2002.02.15

概念の二重化

<概念の二重化>


「・・三浦にとって、現実の具体的な言語とは、このように表現主体が<対象>から認識した超感性的な<概念>が、言語規範によって規定された<概念/聴覚映像>(つまり、ソシュールのいうシーニュ)との照応をへて、感性的であると同時に超感性的でもある物質的な形式として、<表現>にまで高められたもののことをいうのである。表現主体の認識した<概念>は、すべて実践的に抽象的であり、その点においてつねに感性的な表象とともにある<概念/聴覚映像>とは区別されるべき存在なのである。
(川島正平著『言語過程説の研究』p.82〜86)」

      <対象>から認識した超感性的な<概念(A1)>
      (表現主体の認識した<概念(A1)>、すべて、実践的に抽象的な
      概念(A1))
      と
      言語規範=概念(A2)/聴覚映像
     (感性的な表象と同時に種類と言う側面での超感性的)この聴覚映像
      は男の声でも女の小声でも、大人の声でも、子供の声でも、皆音声
      の質がちがっていても、例えば<ふじさん>と発声した時、その音
      声は、音声のおける種類とい側面が、同じであると言う意味で、直
      接的な感性−−−それぞれの音質−−−を超えて、超感性的と理解
      します。そして、これを感性的な音声の、種類と言う側面に対応し
      ている事で、超感性的と理解します。つまり、神秘的な、何処にあ
      るか解らないが、 この世とは違ったあの世に有る様な物としての
      <超>感性的ではなくて、感性的なものそのものが、同時に超感性
      的と言う意味なのです。あくまでも音声であって、神からのテレパ
      シーが姿を変えて音声になつているから、超感性的ではないのです。
      耳が知覚するのは音声そのものであり、音声そのものを認識するの
      で、感性的認識と言い、そりに対して、音声のある特定の面−−こ
      の面は、数学のフーリエ級数で記述できるのです。
      そしてこの記述ができる事が、私達が今使っているこのコンピータ
      ーが発声する音声の合成の根拠なのです。

そして、此のA1、A2二つの概念が、言語表現において、統一されている事を<概念の二重化>と規定しているのでしょう。
この二重化されたと言う事は、もともと一つの概念が、言語表現の構造から、言語の本質の面からA1A2の二つにわけられるが、しかし言語表現としては、一つになつていると言う理解をすると、その<もともとの一つの概念>とは、一体何であるかと言う問が頭の中に浮かんだとしたら、概念を実体として把握し始めているのであり、その実体としての二つの概念がどのような構造でかは解らないが、言語表現の時−−ソシュールのパロールと言う事−−統一されて現れているということになる。そこで、統一と言う事について、イメージを作ってみる。
 (1)二つ有る概念が、液体が混ざる様に一緒になる。
 (2)何かがコインの様に把握され、その両面の各々が二つの概念であるとされる。
つまり、何ものかがあり、それの面的なものが、概念であると言う事で、ただその両面には、特性が有る。一方は現に目の前にある対象から得られるのであり、目の前の対象の個別から、その個別だけの特性が捨象される事で、他の個別との共通性が取り出されたものなのです。他方、規範の概念はここでは、<概念/聴覚映像>である概念と言う事なのです。問題はこの概念が何処から生まれて来るのかと言う事です。何故なら、前者の概念が、対象から生じて来るのだと規定していいるのに対して後者は<概念/聴覚映像>としているだけだからです。
「個別的概念(表現主体が逐次的に認識する独自の概念)の成立する過程が同時に普遍的概念(言語規範の概念)とその個別的概念との間の対立が止揚される過程でもあって、一つの個別的概念は、不可避的にそれに対応する普遍的概念をそのうちに含む、という考え方」は、私達が言葉を使える様になる過程に対して、独自の概念と規範の普遍的概念の関係を問おうとしているのである。その考え方は独自の概念が成立する事が同時に普遍的な概念の成立であると言う事であり、その同時の成立により独自の概念が生まれて来る時、普遍的な概念が規範の概念と成り、規範になれば、言葉としの表現と成るのです。この考え方の問題は、両概念の<同時成立>と言う事であるが、ただ<成立>を問おうとしている事だけは、投げ捨てられるベき事では無いのです。非常に大事なのです。
「普遍的概念(言語規範の概念)は、個別的概念(表現主体が逐次的に認識する独自の概念)が成立したあとに、その個別的概念の聴覚表象を決定する契機として役立つにすぎない」と言う考え方は、概念を音声や文字の特定の形態として表現する時、その特定の形態がどの概念と関連しているかを作りだす媒介の項目として成立している媒介概念があると言う事。普遍的概念と連関している音声表象があり、個別的概念はその普遍的概念を介して音声表象を現実の音声化するのです。子供が言葉を覚えて行く過程は、他者の音声を聞き、その音をまねをして発声する事で、頭の中に音声表象を作り出して行くのです。この時その特定の音声表象に連関した概念を形成するのだが、音声の場合には自分の前の人々の音声を聞き、その聞いた音を自ら発音して、咽で作り出す振動である音が、頭脳の内部にその音声表象として作りだせるが、概念の場合にはそうは行かないのです。今私が韓国語なる音声を聞いても、それで言葉として分かる、つまり概念が作り出されたと言う事には成らないのです。
