角川源義と「俳句『もどき芸』」論(1)      

                                               大山雅由

「贅言」にも述べましたが、「隗」誌は、この四月で創刊五周年となります。

角川照子先生が急逝された翌年、「隗」は創刊されました。また、「隗」の誕生を喜んでくださり、いつも厳しくもやさしい眼差しを向けていてくださった井桁白陶先生は一昨年に鬼籍に入られました。

「隗」誌は、その誕生に際して、かつて属した「河」の方々をお誘いすることはしないことを角川春樹主宰に明言して発足しています。したがって、十数年前から続く「俳句勉強会」からはじまった「隗」の会員は、俳句の指導者としては筆者しか知らない方々がほとんどで、照子・白陶両先生の謦咳に接している方も数えるほどしかおりません。

常日頃から、角川源義の俳句を継承することを口にし、その影響を最も深く受けた白陶先生の俳句を折にふれて取り上げてきていますが、会員のみなさんが源義師の俳句に触れ、その考えを学ぶ機会はなかなか無いように思われます。五周年を機会に源義師の俳句とはどういうものであったのかを振り返ってみましょう

「隗」で俳句を学びはじめると、「俳句は五七五でありながら、実は五・七五あるいは五七・五なのですよ」という言葉を幾度も聞かれたことと思います。これは、「二句一章」をともかく身につけさせたいということから口が酸っぱくなるほどくり返し言い続けていることなのです。

 角川源義師が、大須賀乙字の提唱した「二句一章」の俳句を実践し、後に「俳句『もどき芸』」論を展開したことは広く知られています。

 しかし、この「俳句『もどき芸』」論については、最近ではほとんど取りあげられることもないようで、まれに言及されることがあっても、隔靴掻痒のもどかしさをぬぐいきれません。

ここでは、源義師のもっとも重要なこの「俳句『もどき芸』」を手がかりにして、これからあるべき「隗」の俳句とはどういうものかについて考えてみたいと思います。

源義師が「もどき芸」という言葉を最初に用いたのは、昭和三十九年のことでした。

(たけ)高く幽玄であった連歌は月並化し、連歌批判として誕生した、奴俳諧・歌舞伎俳諧は、正統なものへのもどき芸・悪態芸として現はれた。同じく隠者文芸でも、この方は市井的で抵抗的生活態度があった・・・」
         昭和三十九年「河」九月号「青柿山房雑記」の「歳時記覚書」)

とあるだけであり、しかもこの箇所でしかこの「もどき」という語は用いられてはいませんでした。それは、いわば文学史的解説をほんのちらと述べた程度のものであったといってもいいものでした。

では、本来、「もどき」とはどんなものなのでしょうか。ここでちょっと煩雑なようですが、芸能上の用語である「もどき」について折口信夫の見解をみてみましょう。

「日本の藝能には、或本藝があると、必、それをもどく藝がある。もど

くと言ふ語は、反對すると言ふ語だが、神に對して、一段低いでもん

すぴりつとか言ふものが、神の為業を邪魔して、脇からじやれたり

からかひかゝつたり、じらす様なことをする。・・・(略)雑談(ジョウダン)・・  ・を言ひかけたり、おひやらかしたりする事から、更に、本藝の意味を敷衍

し、延長して、訣る様にする事、即ち、説明的な演技を行ふことをも意

味してゐる。

   翁に對して三番叟は、ちやうどそのもどき役のやうである。藝能を以て、翻   譚することが、もどくの語義になるのだ・・・そして、翁の祝福が、此家にとっ  て、又此村にとって、かう言ふ意味を持ってゐる、などゝ言ふ風に、それぞれの、家や村の望んでゐる様に、翁の歌舞の意義を演鐸し、説明する。これが翁に對して 三番叟の存在する理由であり、このもどき役が、三番叟の為事である。」                                  (『日本藝能史序説』)

