2002.12.02

対象について

<対象について>


言葉は、ひとつの指示物に対し、ラベル付けと言う形で発話される。ラベルを付けられる指示物に多様な属性があっても、それを一々言葉に出して説明する訳では無い。今対象にしている、目の前にしているモノを指示するとして言葉が使われても、そのモノのどのレベルなのかを明確にするモノは何であるのかと言う事なのです。<文房具とノート>との、この言葉が指示する対象がひとつであるのに、区別がある事は明確である。私の前にあるモノの種類の側面に違いがあり、種類Aを表すのに<ノート>と言う言葉を使い、種類Bを表すのに<文房具>と言う言葉を使うのです。
言葉は、事物、事象、動作、関係、属性などを「指示」するものである。指示対象の集まりを「外延」と言う。「内包」は、指示対象と成るものがどうの様な属性を持ち、指示対象に成らない事物とどの点において異なるかの知識です。諸物の何処までが、ひとつの外延の範囲であるかは、内包たる諸物の属性によって決まって来る。今目の前にあるモノを知覚しいる時、その表面の色の微妙な違いを理解しているが、しかしそれらの違いにも関わらず、<赤い色>と言う言葉で言い表わすのは、個々の違いとしてある色をひとまとまりとして扱うと言う事であり、<赤色>と規定し、さらに個々の違いを示したい場合、「深い赤」とか、「薄い赤」と言う様な表現をするのです。私の目の前にある<赤いリンゴ>を写生しようとする時、そこにある赤色の微妙な違いを絵の具で描くのである。ここでの言方にしても、<赤色>の<微妙な違い>と言う言方で、いま知覚している色を<赤>と言う種類で示す。「A赤、B赤、C赤、D赤、E赤、F赤・・・」と言う様に皆赤でありながら、微妙な違いを「ABCDEF・・」で表せば、違いとしてある各々に対して、共通性として<赤>があり、その共通性に各々の違いである「ABCDEF・・」がつく事で、別々の区別されたものとなるのです。それに対して「A赤、T黒」と言う色の区別は、同じく視知覚による区別として成立していて、目の機能に問題が無ければ、区別してみられているのです。しかし「A赤、T黒」には共通するモノが無いのであり、それを表す為に「A赤色、T黒色」と言う表現をして、両者の共通性としてあるモノを指示する言葉として<色>と言う言葉を使うのです。つまり、<赤、黒、茶、紫・・・>と言う言葉で指示する対象は、色と言う集まりの中にある個別的な要素であり、その要素には巾があり、<赤>と言う言葉が指示する対象には、差異があると言う事です。色と言う言葉が指示する対象は、要素の集まりを指示するのだが、しかしそこにあるのは、要素だけであり、<集まり>と言うモノがある訳では無いのです。いま目の前に知覚されているモノを指示するものとして赤とか青と言う言葉がある。それらが<色>と言う言葉で指示されるのは、その赤とか青として知覚されている対象に他ならない。ただ<青、赤、緑・・>として知覚されている対象の各々が、区別されているのに対して、<色>と表現される時、区別されているモノの共通性が取り上げられている事になります。その共通性を対象の方から言えば、<光>と言う事であり、その光の波の側面が持つ周波数の違いが、青、赤、緑、オレンジ、ピンクと言う事になります。物に反射して来た光が人間の目に知覚されている時、物からの反射をその物の色、つまり赤と言う色であり、<それを赤いリンゴである>と判断するのです。とすると<赤、青、緑、黄色紫>の共通性として<色>と言う言葉があると言う考え方は、個別化されている各々を要素として集める集合の事を言っているが、しかし例えば、茶碗に盛られた御飯粒に対して、御飯粒以外に茶碗と言う別のモノがあると言う事では無いのです。集合は茶碗では無いのです。現に知覚しているモノを<赤、青、緑、黒・・>と言う言葉で指示する時、ある巾の知覚が出きていても、それらを巾のまま対象にして指示するのが、<赤>とか<青>と言う言葉です。その巾のある対象の<どこを>指示する事で、<色>と言う言葉になるのかと言う事です。そこで、これらの個別的な視知覚の区別に対して、それらに共通するモノと言う考え方から、共通するモノを<色>と言う言葉の指示する対象としたのです。<青>と言う言葉の指示する対象については、そこにある微妙な区別の各々に共通するモノを知覚して、どれも<青>であると判断しているのです。しかし<青>と<赤>を比較して両者に共通するモノと言う事は成立しない。<色>は、それらの種類と言う側面をいうのである。