その概念の生成は、言葉としての<音声表象>を作るとき、その言葉が指示する対象たる個別と<対象の個別−−言葉>の関係を、つまりある個別に言葉のラベルを張ることで、その個別である対象の種類と言う側面の認識たる概念は、ラベルを介して、張られた個別に関わるのです。概念は、その表現としての言葉が、ラベルとして個別を指示する事で、<ラベル−−個別的対象>と言う関係を介して個別的対象を、概念の現実形態と規定するのです。それはあたかも個別的対象の種類と言う側面の認識として成立している概念が、その個別的対象の<個別性>を捨象しながらも内部に保持し続けている為に、その内部の力によって概念が個別化するのだと言っている様に見える事の正体なのです。
私が手にとったひとつの<モノ>は、そのモノが持つ成分によって食べられるものとなるのであるがその成分によって他の個別も食べられるモノであり、多数の個別に対してその成分は<共通性>として規定されるのです。その成分が、多数の個別を食べられるモノとするのであるが、しかしあくまでも食べられるモノは、個々のものであり、共通性としての<成分>は、個々のモノを食べられるモノとする実体として働くにすぎないのです。個々の食べられるモノは、その成分によって<食べられる>と言う種類として決定されるのであり、科学はその<成分>の構造を解きあかすのであり、我々の身体は、その成分を取り込む事で生命を維持し、その成分を持つモノを食物として認識して行くのです。食べられるモノとしての成分は、別にその内容や構造が明らかにされる以前から、成分を持つモノの形態が、形や色や味や手触りが、食べられると言う種類の現実形態である事を実証して来たのです。
個々のモノがあって、それらが食べられるモノとして区分けされる事により、個々のモノの中にある成分と言う考え方が生まれて来る。個々のモノの内食べられるモノであるのは、それらに<共通の成分>があるからで、その成分の有無が、食べられるモノ、食べられないモノの区別であると言う事になるのです。「Ba1、Ca1、Da1、Ea1、Fa1、Ga1・・」の多数のモノがあり、それらはが成分<a1>を持つ事で、みな食べられるモノと言う事なのです。成分<a1>は、客観的なモノの中にある事は違い無いが、そしてそれ以外にも沢山の成分があるが、しかしそのある特定の成分が、私達の身体による摂取されると言う事で初めて成分<a1>が、私達の身体との摂取と言う関係として成立するのです。モノの中に、客観的に成分があると言う事ではなくて、その客観的なものである成分<a1>が私達の身体との摂取関係を形成すると言う事なのです。摂取関係を形成しない成分<b1>もあり、その場合その<b1>成分を持つモノを、食べられないモノとするのです。そこで新たな問題は、成分<a1>がモノに内在するとした場合、モノ=成分<a1>と言う事ではないはずであり、個別的に存在する諸物というものがあり、それらが諸成分の統一体であり、それらの統一体であるモノを摂取するのです。そのモノが食物と言う事なのです。モノは自体としては、自然の一部としてあり、その中で生まれてきているのであり、その自然の一部であるモノを、同じく自然の一部である人間が自分の身体に内部化することで、身体の自然の働きを継続して行くのです。つまり成分を内部構造として持つモノを食物として、食べられるモノと規定する事は、モノを種類と言う側面として扱う事であり、その扱いの自覚的になったモノが認識における概念と言う事なのです。つまり、概念と言う認識が、言葉に表されると言う事で、<概念>と言う様にな言葉が作り出されて来たが、しかし概念と言う認識は、対象の種類と言う側面の認識としてなのたっているのだが、その認識が表現されるのは、身体活動にある種類と言う活動に他ならないのです。つまり、人間の活動が人間の活動と言う事は、積み重ねとして成り立っている事であり、前の事柄と次の事柄とが、内的なつながりを持つと言う事であり、その内的なつながりを自覚的に実銭しているのが、人間の文化なのでしょう。言葉とは、その方向の一つの表現であるのです。概念の表現は<言葉>だけにあるのでは無く、人間の文化が継続的である限り、継続の中で引き継がれて行くものは、個別と個別の共通性として働くのでしょう。

    ソシュールは思想を「不定形のかたまり」にしてしまったから、この学派の学者
    の発想では音声言語で表現されている概念も、langueの一面である非個性的な
    概念が思想と結合することによって具体化され個性的になったものと解釈され
    ている。だが実際には言語規範の概念と、現実の世界から思想として形成され
    た概念と、概念が二種類存在しているのであって、言語で表現される概念は前
    者のそれではなく後者のそれなのである。前者の概念は、後者の概念を表現す
    るための言語規範を選択し聴覚表象を決定する契機として役立つだけであって
    前者の概念が具体化されるわけでもなく表現されるわけでもない。概念が超感
    性的であることは、この二種の区別と連関を理解することを妨げて来た。言語