 「田巣では『もどき』と言ふ役方がありました。・・・東京などで言ふと、里神楽のひよっとこの役が『もどき』で、お面の名まで『もどき』と言ひます。この『もどき』役に当るものは、能を見ますとあらゆる所に顔を出して来ます。狂言なるものは、多くの場合『もどき』役であって・・・(略)・・・例えば能楽の中、最古く、最厳粛なものと思はれる『翁』を捉へて考へて見ますと・・・(略〉・・・結局、『翁』が出て来てした事を三番叟がまう一度現れてその説明をすることになるのだと思ひます。つまり三番叟は翁のもどぎなのです。」         
                         (「日本藝能の特殊性」)

 引用が長くなりましたが、ことばの概念を正しく掴んでおかないと捉え方が曖昧になってしまっていけませんのでお付き合いください。

これが芸能上の、いわゆる狭義の「もどき」です。これに対して、源義師が「歳時記覚書」で使っている「もどき」は、文芸上の広義の「もどき」であって、「奴俳諧・歌舞伎俳諧は、正当なものへのもどき芸・悪態芸」という言い方にもわかるように、「反対のもの・まねる」の意から本歌取り・駄洒落・地口・パロデイまでをも包含したものとなっていると考えてよいでしょう。

このように、昭和三十九年時点での師の「もどき」への言及は、先に見たように実に素っ気のないものでしたが、これが意識的な方法論としての「俳句『もどき芸』」論として登場するのは、昭和四十六年五月まで待たねばなりませんでした。

源義師の「俳句『もどき芸』」論は、大須賀乙字の二句一章と深くつながっていると述べましたが、それを理解するためには、ここで俳諧(連句)の構造を見ておく必要があります。

「俳諧の古今集」とも言われる『猿蓑』(元禄四年刊)の中でも、もっともよくできた一巻である「灰汁桶の巻」に即してみてみましょう。

 (A) 灰汁(あく)(おけ)(しづく)やみけりきりぎりす    凡兆(発句)

 (B) あぶらかすりて(よひ)()する秋          芭蕉(脇句)

 (C) (あら)(だたみ)敷きならしたる月かげに       野水(第三句)

 (D) ならべて(うれ)し十のさかづき           去来(四句目)

(A)は、二章体の発句(立句)で、それ自体として完結しています。土間の片隅にでも置いてあるのでしょうか、先ほどまでぽたりと聞えていた灰汁桶の雫が、いつの間にか止み、こおろぎ(当時の「きりぎりす」はこおろぎのこと)の鳴く音がひときわ高く聞えることよという、わびしい農家の様が詠まれています。初秋の庭の閑かさが、こおろぎの音とともにいっそう静寂を深めているではありませんか。ふっと雫の音の止った一瞬の心理の動きをよく捉え得たみごとな立句となっています。

(B)の脇句では、行燈の油もかすれて底をついてしまいました。寝るにはまだ少し早いのですが、そのまま宵寝をしてしまったというのです。前句のわびしい余情にたいして「あぶらかすりて」は移りがよいでしょう。

 (C)月の句。定座の月が二句繰り上がっています。前句の宵寝のわびしさを青々とした新畳で、月の清光を楽しむという悠容たるゆたかさに転じた付けとなりました。発句・脇で構成された侘びの世界を一転させ「新畳」の一語がよく効いています。

 (D)前句に漂うゆたかな開放的気分を受けて、「ならべて嬉し」と心のうちとけた親しい者同士の慶事・祝の座とみて、饗応の趣を付けたのです。

 連句は漢詩の起承転結の影響からはじまりましたが、結への転じはありません。

 発句(A)を脇(B)が「承け」て付け、(B)を転じて(C)が付け、(C)をさらに転じて(D)が付けるますが、(D)は(B)とはまったくかかわりがありません。先へ先へと転じて付けていきます。

 このように「付け転じ」が俳諧(連句)の真骨頂であったればからこそ、「発句は門人の中、予におとらず句する人多し。俳諧においては老翁が骨髄」という芭蕉の自負もここにあったのです。

