2002.01.29

原子仮説の基本思想

<物そのもの−−心−−観念>と言う三項関係的枠組
「物そのものから発せられる粒子的、波動的刺激が、私達の感管から受容されると、受容されたものは、観念(色、味、匂い等)として、私達の心の直接的対象として知覚されるのである。色という観念は、心の中の出来事であり、ものそのものは、刺激となる粒子的、波動的なものを出すだけであり、それが感官から入り、心で知覚される時、色と言う観念が成立するのである。」
これが、原子仮説の考え方であり、ここから、物そのもの性質として<色>が有るのでは無いと結論する事になるのです。色は心の中にしか無いのです。
ただ、心の中にある観念の存在に対して、眼から、鼻から、舌からと言った五感のちがいが、同一の心の中で、観念の違いを作るのであるから、心とは、五感を別々の入り口とするもの以外では無いのである。心と言う、物そのものとは独立した世界が在り、物としてありながら、物の一つである脳細胞が作り出す世界があり、その世界の中で成立するモノを、例えば色、音、味、触覚、臭いなどを観念とするのです。脳細胞は物であるが、脳細胞が作り出すモノは、脳細胞と言う物とは違うものとして規定されるのです。このような説明に対して、私が今五感で知覚している<色、音、味、触覚、臭い>は、私の目の前に在り、<物そのもの>とは別であると決論する事は、誤りの様におもえるのです。物そのものが作り出す、例えば電磁波であれば、特定の波長の電磁波が、物に反射して目から入る事で、視神経を通じて脳細胞で処理される。これらは電気的、化学的な行程であるので、脳波計と言った計器で観測出来るものなのですが、その脳細胞で処理されたものを介して身体的活動がなされる時、はじめて論理として実体的な規定として、一つの独立した観念という存在を想定するのです。人間はその観念を媒介にした活動を実施するのであり、特に言語活動を媒介するモノを観念と規定するのです。ただし、<媒介>と言う事が重要であり、脳細胞を計器で計測していても、脳波とかが観測されるだけであり、決してその脳波が観念というものでは無いのです。

原子仮説の考え方を、三項関係枠組みとして図式化すると、問題ない様に思えるのだが、しかし、<私の前の机の上の白い皿の上に赤いリンゴがある。>と言う事からすれば、私の1メートル前に、白い皿に赤いリンゴがあるのは、確かなのだから、私の心の中にしか色はないのではなくて、そこに確かに色はあるのだと言う事になります。
物そのものに<色>があって、それが粒子的波動的刺激として五感から入り、頭脳の特定の細胞で処理されるとき、観念としての<色>が成り立つので有るのではないでしようか。
現に赤いリンゴを見ている事に対して、その見ているまん中で、見ている事の構造を明らかにするのだが、しかしそれを明らかにしている最中でも、見る事から外れる訳では無くて、構造の説明が、たえず現に見ている事を一つの例としてしまうのである。例えば<目の前に赤いリンゴがある>と言う時、反射して来る光は、単に特定の波長の電磁波でしか無いが、しかしその電磁波が目から入り脳細胞で処理されることを、言葉で表せば<目の前に赤いリンゴがある>と言うのです。<現に脳細胞で処理されている事=現に見ている 事>であり、今私が見ている事に対して、構造と言う観点から分析した時の
そこで、私達の常識として、そこに色が有ると言う事を前提にすると、1メートル先の皿の上のリンゴから、色が出てきて、眼に入り、頭の中で、心の中で、白い皿と赤いリンゴとして成立するのだと言う事になります。
とすると、原子仮説と常識的な思考との違いは何でしょうか。

 ☆心の中で、色が成立している事−−−両者に共通している事
 ☆物から、心で成立している<色>が飛び出てきて、眼から入り心で<色>
  として知覚される。−−−常識的な考え方 −−−−−(1)
 ☆物から出て来る粒子的なものや、波動的なものが、私達の五感から入り、
  心の中で、色や味として知覚されるのである。−−原子仮説−−−(2)

つまり、物が有り、そこから、<色>が出て来て、五感から入り、心で色として知覚されると言う事と、やはり、物が有り、粒子的なもの或いは波動的なものが出て来て、五感から入り、心で<色>として知覚されるのである。