    規範の概念は、ソシュールもいうように聴覚表象と最初から不可分に連結され
    ている。連結されなければ規範が成立しない。これに対して、表現のとき対象
    の認識として成立した概念は、概念が成立した後に聴覚表象が連結され、現実
    の音声の種類の側面にこの概念が固定されて表現が完了するのである。(『言
    語学と記号学』p.27〜28)(傍線は原文では傍点)(強調――川島)
言語規範の概念と現実世界から思想として形成された概念の区別
前者の概念A1は、後者の概念A2を表現する為に存在していて、現実世界から思想として生まれて来たA2は、A1の概念を手がかりにその音声表象を現実の音声にするのです。A1には、その出生の場所があるのです。日本語を話す私にとって、A1A2も成立しているが、つまり日本語が自由に話せると言うことであり、それは現に自由に日本語を話す事が出来ている状態に対して、その<話す事>の構造を解明しようとして示されたモノが、<概念の二重化>と言う事なのでしょう。現に今の私の話す自由さに対して、その自由さの構造が<概念の二重化>と言う事なのです。その自由さを獲得する為の構造を示さなければ成らない。<言葉を話せる様になる>と言うその構造が、<二重化の構造>がどのようにして成立するのかと言う事です。
日本語はできるが、英語を習い始めた私が、新しく英語を覚えて話そうとするとき、一旦日本語に翻訳して覚える場合でも、私の目の前のモノを、日本語では<リンゴ、机、ある>と呼び、それを<机の上にリンゴがある>と表現するのであり、同じく英語で<Apple、desk>と呼び、それを<Ther is an apple on desk>と表現するのです。そこにある対象は同じであり、対象から得られた概念が、規範の概念を頼りに文字表象を具体化するのです。その具体化を言語表現と言うのです。日本語も英語も言語であると言う事である限り、同一な面がある。<概念/音声表象>と言う構造は同一に対して、音声表象の違いは、両者を聞く事で分かるのであるが、しかし概念については、両者と言う事もできないし、比較すると言う事も出来ないのです。
規範の概念も対象からの生まれた概念も、それぞれ超感性的と言う理由で、この二種類の区別と関連の理解を妨げて来たのは、その区別と関連こそが、感性的な目印によって成立しているからなのです。だから個々の概念と言う言方は、そこに個として区別される感性的なものがあると言う事なのです。だから両者と言う為には、二つの個別と言う事が必要だからです。概念とはそう言うモノの捨象として成立しているのであり、そのような一般性としての規定しかない概念を<何らかの方法で>比較したり、個別化したりする事が必要なのです。言葉とは、正にその概念の表現された形態として個別性を持ったというのです。
ソシュール学派「音声表象で表現されている概念についての解釈:ラングの一面である非個性的な概念が不定形なかたまりである思想と結合する事で、具体化され個性的になったモノと考えた。」
三浦学派「規範の概念と現実の世界から思想として形成された概念の二種類がある」
私に英語が話せないのは、英語における<概念/音声表象>がないからだとすれば、それは子供が言葉を話せない状態から話せる状態になると言う事と同じであり、音声表象を記憶する事なのです。この時その音声表象と一体になった概念は、どのように形成されるのかと言う事になる。日本語からの翻訳としての英語の場合、日本語の<リンゴ>と言う名称が指し示す対象は、英語の場合の<Apple>と言う名称が指し示す対象と同じであると言う事から、<対象−Apple>と<対象−リンゴ>と言う関係が成立していると言う事になる。ただしこの<対象−−***>と言う表現は、<***>が、英語や日本語や韓国語や中国語の個々の言葉であるのに対して、<対象>と言う言葉は、「リンゴ」や「Apple」と言う語が指示するモノが、その言葉との関係で初めて<対象>と呼ばれるのです。<リンゴ、Apple>と言う言葉で指示されている<それ>は、現に私の目の前にあり、私達は<それ>の皮を向いて食べるのです。<それ>は、皮を向いて食べられるものであり、この言葉で指示されるものである<それ>は、言葉との指示関係を形成するのであり、この関係から見られた<それ>を、「対象」と規定するのです。単に<それ>は、食べられる食物である果実であるだけなのに、<リンゴ>と言う名称による指示関係を形成する事で、対象となるのです。このあたりを論理的に言えば、「<それ>は、言葉による指示関係である対象を形成する実体ではあるが、<それ>自身が対象では無いと言う事です。<対象>は関係概念であり、<それ>は実体概念なのです。」
