2002.01.29

この眼で見えているものが、今見えているようにあると言う事

この眼で見えているものが、今見えているようにあると言う事に対して、本当は、違うんだよと言う言い方は、<今とは違った様に見える>と言う事になるのか、あるいは、現に見えているようではあるが、<ものじたい>は、見えているものとは違っていると考えるのか、と言う事に成ります。 私が現に見ているものは、見えている通りだとするなら、私が見ていなくとも、それらは、見えている通りにあるのかどうかという事を考えてみます。

 例えば、汽車線路の走るに方向に向かって立ち、線路を見れば、走る方向に向かって線路は狭まっていくのがみえているとき、その見えているものは、眼球の中の白い光るものではなく、私を含むこの環境の中にある線路と言う客観的ななものであり、その客観的なものが、先に行くにつれて、狭まっていくものと、見ながら判断しているのである。そこで、見えているが、同時に客観的に巾が違うと判断していることにたいして、巾が違うと見えているだけなのか、同時に客観的にも巾が違うのかと言う二方向の問が成立するのである。
<見えているだけ>と言う事は、見えている所で、<見える>と言う構造だけに成立している事で、客観的に成立はしていないということになります。
このとき、幻想や夢のように、頭の中でのみ生じている事に対し、客観的にあるものが、視知覚されるのだが、ただ視知覚に条件づけられた特定の見方として成立するという事になりそうである。この条件は、客観的なもの自体ではなくて、その一側面に付けられるのであり、私の位置から各地点までの距離とその地点の物の大きさが、眼からの大きさとして、遠近観を形成するすることになる。
遠近観の場合、客観的な物体同志の距離と物体の大きさが、視知覚する者の眼の位置から知覚される為におこるのである。
それが、<平行な線路>と<狭まっていく線路>という事になります。
平行線も狭まった線も、見えとしては、同じ様に<狭まって>見えるのであるが、しかし<自体>としては、両者は別のものであると言う事になります。
 この<平行な線路>は、そのままあるにしても、視知覚される限り、狭まってみえるのであり、その狭まって見える線路を物差で、各地点をはかり、確認する事で線路は、平行である事を確認されるのである。この各地点の巾の確認は、まさにこの、遠近観をみる眼によって知覚されるのであって、各地点の確認の総計が、線路の平行状態の確認という事になる。視知覚する者の立っている位置のそれぞれの巾を確認すれば、全体として、決して狭まってはいないのであり、それを平行状態であると結論することになるのです。私達の視知覚は、現に立っている地点からの視覚であり、その視覚をなす私達の移動すると言う特性が、視知覚の連続的変化をつくりだすのであり、
その変化が、ある一点からみられた、遠近観を、絶えず修正していくのであり、だから線路が先きに行くに従って狭まっていくとみえても、それで自体が狭まつていくといった結論をしないのである。
 今の場合、私が立っている所から、線路の前方をみていると、線路は先に行く程狭まっているのであるが、しかし見ている限りまさに、線路がそのように見えているのであってそれを、<そこにある線路は、見える事とは別に、全体に平行状態にあり、けっして狭まっていくものではないのである>と言ったとしても、あくまでも、現に狭まっているのが見えている事の中で言葉として浮かぶものでしかなく、私達の眼に対して平行に見えるという事ではない。
平行な線路とは、全く眼に見えることであり、例えばノートに定規を使い巾5センチの線で図示出来るので、私の目の前にあるのを見る事ができるが、しかしその線を遥か先きにのばしていくと、私達の眼には、やはり、先きが狭まっていくのが見えてしまうのである。平行状態は現に見えている所で生じているのではなく、視知覚を介して、いま此の地点Aから見ている時、此の地点の巾と、前方の巾が、連続的に狭まつていくのが見えているのであり、此の地点からの視覚ということであり、視覚的には此れで全てであるが、しかし眼をもった人間は、移動するのであり、此の地点から、次の地点Bに移動している間も、前方は狭まつていくのであり、狭まっていると見えるC地点に立った時にそこは、A地点と同じ巾であり、線路自体は−−−そして此の<自体>とは、眼が向けられているものとしての線路に対して、眼の視覚に関係なくと言ういみで、関係を形成しなくて、単独に、線路だけでという意味で言っているのであるが−−−どこも同じ巾である、平行状態にあるという判断になるのです。
 白線自体について、平行状態であることは、メジャーで巾を確認しているからあきらかであるが、その白線自体が、私達の眼の位置から知覚される時、狭まっていくのが見えるのだが、しかし白線自体の平行性が、とたんに狭まっていく訳てはないのである。白線自体と私達の眼との知覚関係において、頭脳のなかで、遠近観として処理される事で、目の前の白線が狭まって見えるということになります。
A地点の巾と、その地点Aを基準にB地点、C地点の巾を比較するという遠近観により、狭まると言う現象が知覚される事になるのです。

頭脳の中の処理を心の知覚活動と規定すると、遠近観は、頭の中の問題ではあるが、何か幻覚や、夢のような心的現象であると結論しては成らないのであり、白線自体と、私の眼を介した頭脳が、知覚関係を形成する事で、頭脳、あるいは心に成立するものが、私が現に見ている白線の状態なのである。
<白線自体>と<眼を介した頭脳>とが、知覚関係がを形成する時、知覚内容を形成するのは、実体としての<白線自体>であるという事で、遠近観は、白線の巾という側面がかかわるのであり、だから絵画表現において、遠近法によって描かれている絵は、各像の配置が、ある一定の大きさによつてなされる事で、遠近観が、表現されるということになるのです。
平行であると言うのは、<現に見えている>事に対して、一つの知識であり、平行に見えると言う事とは別の判断から生まれてくるものなのです。
<平行である>と言う事と、<平行に見える>と言う事は、別なのです。
先きに行くに従ってその巾をわざと広げる事で、平行に見える様に操作する事が出来るのは、遠近の成立が出来ても、狭まらない様にみえているのです。

平行線である白線相互の巾の大きさが、視知覚を介して遠近観として処理される事を、私達は目の前のそこにある白線が、狭まつていくとみえているということになるのです。そして、現に今の様(先きに行くに従って、狭まっていく事)に見えていることが、遠近観の処理ということであり、その様に見えている事ととして処理している事が、まさに<見る>と言う感性的認識の一つである、視知覚ということなのである。

この遠近観は、確かに頭脳の処理方法であるが、あくまでも、眼を介した処理であるということになり、だから、五感を介して頭脳までの処理過程を、例えば<心>あるいは<認識>とするのであり、五感の特性により生ずる認識を、感性的認識と言うのである。
もの自体としての平行な白線に対して、その白線の巾が、私達の視知覚に遠近として認識される事が、私達のもの自体に対する折仕方である事。しかし、そのような視知覚をなす私達が絶えず活動する事で、視知覚における遠近と言うものの見え方が、もの自体としての平行線を判断させていくのである。

現に見ている時、ただ意識されるのは、そこにある線路が、先に行くにしたがって狭まって行くと言う事であり、そこで成立している関係構造が意識されるわけではないのである。そして、その関係構造が概念として捕らえられたからといって、急に目の前の線路が平行に見え始める訳ではなくて、視知覚が成立する、眼に介して知覚が成立する限り、相変わらず、遠近観として処理され続けられるのです。