2010
今月の秀句3月

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今月の秀句             大山雅由

 

荒ぶ夜の明けて白銀初雀        佐山 勲

 

 この冬の新潟の雪は三十数年ぶりのものだったとのことです。豪雪地帯に今は誰も住んでいない家を持つ会員は、雪下ろしに行くのに、除雪されている二メートルの雪の壁を、まずスコップで階段を作りながら登って、そこから樏(かんじき)を履いて家にたどり着かねばならないということでした。

海に接していて例年は雪の少ない新潟市の町中でもそこここに積み上げられた雪の山がいつまでたっても溶けないようで、あれほどの雪を市内に見たのは十数年も通っていてはじめてのことでした。

 地元の方々が「オホーツク颪だ」というほどの雪と風の「荒ぶる夜」がどんなものかは想像の他はありませんが、「明けて白銀」と表現したところに作者のほっとした一瞬が「初雀」の季語に窺えるのではないでしょうか。

 しかも「鳥飼いの勲」氏の言葉であってみれば、感興もなおいっそう深いものと言えましょう。

 

初明り朴葉の舟を引き寄する      斎藤八重

 

 作者の家の近くにはささやかな流れがあるようで、毎月の句にもしばしばこの流れが詠まれています。このごろは足元に不安を感じられておられるようですが、身辺の些事をしっかりと詠み止めてゆこうと努められているその姿勢には頭の下がる思いです。

 年のあらたまった明方です。いつものように目の前の小流れにゆと視線が及ぶと朴の落葉がすうっと流れよってきたのです。なんということもない光景が作者の琴線に触れた瞬間に、さっと詠み止めた・・・そんな句です。

何のはからいもない句ですが、一幅の水墨画を見るような心持になる句です。こうした句を詠めるには、常日頃からよほどの覚悟をもって句というものに向き合っている作者がいるのだということを知らなければなりません。

 

さねさしの相模さまよふ雪女郎      菅澤俊典

 

  「さねさし」は「さがみ」にかかる枕詞。語源は不明ですが、一説には「さ嶺さし」(「峰々のそばだつ」)の意で、「険(さが)し」から同音の「さがみ」に掛かることになったとも考えられています。

「古事記」には弟橘比売(おとたちばなひめ)の作と伝わる歌があります。

 

 さねさし相模の小野にもゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも

「はも」は強い詠嘆を示します。歌意は「相模の野原に燃えていた火の、その只中に立ってわたくしに声をかけてくださったあなたよ、ああっ!」となります。

東国平定の旅にあった日本武尊の船が沖に出ると、不意に激しい暴風雨に襲われます。海神(わたつみ)の荒見御魂(あらみたま)を鎮めようと后の弟橘比売はその身を海中に沈めます。するとたちまちに波風は平らかとなり、船は水の上を走るように上総の国に着くことができました。以来、ここを「走水」と言うようになったというのが神々の物語りです。

「雪女郎」の季語が、こうした物語でも想起させるような面白さがこの句にはあります。「サ」音の繰り返しがリズムを生み出しています。

 

クッキーを焼きゐる娘冬うらら     米原健二郎 

 

 作者は、昨年の末に単身赴任の明石から清瀬に戻られました。ご高齢の父君を看ながらの家族と離れての生活はさぞかし大変なことであったと推察しております。三人のお子さんは、高校生を頭に小学生まで。「お年頃」特有のなんともいいようのない微妙な心理状態は、反抗期の娘をもった経験のある父親なら誰もが経験するのではないでしょうか。

 ある日の、ごく平凡な日常の一齣が、父親のまなざしで言い止められました。「冬うらら」が効いています。お父さんの仕合せな一瞬です。

鬼やらひ胸の小鬼はそのままに     小川マキ

 

 「追儺」「鬼やらひ」は元々は、大晦日に執り行われた宮中の行事が、節分の民間行事となったもの。一口に「災いをはらう」と言いますが、では「鬼」とは何かとなるとこれはちと大事となってきます。

 試みに『広辞苑』ので「鬼」と引いてみました。まずは、(「隠(おに)で、姿が見えない意という」と出てきます。その偉力を持つところから、悪神、邪神、もののけ、赤鬼、青鬼、牛鬼、鬼のような人の意で債鬼、鬼武者、鬼婆、鬼やんま等々・・・とつづきます。

 中世の仏教では布教宣伝にさまざまな絵図や伝承がなされ、死への恐怖が誇張されたために、「魂」というような目には見えないものへの畏怖から徐々に「鬼」という言葉に人へ害をなすもの脅威を与えるものの意をふくめるようになり「鬼」というようになったのでしょう。

「逆引き」で引いてみると、「鬼鬼」「屈み鬼」「隠れ鬼」「向かい鬼」などは「鬼ごっこ」の鬼。「雪鬼」というのは「雪女郎」のことでしょうか。「心の鬼」は疑心暗鬼。「白鬼」は「白首」とも言い明治の初頭にあったという売笑婦のこと。「人鬼」は鬼のような残忍な行いをする人のこと、「人に鬼はないものだ」などと使います。「知らぬが仏より馴染みの鬼」とは「遠くの親戚より近くの他人」と同じような意のようです。

と、言葉遊びはともかくとして、この「胸の小鬼」は、豆をもって追い出すほどもないちょっとした作者の悪戯心・遊び心のことを言っているのでしょう。小さな胸のトキメキは、永遠の若さの源なのですから。

 

行きつけの店の面々福寿草       森田廣子

 

 作者は、一時病床生活を余儀なくされ、投句の原稿も震える手で書かれておられましたが、最近はだいぶよくなられたようでほっとしています。月々の句稿に目を通していると、会員のみなさんの生活の一端に触れ、そのご様子を垣間見るにつけても「俳句を生きがいとして」おられる方が少なくないことに驚かされます。作者のまわりの人々も、元気になられたその姿に安堵の声を掛けてくださっているのです。「福寿草」がなんとも明るくではありませんか。