もう一度、現に見ている事を考えてみよう。
私が机を前にして椅子に座り、眼を前に向けている時、その机の上の白い皿の赤いリンゴが有るのだと思っていて、此の思いに対して、色は心の中に有るだけだと言う仮説を読みながら、<この見ている何処に対して、色は心の中だと言うのか>と反問するのであり、私の見ている<そこに>、白い皿に赤いリンゴが有るでは無いかと思うのである。指差してここに赤いリンゴが有るというのである。赤は、リンゴの所に有るのだと、リンゴの性質として有るのだと言うのは確かであると思っている。
 此の反問しながら、眼を瞑ったまま、今見えていた赤いリンゴは、どうなったのだろうとかんがえてみる。眼を瞑っているのだから、赤いリンゴということは、心の中では成立していないのであるが、赤いリンゴは、まだ瞑っている目の前に有るのだろうか?。手をのばし、それを掴んでみて、リンゴが有るのをしるが、しかしそれを掴んでいても、別に赤いと言う色知覚が出来ているのでは無いし、眼を開ければ、また白い皿の上に赤いリンゴがあるのが、見えるのである。眼をあけたり、閉じたりしても、やはり、眼をあければ、そこに赤いリンゴがあるのです。
眼を瞑っている間にも、赤いリンゴは、白い皿の上に有るだろうかと言う反問は、色が物体の性質として、リンゴや皿にあると言う事で、リンゴや皿が私の前に有る限りは、色もそこに有ると言う当たり前だと思っている結論に対して、否定の思考をすることになる。いまそこに見ている赤や白の色は無いのだと考えるのは、見ている事で、視知覚として成立している色は、知覚を含む認識の世界で成り立っている事で、認識の外に、リンゴや皿と同じ様に色が有るのでは無いと言う事に成る。
今現に見えている事を、眼と言う感官を入り口とする心とその中に知覚されている色とすると、心のなかで直接知覚される対象として色が有ると言っても、その心は感官を入り口とすると言う事なのであって、入り口を含めた心があり、其の心の中で入り口の違いが、色とか味と言った対象の違いとしてあり、心自身が、対象の存在を捕らえるのでしょう。
この現に体験して了解している事−−赤と言う色は、リンゴの性質としてリンゴ自身の所に有ると言う事−−に対して、それを、私達の知覚の主体である<心>で表すと、心が、直接対象としているのは、その色と言う観念であるが、その知覚される色は、心の外部にあるリンゴの赤いと言う性質が、光りにのって私達の眼から入り、心で赤として知覚されるのだと。
これは体験している事に対する、一つの論理に他ならないのであり、色がリンゴの性質として存在していると結論するのです。つまり、もともと赤い色は、リンゴの性質としてあり、その赤い性質が、光りを介して眼から入り、それが、頭脳で、心で赤いリンゴとして知覚されるのである。
この理論に対して、原子仮説は、リンゴの持つ性質に対して、光が反射してそれが、眼から入り頭脳で、つまり心で色として感知されるのであり、リンゴの材質が、ある特定の波長の光りを反射させ、その光が人間の眼から入り、頭脳で処理される事で、赤い色として、認識されると考えるのである。リンゴから反射してくる特定の波長の光りがあるとしても、その波長の光りが赤という色なのでは無くて、その光が、眼から入ってから頭脳で処理されるとき、その処理の事を赤いというのである。
物体と眼を入り口とする頭脳とが、特定の波長の光を介して関係する時に、頭脳の中で認識として処理される、その認識の内容が、色なのであり、特定の波長の光りは、色では無いが、私達の赤いと言う認識内容を形成する実体として有るのです。
眼を瞑ると言う事は、その光りが眼と言う感官に入る事を遮ると言う事であり、眼から以降の処理が成立しないことである。

