2010
今月の秀句11月・12月

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今月の秀句             大山雅由

 

本流へ来て露草を手放しぬ        和田久美子

 

 「本流へ来て」と言っていますから、作者は、どこか川辺の岸で露草を手折り、しばらくは手に遊ばせながら歩いてきたのです。その間のことは、何も言っていません。言わないことによって、読者がさまざまなことを自由に読み込んでいく余地を残しています。

あるいは、その実際の時間と、読み手の想像力の喚起されるちょっとした間を愉しんでいるのかも知れません。取り立てて、何ごとかを言い立てるということもなく、ゆったりとしたその「間」を作者も読者も共有する・・・そこになんとも言いがたい「間」を感じられたらよしとする一句ではないでしょうか。

 

肝心なことは云へずよけふの月      大畠正子

 

 「けふの月」ですから、今宵は「中秋の名月」です。昼のうちから、そわそわとして、雲の動きが気にかかります。まして、お客さまをお呼びしてあるのですから。さり気なくちょっとした手料理なども用意されているのでしょう。

  月みれば千々にものこそかなしけれ

     我が身ひとつの秋にはあらねど   大江千里(『古今集』一九三)

 なにげなさを装いながら、ちょっと言いたいこともあったのです。日頃から考えていたこともあったのに、あのまん丸な月に向かって言うように、まっすぐにきっと言おうと心に決めていたのに、けっきょく「肝心なことは・・・」言えないものなのですね。でも、大丈夫。きっとあなたの気持ちは、周りのみんなに伝わっていますよ。 

 

月光や窓の小さき山の小屋        飯島千枝子

 

 これは、また、なんと高い山の上でお月見です。山小屋だから窓が小さいと取ってはいけません。それほど今夜の月は大きくかがやいているのです。相対的に窓が小さく見えているのです。

 山小屋に差し込む月の光りが、仲間たちの顔まではっきりと浮かび上がらせています。こんな月の光りを浴びに山に出かけるというのも、「風狂」のなせるところかもしれません。

 

月天心意義ある仕事なりや否や      山田泰造

 

 ここには、月をみて「千々に」もの思う男がいます。

作者は、長年、静岡で教育の現場に携わってきました。定年を迎えて第二の職場に変ったと思ったら、癌が発見されました。幸いなことに、手術は上手くいき、現場に復帰されましたが、この間の心の起伏は、毎月の「隗」の作品となって、よくあらわれています。その時々のこころの在りようを素直に俳句に詠んでいこうとする態度には頭が下がります。

いつもは気にも留めていない風を装っていても、こうして月を見上げていると、つい自分の心の奥底に心がいってしまいます。

「自分の、いまの仕事は真実意義のあるものなのか・・・いまこうしている時間を意義のあるものとして感じていたい・・・」作者の心の叫びでありましょう。月は天心にあって、作者は、まだ眠りに就けないのです。

 

月光やまこと良かりし五十年       木村魁苑

 

 これは、また、なんとうらやましき句ではありませんか。ここまで開けっぴろげにされると、天真爛漫たる作者の面目躍如たるものがあります。

 きっと奥様は大変だったんだろうなァ!・・・なんてことは吹っ飛んでしまう明るさがいいですね。

 ここまで言い切るには、金婚のこの年に至るまでの、山あり谷ありの「ふたりの人生」に、誇らかなもの、いっぽん筋の通ったものがあったからに違いありません。「まこと良かりし五十年」と何人の人が胸を張って言いえることでしょうか。句の「めでたさ」は、ここに極まりました。

 

墓参り君は白髪になつたろか       猪口鈴枝

 

 世に「死んだ子の年を数える」という言い方がありますが、甲斐なきことと分かっていても、そうせずにはいられないのが人情というものでしょう。

 作者にとっての「君」は何方でしょう。若くして亡くなったご主人でしょうか。いや、その詮索は要らぬこと・・・誰の身の上にも、「君」がいるに違いないのですから。

 筆者にも、この「君」があります。中学の二年生でした。偶々、生年月日がまったく一緒ということを知ったその日から、Kとは親友になりました。中学を卒業する時には、父の転職に伴い学区の違う街に移っていった為に、それぞれ別の高校に入学しましたが、大学生の時には二人とも東京の大学に入ったために、日曜日となると、最近読んだ本について語り、恋を語り合いました。お互いに音楽が好きで、彼の下宿近くの荒川の河原で大きな声で合唱したものでした。しかし、別れは突然にやってきました。夏休みのある日、彼の母親から「北海道にて水死す」の電報を受け取ったのです。松前の海で溺れている少年を救助した後、自らは波に呑まれて死亡してしまったのです。爾来、自分がある年齢に達する度に、自分の胸の中にいる、もう一人のKに話しかけるのです。

「おい、Kよ、どうしている?最近めっきり髪が薄くなってきてしまったけれど、君は白髪になったろか?それにしても、ぼくの抽斗の中の写真の君は、いつまで経っても若いままだね・・・」と。

 

燈火親し辞書に這はせる虫めがね     平山みどり

 

 作者は、そろそろ八十歳になられるとお聞きしています。しかし、俳句の為なら決して労を厭いません。「隗」の吟行にも積極的に参加されて、村上の屏風祭ではなかなかの健脚ぶりを見せてくださいました。その俳句に対する貪欲と言ってもよい姿勢には、周りの誰もが驚きと尊敬の念を抱かせられています。長い間の俳句経験をお持ちですが、「隗」の「二句一章」をきちんと学び、自己を投影させることのできるような俳句を詠みたいと、ご自身の課題を明確に持たれて学んでおられるのには頭が下がります。

 「辞書に這はせる虫めがね」には、その姿を髣髴させるものがあり、微笑みを禁じえません。