 こうして一巻の歌仙は「付けと転じ」の繰り返しによって完成されるのですが、俳文学者の東明雅はこう述べておられます。

「我々が俳諧そして連歌の起源に遡る時、その発生が古代の『かけあい』(問答・唱和)にあったこととともに、古代の文学や神事にあらわれる『もどき』の精神に、思いを致さないわけにはいかない。・:・(略):・俳諧の『転じ』の精神の中に、私は遠い遠い古代の『もどき』の精神を感じ、これこそ俳諧それ自体の精神であるとともに、俳諧を進展させていく『転じ』の原動力になるものと考える。」                                                                     東明雅『連句入門』

   

この「転じ」の精神は、「発句は物を合すれば、出来るなり。其(の)((く)取合するを上手と云(ひ)、悪敷(あしき)を下手と云ふ」(『去来抄』)の芭蕉のことばにもあるように、「取り合わせ」の技法が次第に高められていき、連句の「付け合い」が一句のなかに吸収されるまでに浸透していったときに、独吟の俳句として実を結んだものといってよいでしょう

 そして、この「転じ」の精神を、源義師は「もどき転換」と呼ぶことになったのではないでしょうか。

 さて、昭和四十六年五月、百五十号の節目を迎えていた俳句誌「河」は創刊号の「発刊の言葉」を採録し、文字通り角川源義師の「これからの俳句」の方向を示していたのです。

 「選句してみると、二句一章の方法が俳句として、あるべき姿だと痛感するや  うになった。しかし俳句は二句一章であればいいといふものではない。俳譜はも  ともと、和歌・連歌のやうな典型に対する『もどき芸』として成立してゐる。二  句一章の方法は、陰中陽を求め、明中暗を探るものであり、相反する性格が結ぱ  れて一章の俳句に結晶するところに意味があり、俳諧の転生がある筈だと思ふ。  かうした人生風詠の道にこそ、救ひが見出されるわけである。自己を凝視し、自  己表現しつつ、自己救済をはかり得る。」

 ここに、はじめて、「二句一章」と「もどき芸」とが結び付けられてくることになりました。

 昭和三十九年九月(四十七歳)から四十六年五月(五十四歳)―この七年の間に、角川源義師のなかで「もどき」は大きく質的転換をとげることとなったのです。では、その理由は何であったのでしょうか。

 そこには、表現方法としての「二句一章」論の発展と深化を目指すという強い意志があったのではないでしょうか。

 自身の俳句誌の選句の中で、文語と口語の混合した句によく出会うようになってきており、俳句としての(口語発想と文語発想の混同からくる)リズムの乱れなどをどう指導していったらいいかという観点から、「二句一章」と「俳句の切れ」の問題を捉え返していかなくてはならないと考えていったのではないでしょうか。

 今でも時には、「二句一章の指導はむずかし」という声を聞くこともありますが、大須賀乙字の二句一章論もなかなか理解されにくいものであったようです。

 『大須賀乙字俳論集』よりその説をみてみましょう。

   「一章の俳句に一ケ所の大休止を置く、そは省筆上の約束である。そ

してこの大体止すなわち句切れが全体の調子を引きしめるのである。

すなわち五・七五あるいは五七・五あるいは七五・五等の二句一章と

なる。」

   「句切れの大省筆によって、しかも綿々たる藕糸(ぐうし)断たれざるものがな

ければならぬ。」                       
                           「俳句調子論」)

 「切れ」、すなわち「大休止」があることによって韻文となるとの意でしょう。そして、そのおおきな間をつなぐものは「綿々たる藕糸(ぐうし)断たれざるもの」、つまり目には見えるか見えないかの細い糸でつながっていなくてはならないのだと言っているのです。

 乙字の二句一章論は、また、その写意論と表裏一体のものでもありました。

「子規の俳論は写生を説くに止って、写意に進まなかった。」

「写生は写生だけで一つの目的を達しており。またそれだけで一種の芸術であるけれど、創造の世界を示してくれるものではない。そこは写意に待たねばならぬ。」

「僅々十七宇内外の俳句にあっては、描写はその能くするところにあらず、喚起し暗示するのであるからして、専ら写意に行かねばならぬ。」

                      (「写生から写意に」)