指示関係に対して、対象と言葉とを関係付けるものは、対象についての認識であり、その認識が言葉として表現されると言う事なのです。<対象−−言葉>と言う関係が成立つ為には、言葉が、私達の頭の中の認識の表現であると言う事なのです。つまり、私達の回りの多様な諸物のある特定のものが、認識され、その認識が言葉として表現されると言う事なのです。例えば、手に持ったモノで、白い紙に鉛筆の軌跡をつけめとき、手に持ったモノを<鉛筆>と命名するのは、自分で手を動かすと言う合目的行為とその行為によって動くモノと言う構造が捉えられる事から生じたのです。その構造の中で、現に手に持つこのモノを<鉛筆>と名指す事で、構造は概念として頭脳の中に反映され、このモノの形や材質等が、<鉛筆>と言う名指しされるもののイメージとして頭の中に形成される。<対象の種類と言う側面が概念として成立する>と言う認識は、種類と言う面が、構造ということであり、対象が、イメージとして形成されるのです。ある特定のイメージが形成される事と身体活動によって実践される合目的なものが、頭脳の中の概念の成立と言う事である。私達が普段頭の中に浮かべるのは、イメージと言う表象であるが、概念はそのようなイメージを媒介にした合目的な活動をさすのでしょう。<対象の種類と言う側面>とは、例えば目の前の<それ>に対してを、これも食べ物、あれも食べ物、と言うように個々のモノの共通性として<食べられるもの>の観点から<それ>が把握される事なのだが、個々のモノの物質的な性質は、現に食べて安全であったと言う経験から選ばれているだけであり、それを後に科学的分析によって成分を明らかにすると言う私達の思考の働きがそこに加えられたと言う事なのです。自分達の身体が<それ>が食べ物になるかどうかを実証しているのであり、その実証されている<それ>の成分が、科学と言う思考によって分析され明らかにされるのです。諸物は、<食べられるものとそれ以外のもの>と言うに種類に区別されのであり、このような区分けとして「種類」と言う規定が成立するのです。食べ物と言う種類でも多様であり、多様がさらに形や色や成り形等で区別され、各々果実、野菜と言った種類とされたのです。この種類に中である個別に名称として<トマト>と名付ければ、その<トマト>と言う名前は、食べ物の種類−−この種類が頭脳への像として成立する時、概念と言われるのであり、食べ物の種類が増えて行く事は、その種類と言う概念の別の現実過程と言う事なのでしょう。つまり、食文化と言う人間の合目的実践として成立しているのです。概念が対象の種類と言う側面の認識として成立すると言う事は、人間の身体活動によって成立する社会的活動が種類と言う側面を伴ったモノとして成立していると言う事です。

    「運用概念」と「規範概念」
    この二種類の概念の関係は、根本的には「運用概念」が基礎的な存在であって
    そこから「規範概念」が抽象され、それが「運用概念」から相対的に独立した
   「対象超越的」な認識として固定化され、以後、「規範概念」は「運用概念」の
    内容を拘束するようにはたらきます。
    「規範概念「が独立した後も、「規範概念」は絶えず現実の言語行為での「運
    用概念」との相互浸透を通じて、対象の認識の止揚によって得られた「運用概念」
    の内容を受取りつづけます。
    この相互浸透の過程には、「規範概念」が「運用概念」の運用のなかで検証され
    るということも含まれます。もし「規範概念」の内容に誤りがあれば、それが「
    運用概念」の誤りとなり、誤った「運用概念」による言語活動で目的どおりの結
    果が得られないということになります。そのことによって「規範概念」の誤りが
    知らされるというわけです。
    こうして、各人は自分の「規範概念」を他者と共通なものに保つように絶えず気
    を配ることになります。
両者の区別があると言う経験であり、問題は、その出生なのです。

暖房装置と言う言葉の次元では、多様なものが指示の対象になる。身体やモノを<暖める>装置と言う事なのであるが、「炬燵」と言う言葉の場合、それは特定の暖房装置の事を指示しているのであり、その言葉が指示する対象を見たことが無い限り、単に<暖房装置の一つ>と言う抽象的な所で終わってしまうのです。日本人である私が冬になると<暖を取る為に使う装置として>と説明する時、その対象の概念を説明した事であり、その対象を、私の身の回りにあるモノを、概念の表現である<言葉>としての炬燵で指示するのです。その対象を、<暖房装置>と言う言葉で指示した場合、種類の範囲がもっと広いのであり、炬燵とは別に暖房装置がある訳では無いのは、ミカンやリンゴ意外に果実が無いのと同じです。炬燵と言う言葉が指示するモノとしての対象は、<これ>とか<あれ>とかと指示出来るものとしてあり、それに蒲団を掛け内部をあたためると、体を暖める事ができると言う事であり、そのような装置をつくり、体を暖めると言う一連の行動が、対象の概念的認識の実践と言う事なのです。寒くなった時に体を暖めようと言う意志があり、その意志を実施する為に<それ>を使うと言う行為が成立すれば、はじめて<それ>について、「炬燵」と言う名前をつければ、「炬燵とは何か」と言う問いが成立するのです。その問いに対する答えを言葉に出すと、炬燵とは、<それ>についての名前であり、<それ>は、体を暖める暖房装置であると言う事になのです。<それ>について特定の形態は、見る事ですぐ分かるのだが、それがどんな暖房装置であるのかは、実際の使用によつて示せばいいのでしょう。それを見れば分かる面を、見せる事もしないで言葉で説明しようとする事から、言葉に言葉を重ねると言う事になるのです。「百聞は、一見にしかず」と言う諺は、その当たりを表現した言葉になる。だから<暖房装置>と言う言葉の暖房が、<暖める>と言う私達の体感の問題であれば、その体感を経験している者には、<体を暖める>と言う事で了解されてしまうので、言葉を重ねる事など必要ないのです。

