2010
今月の秀句10月

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今月の秀句             大山雅由

 

語り継ぐ漫画もありき終戦日       小山洋子

 

 「語り継ぐ」戦争体験というのならともかく、この作者は、「語り継ぐ漫画」と言っているのは、おそらく自らの体験を取り入れた水木しげるの「漫画」のことではないでしょうか。作者の年齢では、田川水泡の「のらくろ上等兵」だったら「語り継ぐ漫画も」とはならないような気がしますし、NHKの朝のドラマにもなったこともあり、作者も、水木氏の戦場体験による漫画やその人生観に打たれるところがあって、こうした句となったのでしょう。

 水木しげるという漫画家の名は、筆者にも、青春のひとコマを思い起こさせてくれます。学生時代には漫画雑誌「ガロ」で白土三平の「カムイ伝」を随分と見たものです。その雑誌には「鬼太郎」も掲載されていましたから結構早くから水木氏の漫画は見ていたことになります。

義姉夫妻の住む米子市の隣、境港の水木しげるロードには水木ワールドのさまざまな妖怪たちのフィギュアーが立ち並び、連休や祭日には多くの老若男女が参集し、町興しに大いに貢献しているようです。清濁を併せ呑み、プロダクション経営の才にも富んでいる「水木しげる」という人間の奥行きの深さに共感し、どうしても句にしたかった作者の心がわかる気がします。

 

越の田も貫く河も虹の下         長井 清

 

 越後平野の虹をこれほど大きく捉え得た句は他にないでしょう。

「越の田も貫く河も」と景がはっきりと脳裏に浮かび、雨上りにひろがる田と信濃川のきらめきが虹とともに、一読、脳裏を離れないことでしょう。

 関東平野と越後平野の違いは、三方の山並みがくっきりと見えることです。関東平野はほとんど真平らといっていいのですが、越後の場合は、言ってみれば背景がくっきりとしている分、奥行というかメリハリが利いているような感じを持ちます。

 これだけ大景を破綻なく詠みこむには、常日頃からの修練とともに、胆力というものが備わっていなければなかなか出来ることではありません。

 

遠花火ふつと盗られし胸のうち      上田公子

 

 作者は、ご自身の感覚を大事にして句を詠む方です。ともするとその感覚に頼りがちなところがあって、常日頃から、景をしっかり詠むようにと申し上げてきましたが、この処、その効が現れてきて、景を詠む裡に確実に自己を投影できるようになってきました。

 俳句は短い文芸ですから、自分の心の在りようをいかにして五七五のリズムに載せて表出するか。その表現力こそが、ポエジーを生み出す鍵になってきますが、作者は、調べにのせて自己を表出することを体得してきたようです。「遠花火」に「ふつと盗られし胸のうち」とはなか言えない作者らしい表現となっています。

 

子ら七人冑七匹帰省かな         小川マキ

 

子どもたちと共に「カブト虫」が七匹「帰省」してきたのいうのです。

いつもは遠くはなれているお子さん方のご家族が夏休みで久しぶりに帰ってきてにぎやかになりました。老夫婦二人の生活とは違った活気に満ちた朝の目覚めは新鮮です。そのよろこびに溢れて、健康でいきいきとしたのびやかなところが句の真骨頂でしょう。子どもたちの声が読むものの耳にひびいてきそうな句となっています。

 

秋灯下電池の切れし電子辞書       西原瑛子

 

 この夏の暑さは、空前絶後のものだったようですが、それを乗り越えて秋を迎えると同時に、がくっと疲れが一時にやってきて、起き上がるのさえ億劫に感じられた日が何日かありました。きっと作者もそんな気分になられたのではないでしょうか。

 秋の夜に、ちょっと調べものをしていて電子辞書を開いたら、「電池が切れています。補充してください」の表示です。「マア、暑さの中で、ぼんやりしていたから、まるでわたしのようだワ・・・」と作者は苦笑しているのです。その光景を目の当たりにするような句となって、多くの方が共感するのではないでしょうか。

 

杖止めて池の涼風懐に          内田研二

 

 作者は、今年も何度目かの四国遍路に赴き、満願成就されたとのことです。

かの地はまさしく瀬戸内式気候でもあり、毎年水飢饉に陥る地方ですから、あちこちに弘法大師の杖から湧き出したとされる言い伝えの池が点在するところです。

 同行二人の笠をつけひたすら歩き続けるお遍路の旅、ときには接待に与りながら、その弘法の池の辺に立って懐に涼風を入れるのでしょう。清々しい一句となりました。

 

なり過ぎの木の疎まるる青榠櫨      斎藤八重

 

 実をつける木というものは、おかしなもので、ほどよい成り具合というものがあるのかも知れません。あまり成り過ぎるのもどこか疎ましいと作者は言うのです。この辺りは、人の気持ちというものの、まことに微妙なところを言っているのでしょう。季語は「青榠櫨」ですから、たしかに暑苦しい感じがするのかも知れません。

 筆者の処には、毎年秋になると実家から熟した榠櫨が大きな米袋で二袋か三袋送られてきて、それをスライスしてハーブテイーのようにして飲んだり、化粧水を作ったりして利用しています。

現実に利用する立場からするとたくさん成った方がいいのではないかとも思いますが、見るに程よき・・・というのとはきっと違うのでしょう。 

なるほど庭に青榠櫨の成り過ぎの木があったら、きっとこんな気分にもなるものかと、納得させられるような気がしてきました。