 

 虚子の客観写生がついには瑣末主義(トリビアリズム)に陥っていった弊を思うとき、乙字の写意論は含蓄に富むものでありました。対象を凝視して、そこにうごく自らの心を詠み止める。しかし、己の感情を生のままに出すのではなく、物に托し、季語に托して語らしめるのです。

 これが角川源義師の考えていた二句一章論ではなかったでしょうか。そして、その深化・展開を考えたときに、「俳句『もどき芸』」論があらためて意識されることとなっていったと考えられるのです。               
                              (つづく)


角川源義の「俳句『もどき芸』論」には、大須賀乙字の「二句一章」論が大きな影響を与えていたと前号に述べましたが、さらにここで指摘しておきたいのは、いつのころからか先師の内部に萌しつつあった「老い」への意識です。今や、男性の平均余命は七十七歳を超え、女性のそれは八十五歳にもなろうという未曽有の高齢化社会に突入していて、さまざまな問題が顕在化してきていますが、昭和四十年代に入ったばかりの頃の源義師は「老い」をどう考えていたのか見ておきましょう。

 戦後の混乱期の真っただ中に出版業を興し、我武者羅に働いて、齢五十を迎え、ふっといままでの人生を振り返ります。生の充実を感じ、或る種の達成感を得たことでしょうが、ふっと思いもよらぬ空虚感に襲われます。こんなとき、ひとは「老い」を感じるのでしょう。

     四十二年四月武州御岳登山の折、

     四月の雪女神に詣で余生感

  そして、昭和四十五年五月、愛嬢真理さんの突然の死が源義師を襲ったのです。

  「真理を野辺に送った日から気力を失ひ、何事にも手のつかぬ日々をすごした。年齢には似合はぬ晩年の意識が生じた。」

                       (『冬の虹』あとがき)

 理由の分からないままの突然の愛娘の自死に直面し、たじろぐ源義師の姿がそこにはありました。その苦しさの中から、少女のままの真理との対話が句集となり、遺髪を抱いての旅吟が生まれました。
 亡き愛娘に捧げられた『冬の虹』―「あとがき」はこう述べています。

  「『神々の宴』に比して、この句集は明らかに変化してゐると思ふ。同世代の友人たちの作品を見ると平明で軽みの句をつくるやうになつてゐる。私にもそれが云へるやうである。私はこれまで境涯俳句とよばれるやうな俳句をつくらなかつたが、日々の生活を詠ふやうになった。しかし、私は芭蕉晩年の計が何であつたかが思へてならず、陰を陽に転ずる俳諧の企てをつづけてみたい。」

こうして「晩年の意識」を持たれるとともに、源義師は、「軽みの句……陰を陽に転ずる俳諧の企て」を明確に自覚されることとなったのです。

 そして、このとき、かれの意識のなかには「『もどき芸』としての俳句」があきらにイメージされていました。それは、また、極めて方法論的な発想であったと言うことができるのです。ここに奇しくも「芭蕉晩年の計」と言っているのですが、芭蕉の「軽み」も、また、内容の「軽さ」ではなく、表現にかかわるものとして意識されたものでありました。 

  「木のもとハ汁も鮒もさくら哉

 この句の時、師のいはく、花見の句のかゝりを少し心得て、かるみをしたりと也。」                      (『三冊子』)

 句は元禄三年の作。「軽み」の語の出る最も古い出典ですが、ここで言う「かゝり」は、韻律・リズムの意と考えられましょう。『去来抄』なら「語路」と言うべきでしょうか。

「句に語路といふ物あり。句走りの事なり。語路は盤上を玉の走るがごとし。滞  りなきをよしとす。また柳糸(りゅうし)の風に吹かるるがごとし。(ゆう) をとりたる、よし。ただ、溝水(こうすい)の泥土に流るるがごとく、行当(ゆきあた) り行当りなづみたるを嫌ふなり。」