今私達の目の前でなされている他人の行為に対して、Aが<おっちょこちょい>と言う言葉を使ったとしたら、Aにとって他者の行為から得た認識が、<おっちょこちょい>と言う言葉の規範としてあると考えられている。Aにとっても、私達にとっても、同一の対象であり、それを認識しているが、 <Aの言方は、使い方が違う>と私達は考えるのです。いま目の前の出来事は、<乱暴者>と言う言葉を使うのだと、Aに向かって言うのです。<使い方>とは、<おっちょこちょい>と言う言葉と指示する対象とを関係付けると言う事であり、私とAとが、どの対象を共有するのかは、生活の共有であり、出来事に参加している事で他者との関連を実行している事によるのです。多様なモノの中で、どれが共有の対象となっているのか、どれが意識されているのかは、意識している者にとってでありそれを<共有>と言う視点から説明しようとして、共同意識を持ち出すのであれば、多数の人々にとって、それが同一の対象である事を、多数の人の共同意識から決めしまう事になる。<他者の行為>が、歴史に文字で書かれたものではなく、私を含めた他者との関連の中で、出来事を共有するのです。つまり、モノを単に認識の対象とするのではなく、その認識を表現する特定の形態としてのモノのあり方だからこそ、形態を介して認識の対象が共有されると言う事なのです。
その国にいって、言葉も分からずに、初めてみる動物に対して−−しかし初めて見てもそれが動物であると言う事は了解されているのであるが−−名前が分からないので現地の人に、その動物の名前を尋ねようとしているのだが、現地の言葉が分からず、その動物を指差して示して身振りで機構としたら、現地の人が<カンガルー>と言ったので、その動物の名前は、カンガルーであると判断したのです。しかし<カンガルー>と言う言葉は、彼等が私の言葉や身振りを見ても、まるで分から無いので、その気持ちを素直に<分かりませんと言う意味で、カンガルー>と言った事であり、それを私がその動物の名前だとひとり合点した所から生まれたのです。私達は、その<カンガルー>と言う言葉が、言われる通りなら、その人々の社会に参加して人々とコミュニケーションから、言葉の意味を理解して行くのです。聞いた事のない音声、つまり話し言葉に対して、目の前にある諸物についている名前を覚えて行く時、その諸物が人間の活動とどう繋がっているのかを知る事になるのです。つまり目の前の、名前の対象は、諸活動の一環としてのモノであり、その諸活動と繋がる動物であると言う事がその名前成立と同時に成立っているのです。私の立っている所からみえるモノに<家>と言う名前がついていると言うとき、<家>と言う言葉と<それ>とが指示関係にあると言うのだが、この時<それ>は、指示の対象と言う事だけで無く、私達が生活して、雨風を防ぎ、夜眠る時の場所としてあるということであり、それらが頭脳への像として成立している、つまり認識として成立していると言う事なのです。

「運用概念」と「規範概念」についても、私なりの理解を前提にすると、例えば子供が話した言葉のうち、<おっちょこちょい>と言う言葉は、いま目の前で起きている出来事についての場合には、使い方が間違っていると私達は判断して、子供に向かって「それは乱暴者と言うんよ」と訂正します。この時、私達が見ているモノと子供が見ているモノとが同じであれば、つまり、対象が同じであれば、まず私達の認識は<乱暴者>と表現されるのである。それを子供が<おっちょこちょい>と表現したとすれば、私達は子供の言葉の使い方、つまり今目の前で起きている出来事についての指示としては、間違っている、指示間違いであると判断するのだし、そしてこの場合には、<おっちょこちょい>と言う言葉で指示するのではなく、<乱暴者>と言う言葉で指示いるのだと教えるのです。
    この例においては(時枝の推測が正しいとするならば)、先の例とはちがって、話
    し手は「オッチョコチョイ」という表現によって、自分の認識した概念を表現して
    はいません。けれども、話し手が何ものかを概念として認識したこと(つまり、本
    来ならば「乱暴者」として表現されるべき概念を認識したこと)は、たしかです。
    ただ話し手は、自らの認識した概念を表現するのにふさわしい社会的な約束を知ら
    なかったために、自らは正しいと思いつつ、現実的には間違ったレッテル、すなわ
    ち間違った<概念/聴覚映像>を使用して、表現を遂行してしまったのです。この
    場合も、感性的な概念の存在しか認めない立場からするならば、話し手は正しい概
    念を認識していなかった、と一面的に説明するしかありません。けれども実際は、
    時枝が確認したように、話し手は『乱暴者』として表現されるべき概念を認識して
    いたのです。ただ、表現の過程的構造において<概念の二重化>がうまく行かず、
    表現に失敗したというだけのことです。(川島正平)

