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