子どもの言葉の学習において、ひとつはっきりしている事がある。それは、子どもが新しい言葉を聞いた時、言語学者の様には、その言葉の意味の様々な論理的可能性を全部いちいち吟味したりしないということである。また、外延を決める内包、つまり、言葉の指示対象に対する概念が成熟するまで、その言葉を他の事物に拡張するのを待ったりしない。
子どもの<初めて聞く言葉の意味を素早く推測する能力>を、即時マッピングと言う。このマッピングのメカニズムを「制約」と言う考え方です。「制約」の考え方は、子どもが世界の基本的な概念の区分や概念的法則を生れながら、あるいは少なくとも学習が始まる以前に持っており、そのような知識がその後の学習の土台、骨格となる、とする者である。子供が持って生まれる「知識」や「認知的バイアス」にどのようなモノがあるかと言う事は、認知発達心理学の非常に重要な問題である。制約は、子供が道野言葉にラベル付与し、概念に対応付ける時に、吟味しなければならない可能性を狭める働きをする物である。その狭める<大きさ>は、果たしてどのくらいなのかと言う事になる。<物体非物体>と言う制約より、「ウサギ」と言う名前の制約に限定されている。
−−子供達の言葉の学習における素早さは、理論的に作られた<対象の複雑さを理解するには、沢山の過程があるはずだ>と言う考え方を批判する為の、経験的な土台になっている。複雑であると確かに理解が難しいが、子どもには初めから、対象を複雑にしない「制約」があって、その制約によって、対象は単純なものとして理解して、そこから複雑なものえと進化するのでしょう。単純に言えば、人間は自分を囲む回りのモノを、先ず生命を維持する為の食べ物として扱うということであり、食べられるモノと食べられないモノとの区別として理解するのです。対象が複雑であると言う事は、認識の対象としての複雑であって、科学は、その複雑な構造を解明して行くのだが、しかし、乳幼児が成長するのつれて言葉を覚えて行く時、科学者の頭をもって生まれてきているのでは無く、日常の生命維持活動として生きていて、その基本的生活のなかで、複雑な形態の生活が生まれるの従って、概念の複雑さが認識されて来ると言う事になります。<制約>と言う考えは「複雑なもの」を「単純化」するフィルターと言う事であり、そのフィルターが頭脳の中にあると言う事になるのです。

<言葉の学習における概念的制約の役割>
動詞、名詞等の言葉は、概念を表す記号である。限られた事例の集合から引き出す事のできる可能な仮設の数は無限である。例えば、布、皿、椅子などを指して、これらは「グルー」だ、と言われる。それらの事例の様々な事物を含むが、全部の事例に共通なのは緑色だ、と言う事を貴方が気付く。そこで、貴方は当初「グルー」が「緑色」と言う意味だ、と言う結論にいたる。
<言葉と概念発達>
子どもは学習をゼロの状態から始めるのではなく、学習に先立って、概念はこれこれの様に組織化されており、言葉の意味はこれこれの様な原則で概念に対応すると言う知識をもっており、この知識に導かれて学習に臨むとする。したがって、子供が言葉を学習する際、哲学者クワインが心配するような、言葉と指示対象の対応づけにおける無限可能性の環に陥ることなく、積極的に、そしてほとんどの場合正しく、言葉の意味を付与していくことができる。そして、言葉の意味の内包の整合的表象がほとんどない状態でも、制約に導かれ、覚えたばかりの言葉を他の事物に拡張する事ができる、と考えるのである。
言葉、特に具体的な事物カテゴリーを指し示すラベルが、カテゴリーの形成とその概念的理解に果たす役割である。ラベルの存在が子どもに与えるものは、類似の事物のまとまりを「同種のもの」として認識させ、類似性を際立たせ、分析する事を促す事である。生後三ヶ月の乳児でも外界にある事物の間の類似性を認め、グループ分けをすることができる。しかしそれにラベルを与える事で、子どもは事物同士が「同じもの」である事をより強く意識し、共通の属性を積極的に探し、また、共通する属性、異なる属性を整合的に再組織化する事によって、カテゴリーの理解を深めていくのです。

