今月の秀句 大山雅由
ばんどりに編込む緋色春を待つ 篠原悠子
「ばんどり」を意識して見たのは、庄内鶴岡の致道博物館の民俗収集館でした。かつての農山村では荷物を背負って運ぶのに、蓑で編んだ肩当てが使われましたが、もともとは、あの闇夜に驚異的な飛翔を見せる「むささび」(方言では「ばんどり」と言う)の形に似ているところから由来しているようです。庶民の日常の具としては欠かせないものであったようですが、時にはそれが象徴的な意味を持つこともあって、時には会津「ばんどり一揆」などという呼ばれ方をしたこともあったようです。
今では、実際の労働の場で見ることはなくなってきているようですが、装飾的なものも作られて、婚礼の道具などを運ぶときのためには色とりどりの布や毛糸で編んだものも見られるようです。
長い冬の間、炉端では、やがてくる春に思いを馳せながら「ばんどり」を編んでいるのです。もしかしたらこの家にも婚儀があるのかも知れません。
「編みこむ緋色」がたのしいではありませんか。
かたくりや並べ干さるるトーシューズ 上田公子
最近は「かたくり」に限らず、各地でさまざまな野生の花を保護し、ひいては町おこしにつなげようという試みがなされているようです。清瀬でも春の「かたくり」夏の「ひまわり」など広く知られつつあるようで、関係者の苦労も大変なようです。柳瀬川に近接した「かたくり」の群生地に足を運んでみたら、自然を守る会のみなさんが盗掘防止の巡回がてら、いろいろな野草の説明をして下さいました。
「かたくり」というとまず頭に浮かぶのはこの句です。
かたくりの花の韋駄天走りかな 綾部仁喜
風の立った一瞬の「かたくり」の花の形を「韋駄天走り」と表現したのは、仁喜ワールドとしか言いようのないものでしょう。
作者も、さっと一斉に足を上げるバレリーナを思い浮かべたのでしょうか。
その春風の明るさが、「並べ干さるる」という具象を呼び込んだのでしょう。
雪降り来授業の子らの遠眼差し 玉井信子
作者は新潟の小学校で教鞭を執っておられます。授業中、校庭にはさっと雪が降ってきました。元気な子供たちは雪がやってくるとそわそわしてもう授業に身が入らないのでしょう。遠い山並みの頂きはすでに真っ白になっています。
「授業の子らの遠眼差し」という言い回しに、その子どもたちを目の前にしている自分自身を客観視している作者の奇妙な感覚がよく表れています。危うい一瞬を言い止めて、これもなかなか俳味のある仕立てになっていると言えましょう。
春泥を飛び飛び帰る弓袋 きょうたけを
「弓袋」と言ったところが効かせ処でしょう。この春は、展示のために三嶋大社へ伺いましたが、ここは源頼朝が平家討伐の必勝祈願をした神社として知られていて、毎年夏には流鏑馬の神事が盛大に執り行われています。したがって境内には広い弓道場があって、多くの老若男女が弓の稽古をしています。この句の場合は、どこであるかは分かりませんが、これと同じような光景によく遭遇します。
「春泥」に明るさが満ち溢れています。「弓は袋へ」というのは「戦い終わって」の意もあり、緊張感から解放された気分も溢れており、「飛び飛び帰る」のはきっと女の子かな・・・などと想像されてきてたのしい句になっています。
葛湯吹く母の隣に居るごとく 須賀智子
「葛湯」というとどうしても回想の句になりがちなのが昨今のようです。今では、風邪の季節に向かう頃ともなるとインフルエンザの予防接種を受けたりしますが、子供の頃に風邪に掛かったといえば、「葛湯」や「生姜湯」を飲んで身体をあたため、よく眠るくらいの手当てしかありませんでした。そして、実際に、これでよく効いたものです。我が家では、熱を出して寝ているときには、母が林檎をすりおろしたものを特別に作ってくれたものでした。
「葛湯」を撹拌する箸の先には、母親の愛情の一滴が入っていたのではないでしょうか。
うすめても花の匂の葛湯かな 渡辺水巴
「葛湯」と言えば、こんな忘れられない句がありました、
今にしてこの為体蛙の目 岩本晴子
いったい何があったのでしょう。作者は、「この為体(ていたらく)」と言っているのですから、自身の不甲斐なさを言っているのでしょうか。
この句、一読して一瞬「目借り時」かと思いました。「もうこうなっては仕方ない」と「蛙に目を借られ」た気分なのか、とよくよく見れば、あくまでも「蛙の目」でした。そこで、すぐに浮かんだのが、次の句です。
蛙の目越えて漣又さゞなみ 川端茅舎
目だけ出した蛙をひとつのさざ波が越えていくと、また、つぎの漣がやってくる。目だけがくっきりと浮かんでいる。そんな光景にふっと笑みを誘われないではいられません。
作者に、この川端茅舎の句が念頭にあったかどうかは分かりませんが、作者の気持ちとしては、「もうこうなったらここはじっっと我慢!」と水に身をひそめた蛙になっているのではと思い至り、おかしくなってしまいました。
作者は、このところ進境著しいものがありますが、ここでまたひとつ自身のあらたな句の世界をひらきつつあるようです。
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