2002.01.29

見る事についての、一般的な説明について、その理屈を考えてみます。

見る事についての、一般的な説明について、その理屈を考えてみます。 いま考えられている理屈は、以下の通りです。

「私に机の上の花瓶に一本の赤い薔薇があるのが見えている。」
と言う経験−−(1)
この言説は、自分の部屋にいる時の私の視覚経験であり、私以外の人が、この部屋にくれば、(1)の言説を表現する経験をするであろうと言う事となのです。
人々の見ると言う活動であり、視覚障害者には成立しない活動と言う意味での視知覚活動なのである。更に言えば、200年に一度の天体運動を、その日に見る事が出来ないと言う事は、個別的である、見られる対象を今回は見落とした言う事であり、その日は、movie(映画)を見ていたと言う事なのです。見られる対象には無数にあるが
そのうちの私がいる所から見えるものをみていて、その日には、200年に一度の天体運動ではなくて、movie(映画)をみていたのであると。目蓋を塞がないかぎり、必ず何かをみているのであり、その現に見えているものが、<見え>の<対象>になっているのである。その日は、天体運動は、<対象>には成らずに、映画が<対象>になったのです。無数の物が<対象>なのではない、視覚活動を向けられたものが<対象>になるのです。無数にある物に対して、<対象>とは、<視知覚>と<視知覚が向けられているもの>の関係のうち、視知覚がむけられているものが、<対象>に成るのです。だから、私達の周りにある無数のものが、対象なのではなくて、視知覚と関係する事で、はじめて<対象>に成ると言うことなのです。物と視知覚との関係と言う時、その関係は、物から反射して来る<光>が眼から入る事で、形成されるのであり、眼から入った光が形成する色や形や大きさは、属性となり、物は<対象>として成立する事で、<そのような属性のものがある>と判断されるのです。
私達の視知覚には、<赤い色>が内容として成立しているが、物と関係なく、単独で成立しているのではなくて、物は<対象>として<あり>、<赤い色の物がある>と言う事に成るのです。
物が認識の<対象>として<ある>様に、赤い色が<対象>としてあるのではない。
対象に関連するものとしてあるだけであり、その関連を抜きに考える時始めて<赤>というものが、<対象>と同じようにあるとかんがえてしまうのである。
対象は、認識と言うレベルでの関係で成立し、その対象が、<赤い>と言う認識の内容として成立している時のその認識を<感性的>と規定するのでが、この感性的認識は対象を属性をとして認識することであり、そしてこの<属性>と言う言い方は、現に対象を<赤い>と視知覚している事に対して、対象との論理関係表すものとしているのである。つまり、現に知覚している<赤い>と言う事に対して、<リンゴ>本体と<赤い>と言う関係を、<対象>と<属性>と言う論理関係として、把握しなおすのであり、その把握を私達は、<超越論的思考>というのである。現に知覚している時、私達が自覚しているのは、絵を描く為に見ていたり、皮を剥いて食べようとして見ているときの<赤いリンゴがある>と言うことだけであるが、しかしこの様な知覚も、自覚していない所に成り立つ手いる構造を、あえて自覚しようとする事で、<超越権的思考>がうまれるのです。
視知覚の内容として<赤い色>が成立している時、対象とは、認識の対象と考えるべきであり、感性的認識が、対象の<属性>を内容として成立し、超感性的認識が対象の<ある>を内容とする事で、認識としては、<赤い色のりんごがある>と言う内容として成立するということになります。
対象が<ある>と措定されると、更に認識としての内容が成立し、その内容を表現として表すと、<赤いリンゴがある>と言う事になるのです。

<現に見ている事>これも、ある種の言葉になってしまっていて、<それ>を、見る事と、見られるものとに<分けた>時、<見る>と言う側面がここに表現されているのです。<それ>は、分ける以前を指し示し−−−分けることで、ふたつのものに成るかの様だからと言って、分ける以前は、一つであると結論してはならないのであり、ひとつとかふたつといつた範疇ではなく端的に<それ>ということになるのです。−−−その<それ>を、分析して、言葉としての統一で<目の前の机の上に赤いリンゴがある>と表現するのです。<それ>と言う言葉に表現される認識は、<あるものが認識の対象になつている>と言うときの、<対象>と言う事をしめしているのである。
更に言えばこの<対象>と言う言葉も、すでに表された言葉であり、<それ>を違う言葉で言い換えたにすぎず、だからこれらの言葉で、表現しようとしているものを、理解してもらう以外になく、百万遍言葉を尽くそうと、言葉にすぎぬ事を理解することに成るのでしょう。
この気持ちを図式化すると、以下のようになります。
  対象−−認識−−表現
と言う事であり、私が記して来たことは、全て、表現としての言語であり、その言語を読んだり、聞いたりする事で、対象−認識と言う過程を理解すると言う事に成ります。表現と化した<対象−認識>と言う事であり、だから、手に<リンゴ>を持って
<ほら、これが対象だよ>としめしても、手に持つたものが、言語としての<対象>になることの、規定を明らかにしないとならないのである。