話し手に、対象について何らかの認識が成立している。<この対象にこの言葉>と言う約束Aがあるのに、<この対象にあの言葉>を実施してしまったと言う事。両者とも「この対象」として同じであるなら、約束Aに反して、あの言葉を使ってしまっていると言う事なのです。<対象CCにこの言葉><対象DDにあの言葉>と言う事であれば、対象が違うのだから、別に両方に間違いがある訳では無いのです。<この対象にこの言葉>と言う、「対象−−言葉」と言う指示関係においては、対象と言葉との間には、感性的なつながりが無く、絵画の様に一枚のキャンバスの上の絵の具による形や色と、私の目の前の山の形や色、つまり雪景色と繋がっているのとは違い、対象の種類と言う側面と物理的な音声の音韻と言う種類が対応するのであり、その対応関係を、<概念/音声表象>と規定するのです。絵画の場合でも言葉の場合でも、あるモノが対象になり、発声による話し言葉とが、関係を持つ時、二つの山同志が関係を持つと言う事では無く、他方は必ず、表現としての言葉や絵画であり、 絵画の場合は、対象の感性的なあり方が、表されているのであり、言葉の場合には、対象の超感性的なあり方が表されていると言う事なのです。対象の感性的あり方とは、その反映として頭脳への像として成立しているのが、感性的認識と言うことであり、同じく対象の超感性的あり方、つまり種類と言う側面が頭脳への像として成立しているのが、概念と言う事なのです。 <いま目の前に起きている出来事>と言う対象と、<乱暴者>と言う言葉とが関係すると言う事に対して、その対象から得られる種類と言う側面の認識、つまり概念が、両者の関係を媒介するのです。<対象−種類と言う認識>と<種類と言う認識−−音声表象>と言う構造になっているのであり、現に目の前にある具体的な対象に対して、<乱暴者>と言う言葉を指示するのは、<ある概念/乱暴者>と言う規範を適用している事であり、目の前の具体的対象にある、種類と言う側面から得られた<概念>を、乱暴者と言う音声表象を介して、目の前の具体的な出来事に関係付けると言う事なのです。目の前の具体的な出来事と言う対象に対して、その種類と言う側面が概念として認識されていると言うレベルは、<対象−−認識>と言う構造であり、そこから得られた概念と言う認識に対して、<その認識/音声表象>と言う規範を介して、<言葉としての乱暴者−−具体的な出来事としての対象>と言う指示関係を形成する事で、概念と言う認識は、指示関係を介して個別的な概念に成るのです。言葉を使えば必ず規範としての概念に乗らざるを得ないが、その言葉が、具体的な対象と指示関係を形成する時、規範としての概念は、私が発声した言葉を介して対象に関係して、対象の個別性を得るのです。<対象−−概念>と言う関係は、<概念−−表現としての言葉>と言う関係を得て、<言葉−−対象>と言う関係になるのです。つまり認識の対象であるモノに対して、さらに表現の対象と成る事で、一般性、或いは普遍性である概念が、対象の持つ個別性を得ると言う事なのです。これらは身体の上部にある頭脳が、モノを対象にして概念と言う像を自分の内部に形成するが、その像は身体の活動により、対象になっているモノに働きかけると事で、身体活動を介してモノの個別性、具体性に関わるのです。<対象−−認識>と言う構造に対して、認識が概念と言われるのは、対象の持つ個別性が捨象されて種類と言う側面のみが認識される事によるのであり、そうである限り概念には対象の個別性は表れていないのです。しかし予見によって、一般性である概念に対して後程個別性を得ると言う経験から、一般性を成立させる際の捨象の時、捨象する時同時に、個別性が内部に保持されるのだと言う理論をでっちあげてしまったのです。個別性が内部に保持されているから、ただ後は何らかの働きで、内部から外部に表れて、個別性を示すのだと言う理論になつてしまうのです。
これらの事をヘーゲルは、本質は、その力によって自ら現象するのだと言うのです。ヘーゲルの論理学は、正に概念の自己運動であり、概念の内部運動によって、<正・反・合>の運動によって、多様な現象が生ずると言う事なのです。この考え方は、確かに私達の住むこの宇宙に対して、その外部を考えなければ、この宇宙の自己運動であり、宇宙の外部にいる神が最初の一撃を打たなければ、一切の運動は始まらないと言う考え方をしりどけるなら、正しい考え方なのでしょう。宇宙は宇宙自身の働きで多様な姿をして来たのだと言う事になります。物理学の領域では、この宇宙の外部と言う考え方を否定するので、物質が、燃焼などによって消滅する様に見えても、ただエネルギー形態をかえるだけである事を、<質量普遍の法則>と言う言葉で示しているのです。
言語表現と対象とか指示関係を形成する事で、言語に表現されている規範としての概念は、一般性としての概念は、指示関係の一端である対象を、個別的な形態として表すと言うのです。指示関係が無ければ、対象についての種類と言う側面の認識と言う事でしか無いが、しかし指示関係或いは表現関係を形成する事で、初めて表現の対象が、捨象しようとしていた個別性を示すのです。つまり、過程説において、<表現>と言うレベルを無視したら、理論は成立しないのです。

私達が、自分でも意味のよく分からない言葉を聞いた時、意味が分からないが言葉として分かると言われるのは、発声された言葉の音が、自分の中にある音韻体系として理解出きていると言う事なのです。<イロハ>の音の一つ一つとして理解出来ていると言う事です。韓国語を聞いても、意味も当然ながら言葉として分からないのは、韓国語の音韻体系が頭の中に無い為に、音のつながりを、一音一音のつながりが区別出来ないと言う事なのです。

   クワインの謎「言葉の指示対象を確定する際の論理的な難しさについての挿話」