 これは、芭蕉の「発句は頭よりすらといひ下し来るを上品とす」(『去来抄』)と同じ趣旨でありましょう。

「句のかかり」すなわち「語路」(リズム)によって生じる「軽やかさ」が大切だというのです。一句の内容をいかに「軽やかに」、耳ざわりよく表現するかということです。

 しかも、「かるみ」は「不易流行」―飽くことなく「新しみ」を追求して止まなかった芭蕉のきわめて意識的な方法論でもあったのです。

 その「かるみ」とは、ひとの生き死にを見つめ、愛するものを失った果てに、老いを迎えようとするひとりの人間の到達した清澄な境地によってもたらされる洒脱な「軽やかさ」から生じるものなのではないでしょうか。いわば、人間存在の根本的な「さびしさ」としての「さぴ」、おのれ自身を含めたあらゆる対象に対する哀憐の情(やさしさ)としての「あはれ」、その「あはれ」に支えられた「しほり」をいかに「軽やかに」形象化し得るかという表現の「新しみ」に深くかかわって来ざるを得ないものであったのです。

源義師の愛する娘を失った哀しみは汲めども汲めども尽きることはありませんでした。幾度となく少女のままの面影と対話をし、思い出に涙するうちに、その哀しみは水のように澄み、人間存在の否応のない不条理をくぐり抜けた、いわば諦観のように、かなしみは身に添ってくることとなるのです。

 その愛嬢真理の死から三年。昭和四十八年九月から十二月の三か月余を、源義師は、胸部疾患の疑いにより清瀬の東京療養所に入院されることになりました。「晩年」の意識はますます強くなっていったことでしょう。

しきりに芭蕉の晩年に触れ、その「軽み」に言及しています。

 「私は俳句とはもどき芸であるとするのは、俳諧自在な精神を芭蕉が開拓した芸の 世界に取り戻すにあると信じたからです。」   
 (「俳句とはなにか―境涯俳句の場合」―「俳句」四十九年十月号)

その主宰する「河」誌二〇〇号に際しての「私の俳句観の変遷」では、より一層この観点は深められているように思われます。

「私は二句一章説を唱えるにあたり、陰陽の転換を主張したのも、その(〈注〉一句のなかでのもどき、転換、飛躍の)必要性からであり、晩年の芭蕉が意識的にこれを行っていることを発見した。芭蕉の軽みの説はその結果として生じたように思える。」(注)―筆者)「云いつくさずに一句の姿をととのえる必要が大切だ。」
「大切なことは俳句本来の意義は健康な笑いにある。爽やかで淡々とし、耳で理解できるものが何よりであり、平明で、かつ面白く、思いのこもった俳句が時間というきびしい淘汰のなかで生きぬき、伝承されていくように思う。」                      (「河」昭和五十年七月号)

 この文章を綴ってから、三か月の後、源義師は愛嬢真理さんの待たれる彼の岸へと旅立たれることとなるのです。

   蓑虫や句を晩年の計として   

秋風のかがやきを云ひ見舞客

命綱たのむをかしさ敗戦忌

月の人のひとりとならむ車椅子

 これらの句は、源義師の目指した「もどき芸」が「かるみ」の句として実を結んだものと言えるのではないでしょうか。

 このたび「もどき芸」論を再読して、源義師が、俳句の本道を見極めつつ歩み、その俳諧精神を伝えようと、いかに腐心されたかが、痛切に感じられました。そして、残された時間のいかに短かったことでしょう。

