2003.12.18

文字を書くこと

文字と命名


文字を書くと言う概念がある。書き文字があれば、その文字を現実化する筆記活動が成立する。日本では墨と言う溶液と筆と言う筆記用具Aを使用して紙に文字を書く事が中心でした。書き言葉があれば、文字を書くと言う概念の、現実態として日本では墨と言う道具が成立しているのです。文字を書くと言う概念の現実態としての墨と言う筆記道具Aに対して西洋から別の筆記用具Bが入って着た時、そのBは文字を書くと言う概念の現実態としての<墨>に対して色彩での区別を立てて<白墨>と命名したのです。西洋から入って来た<もの>が、黒板と呼ばれるモノに文字を書く筆記用具としてある事を体験するように成ると、現に学校で使用される様に成ると、<文字を書く>と言う概念の現実態としての<筆と墨と白紙>と言う日本の出来事に対応して、筆記用具としての墨が色彩としての<白>と言う観点で規定され<白墨>と成ったのです。書き言葉があれば<文字を書く>と言う概念は何処の国にも成立しているが、ただその現実態は国ごとの文化によって違っているのであり、日本や中国では<墨や筆と紙>として現実化しているのです。その日本に今まで経験した事のない<筆記用具>が−−ここで「筆記用具」と説明出来るのは、文字を書くと言う概念が私達の中にあり、その概念が「筆と墨と白紙」で現実化している生活があるからで、西洋のそれがまさにその概念との同一性を現実化したものと言う事を理解されたからです−−入って来た時、その筆記用具を日本の筆記用具と関連させて名称をつけと言う事なのです。日本のそれも、西洋のそれも<筆記用具>と言う言葉で表されるレベルは、<文字を書く>と言う概念を構成する<文字の形、文字を書く道具、書かれる道具>のレベルであり、それを日本語で<墨と筆と紙>と言葉で表すとき、具体的な材質を取り上げているのである。つまり<筆記用具>と言う言葉は文字を書くと言う活動を構成している道具を言うのであるが、さらにその道具が現実の物質により出来上がっている事で、初めて文字が書かれたと言う完結として成立した事になるのです。<砂に指で>文字を書く。<キーボードでディスフプレーに>文字を書く。<絵の具で>文字を書く。<鉛筆で>文字を書く。と言う様に<文字を書く>という概念が、現実化しているのです。西洋のそれは、西洋においては特定の名称(チョーク)があるはずだが、モノ自体が日本に入ってきた時、日本での<文字を書くという概念>の現実態としての<墨と筆>が、<筆記用具>の具体名として扱われている為に、その具体名に対して、材質の<白という色>を対抗させて<白い墨>という事で<白墨>と命名したのです。それが<白墨>と言う名前で、学校の授業において日常使われてくると、学校では<文字を書く>と言う概念の現実態としの筆記用具は、<白墨>が中心に成ると、その名称が持つ<白>と言う材質の特定の性質は、材質の色に関係なく、その現場での筆記用具の総称となると、それは、別の赤や緑の色のモノが出てくると、<赤い白墨>と言う表現として成立してきたのです。<赤い>は、その材質の色であるが、<白墨>は、色の言葉が使われていても、学校の授業に黒板に文字を書く筆記用具の名称と成ってしまったのです。
<白墨>の<墨>は、材質としての特定の材料でありながら、筆記用具という概念の現実態としてあるために、西洋から今までにない筆記用具が入ってくると−−単に<筆記用具>と呼んでいれば良いと言う訳には行かないのは、多様な筆記用具があれば、どの種類の筆記用具かを特定しないと他者に向かって発言出来ないからです−−筆記用具としての墨に対して、筆記用具としての<白い墨>と言う名称が出来あがったのです。西洋の<それ>の材質は決して墨の材質と似てはいないがしかし墨と呼ばれる液体が、筆記用具と言う概念の現実態としてある事により、西洋の<それ>も筆記用具と言う概念の現実態としてあるなら、名称として<白い墨>という事で<白墨>と名指されたのです。ここで注意いなければならないのは、<筆記用具>という言葉も、墨や白墨と同じ言葉であることです。西洋の<それ>に対して<白墨>と<筆記用具>と言う二つの名称があり、同じく日本の<それ>に対して<墨>と<筆記用具>と言う二つの名称があると言う事なのです。さらに言えば、<日本のそれ><筆記用具><墨>と言う言葉も、名称であると言うことなのです。<同一の対象>も名称であるのです。
