2010
今月の秀句1月

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今月の秀句             大山雅由

      

 

   祭りをへ細身となりぬ惜命忌      大畠 薫

 

 この「祭り」はもちろん昨年十一月に清瀬市の没後40年「石田波郷俳句大会」のことです。作者は、計画の当初から実行委員会のメンバーとして市当局との折衝に当ってくださる一方で、すべての投句用紙をコピーしその住所氏名をコンピューターに打ち込んでくださるなど日常の業務のすべてに亘って細かな心配りをしてくださいました。また、大会の当日は、副会長として大会運営を支えてくださいました。

ご病気から快復されて間もないことでしたので、その気苦労は並々ならぬものであったことでしょう。「細身となりぬ」はまさに身をけずっての献身でもありました。

 「祭りをへ」というのも、大会当日が十一月八日で(これは実際の波郷の命日に近い日に設定すると「鶴」の大会など他の行事とかち合ってもいけないということからわざとずらしたため)、惜命忌は二十一日ですから、大きな事業をし果せたその間のほっとした心のあり様をも示しているのです。

 「西の松山・東の清瀬」と言われるくらいに、清瀬を俳句の街にしていくためには、越えなくてはならないハードルがいくつもあります。いつまでも元気でわたしたちを叱咤激励してくださるようにとお願いしたいと思います。

 

奥能登に時雨くる日や千枚田      永島正勝

 

 「千枚田」は奥能登・輪島市の、日本海に面した急な山の斜面を段々にして水田としたもので、実際には二千枚くらいの小さな水田が美しい曲線を描き、それが四季折々の変化を見せる名勝の地となっています。

 能登の海はもう波も高く、時としてシベリアから吹き下ろす強い風に、人も自然も冬に備えて身構えはじめるころでしょう。それでなくても、日本海沿岸の気候は気まぐれです。思ったとおり「時雨くる」日でした。

 あの吹きっさらしの千枚田の様子が目のあたりに浮かびます。

 不意の「時雨」も、気のおけない友人と共にする旅にはいろどりとすら思われます。「時雨」に出会えたことによろこびさえ感じているのではないでしょうか。同時作の句。

   お日さまのにほひの布団能登の夜     正勝

 これも、旅に出て体感したことをそのまま素直に表現したところが、ほのぼのとした好感の持てる句になったと言えましょう。

 

つれなくも余生は灯る落葉かな     加藤一帆

 

 作者は長年連れ添った奥様を亡くされました。一時は句会も休まれておられ、心配もしたのですが、この前の句会では、突いてこられた杖を忘れるほどお元気になられました。

 「つれなくも」はまさに、「連れなくも」の意でしょう。しかし、その連れはなくとも「余生は灯る」と言い切ったところに、作者の強い意志が読み取れます。長い人生には、実にたくさんの、思わぬことが出来します。父母に永別するのは仕方ないにしても、最愛の妻(夫)や、時には、わが子やかけがいのない友人との別れ。看取りや介護などからくる落胆や失望等など・・・

 しかし、どんな時でも、どんな状況でも「生きていく」のが「人生」なのではないでしょうか。このごろそんな思いにとらわれることが多くなってきました。 

 「つれなくも余生は灯る」の作者のつぶやきは、多くの人の心にいつまでも響くことでしょう。

 

里人のしづかな眼ななかまど      上田公子

 この句、さりげない詠みぶりですが、心に沁みてきます。景としては、どこにでもありふれたもので、物珍しいところはどこにもありません。ちょっとした峽の景をさっと詠んだような句です。

 これをゆっくりと「さとびとのしづかなまなこななかまど」と声にしてみると、ア音のつらなりにしたがって心が開かれていくようなのびやかな気持がしてきます。そして、「しづかな眼」の中にこれからやってくる厳しい冬に向ってどっしりと腰をすえた人間の強い意志が感じられてきます。

 作者の感性が、句のしらべを導き出したと言えましょう。

 

かいつぶり遠く眺めてゐるばかり    飯島千枝子

 

 原句は「鳰」と一文字でしたが、この場合は「かいつぶり」の方がいいのではないでしょうか。俳句では一句全体の文字の流れにも気を配っていきましょう。

 二句一章の句ですから、「かいつぶり/遠く眺めてゐるばかり」で「かいつぶり」を目にしながら、作者自身が「遠く眺めてゐるばかり」なのです。筆者も、ひとりで水鳥を見にでかけたりしますが、鳰というのはふっと潜ったと思うと予想もしない水面に顔をだし面白い動きをしますが、いざ句に詠もうとするとなかなか難しい題材です。

 作者は、それを「遠く眺めてゐるばかり」と無手勝流で投げ出したように見せています。謂わば、無技巧の技巧です。そこがよかったと言えましょう。

 

落し穴あるかも知れず落葉道      和田久美子

 

 作者は、今、ご主人の介護と向かい合っておられます。二十四時間の付き添いを病院から要請されているとのことですから、さぞかし大変な事態と案じられます。そうした作者の身に添って読んでいくと、この何気ない句が、まったく違った容貌を見せてくることに驚かれることでしょう。

 今までなんの不自由・不安もなく過してきた日常に、降って湧いたようなどうしようもない陥穽がぽっかりと口をあけていたのです。

 どんな「落し穴あるかも知れず」という人生であればこそ、わが身に起ったことを、避けることの出来ない現実として見据え、どんな状況に立ち至っても五七五に言い止めていこうとする姿勢には頭が下がる思いがいたします。