2003.10.04

太陽の動きと地球の動きの理屈

<太陽と地球の運動関係>


太陽が動いていると見えているのは、その視知覚をする主体が地球という台地にいる為に、地球と言う台地が動いていても、その動きを視知覚出来ないのであり、地球と太陽の関係からすると、地球が動きが視知覚できなければ、太陽の動きとして視知覚していると言う事になるのです。しかしその太陽が動くと見えている時、同時に月も動いていると見えているのであり、その二つに対して<太陽は動かないくて、地球が動いている>と言う事と、<月が動き、地球も動く>と言う区別をするものは何なのかと言う事になる。月は見えた通りに動いているのに対して、太陽が動いて見えていると言う視知覚判断の場合、太陽と地球の運動関係を地球の位置から視知覚する為に、地球は動かずに太陽が動くと判断されるのです。つまり、太陽と地球の運動関係と言う客観的なあり方に対して、それらを私達が認識しようとする時、まず視知覚をするのであるが、ただその視知覚をする主体が地球上にいるために、地球が認識の基底となり、その地球に対して太陽や月が動くと言う認識となるのです。視知覚する人間が月にいれば、静止している月に対して動くのは地球や太陽であると判断されるのです。
今目の前の空の上で太陽や星や雲や鳥が動くのを見ていている時、それらの動きを見ている時に目の入ってくる多様な情報は、動くものと静止しているこの台地と言う判断として、区別として成立しているのです。この様な視知覚が成立している事を舞台に、思考として<地球と太陽の運動関係>と言うイメージを立てます。地球とは、いま私達が立っているこの台地の事であり、太陽は地球に昼と夜を作り出す、目の前のあの星の事になります。つまり、朝になれば東の空から上る太陽であり、夜西の空の山並みの向こう側に沈む太陽と言う事になります。この視知覚によって得た地球とその回りを回る太陽と言う現実に対して、一旦運度を無視し、<太陽と地球>の間の運動関係と規定するのです。運動する主体としての地球と太陽に対して−−太陽が地球の回りを回ると言う運動−−主体同士の関係として捉えるのです。この運動関係は、どんな形態として現れるのかと言う問いを立てます。運動する主体同士の関係としての考えは、<地球が静止し、その地球の回りを太陽が運動している>と言う説明(AA)となり、それはまさに今目に見えている事を言葉にしているだけなのです。<地球と太陽の運動関係>と言う一般論BBは、いま目にしている<静止している地球の回りを太陽が回る>と言う形態として現れていると言うことになります。その一般論BBが見た通りの形態をとっていると言う事は、いま現に見えている視知覚の内容を、一般論BBの視点から再考していると言う事です。私達が自分の目で経験している諸星の運動についての知覚内容は、私達が立っているこの台地としての地球が球形であり、その球形の地球を中心にして太陽や月や火星や、諸星が回りを運動していると言う天体についてのイメージとしてあると言うことで地球上の昼や夜の構造を説明出来るようになったのです。現にこの目で見えている知覚の内容は<地球と諸星の運動関係>と言う概念を介した<地球を中心にした諸星の運動>と言うイメージの成立によって初めて、一般論としての宇宙論の観点から再考されるようになったのです。子供も天文学者も毎日毎日や空を見上げていても、一方はきれいな夜空を見ているだけだが、他方は相互に運動する星の動きと言う視点で見る事になったのです。子供も天文学者も同じ物を見るのは、彼等が同じ人間の目の視覚構造によるのだが、ただ頭の中の思考の構造が違う為に、両者とも同じに見たモノを、彼だけが組み合わせる事で別のモノが見えてくると言う事なのです。
この説明AAに対して、平たい台地に空と言うドームがかかり、ドームの東はしから太陽がのぼり、ドームの西はしに沈むと言う天体イメージが作られたのです。さらにこの台地は平らではなく球形であると言うイメージの中で、その球形の回りを太陽が回り、太陽が当たっている側面を昼と言い、当たっていない側面を夜とする天体イメージが作られた。前の世代では太陽が昇る前と沈んだ後には、その太陽がどうなったのかと言う事が考慮されなかったのであり、現実の私達にとっても、目には沈んだ後の太陽に付いて、見た通りであれば、太陽はもう目の前に無いから見たくとも見れないと言う事になってしまうのです。単に見た通りなら、突然東の地平から昇って来るのであり、有方に西の地平に沈んでしまうのです。<西に沈み東に昇る>その間、私達が夜と呼んでいる時間の間太陽はどうしているのだろうかと言うことです。平たい台地の下を動き続け、朝に東の地平に昇ると言うイメージになってしまうのは、私達が立つ地球と言う台地が「平たいと言うイメージ」であれば、その平たい台地の下を西から東に向かって移動するということになります。つまり、私達のこの目で見ている地球と言う台地と太陽の移動と言う対象に対して、単に見えているだけでなく<地球は平たい台地と言ういメード>が出来ることで、はじめて見えなくなった太陽について考える事が出来るようになつたのです。見えていない間も太陽は、平たい台地の下を西から東に向かって移動していると言うイメージになるのです。この平たい台地の下は、地中と言うことであり、球形の地球の様にそこにも昼の世界があると言うイメージにはならないのです。平らな台地と言うイメージから球形の台地と言うイメージに変化する事で、西の地平に沈んだ太陽は、私達がいるこの場所の球形の反対の場所で昇り始めると言うイメージになります。その場所では考えられなかったものが、その球形の地球と太陽のイメージから、初めて地球の西の果てに沈んだ太陽に付いて、そのドームの上を太陽や月が動き、この問いに対して、見えている通りの物を言えば、<静止している地球の上を太陽が動いている>と言う形態を言葉にするのです。
現に視知覚している事、さらにその視知覚しているモノ相互の運動関係として概念化された所から 再度視知覚している内容をイメージ化する事で、視知覚を越えたものまでを含む天体論が成立するのです。重要なのは見た目のモノをそのままイメージ化するにしても、見えるモノを主体とした運動の関係として概念化し、その概念化の現実形態としてイメージが作られて来る事で、はじめて現に見えているモノ以外の見えていないモノを含む全体図が構想出来るようになった事なのです。