以上の様な<視知覚>の経験に対して、それが研究の<対象>になり、この<見え>の構造を明らかにする。
<見え>が研究の対象に成る時、対象以前にも、対象中でも<見え>は成立しているのであり、常時成立している中で−−視覚障害に成ればなくなってしまうのだが−−
研究されるのである。研究されても、<見え>は、相変わらずそのままであり、言葉として以下のように説明されるのです。
  机や花瓶や薔薇に、ましてやこの部屋に当たった光が、「ある波長の電磁波とし  て、私の眼の網膜を刺激してそこに電位が発生する。それが神経繊維に伝わって  脳細胞を刺激し、そこである種の化学変化を起こすとき、私は赤い薔薇を見ると  言う経験をもつ。」
  この一連の過程は、私の眼や神経組織に異常がない限り、機械的にその刺激が私  の大脳に達して<赤い薔薇>の映像を私の心に写し出すと言う様に、私が赤い薔薇から刺激を受ける事に徹頭徹尾依存しているのです。
この一連の過程の最終段階である、大脳に生ずる化学的変化が「私に赤い薔薇が見える」と言う経験である事になります。−−−−(2)

<大脳の生ずる化学的変化−−私に赤い薔薇がみえると言う経験> −−−(3)

を考えるとしても私が現に見ている事の上で成り立つ事であり、<特定の波長の電磁波>と言うレベルでは、私の目蓋が閉じられれば、目の前の真っ暗になり、何も見えない状態になり、その電磁波が、物が見える事に関わっている事になります。
(3)の関係に対して、両者を結び付けるのは、<私の、物が見えると言う報告>に依ってである事で、私からの報告がなければ、どんなに脳細胞の活動を明らかにしても、単に化学的、電気的反応が示されるだけになるのであるが、しかしこの説明は、見る事ついての<説明>と言う事で、現に見ている私達の経験を対象にしている研究だと言う事を忘れているのである。つまり、私達は、見る事の構造を研究する為に見ている訳ではなくて、人間の諸活動の中の一つとして見る活動があり、見る事により、物の位置を確認して歩いたり、手に捕ったり、色を鑑賞したりするのであり、その視覚活動に対して、その構造を明らかにしようと言う事になるのです。
そして、現に見ながら、この見る事とはどう言う事かと考えるのであり、見ながら考え、考えながら見ると言う事が、実施されるのです。視覚障害がない限り、見る活動の上に、考えると言う心身活動が成立しているのです。
そこで、例えば眠くなって眼を瞑る事と、<物に反射した光が眼から入り、物の色とかが理解される>事がどう言う事かを知る為に目蓋を閉じる事とは、同じ心身活動であり、光を遮断する活動であるが、眠くなって目蓋を閉じる場合には、眠くなったと言う心身活動であり、もう一方は、思考的活動と言う事に成ります。
つまり、<眼を瞑る>と言う身体活動は、眠くなっても、意識的にも成立しているのであるが、前者が眠いと言う心が、光のはいって来る事で、目の前の物に向かっている視覚の働きをなくして、活動を少なくしようとする事なのに対して、後者は、目蓋を閉じる事で、今見えていたものが、現に見えなく成り、目蓋を開けると物が見え出すと言う事をくり返しながら、今<見えている>事について、思考を巡らそうとしているのである。

いま見ているこの事を、大脳を構成する神経や細胞の働きとして捕らえる<2>の場合、大脳に生ずる化学的変化を<見る事>であると結論づけることは、<現に今見えている>事と<大脳の化学的変化>を等価にすることになり、その化学的変化を生じさせる<光>とか、網膜とか、視神経と言った過程をむしすることになる。光がなければ、見る事もない−−その為に、目蓋を開けたり、塞いだりして、目蓋が関わるものが、光である事を意識していたのである。−−のであり、だから、光は<現に見えている>事と繋がっているのである。ということは、<現に見えている事>の構造が分析されているのであり、その構造の一つ一つを取り出して、<網膜に光学的象ができることは、見る事ではない><神経の電気変化も見る事でない><大脳の細胞の化学的変化が、見る事である>と言う発想こそ、研究の<対象>と<対象の構造>と言う区別が出来ていないと言う事に成るのです。
<現に見えている>この事は、<光から、大脳の細胞の化学的変化>までの過程的構造としてなり立っているのであり、その過程全体が一つ一つの過程のつながりとしてあるからと言って、その一つ一つが見る事であるかどうかなどと考える事があやまりであり、だからどうしても、最後の<大脳の化学的変化>に<見える事>を押し付けざるを得ない訳であり−−何故なら、現に見えている事を、説明しなければならないからである。−−この発想が,SF世界の、<脳>だけを、溶液の中にいれて、指令をすると言う場面に繋がるのである。
<現に、眼を開けて、机の上の赤いリンゴを見ている>事に対して、眼とか神経とか脳細胞と言った部品に分け、その相互のつながりを明らかにする事で、現に見ている事の、