2011
今月の秀句2月

TOP


今月の秀句             大山雅由

 

大根引く残る力を試しつつ        髙崎啓子

 

 このごろふとした折に、自分の体力の衰えを感じることも少なくないようになってきました。ちょっとした寝不足になった翌日など、「ついこの前まではこんなことはなかったのになア・・・」と溜息をつくことも珍しくなくなってきました。

人が老いを感じる場面というのは、それぞれ違うのは当たり前ですが、作者は、たまたま畑に出て、「よし!」と腕まくりをした瞬間に脳裏をかすめた感懐を言い止めたのです。「どうだ、いけるかな・・・」と思った一瞬が「試しつつ」の語になったのでしょう。

作者の行動が明るい句となって、これを読んだときの共感の頷きが伝わってくるような気がします。

 

青年のころの父知り蜜柑むく       玉井信子

 

 作者のお父上は教育学の教授でした。地元の教育界にも大きな足跡を残された学者として知られました。亡くなった後に遺品の整理はしたものの、何もかも打ち捨てにできるものでもなく、作者自身もそれなりの齢となってくれば、身辺の整理もしなくては考えておられるのでしょう。世間では「身辺を身軽にする本」といったタイトルの書もよく出回っているようです。

 残された書棚の奥にお父上のノートや考察の下書きなどが出てきたのでしょうか。自分はまだ子どもで父の仕事や考えを知る由もなかったのですが、それを目にしてはっと胸を衝かれる思いに捉われたのでしょう。

 あの頃、こんな事を考えていたのかとあらためて若き父を発見したのです。ひとりしみじみとノートを見つめながら、若き日の父と母とが出会ったころに思いを馳せているのです。「蜜柑むく」の季語が瑞々しくてよく効いています。

 

東京のなまり懐かし蕪蒸         森山蝶二

 

 東京だって「ふる里」だったのだということを、この句は思い起こさせてくれました。

「ふるさとの訛なつかし・・・」は啄木ばかりではありません。考えてみたら東京弁(江戸弁)だって、このところ聞かなくなってきていました。

横山町の呉服屋の旦那で長唄をやっていたIさんや、深川生まれのH先生にもこのところお目にかかっていませんが、お元気なのだろうか。あのきっぷのいい話しっぷりに触れてみたいと思わずにいられないような句ではありませんか。時々、築地や下町に取材したTVなどで、東京の下町訛を耳にすると胸がふるえるほどのなつかしさを感じます。

そういえば、早稲田に下宿したばかりのころ、早い時間の近所の風呂屋にいくと、背中に倶梨伽羅紋々の年寄りたちが熱い湯に浸かっていて、ちょっと水を足そうとしようものならじろっと睨みつけられ、歯をくいしばってじわじわっと身を沈めたのが思い出されます。湯上りのかれらの話す言葉を、これが下町の職人の粋なんだなと感じ入った記憶が甦ってきました。

 

氷頭膾忘れし恩を思ひ出し        遠藤真太郎

 

 「氷頭膾」、あのこりこりっとした食感は何とも言いがたいものですが、俳句をはじめたばかりの頃は、季語を求めて西に東に走り回っていたものでした。はじめて「鮭打ち」(遡上した鮭を捕まえ、丸太で叩いて気絶させる)を見たのは福島県の勿来の関を見ての帰りでした。その時、一本のメスの鮭を買って帰り、「はらこ(いくら)」料理や「氷頭膾」を自分で作ってみました。

 作者は新潟の出身ですから、こちらは村上の三面川の鮭でしょうか。

 「忘れし恩を思ひ出し」と言っていますから、氷頭膾を食した瞬間に、不意に忘れていた方を思い出したのでしょう。その何ともいえない微妙な心の綾を「氷頭膾」によく託し得ているのではないでしょうか。

 皇太子妃雅子さまのご実家である小和田家のご先祖は村上藩士で、この三面川の鮭漁で得た収入で学問をされた、所謂「鮭の子」であったそうですから、或は、そんなことが念頭にあったのかも知れません。

 

秋の夜の灯影に揺るるタンゴかな     田中 穣

 

 作者を知った人は、「世田谷のジョー」のあのなんとも人なつこい、時折見せるその表情に、さぞ幼いころはやんちゃな処があったのだろうと、ふと微笑まされてしまうことでしょう。

 その「世田谷のジョー」は、社交ダンスの名手なのだそうな。まだ拝見の機会はないのだが、噂ではかなりなものと・・・。

 あの情熱的なアルゼンチンタンゴを、秋の灯に踊るのは作者を思い描くもよし。はたまた、作者はタンゴ修行に出かけて行ったものと取るもよし。

 作者の若々しさには、なんとも、つい頬がゆるんでしまうのです。 

 

掌に逝く小鳥のぬくみ小六月       佐山 勲

 

 「鳥飼の勲」の異名を持つ作者ならではの句ではないでしょうか。羽の抜けて弱ってしまった鳥の前に悄然としておられた作者でしたが、ついに、小鳥は作者の掌のなかで骸となってしまいました。

 因みに、またしても、身代わりのように一羽の鳥が飛び込んできたということです。

 

どぢやう掘る三本鍬を振るひては     山本力也

 

 「どぢやう掘る」という季語の実態は、今でもあるのかどうか詳らかにしませんが、そうあって欲しいものと願わざるを得ません。子どもの頃には、冬の用水の上下を堰き止めて、中の水を掻き出し(「掻い堀」と言ったような記憶が)、少なくなった水にピチャピチャした鮒や雑魚を網で捕まえ、最後に泥の底を掘って泥鰌を手にしたものでした。

 ほとんどの用水がコンクリートで固められてしまって、単なる水の通り道と成ってしまった現在では、見かけなくなってしまったかも知れません。しかし、一昨年に猪苗代湖畔でみた蝗の大量の発生や、象潟の用水で見た泥鰌や田螺の復活を目にすると、低農薬への関心や自然農法の普及によって、こうした光景が復活する日も来て欲しいものと望むのはあながち不可能なことでもないような気もしてはいるのです。