2002.02.05

理論派と行動派

<哲学者ゼノンが、有名なアキレスは亀に決して追いつけないと言う命題を、熱心に論じていると、此れをきていた、樽のディオゲネスは、黙って立ち上がりと、そこらを歩き回って、ゼノンの説の現実的でない事を人々に悟らせた。(三浦一郎・世界史こぼれ話・角川文庫)>

アキレスは決して亀に追いつかないと言う命題、つまり、運動についての理論思考、これを次の様に考える。
A               B
-----------------------------------------   図1

今一定の距離にあるA地点とB地点があるとする。
私がA地点からB地点歩いて行く場合をかんがえる。AからBまでに歩く時、Bに行くには、ABの半分の、 (1/2)ABまで行かなければならぬ。しかしさらに、またその半分の、(1/4)ABまで行かねばならぬが、さらに、(1/8)ABになる。
さらに、さらにとなって、ついにBに到達する以前に、その半分にさえ行くことができなくなると言う結論を出すのである。
 人々の前で、このような理論的説明をしているゼノンの前で、ディオゲネスは黙って立ち上がるとAからBに歩いて行く事で、ゼノン理論に立ち向かうのである。言葉によって反論するのではなく、理論化が扱っている運動の、具体的、現実であると言う歩行運動を行う事で、理論の対象としているものを提示するのです。
図1から示される運動についての理論と現実の運動の実際に歩くとか走ると言った事の関係が、口角泡を飛ばして話すゼノンと歩き回るディオゲネスとの両者を見下ろす私の位置から、言語化されるのです。つまり、ディオゲネスは単に歩き回っているだけであり、私がゼノンをふまえて、言語化しようとする事で、ディオゲネスを、言葉に繰り込んだと言う事なのでしよう。

まず、このゼノンの理論で執り扱っている運動−−AからBまでの位置変化を行う−−が、実際に私達が自分の足を使って行っている、空間上の位置変化を前提にしているなら、つまり、アキレスや亀と言うものが、私達や猫や馬や車などと同じ様に目の前を歩いたり走ったりしているのであり、決して超自然的なもので無いと言う事なのだが、当然まず実際にAからBに位置変化を行っているのだと言う事を捕らえていなければならぬし、その上で<その半分を行く>と言うような理論化を行う時にでて来る過程を、その前提の関係付けなければ成らぬと言う事なのです。
 つまり、まず実際に、空間上の位置変化を、歩く事で行っていて、その歩いている人間が、頭の中で図1の様な理論化を行うのだと言う事なのです。とすると、ディオゲネスが、実さいに歩きまわる事によりゼノンの運動論の現実的で無い事を示したのは、ゼノンが扱っている運動が、実際に歩いている運動を扱っているはずなのに、理論化した結果として運動の不可能を結論したのは、何処かに踏み外しがあるからだと言おうとしたからに他ならないのです。ゼノンもディオゲネスも同一の対象を共有しているのであり、ディオゲネスは、その対象を実行し、ゼノンは言語化したのである。

位置変化についての理論が、図1の様に出来たと言う事に対して、何かがおかしいのでは無いかと感ずるのは、私達が実際に歩き廻っているのに、どうして理論化の結果としては、運動の不可能を結論してしまうのかと考えてしまうからだ。今歩き回っている事を運動と言うなら、この歩き廻っている事が、不可能と言う言葉は成立しないのであり逆にこの歩き回ると言う事を対象として、その対象を理論化しようと言う事であり、だからこの理論化がなされたからと言って、対象が消滅する訳でも無く、運動と言葉で言われているその対象が、理論として再構成されたとしても、あくまでも理論としてあるだけなのです。そして、私がこのような言語を表現する事は、実際と理論との関係付けを、理論として作り出す事なのである。つまり、運動の理論では無く、運動の理論と実際の運動との関係を理論として作り出す事で、理論とは何かをしり、その知ったもの頼
りに<運動の理論>が、理論としての正しさを持っているかをチッエックするのです。運動の理論化の中で、無限と言う事−−この場合には、その半分、さらにその半分と言うくり返しが限度なく続くのですが−−を正当に扱わない限り、ゼノンの運動論は、あの結論で行き止まざるを得なくなるのです。
 ディオゲネスが、ゼノンの言葉を聞いていて、突然立ち上がり、そこらを歩き回ったと言う事は、その時点では、ゼノンの運動不可能説を批判するものとして示されているが、しかしこの批判も、自らの歩くと言う現実の運動を、位置変化と言う一般論の視点から捕らえた事で、始めて成立するのであり、もしこの一般論が無ければ、水を飲む為に台所に行くのであり、用事があるから、駅に向って歩くのです。と言う事は、ディオゲネスの歩行は、場所の位置変化という一般論を介した時、始めて運動理論に繰り込まれるのであり、単に歩行だけなら、現実に運動していると言う事であるにすぎぬのです。
とすると、図1から、AB=(1/2)AB + (1/4)AB + (1/8)AB + ・・・・・
となるなら、この理論に繰り込まれなければならぬ、現実のBに到達すると言う事実は数学的に言えば、微分と言う概念が成立する事で始めて、理論として取り扱つかえると言う事になつたのである。

理論派と行動派という区別は、この場合、ディオゲネスの行動派に、ゼノンを理論派にわけると考えられているけれども、しかしこの区別も本質的なものではなくて、あくまでも現象的な側面を示すにすぎないのである。では、どんな現象的な面をしめしているのだろうか。それは、両者とも現実に歩くとか走るとかいった運動を、空間上の位置変化と言う観点から一般的に捕らえて行くのであり、それはとりもなおさず、理論的なのです。
ただ、ディオゲネスの場合、ゼノンのあの理論に対して、位置変化と言う観点を媒介にした現実の運動を対置しただけなのに対して、ゼノンの場合には、図1の様な理論を思弁化したのである。とすると、ディオゲネスは、歩き回ったから行動派であり、ゼノンは思弁化したから、理論派であると言う区別は、両者とも一般化と言う視点を持っている事を忘れた者が、主張する言い分に過ぎないのです。

前にも記した様に、両者とも運動について考えているのであり、真の理論とは、まさにディオゲネス的方向とゼノン的方向の統一として成立してくるのである。ここで、さらに次の事が考えられなければ、ならない。ディオゲネスが位置変化と言う一般論を媒介にして、歩行と言う運動を行ったと言う事は、彼にとって運動理論に関わるものとして、考えられているが、しかしその様な一般論を媒介する以前は、単に用事があるから、動いたのだと言う事でしかないのです。つまり、一般論を媒介にすると言う思考を組み立てる事で、はじめて理論が成立するのだが、その様に思考を組み立てる者は、まずこの地上を動くものとして、つまり生活しているのであり、更に言えば、一般論が媒介されても、場所の移動は相変わらず繰り替えされているのであり、その一般論の媒介が、頭脳の行う概念の組み立てであるなら、その様な頭脳を持つ人間は、この地上で生活するものとして行動すると言う事になるのであり、だから理論派と行動派と言うのは、あくまでも、人間における構造として統一的に成立しているのであり、決して区別の様に別々なものなのではない。ただその区別は、どちらをより意識的に行うかと言う時にのみ、現象してくるものにすぎないのです。