   言語学者が言語の調査の為に未開の地にいき、そこで現地人の言葉を観察し、そ
   の現地語と言語学者の母国語とを対応付ける辞書を作ろうと試みるとしよう。言
   語学者は、現地の言葉を全くしらないので、現地人の発話と状況とを対応づけ、
   発話の中の言葉の意味を推測するしかない。
   例えば、現地人がウサギを指して「ガブァガーイ」と言う発音をしたとしよう。
   その時一体どうしたら、その言語学者は、「ガブァガーイ」の意味を正しく確定
   する事ができるだろう。それはたぶん「ウサギ」だろうと思う。しかし、他の可
   能性も絶対無いとは言えない。
   子供が言葉を学習して行く過程で、どのように未知の言葉に意味を付与して行く
   のかを説明する際にそのまま投げかけるものである。日常生活の中で大人が幼い
   子供に語りかける時に、多くの場合、言葉はひとつの指示物に対して、ラベルづ
   けと言う形で発話される。例えば、遊園地で檻の中にいるウサギに対して「ほら、
   ウサギさんだよ」と言う。そのとき殆どの場合「ウサギ」と言うことばがどんな
   意味なのか、何をさすのか説明しない。では、子供はどのようにして言葉の指示
   対象を曖昧な状況から確定していくのだろうか。
   (今井むつみ 言葉の学習のパラドックス 日本認知科学会 編)
皆が各々指差しながらの指示するモノが、同一の対象になるのは、視線をそのモノに向けている事を相互に確認する事。いま私達の目の前にあるモノを−−そのモノに対して皆顔を向けている事が相互に確認出来るのであり、1人が向う向きになっていれば、彼には顔だけをこちらに向けて視線をそのモノに向ける様に声をかけるのです。−−<ノート>と呼ぶ事と<文房具>と呼ぶ事では、目の前のそれは、あり方が違ってくる。目の前に色々な種類のモノがあり、それに対して「そこにあるノートを取ってくれ」と指示すれば、<そこ>と指示されている場所にあるモノ全体が対象になっているのであり、その対象に対して<ノート>と言う特定のモノが選ばれているのです。<そこ>とは、闇の中で突然ライトのスポットが当たり、そこにだけひとつのモノが見える様になったと言う事では無いのです。<そこ>と言うある場所があり、その場所にあるモノと言う事になる。「ノート」と言う固有名があり、その固有名によって今指示するモノと、文房具と言う一般名に依って指示するモノとの違いは、各々の言葉が、現に目の前にあるモノに対して指示されている事は同じであるが、そのどの面を指示するのかと言う事の違いなのです。目の前にあるモノのその種類の違いによって、幾つかの集まりがある。ノート、消しゴム、鉛筆、万年筆、コンパス等の各々の集まりがあり、この集まりの集まりとしての文房具と言う集まりがあるのです。目の前のモノは、ノートと言う集まりの一つであり、さらに文房具と言う集まりの一つでもあると言う事です。ノートと言う言葉は、私の目の前のモノを指示するのである。現に今目の前にあるモノを含み、複数ある個体の共通性は、個体一つ一つだけから見れば、個体に存在する種類と言う側面と言う事である。それらは対象を複数から見るか、ひとつの個体から見るかの違いと言う事なのです。私達の文字を書くと言う活動の媒介をするモノを「文字を書く」と言う関係からみるとき、その媒介するモノを文房具と言う言葉で指示するのです。その文房具がさらに種類別に分けられる事で、ノートと言う言葉で指示するモノや消しゴムと言う言葉で指示するモノと言う様になるのです。

概念について、別の観点から考えてみます。
 対象----認識----表現           ----(1)
 対象----概念と言う認識----言語表現    ----(2)
と言う過程的構造を前提にすると、言語表現は、認識としての概念を、認識の外部に物質としての文字や音声や身振りとして表現することであると言う事に成ります。
そこで、この言語表現の本質論を踏まえて、次の事を考えます。時枝文法によって、示された日本語の特徴である<詞と辞>についての説明は以下の様に成ります。
   詞(客体的表現)−−話し手が、対象を概念として認識し表現したもの---(3)
   辞(主体的表現)−−話し手の持っている感情とか意志等を、概念として認識せずに
             直接表現したもの---(4)
さて、(2)が言語表現の本質論であると言う時、それは、表現のなかに貫徹していると考えることであり、すると、認識は概念として成立しているのであるから、(3)は本質にかなうとしても、(4)の言い方では、概念として形成されてない認識が、言語として表現されていることになる。そして此の概念化されない認識とは、ここでは、感情とか意志と言った言葉で表されているものらしいので有り、言語として表現されると言う事に成ります。
(3)の場合、例えば、<mountain(山)>と言う言葉は、私の目の前の<それ>を知覚することにより、知覚の内容が概念として形成され<mountain(山)>という言葉に表現されるので、概念ということは、はっきりしないが、それらしいものが有るらしいことは、解るというのでしょう。
