2011
今月の秀句3・4月

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今月の秀句             大山雅由

 

山神のまだ寝ねおはす農具市       関口道子

 

 民間信仰では収穫の田の神は冬の間は山に入って山の神となり、春になると再び眠りから覚めて田におくだりになると伝えられています。生活に追われる人間どもは、遠嶺に雪の残る頃から、いそいそと耕しの準備を始めます。地方によっては山の雪が溶け出して浮き出すさまざまな形から、種を蒔く時期、苗を取る時期などを知ると伝えてきました。「種まき爺さん」「代掻き馬」が見えたらそろそろ仕度に掛かろうかといった具合です。

 作者は新潟の方です。まだ山は雪を被っていても、民のこころはすでに春の「耕し」(これも元は「田返し」から生まれた言葉)に向っているのです。山神はまだ眠りから覚めなくても自然の足音は確実に春の訪れを告げているのです。

 ところで、最新の角川文庫の「俳句歳時記 第四版」(二〇〇七年)は勿論のこと、「合本俳句歳時記」(昭和四十九年三月)にも「農具市」は載っていません。「苗木市」「植木市」は季語として載せられていますから、この頃から、すでに都会生活者の編者には、農耕の変化に対する取捨選択の意識が働いていたということなのでしょうか。それにしても、こうした土に根ざした意義のある季語が捨てられてしまうというのは残念ことです。俳句がこうした生活に深くかかわる季語を残していくというのは、日本人の心を伝えていく大事な仕事でもあると言っても過言ではないでしょう。

 

掘り下げて軒の現る雪の山        高橋長一

 

 作者のご実家は、新潟県柏崎市高柳の黒姫山(標高八九一メートル)の中腹で約五百メートルのところにあり、これよりも上には住人はいないということです。長一氏は、もう住み手のいなくなったこの家を守る為に冬の間は雪堀に通うというのです。車は五メートルの雪の壁を走り、駐車可能な場所では除雪で雪を吹き上げているために、七メートルの壁になっているそうです。それをピッケルで刻みながら階段状に登っていってようやく雪原にたどり着き、そこから樏(かんじき)を履いて二十メートルほどで家にたどり着くと言います。

 「掘り下げて軒の現る」は、二階の屋根と雪原とが、そのままにしておいたらすっぽりと埋ってしまって雪の重みで潰れるのを避けるために、掘り出すのだというのです。この作業を雪の終るまで週に二・三度行うというのですから大変なことです。

 前の句もそうですが、現今、いくら都市化が進み、作業が機械化されたといっても、変らないもの(不易)があるということを肝に銘じておきたいものです。自然の大きな力の前には、人間の行いなど小さいものと腹を括ってこそ、見えてくるものもある筈なのですから。この作者の他の作品もじっくりと味わってみてください。

 

小波の行きつくところ白魚舟       逸見 貴

 

 これは、また、江戸俳諧の一齣をみるような句です。

   明ぼのやしら魚白きこと一寸       芭蕉

   白魚のどつと生まるるおぼろかな     一茶

   ふるひ寄せて白魚崩れんばかりなり    漱石

 こうした句と並べても遜色がないのは、事がらを述べずに、「小波の行きつくところ」としっかり景をとらえているのが眼目でしょう。作者の視点がはっきりと定まって、この句となったのです。

 

遠き日の激情に似て雪降れり       玉井信子

 

 筆者は、作者の個人的なことはあまり存じ上げません。俳句や短歌の主宰の中にはこと細かに会員の個人的事情に把握されておられる方もあるようですが、筆者のスタンスは、あくまでも作品の上に現れた作者に視線を当てたいと考えています。

 さて、掲句ですが、受け手によってその読み込む内容は、さまざまでしょう。この大きな余白にこそ想像力の働く余地はあるというものです。と言って、あまり漠然としたものではいけません。程のよさ・・・というものがここにはあります。

 一読、直ぐに橋本多佳子を思いました。

   雪はげし抱かれて息のつまりしこと    多佳子

   雪の日の浴身一指一趾愛し        多佳子

 ここでは、作者は、眼前に雪を見ていながら、どこかに遠い日の「激情」の一齣を思い浮かべたのでしょうか。あるいは、そんな若い時の己をなつかしく思い起こしているのかも知れません。

 

眠られぬ夜は床抜けの葛湯かな      北山百子

 

 ここには夜を眠れぬ女性がいます。思いはどこへ向っているのでしょうか。

来し方行末に思いを回らせば、千々に乱れて夜も眠れないのです。

 ここでも程のよい余白がいかされています。

 「床抜けの葛湯」などという表現もなかなか言い得ないのではないでしょうか。

 

人と人ときめき生きて春隣        宮崎晴子

 

 人は幾つになっても「ときめき」を失ってはいけません。山川花鳥に向ってはもちろんのこと、人に「ときめき」を覚えるのは生きていることの証でありましょう。春の光の中にこそ、新鮮な出会いとときめきがあろうというものです。躍動感があって「春隣」が効いています。

 

元旦やまづ好きな句を諳んじて      森山蝶二

 

 作者は、俳句をはじめて一年とちょっと、それだけに俳句に打ち込んでいる様子です。古書肆「貴龍堂」は、今や句集の山。それに囲まれて一日のおおかたを俳句を読んで過しているようで、その後の本たちをどうするのかちょっと心配になってきます。

 でも、その志やよしとしましょう。まさに「詩は志の之(ゆ)くところ」(「毛詩序」)なのですから。