 源義師がわれわれに残していかれた課題として、「俳句『もどき芸』論」を、新たな視点で捉えかえしていくことが必要なのではないでしょうか。

 ところで、よく二句一章の俳句の例として取り上げられる源義師の句について考えてみましょう。

     ロダンの首泰山木は花得たり   源義

 多くの人が指摘するようにこの句は「二句一章」の俳句と言えるでしょうか。 季語とある物を「取合わせ」て転換させる、或は、元来はまったく別の二つの物同士を組み合わせてイメージを喚起する形は、いわゆる「取り合わせ」の句、「二物衝撃」の句、或は「モンタージュ」の句などと称されています。
 その成功したものは、芭蕉の言うように「発句は物を合すれば、出来るなり。其(の)()(く)取合するを上手と云(ひ)、悪敷(あしき)を下手と云ふ」(『去来抄』)ということになり、それが、連衆もしくは、読み手の共感を得て読みつがれいき、やがては人口に膾炙するようになってゆくのでしょう。
 「二句一章の俳句」では、その句が、取り合わされるものとの間に「目に見えるか見えないかのほそい糸」でつながっていなくてはならないのだと大須賀乙字は言っています。「句切れの大省筆によって、しかも綿々たる藕糸(ぐうし)断たれざるものがなければならぬ」(「俳句調子論」)と。
 作者源義師みずからはこう述べています。

「昨年私の家が出来たをり、俳壇の諸先生、諸先輩から泰山木を贈ら

れ、新宅びらきの句会を催したをりに作つた句である。」

(句集『ロダンの首』の「あとがき」)

これで、作句の事情はよく分かり、これから新宅で始まる生活と明るい泰山木の花はよく「取り合わされている」とは思いますが、これを「二句一章の俳句」と言っていいかは疑問です。どうみても、「ロダンの首」と「泰山木は花得たり」との間には、「綿々たる藕糸(ぐうし)断たれざるもの」があるとは思われません。

これはむしろモンタージュの俳句ではないでしょうか。

モンタージュとは元々は映画の用語からきたもので、視点の異なる複数のカットで「組み立て」(モンタージュ・仏語)て、新たな独特の意味をもたらそうとする手法です。中学生の頃に見たエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』のあの「オデッサの階段」でハラハラしたのを思い起こします。

無論、だから悪い句だといっている訳ではありません。荻窪のあの広々とした家にいつも伺っていましたから、源義師の気持ちの昂ぶりもよく表れた俳句で、これからも読みつがれていくべき句でありましょう。ただ、贔屓の引き倒しになってはいけないと思うのです。

 先師の俳句について学び、実作の技量を深めていくとともに、理論的な検討をしていくことが肝要であると考えているのです。

そして、二句一章の俳句に習熟するためにも、常日頃より「歳時記」を座右に置き、季語の「本意」というものを十分に知り、ときにはその「本意」そのものをも「もどく」つもりで対象を詠んでいきたいものです。そうでなかったら日毎に作られていく多くの類想句の中に埋もれてしまうに違いありません。

「もどき」の精神がわれわれの俳句に多くのものを齎してくれると信じ、精進したいと願っていますが、では、日頃、どれだけ「一句のなかでのもどき、転換・飛躍」に挑んでいるでしょうか。大胆な転換・飛躍を実践していくには、二句一章の句に習熟し、その(わざ)(わざ)と見せないまでに血肉化し体得することが求められます。
 「俳句はつぶやきだ」といいながら、日常の感懐をちまちまと述べ、有り合せの季語をくっつけて事足れりとしてはいないでしょうか。
 「俳句に個性が大切だ」といいながら、個性という名の類想に浸ってはいないでしょうか。
 俳句的題材によりかかって、手垢のついた神社仏閣を後生大事に撫でまわしてはいないでしょうか。
 いつもの題材、いつもの語彙―自分の類想の中で詠んではいないでしょうか。源義師の「もどき芸」論は方法論であり、それは、また、俳諧の精神でもあります。それは、不断に「新しみ」を追求していくものでもあったはずです。

 今日の「われ」は、昨日の「われ」にあらず、作者自身の「われ」をも「もどい」て、一歩たりとも同じところに止まることを許さないという精神の在り様が求められているのではないでしょうか。

 めまぐるしく移り変る現代を生きるわれわれは、この「今を生きる実感」を、現代の都市生活の題材を、ヴィヴィッドに、「もどき芸」の精神をもって詠み挑んでいかなければならないのです。