2002.01.29

概念と言う認識の位置付けについて

概念と言う認識の位置付けについて、今の時点の判断を記してみます。 私の考えは、<対象--認識--表現>と言う過程的構造が、芸術的な表現や、言語表現 あるいは、絵画、音楽と言ったことばかりでなく、生きる事すべて、人間の活動を自身の意図とか、意志等から見た時、表現として理解する事であり、その人間の活動が、関わる物質的なものが、意図とか、意志とかの内容にかかわることで、初めて、対象と規定される条件を得るのでしょう。

例えば、目の前のもの(A)を、手でつかもうとする意志は、Aと、Aに対する自身の位置の知覚が成立して居る上で、はじめて、実現するのであり、<現に手で掴む>と言う事を、意志との関係で、意志の、物質を介した表現形態であるとするのであり、と言う事は、知覚の対象として自身を含む周りの物が規定されるのである。

此の時の意志について、例えば、腕枕をしていて、手が痺れた状態で、<手をあげる>と言う意志は、何かそのものとして、頭脳に中に、<赤い色>がバット!浮かぶ様には、表象のようにある訳では無く、まさに、腕が上がっていく事とおなじであり、それは、全身についての身体知覚が成立して、腕をあげるという身体運動は、機械的な運動だけで無く、身体知覚と言う初期的な認識が成立しているからである。 そして、此の認識は、対称的な認識では無く、現に身体が動く事で成り立って居るのである。身体を動かす事が、初期認識の表現でも有ると言う事に成る。
それが、さらに例えば、教室で先生の質問に答えようとして、手をあげようかどうかもじもじしている時の状態は、頭の中のイメージとして椅子に座った自分の、手をあげている表象が浮かぶのであり、此の時の表象は、手をあげたあとに、先生に名指されて立ち上がり、答えが間違っていたら、恥ずかしいと言った一連の行為の一場面があるということなのでしょう。
つまり、此の時の<手をあげよう>と言う意志は、現に手があがると言う事では無く、<名指され、答えを言う>為の、イメージをともなつた、<手をあげよう>という意志である。ただ、このとき、そのいち連のイメージが表象として成立していても、そのイメージが成立している認識の内部では、身体知覚がそれを支えているのでしょう。

質問に答える為に<手をあげよう>と言う意志は、身体知覚の上に、手をあげて、名指されると言った一連の表象を含むことであり、表象としては、手をあげている像が頭に浮かぶのだけれど、私達が反省として、その表象が頭に浮かぶ事が、<手をあげよう>と言う意志であると短絡したら、上の様に、身体知覚については、表象を支える基礎である為に、認識としては、現に身体を動かす事であると言えるのでしょう。
対象化という、表象活動に、絵画の様に、机の上のリンゴを描いた静物画は、<机の上のリンゴ>が、対象となり、<横から見られた対象>が、作者の認識に成り、目の前の一枚の絵が、その認識の表現と成るのである。此の時、対象に対して、<横から見る>と言う認識は、確かに、絵を描かなくても、成立しているが、だからといって、私が椅子にすわり、机の上のリンゴを、横の方向から見ていると言う事が、<認識として>、実体として独立して成立している訳では無く、単に眺めていると言う事であったり、そのリンゴに手をのばし、手にとり、そして、かじって食べるということになる様に存在としてあるのでしよう。

 さらに、絵画として、教会の窓に佇む天使像は、作者の見上げると言う位置と、空想の存在である天使が、頭の中の想像として形成され、その想像された像に対する認識が、一枚の絵画として、表現されて居るのを考えてみます。  天使像の場合、鑑賞すると言う絵画表現の所から見ると、<見上げるような位置の><教会の窓に佇む天使>が、絵画に描かれており、それを過程的構造で把握すると対象とは、<教会の窓に佇む天使>であり、<その対象が見上げるような位置>として認識され、そして絵画として表現されたのだと。 そこで、静物画の場合、対象は、<私の目の前のそこに有るもの>と言う事に成り、描かれた絵画上の像と私の目の前のそこに有るものを比較して、色合いとか形とかを比べるのである。
それに対して、天使像の場合、現実にいる赤ちゃんや、鳩の羽といった経験からの像が、更に頭のなかで再構成され、それが、絵画として表現されたのであるのだが、しかし、経験からの像は、そのまま、赤ちゃんの像として描いたり、鳩の羽を部品としてのみ描いたものが有るの対し、その経験からの像をまとめ上げる一つ視点が必要になるのです。

 <対象--認識--表現>とは、「表現」が持つ関係のことであり、「対象」や 「認識」が表現されずにある場合は、それは「表現」抜きに考えなければならないと思います。概念という認識を論じる場合には、論理としては「すべて、表現までを含まなければならない」という面があるかもしれません。しかし、<対象--認識--表現>が表わすものは、現実の具体的な音声や文字がどういう構造を背後にもっているかという・「表現の過程的構造です。
この図式は、対象が認識の原型であり、認識が表現の原型であるという関係を示したものと理解すべきで、この図式からは、「認識なければ表現なし」とは言えますが、「表現なければ認識なし」と言うことはできません。「認識」が概念として成立すれば、その概念を言語に表現するのに用いる。 声や文字の表象が、概念と同時に思い浮かべられることになるでしょうが、それは<対象--認識--表現>とは、別の問題として論じなければならないと思います。ここが、私と山田さんのお考えとの相違点です。

ここが重要だと思うが、その内部の両者の連合を、<名前とか、名付ける>と言う文字、あるいは音声と関係付ける事で、名付けると言う言語表現を実践する事と−−<えーと!、彼の名前は、なんって言ったかな?>と言った、言葉が出る事−−現に私に向かって<かずお>と呼ぶこと、あるいは母親に向かって、<かずお>と呼ぶという、実際の個有名を表現する事、この二方向の形態が成立しているのである 。
 「二方向の形態が成立している」という「二方向」の意味は、「規範の成立」と、「規範の媒介による現実の表現」との区別のことで、こういう分析が、三浦言語理論の真骨頂です。

多分、<概念の二重化>と言う時、それは、実体論のレベルで固定したものであり、<対象−認識−表現>である限り、概念は、表現としての形態として捕らえると言う事に成るのでしょう。

概念が名付けられることになるのは概念にとって必然である、という理解でいいでしょうか。それならば、なるほどそのとおりと思います。この必然の結びつきを媒介するのが表現だということになります。

<かずお>と呼ぶ事と、それが名前を呼ぶ事だと言う二系統を、言語規範とその適用と言った範疇で考えてはいけないのだろう。何故なら、ある人に対して、個有名を名付けたり、呼んだりすることは、私達の意志活動であり、意志を実践することであり、私達の、他の人々に対する関わりなのだか らです。

固有名の規範を作ることも、固有名の表現をすることも、現実の生活のなかの行為として把握すべきであり、規範から表現が作りだされるところだけで見てはいけないということは、そのとおりと思います。

つまり、規範における抽象的な関係が、具体的に成ると言うことでなく、私達の他者に関わる多様な側面が、認識の中に存在していて、その認識が概念として成立して言葉として、表現される時、概念化までの過程が、具体として、関係の内部に成立していると言うことである。

これらを、もっと抽象的に見たとき、私達の物質的なふるまいは、あるいは身体的な振る舞いは、内部に意識と称される構造としての振る舞いだと言うことであり、さらに、此の抽象である<物質と意識>との関係を、実体的に規定し舞うと、意識が自ら変化して物質になつたという、観念論になってしまうし、逆に物質自身が変化して意識なったと言う、俗流唯物論に成ってしまうのである。