そして、此の概念は、(3)の場合、概念化され、(4)の場合、概念化されないと言う否定の言葉に成るのだし、(4)を感性的認識とすると、(3)は、超感性的と言う否定的言葉に成るのです。つまり、お互いに、他者の否定としてしか規定されていません。(2)を前提にすると、詞と辞との規定は、言語の経験から生まれた、それらしい結論になっているのであるが、しかし、これはあくまでも、言語の本質を踏まえた結論ではないのであり、(3)の様に<対象と概念>という規定の視点から、辞を見た時そこには、何も無いが、しかし、言語であるから、私達の考えや、思考にみあったものとして感情とか意志が、<そのまま>とか<直接>と言う事で、結論されたと言う事では無いでしょうか。
詞も辞も、認識を表現しているが、詞は概念と言う認識を、辞は概念化されない認識−−感情とか意志といった事らしい−−を表すと言う事で理解しますが、しかし、此の<理解は、
<認識>と、<概念><感情><意志>等とを、
ゴチャマゼにした理解にほかならず、認識とは、あくまでも(1)の表現の本質論のレベルで使われる言葉であって、あえて言えば、その認識という言葉は、認識が示す概念とか感情とか意志等の言葉が示す、対象を問題にするときの媒介となるものであって、決して認識自身が、何かに成るといったものでは無いのでしょう。
認識と言う言葉と、概念、感情、意志と言う言葉が表す過程的構造----この言い方は(2)を前提になされているのであって、従来なら対象が、色々求め  られるのでしょうが、過程的構造から見れば、同一の対象にたいして、多様な種類と言う側面が認識されるので、表現が違っていると言う事なのでしょう。
これは、概念の<内包と外廷>と言う規定が、種類の関係を表しているのと、繋がります。そこで、(4)に対して(3)の様に対象が概念化されていないと言う事は、現象論というレベルでは、確かにそうなのだが、飽くまでも、(2)を踏まえれば、辞に概念がないのでは無くて、(3)の概念化されたもの同志の関係−−概念同志の関係とは、ヘーゲルの言う様に、判断ということで、判断論で明確になるのでしょう−−−が辞として表現されるのであり、そして関係である為に、概念の様に見えないために、あとあるものとして、感情とか意志が措定されいるのであり、<そのまま><直接に>と言う事で、対象化されていないと結論しているのでしょう。更に言えば、<そのままの>ものが概念化されると<さみしさ><かなしみ>と言った詞となると言われるのです
つまり、辞は、感情とか意志が、そのまま、とか直接にと言った事で、認識--表現という構造を成立させていると言う考え方は、(1)という本質論のレベルと現象論のレベルを、同一視したものであり、本質論は思考の段階では、あくまでも、媒介ということであり、(1)の本質論での<認識>がょ(2)での<概念>に変化するのでは無く<対象--認識--表現>という構造論を前提に、言語表現を分析すると、概念という特定の認識で有る、概念が、規定されるので有る。
Aさんが兄で、Bさんが弟であると言う、AとBの間に兄弟と言う関係が成立しているとき、<関係が間にある>といっても空間的な間と言うことでは無いが、AとBが、その親Cを介する者同志であると言う事を、間に関係があるということなのである。
<概念>を対象の種類と言う側面の認識であると言う時、種類と言う側面にも色々にレベルがあって、箇々の種類と言う側面の認識が、つまり概念が、相互に関係を形成する時、同時にその関係自体を、私達の判断と言う働きとして、辞として言語表現するのでしょう。
色々なものが種類という側面で認識されてくると、それらは、頭脳の中で概念となり概念相互の関係が、判断と言う思考として成立し、概念は、詞として表現され、関係はつまり判断は、辞として表現されるので有る。ただ、此の言い方は、発生史的なものの様に見えるが、あくまでも、構造を言葉として表す為に、<対象があって、それを認識し、更に概念化し、言葉に表現する>と言う言い方に、成るのでしょう。
ここで少し、視点をかえてみます。英語の格と言う概念が有ります。
   例えば   <I 、 my 、 me 、mine> ----(5)
   という規定を、日本語に翻訳すると、
    <I= 私は、私が><my=私の><me=私に>
    <mine=私のもの>
というようになり、<私>と<は、が、の、に、のもの>が、二つ組み合わさって英語<の一文字に、相当するようなのは、つまり、詞と辞の組み合わせよって成立しているものが、英語では、一つのもので表されているのであり、だから、
     <I Have a book。>における、<I>は、私や僕ではなくあくまでも、詞と辞の統一であり、<私が、か、私は>と成るので有る。更に言えば、日本語では、変化せずにある <私>が、格助詞によつて、変化すると言う考えが成り立つ時、では(5)において、四っの変化にたいして、変化せずにあるものとは、何であるかと考える事が出切るのでは無いでしょうか。what(何が)、<I>になり、<my>になり、<me>になり、<mine>になるのか?と言う考え方は、変化や区別は、同一なものとの、一体としてあり、同一なものが有るからこそ、区別が成立すると言う考え方に成るのです。
 日本語の場合、<私>と言う言葉が、そのまま変化しないものとしてあるが、英語の場合には、変化したものとしての<I、my、me、mine>が言葉として有るだけで、変化しないものを想定する事は、可能かどうかと言う思いは、結局、<変化と同一の統一>と言う考え方を、知識として、私が持っているからでしょう。