自分の見ていると言う経験は、眼による知覚活動であり、視知覚の内容のレベルで考える時、<赤い色のリンゴがある>と言う事なのだが、ただこの分析−−見ると言う活動と見られているものがあると言う分け方−−は、私のこの経験を分析しているのであり、例えば私の頭蓋骨を開き、脳細胞に電気的刺激をあたえることで、現に見えている事に何か変化があるかどうか経験したとすれば、眼球の外部からの粒子的波動的刺激以外に、脳細胞の変化が視知覚に今までない経験をしたとすれば、それは視知覚における新しい知を得た事に成るのです。
ここで問題に成るのは、頭蓋骨を開き、脳細胞に刺激を与える人にとって、自分の脳細胞が研究の対象に成っている訳ではなくて、あくまでも第三者の頭脳であり、研究者が視知覚体験しているのは、開いた頭蓋骨や脳細胞の色であるが、開かれた私にとって、鏡なりカメラ映像で開かれている状態や脳の色を見る事が出来ると同時に、脳細胞への刺激によって生じた変化を、視知覚の内容として経験するのです。<いま眼の前が暗くなったとか、赤い色が見える>と言う経験なのです。
研究者も自分の頭蓋骨を開き、脳細胞に刺激を与えれば、変化を経験する事が出来るのであり、その変化を<知る>ことが出来るのです。しかし第三者である私の場合には、経験していて<知>として成立しているものを、私が言葉で研究者に伝える事で私の経験の知を、研究者も知る事になるのです。ただし私の言葉が、私の経験知を正しく伝えたかどうかと言う事が、私と研究者の間に入り込むのだか、しかし、その間は断絶なのではなくて、研究者自身も経験できる事なのである。

ここで、(1)(2)について、論理的な観点からかんがえてみる。
(1)の常識的な考え方は、物から出てきた<色>が、そのまま五感のひとつである眼を介して、心に入って来るということであり、実体としての<色>が、実体のまま心にはいってきて、それを私達が色として判断していると言うことである。だから、色がそのまま、リンゴの所にあると判断する事に成ると言う事になる。実体がそのまま頭脳に入り、色として認識されたと言う事に成る。しかし逆なのである。視知覚している<色>が、感性的認識の内容として成立している時、その内容は、そのリンゴの所にある<色>が、そのまま眼から入り今知覚している<色>となったのだということになる。リンゴの所にある色が実体のまま、目から入り、<色>と言う認識内容が成立するのです。リンゴの所に有るものとしての<色>と認識内容としての<色>は、全くおなじものなのです。これは特に疑問を持たない説明になるかもしれない。なぜなら、そこに赤い色のリンゴがあるからでだ。
<いま現にみている>事、
それに対して、(2)の場合、リンゴから反射して来る光が、目から入り脳細胞で処理される事を、<赤いリンゴが在る>と言う言葉で表すのです。この時リンゴから反射して来る特定の波長の電磁波が、目から入り、脳細胞で処理されるのだが、この特定の波長の電磁波が、色なのでは無く、脳細胞で処理される事が、色なのです。<そこに赤い色のリンゴがある>と言う当たり前の事も、現に私がそのように目を介して認識していると言う事であり、目をつむる事は、つむっている間は、光がはいらないから、見ていないと言う事であり、リンゴからの特定の波長の電磁波が反射しているのであっても、私のそばにいる人が目を開けていれば、彼の目にはその波長の電磁波が入って居ると言う事なのです。<目をつむっていても、リンゴは赤いだろうか>と言う問は、リンゴから反射して来る特定の波長の電磁波は、赤いかどうかと言う問いなのであ。常識的な考え方としては、目をつむっても、変わらず<リンゴは赤い>と言う事であり、目をつむるとその赤が目に入らないだけだと言う事になります。<特定の波長の電磁波>と<特定の波長の電磁波=赤>と言う事になります。赤は視知覚の内容として、目を入り口とした心の世界で成立する観念であるが、ただその赤いと言う観念は特定の波長の電磁波によって形成されると言う事であり、その形成される関係が、<赤いリンゴが在る>と言う認識として脳細胞に反映されるのです。<赤いリンゴがある>と言う言葉は、そこに表現されない多様な認識に支えられている。それを例えば、<目の前に>と言ったり、<机の上に>と言ったりするのであり、その認識を大きく分けると感性的認識と概念的認識と言う事なのです。感性的と言う事で、<目の前の様に>であり、この表現においては<赤い>ということであり、概念としては<ある>ということであり、<机の上にある>と言う表現になります。つまり、現に見ている通りにと言う事で、感性的認識と概念的認識を、表現しているのです。