対象の種類と言う側面の認識として成立している概念と、その概念の表現としての言語と言う構造。概念は、<規範概念/音声表象>と言う構造を介して現実の音声として発声されるのです。九官鳥も音声を発声するが、<規範概念/音声表象>と言う構造の<音声表象>だけを介して発声されると言う事でしか無い。
現実に発声される言葉が、ある対象についての認識である概念の表現であると言う事は、その対象と表現の言葉とが関係を結ぶと言う事であり、その関係を指示関係と言うのです。言葉が対象と結ぶ指示関係は、言葉に表現されている、対象の種類と言う側面が持つ他のモノとの共通性の認識である概念の普遍性が、同時に個々の対象との指示関係である言葉でもあると言う事を示しているのです。子供が目の前のモノに対して<ウサギ>と言う名称を覚えて行く時、そのモノの色や形や動きや手触り等の記憶と「ウサギ」と言う音声表象の記憶とがむすぶつくのです。個々のある特定のモノが「ウサギ」と言う名前だ呼ばれると言う時、個々の対象の種類と言う側面の認識の表現としての言葉が、その個々のモノを指示する事で、正に目の前の個々のモノは、種類の現実態と成ると言うことなのです。認識のうち概念と言う認識にとっての個々の対象は、種類と言う側面をもっているモノでしかない。概念が成立する時、個々のモノの個別性は、捨象されてしまっていて、ただ普遍性で成たってしまうのだが、その普遍性の概念が言葉として表現される事で、対象に対して指示関係を形成しその指示関係から対象に関わると初めて対象の個別性が、概念のもつ普遍性の現実形態と成るのです。概念としては、<種類と言う側面がある>と言う事だけの認識の対象が、言葉と言う物質的な表現形態を介した対象に−指示関係と言う事だが−成る事で、普遍性の概念が、個別性の規定を得る事になる。
これはあたかも種類と言う側面の認識が成立する時、捨象された個別性が、普遍性の中に保持されていたので、その個別性が表に表れるのだと言う事の正体なのです。目の前にしている個々のモノがあって、それの種類と言う側面の認識である概念が成立して来る時、対象は相変わらず目の前にあり続けているのであり、その概念が言葉に表現される事で、表現された言葉が、先ほどからの相変わらず目の前にあるモノに指示関係として関わると、概念は、個別性を得る事になる。対象の属性としての種類は、回り道をする事で、個々の対象自体が、種類の現実態と言う事になるのです。
ここで考えられるとしたら、概念はその表現としての言葉が、対象に指示関係として関わる事で初めて個別性を得るのなら、言葉がないかぎり、概念の個別性は成立しないと言う結論になるのかどうかと言う事なのです。私達は、言葉が無い限り、或いは言葉でしか概念を形成出来ないかどうかと言う事なのです。それは、<対象の種類と言う側面の認識が概念である>と言う規定が、「対象−認識」と言う次元で成立していても、言語表現以外でも、対象の種類と言う側面に関わる活動形態があると言う事を言えばいいのです。私達の行為や活動は、行き当たりばったりのモノではなくて、個々の対象を種類と言う面で扱うのであり、例えば、モノを食べると言う事が、個々のモノを食べられると言う側面で、ある種の成分と言った面で、扱っていると言う事であり、それは概念と言う認識によって対象に関わっていると言う事なのです。生物が生きると言う事は、機械的な運動では無く、頭脳に内部の像によって媒介された身体運動であって、その頭脳の内部の像を、本能とか思考と呼んでもまず食べる為の成分を体内に取り入れると言う事になります。