<日本のそれ>と言う言葉も、<筆記用具>と言う言葉も<墨>と言う言葉も、三つの別々の違った言葉であるが、しかしその三っの言葉は、相互に関連されているのです。<言葉以前のモノ>と言う言葉でまず言葉を出す時、その言葉で表そうする事で理解されるモノがあり、その理解されている彼や私達の頭の中の出来事から、次の言葉が継続していくのです。<言葉以前のモノ>と言う言葉は、私達が言葉のコミュニケーションを行うとき、その私達を囲む世界の出来事の存在を表現しているのです。その世界の出来事の中の一つに対して、<日本のそれ>と言う言葉で表す時、この言葉が表す認識は、他方には<西洋のそれ>と言う言葉に表される認識と区別されているのです。私達の頭の中では、認識が分化され始めている。五感を入り口とする知覚が対象にしているモノが<それ>と言う言葉で指示される時、知覚の主体に対する特定の距離にあるモノが対象になっている事を<それ>と言う言葉で表すのです。その特定の距離の違いにより、<それ><あれ><これ><どれ>と言う表現になるのです。さて<日本のそれ>と言う言葉で指示されている対象は、それが存在する日本と言う国の中では、文字を書くという活動の道具としてあり、そのあり方を表した言葉が<筆記用具>と言う事になります。知覚の対象になっている<それ>が、<それ>と言う言葉で表されるのは、私からの特定の距離にある対象であると言う認識が成立しているからなのだが、ただこの<それ>は、私からの距離であって、その距離にあるモノがどんなモノなのかは、この言葉を表現している私の知覚の内容として成立しているだけなのです。<それ>と指示されるモノが<リンゴ>なのか<筆>なのかと言う事は、あくまでもわたしの知覚として成立しているだけであり、その知覚内容を言葉に表す方向に向かうだけなのです。まず<それ>と言葉に表されるだけなのは、まだ名称がないからと言う事になります。私達は、その名称をまだ知らないか、あるいは社会的に命名されていないかに関わらず、<それ><これ><あれ>と言う言葉の使い方は自由になっている頭の言語発達があると言う事なのです。まだ命名の言葉を知らない私達は、しかし<それ>に対して「何であるか」と言うその概念を、実践しているのであり、さしあたって<それ>と呼ばれているモノが、文字を書く時の道具となっていると言う事で、手に持って使われているのです。特別な観念がないとその道具から、文字となるインクが流れてこないと言う事でなく、象もその鼻で筆を持ち墨をつけて白紙に跡を付けることができると言う事なのです。つまり道具としては、私達の頭の中にある文字の表象を墨の跡とする事であり、<筆、墨、紙>と言う道具は、その過程を作るモノと言う事なのです。頭のなかの文字の表象があり、その表象を頼りに、手に筆を持ち筆に墨を浸し白紙に筆を下ろし、文字の形を作るのです。その筆の運動の完了として文字が表れると言う事になります。<筆、墨、紙>は、その様な過程を作る過程の仲立ちとしてあり、私達は<筆、墨、紙>を単なるモノとしてではなく、その過程を仲立ちするモノと言う規定で捕らえるのです。<筆、墨、紙>は、私達の知覚の対象としては、動物の毛と竹で出来たモノで、墨という鉱物であり、植物繊維で出来た紙と言う事でしかないが、文字を書く過程の仲立ちとしてのモノである時、初めて<筆、墨、紙>は<筆記用具>と呼ばれる事になるのです。私達の文字を書く活動の仲立ちである事を、まさに文字を書く事の最中に自覚していて、だからこそ文字を書き得るのである。<筆、墨、紙>の知覚とそれを仲立ちにした自覚的活動の頭脳への反映を概念と言うのです。私達の悟性的思考、単なる反省は、<筆、墨、紙>と言うモノに、種類という側面があると言う結論をして、「<種類>と言う側面」と言う言葉が、何を表しているのかを明らかにしていないのです。単にモノとしての<筆、墨、紙>に属性として種類という側面があると言う説明が何を言おうとしているのかと言う事になります。墨の液体と言う側面は筆の毛の部分との浸透状態を創り出し毛に浸透した液体が、毛の大きさだけの部分で紙の繊維に染み込む事で文字が出来ると言うのであり、紙ではなく、鏡の様なモノであれば、浸透する事も無いので、文字が書かれる事はないのです。つまり、<筆、墨、紙>の材質は、相互に関連する事で初めて文字を書く道具となるのであり、それは個々のモノの材質がどうのと言う事ではなく、その材質の相互の関連こそが、はじめて文字を書く道具となりうると言う事なのです。確かにモノの持つ材質が関わるが、しかしその材質の特定の組み合わせこそが、文字を書くという仲立ちをするのである。例えば鉄釘で鉄板に文字を書くとか、空に飛行機雲で文字を書くという場合、その組み合わせによる事とでしか文字は出来ないのであり、モノの属性という事は当然としても、それで話が終わる訳ではない。その組み合わせこそがここでは重要なのです。モノに属性があるからという事ではなく、どんな属性同士が関連するかによって決まるということです。単に属性という事で話が終わるわけではない。いつもどんな属性同士が関連するかという事がすべてなのです。